六十五の章 ツクヨミの恐れ、イザの心の内
ヨモツの女王イザは怒りの形相でウズメとクシナダを睨んだ。
「うぬら如き小者にしてやられるとは口惜しい」
ウズメとクシナダも小者呼ばわりされた事に腹を立てた。
「ならばその小者の力、もう一度お見せしましょうぞ、女王陛下!」
クシナダが叫ぶ。ウズメが海神を召喚し、クシナダが水を操る。
「同じ手が通ずるものか」
イザはニヤリとした。そのイザの悪意を感じたツクヨミが、
「クシナダ様、お待ちを!」
と攻撃を止めた。クシナダは仰天して、
「何故です、ツクヨミ殿?」
ウズメも合点がいかない顔でツクヨミを見ている。
「足元を!」
ツクヨミの声に二人は地面を見た。するといつの間にか無数の黒い影が蠢いているのが見えた。
「言霊師め、余計な事を」
イザがツクヨミを睨みつける。
「おのれ!」
クシナダは水の刃でその影を切り裂いた。影はシューシューと音を立てて消滅した。
「……」
しかしツクヨミにはもっと気にかかることがある。
(イザは何故肩の傷を治さぬ?)
イザの左肩からは黒い妖気が噴き出したままだ。何故かイザはそれを放置し、止めようとしない。不気味に思ったツクヨミはイザと間合いを取った。
「ツクヨミ様」
アキツが駆け寄る。
「イザは何かを企んでおります。お気をつけくだされ」
ツクヨミはイザを睨み据えたままでアキツに囁く。
「はい。なにやら、面妖な……」
アキツにもイザの妙な余裕を感じられたようだ。
(まだ何かあるというのか? 何をするつもりなのだ、元女王?)
ツクヨミの額に汗が伝わる。
「如何したか、言霊師よ? 我を恐るるか?」
イザがせせら笑って挑発する。ツクヨミは、
「やはりイザは何やら企んでおります」
「はい」
アキツがツクヨミの肩にすがる。
「ウズメ殿、もう一度!」
クシナダがウズメを見た。するとイスズが、
「ならぬ、クシナダ。イザはまだ何やら策を弄している様子」
「え?」
クシナダとウズメはギクッとしてイスズを見た。イスズは射るような目でイザを見ている。
(イワレヒコ様とたけひこ様は、何としてもお助けする。私の命に代えても!)
イスズの身体から癒しの力が湧き出て来る。それはまるで蜻蛉のように彼女の周囲を漂う。
「うぬ?」
イザはツクヨミから目を離し、イスズを見た。
「何をするつもりか、ヤマトの小娘よ? うぬの力なぞ、我には通じぬぞ」
「そうでしょうか?」
イスズは不敵に笑い、その癒しの力を集約し始めた。それはやがて鞠のようになった。
「私は自分の力で他の者を癒し、治して来ました。そして只の一度も他の者を傷つけた事はありませぬ」
イスズはイザを睨んだまま言う。イザは不敵に笑ったままで何も言わない。
「ですが、愛しき人を助けるためならば、何も躊躇う事はありませぬ」
イスズの手の中で集約された癒しの力がまるで小さな嵐のように渦巻いている。
「イスズ様」
ツクヨミはイスズの思いを感じ、驚愕していた。
(あの方がこれほどお怒りになるとは……。そして、それほどまでにたけひこ様をお救いしようという思いが強いとは……)
「うぬの力がどれ程のものか、試してみよ」
イザは尚も挑発した。
「言われるまでもありませぬ!」
イスズはそう叫ぶとその鞠状の力を放った。それは宙を滑空し、イザに迫った。
(イザ、何を企むのだ!?)
ツクヨミはその挑発すらイザの策略に思えた。
「うおおお!」
イスズの力がイザに当たる。凄まじい勢いでイザの身体から妖気が噴き出す。
「アキツ様!」
イザの身体からの妖気の噴き出し方が尋常ではなく、驚いたツクヨミはアキツを庇ってイザから更に離れた。
「イスズ様!」
クシナダとウズメも危険を感じ、イスズを伴ってアマノイワトを飛び出す。
「如何なる事なのか?」
イスズ自身でさえ、イザの様子に仰天していた。
「ふおおお!」
イザはまた叫び声を上げる。
「……」
様子を見に戻ったツクヨミが見たのは、妖気を放出し、枯れ枝のように細くなってしまったイザだった。
「何と!」
彼はあまりに意外な情景に動けなくなった。
「言霊師、礼を言うぞ……」
イザはツクヨミを見てニヤリとすると、そのまま倒れこんだ。それと同時に、イザからイワレヒコの身体が分離し、その隣に倒れた。
「たけひこ様!」
ツクヨミは警戒心も忘れて駆け寄った。その様子に気づいたアキツ達もイワトの中に戻った。
「たけひこ様!」
アキツよりも早く、イスズが駆け寄る。
「たけひこ様!」
気を失って動かないイワレヒコの身体をイスズが癒しの力で包む。するとイワレヒコの身体が輝き出した。
「う……」
武彦の意識が回復した。
「あ、ツクヨミさん、イスズさん」
「たけひこ様!」
イスズが起き上がった武彦に抱きつく。
「ご無事で何よりです……」
イスズは泣いていた。それを見てアキツもクシナダもウズメも涙した。
「ご心配をおかけしました」
武彦は立ち上がった。何より、イスズの抱擁から離れたかったのだ。
(また姉ちゃんと顔合わせ辛くなった)
彼がそう思った時だった。
「ツクヨミ様!」
アキツが絶叫した。
「!」
ツクヨミもハッとした。枯れ枝のようになって倒れたイザの身体が何故か輝き始めたのだ。
「お離れください!」
ツクヨミはイスズと武彦を庇いながら、イザから離れた。
「さてもありがたき事よ。我の願い、ようやく叶えり」
イザの声がした。
「何?」
ツクヨミはイザが立ち上がるのを見た。
「我の思いがこうまで叶うとは、恐ろしき事よな」
ツクヨミ達は唖然とした。イザは妖気を漂わせてはいない。それどころか、神々しいまでの光を身に纏っているのだ。
「……」
ウズメとクシナダが、アキツとイスズが顔を見合わせる。武彦は唖然としたままだ。
「我こそは、オオヤシマ一の術者、イサなり」
その顔は美しかった。目は瞳が戻り、冠は黄金色になり、服は白く輝いている。只、長い黒髪はそのままだ。
「アキツさんに似ている……」
武彦が呟いた。その言葉にアキツがビクッとした。そして改めてイサを見る。
「イサ……。それが貴女の本当のお名なのですね?」
ツクヨミが尋ねる。イサはフッと笑ってツクヨミを見た。彼女の顔からは禍々しさは完全に消え、今は高貴さを感じる。
「如何にも。我の名はイサ。オオヤシマを統べる者なり」
イサからは、あの不気味さが失せ、今は本当に女王の威厳と美しさを放っていた。
「これは一体……」
ツクヨミは何が起こっているのか懸命に考えたが、わからなかった。