六十二の章 イスズの畏怖、イザの憤怒
アマノイワトの別棟から、アキツ、武彦、ツクヨミが戻って来た。
「たけひこ様!」
イスズが嬉しそうに駆け寄って来たので、武彦は思わず後退りした。
「え?」
イスズは武彦の行動に驚き、悲しそうな顔になった。
「ああ、ごめんなさい、イスズさん! あの、気を悪くしないでください」
武彦は慌てていた。
(まずいよなあ。イスズさんと姉ちゃんを間違えるなんて、混乱してるな……)
武彦はイスズに近づき、肩に手をかけた。
「ごめんなさい。ボンヤリしてたので、イスズさんが姉に見えてしまって……」
「はい?」
イスズには武彦の言い訳の意味がわからない。武彦は苦笑いをして、
「僕の姉は、凄く怖いんです」
と言った。それを当の姉美鈴が知れば、本当に「怖い」事になるだろう。
「そうでございましたか」
イスズはニコッとした。彼女は、以前武彦がヤマトの国の元軍師オモイの術で追い詰められていた時の事を思い出した。
(それで、あのようにお逃げになっていたのですね)
イスズがクスクス笑っているのを見て、
「どうしたんですか、イスズさん?」
と武彦が尋ねる。イスズは口を袖で隠して、
「いえ、お気になさいますな、たけひこ様」
「はあ」
イスズは嬉しそうな顔をして、また女性陣の輪に戻る。
「何かおわかりになりましたか?」
ウズメがアキツに尋ねた。アキツはチラッとツクヨミを見てから、
「イザの名が書にありませんでした。それが気になります」
ウズメはイスズやクシナダと顔を見合わせる。アキツの言った事がよくわからないのだ。
「イザが亡きオオヒルメ様の大伯母であるのが真であれば、イザもワの女王であったはず。しかし、イザの名すら書には書かれておらず、名もなき王がお一人いらっしゃいました」
ツクヨミが答えた。ウズメがツクヨミを見て、
「では、その名もなき王が、イザでありましょうか?」
「それはわかりませぬ」
ツクヨミは首を横に振って言った。
「ですが、オオヒルメ様の三代前であるので、恐らくそれがイザかと」
ウズメ達はまた顔を見合わせる。
「書の全てを読みましたが、イザの事も、異界の事も、ヨモツの事もわかりませぬ」
ツクヨミは続けた。クシナダが、
「イザの名がないのは、ヨモツの女王となったためではありませぬか?」
と言うと、アキツが、
「イザの名は、初めから記されておりませぬ。ワの王家の書は、年毎に書き綴られしものであるから、イザの名が全く記されていないのは腑に落ちぬのです」
「そうでありますか」
クシナダはウズメを見た。ウズメが、
「もしやイザの書のみ、捨てられたとか?」
アキツはウズメの言葉にハッとしてツクヨミを見た。ツクヨミは、
「そうかも知れませぬ。王の系図は後の世に書かれしもの。ですから、系図に名を記さなかったのやも知れませぬ」
ツクヨミはそこまで話してあっとなった。
「如何なさいましたか?」
その様子に気づいたアキツが尋ねた。ツクヨミは一同を見て、
「書に記されていない事が、全てイザの時の事だとすれば?」
アキツはギョッとした。ウズメとクシナダも思い当たったらしい。イスズはその力故、すぐに気づいたようだ。
「異界の方の話も、ヨモツが蠢きし話も、王が命を賭してヒラサカを封じた話も、全て同じ時だと……」
ツクヨミは、その仮説が神剣アメノムラクモから聞かされた話とも合致するので、恐らく真実であろうと感じた。
「では、ヨモツを封じ、命を落としたという王が、イザ?」
クシナダが目を見開いて呟く。ウズメも驚いていた。イスズは息を呑んで黙ったままだ。
「だとすれば、何故、後の王家の方々は、イザの事を隠そうとされたのでしょう?」
ウズメが独り言のように疑問を投げかける。
