六十八の章 尊の思い、イサの願い
オオヤシマを揺るがす戦いは、いよいよ最終局面を迎えようとしていた。
「うぬ……」
イサが驚いている。武彦はそれを感じていた。しかし、彼女が何故驚いているのか、武彦にはわからない。
「誰も巻き込まず、終わりにしようか、イサよ」
武彦の父が囁くように言うと、そこはイサと武彦と武彦の父、そして武彦の曾祖父だけがいる空間になった。周りには何も見えない。異空間のようだ。
「こ、これは?」
イサは周囲の異変に驚愕したようだ。そして憎しみに満ちた目で武彦達を睨んだ。
「今更何をしに参った? うぬの顔を見るだけで、我は怒りに震えるわ、たける!」
イサが言い放つ。
(たけるって、父さんの名前だ……。どういう事?)
「すまない。しかし、私には妻となる女性がいた。貴女の気持ちに答える事はできなかったのだ」
武彦の父、尊が応じた。
「えっ?」
武彦はその時気づいた。自分がイワレヒコの身体ではなく、自分自身の身体になっている事に。
(どういう事だ?)
ますます混乱が強くなる。
「綺麗事を申すな! うぬは自分の命が惜しかっただけ……。我の事など……」
口調は強かったが、イサは泣いていた。イサも姿が違う。女王当時の服であろうか、きらびやかな装飾が施された物を身に纏っていた。
「ここは精神世界だよ、武彦。だから、お前もイサも、元の姿になっている」
曾祖父が教えてくれた。
(そういう事か……)
それでも武彦にはまだよく理解できていない。
ツクヨミ達は、突然武彦とイサが消えたので驚いていた。
「如何なる術なのか?」
彼は自分の力の全てを駆使して武彦達の居場所を探ったが、全くわからなかった。
「たけひこ様……」
ツクヨミは、武彦達が消える寸前、微かではあったが、別の異界人の気配を感じていた。武彦が見た父と曾祖父の姿は、ツクヨミ達には見えていなかったのである。
「ツクヨミ様」
アキツがツクヨミの様子に気づき、心配して声をかける。ツクヨミは微笑んで、
「大事ありませぬ、アキツ様。たけひこ様もご無事でありましょう」
するとイスズが、
「そうです。たけひこ様はご無事です。オオヤシマは救われます。異界の方がいらしたのです。イサを知る異界の方が……」
と謎めいたことを言った。アキツとツクヨミは顔を見合わせた。
「……」
ウズメとクシナダは只呆然としてイスズを見ている。
「アキツ様ァッ!」
そこへ馬を駆ってタジカラとスサノがやって来た。
「お館様」
ウズメとクシナダはハッと我に返り、自分の夫を見上げた。
「たけひこ様のお姿がありませぬが?」
タジカラが怪訝そうな顔で尋ねる。アキツがタジカラを見上げて、
「たけひこ様は、今、イサと戦うておられる」
タジカラは意味が分からず、スサノと顔を見合わせた。
尊とイサのやり取りは続いている。
「貴女にはいくら詫びても詫び切れない事をしてしまったと思っている。だからこそ、こうして今になっておめおめと貴女の前に姿を見せたのだ」
イサの顔が再び憤怒の形相になる。
「戯れ言を。そのような事、我が信ずると思うたのか!?」
彼女は目を血走らせ、大声で言い放つ。
「嘘ではない。本当の事だ。貴女の思いが報われている事を知らせるために、我が子武彦を通じてこちらに来たのだ」
「我が子?」
イサが驚いた顔を武彦に向けた。
「えっ?」
武彦もそのイサの顔に幼馴染みの都坂亜希を重ねていた。
(どうして亜希ちゃんが?)