『その先は我が話そう』
アメノムラクモが言った。武彦はハッとしてアメノムラクモを鞘から抜いた。アメノムラクモは輝きを増して、
『ツクヨミの考えは当たっておる。イザは女王であった』
ツクヨミは驚いてアメノムラクモを見た。
「御剣様、そのお話は……」
『もう良かろう。もはや隠す意味もない』
アメノムラクモの言葉に、アキツが驚いてツクヨミを見た。ツクヨミはアキツを見て、
「申し訳ありませぬ。お許しください」
と跪き、頭を下げた。アキツは微笑んで、
「いえ。お気遣い頂き、痛み入りまする」
「アキツ様」
ツクヨミは顔を上げてアキツを見た。
『イザの世に、ある者が異界と通じ、異界人を呼び寄せてしまった』
アキツはギョッとした。ウズメとクシナダも息をひそめている。イスズは武彦に近づき、袖を掴んだ。彼女は怖くなったのだ。
『異界と通じる術は、古より禁呪とされておる。そのため、闇が蠢き、ヨモツがオオヤシマに現れてしまった』
アメノムラクモの話は今の話と通じる。武彦にもイスズの恐れがわかった。彼女が震えているのを感じ、その肩を優しく抱いてあげた。イスズは一瞬身を強張らせたが、武彦の腕に身体を預けるように寄りかかった。武彦は自分の存在が災いを呼び込んでいるような気がした。
(今のこの国の混乱は、僕のせい?)
ツクヨミが武彦とイスズの様子に気づき、
「ご案じなさいますな、たけひこ様、イスズ様。イザの時と此度では、違います」
「そ、そうなんですか?」
武彦は少しだけホッとしたが、イスズはまだ武彦に身を預けたまま震えている。
『これより先は、ツクヨミにも全て話してはおらぬ。まさに此度の戦の大元よ』
アメノムラクモの言葉が、場に緊張感をもたらす。皆、固唾を呑んでアメノムラクモの次の言葉を待った。
『イザは己の命を投げ出し、ヨモツとの境であるヒラサカを封じた。そのおかげでヨモツはオオヤシマから消え、安寧が訪れた』
それなら何も問題はないけど、と武彦は思った。アメノムラクモは続ける。
『だが、あろう事か、遺されたワの王家の者達は、イザがヨモツを呼び出したと言い始めた』
武彦はビックリしてツクヨミを見た。しかし、ツクヨミもそれは聞かされていなかったらしく、驚いていた。
『ワの王家はすぐに次の王を立て、イザの事を記していた書を全て焼き捨ててしまった。そして、イザはワの王家からその名を消されたのだ』
「どうしてそんな事に!?」
武彦が怒りのあまり、大声で叫んだ。皆、武彦の声に驚き、彼を見た。
『ワの王家は二つに分かれて争っておった。イザの血筋の者達は、そうでない者達に追い落とされ、王位継承から外された。それ故、異界人を呼び寄せた者の罪は咎められる事もなく、そのままにされた』
アメノムラクモのあまりに凄絶な話にウズメやクシナダは泣いていた。イスズも震えている。
「その咎められずにすんだ人こそ、イザと対立していた者なのですね?」
アキツが涙を堪えながら言った。
『その通りだ、アキツ』
アキツはアメノムラクモを見て、
「では何故、イザがその咎を負わされたのでございますか?」
『イザは、異界人に惹かれてしまったのだ』
アメノムラクモの言葉は衝撃的だった。その時だった。
「アメノムラクモ、それより先は話す事を許さぬ!」
突然、アマノイワトにイザの大きな声が響いた。
「何と!?」
ツクヨミがイワトの奥に目を向けると、そこに怒りに震えるイザがいた。ツクヨミを始め、誰一人としてイザがそこまで近づいている事に気づかなかったのだ。
「は!」
一同は驚愕し、イザを見た。彼女はその只黒い目を怒りで吊り上げ、口からは妖気を吐き出している。
「皆、滅する! 覚悟せよ!」
いきなり現れた最強の敵に、武彦は気が動転していた。