何故イサと亜希が重なるのか、武彦にはわからない。
「確かめてくれ、イサ。貴女の思いがどう通じたのかを」
尊は慈愛に満ちた笑顔でイサに語りかけた。
「……」
イサは惚けたように動かない。すると尊が、
「さァ、武彦、イサにお前の事を伝えるんだ」
「えっ? どういう事?」
武彦は父を見た。尊は微笑んで、
「愛しい人にそうするように、彼女を抱きしめてあげなさい」
「ええっ?」
武彦は思ってもいない事を言われ、大声を上げてしまった。
「それでオオヤシマは救われる」
そして、尊のその言葉にハッとする。何かが見えた気がしたのだ。
「わかったよ、父さん」
何故そんな事をしなければならないのかわからなかったが、そうするしかないという感覚があった。
「何をするつもりじゃ?」
武彦が近づいて来たのに気づき、イサは身構えた。
「お前は……」
彼女は気づいた。武彦とは大いなる縁がある事に。
「あ……」
武彦も気づいた。イサの中にある自分にとって掛け替えのない存在に。
(そういう事だったのか……。たがら僕はこの世界に呼ばれた。だから僕はこの世界を救いたいと思ったんだ……)
武彦は微笑んだ。そして身じろぎもしないで自分を見上げているイサを優しく抱きしめた。
「ああ!」
その時、イサの中に武彦の記憶が流れ込む。同時に武彦の中にイサの記憶が流れ込む。
「おおお……」
イサは武彦の中で大きな存在となっている亜希がまさしく自分自身である事に気づいた。彼女の両の目から止めどなく涙が溢れ出る。
「……」
武彦も、イサがどれほど尊の事を慕い、どれほど添い遂げたかったのかを知り、涙した。異界人との叶わぬ恋に身をやつし、そのせいでヨモツ鳴動の咎を背負わされ、幾百年もの長きに渡り闇の中で耐え忍ぶ事となったイサを心の底から哀れんだ。
「ごめんなさい。今は貴女は僕らの世界で僕の一番大切な人になっています。だから、僕の父さんを許してください」
武彦は涙で滲む目をイサに向けた。イサも涙で潤んだ瞳で武彦を見上げている。
「異界人よ……」
イサは武彦の言葉に偽りのない事を感じ、更に涙する。
「許すも許さぬもない。うぬの父は、我らオオヤシマの者に呼び込まれただけ……。そして我が勝手にうぬの父を慕っただけ……。うぬが謝る事はない。皆、我の責めぞ……」
イサの顔がますます亜希に似て来ているのを武彦は感じていた。
「イサさん」
武彦は更にイサを強く抱きしめた。イサもそれに応えるかのように武彦の背に手を回し、彼を抱きしめた。
「忝い、異界人よ。ようやく我も眠りにつく事が叶う」
イサは力なく微笑んで、スッと武彦から離れた。
「イサさん?」
武彦はイサが何をしようとしているのか、わからなかった。
「あの時、我は確かに言われなき咎を背負い、闇に落ちた。しかし、今はまさに我は途方もなき咎を背負うておる」
武彦はイサが言っている意味を悟った。
「イサさん……」
武彦は泣いていた。あれほど凌ぎを削って戦った相手であるイサのこれからを知って。
「泣いてくれるか? うぬは優しいな……」
イサは微かに笑った。
「イサ……」
尊が声をかける。イサは尊を見て、
「終いに貴方に会えて良かった……。愛しき人よ……」
と言うと、背を向けて歩き出す。
「イサさん!」
武彦は思わず追いかけようとした。それを尊と曾祖父が止めた。
「イサは、確かに不幸な身の上。助けたい気持ちはわかるが、彼女はそれ以上に余りに多くの人の命を奪ってしまった」
尊が呟くように言う。武彦はその場に座り込んだ。
「あの人だって、父さんと同じで、本当に悪い奴は別にいるじゃないか!」
武彦の叫びに尊と曾祖父は顔を見合わせる。
「確かにな。お前の言う通りだ」
武彦は父を見上げた。
「だったら……」
「そいつらも皆、イサと同じだ。闇に落ちている。ヨモツよりもっと深い闇にね」
尊の悲しそうな顔を見て、武彦は、
(イサさんの事を悲しんでいるのは、父さんも同じなんだ……)
と感じ、それ以上駄々をこねるのを止めた。
「戻ろうか、武彦」
「はい」
ふと見ると、尊と曾祖父が透けて来ていた。
「我々はそろそろいるべき場所に戻らなければならない。母さんと美鈴によろしく言ってくれ」
「父さん!」
曾祖父が頷き、
「珠世に伝えてくれ。儂はお前の夫と仲良く探検三昧だとな」
「……」
武彦の目に涙が溢れる。尊が笑い、
「泣くな、武彦。男はそう簡単に泣くもんじゃない。特に悲しい時はな」
まだ幼い頃、父に言われたような気がする言葉。武彦がそれを懐かしんでいるうちに、父と曾祖父は消えてしまった。
「父さん、ひいおじいちゃん!」
武彦がそう叫んだ時、彼は再びオオヤシマの地に戻っていた。
こうして、オオヤシマを揺るがした戦いは終結した。