四十四の章 イスズの力、イツセの願い
武彦は目の前にいる男に妙な感覚を得ていた。
(何だ、この人? 目の前にいるのに、そこにいる気がしない……)
『武彦、気を緩めるな。こやつ、手強いぞ』
神剣アメノムラクモが注意する。武彦はハッとして思索をやめる。
「ほう。それが噂のアメノムラクモ様ですか。さすがイワレヒコ様。その御剣様を使いこなされるとは、お見事にございます」
オモイは跪いて頭を下げた。
「え?」
思ってもいない行動に、武彦は困惑する。
『オモイめ、何を企む!?』
アメノムラクモが怒鳴った。オモイは意外そうな顔で、
「何を仰せです、御剣様。私はヤマトの軍師。ヤマトのために戦っております」
『戯言を申すな!』
アメノムラクモが更に怒鳴る。そこへツクヨミが追いつき、着地した。
「フッ、もう来たか」
オモイはニヤリとしてツクヨミを見た。
「お前では私を倒せぬ。下がっておれ、ツクヨミ。今から、イワレヒコ様と一戦交える」
「何!?」
ツクヨミがギョッとした瞬間、オモイが何かを指先から放った。
(何だ?)
ツクヨミはその放たれたものに邪悪なるものを感じて、武彦を庇うようにして前に出た。しかし、オモイが放ったものはツクヨミをかわし、武彦にぶち当たった。
「うわ!」
武彦は衝撃を受け、そのまま後ろに倒れた。全身を強く打ったので、一瞬だけ息が止まりそうになる。
「たけひこ様!」
ツクヨミが慌てて駆け寄り、武彦を抱き起こす。
「うう……」
武彦は頭を数度左右に振り、立ち上がった。
「あれ?」
オモイを見ると、そこにはオモイがいなかった。何故か、姉美鈴が立っていたのだ。
「えええ!?」
武彦は混乱した。意味がわからない。
「ね、姉ちゃん、何でここに?」
武彦の言葉にオモイはニヤリとした。
(術にかかったな。今こやつは、私を己が一番恐れし者と間違えているはず。勝てる。神剣を振りかざそうとも、勝てるわ!)
「覚悟!」
オモイが風を巻いて武彦に近づく。
「うわああ!」
武彦は、鬼の形相の美鈴が迫って来るので心底驚いて後退りした。
「たけひこ様!」
ツクヨミには武彦の異変の理由がわからない。
『武彦、如何した?』
アメノムラクモにも、武彦が見ている美鈴の幻影まではわからなかった。
「何で姉ちゃんがいるんだよ?」
武彦は混乱を飛び越え、狂ってしまいそうだった。
(余程恐ろしい相手のようだな)
オモイは嬉々として武彦を追う。
「やめてよ、姉ちゃん! こんなとこまで追いかけて来ないで!」
武彦は泣きそうになりながら、美鈴の幻影から逃れようと走った。
ヤマトの国の玉座の間。イワレヒコの許婚にして姉であるイスズは、妙な声を聞いた。
「イワレヒコ?」
弟が自分を呼ぶ声。そう思った。
「違う。これは、たけひこ様……」
武彦が、助けを求めている。そう感じたイスズは、意識を飛ばした。
(たけひこ様、私がついております。ご案じ召されますな)
イスズは癒しの術を心得ている。彼女の意識はその力と共に、武彦に向かった。
『武彦、落ち着くのだ! 如何したのだ?』
アメノムラクモの声も届かないほど、武彦は混乱している。
「うおおお!」
オモイは更に武彦に追いすがる。
「たけひこ様!」
ツクヨミは無駄と思いながらも、オモイに言霊をぶつけた。
「無駄と申しておろう!」
オモイがツクヨミを睨み、再び土塊の魔物を繰り出す。
「くっ!」
ツクヨミは魔物の攻撃をかわすため、後退した。
「そおれ、もう一息よ!」
オモイは、このまま武彦を発狂させようと考えていた。その時である。
『たけひこ様』
武彦の目の前に、イスズの意識が具現化した。そのイスズは一糸まとわぬ姿だが、動転している武彦にはそれは見えていない。
「え?」
武彦はイスズから出る癒しの波動で一気に落ち着いた。
『たけひこ様、私がついております。大事ありませぬ。貴方はあのような邪な者に負けませぬ』
イスズの微笑みは武彦を完全復活させた。
「ありがとうございます、イスズさん。もう大丈夫です」
武彦はアメノムラクモを構え直し、オモイを見た。
「よくも姉ちゃんに化けたな! 許さないぞ!」
オモイの幻術だとわかると、姉を汚されたような気がして、武彦は無性に腹が立った。
「何?」
オモイは武彦が術を破ったのを知った。そして、彼の背後にイスズを見た。
(何故あの女が? あれは魂ではない。されば何だ?)
イスズの姿はオモイの理解を超えていたのだ。
「行けーッ!」
武彦が剣を振り上げて向かって来る。
「おのれェ!」
オモイは斬撃をかわし、武彦から離れた。
「何者だ、こやつ?」
オモイはイワレヒコの正体を掴めないまま、逃走し始めた。
(このままでは、やられる。やはりイワレヒコには異界人の魂が宿っているのか?)
彼はイワレヒコの底知れぬ力を恐れたのだ。
「待て!」
武彦が追おうとすると、オモイはもう一体土塊の魔物を出した。
「うわ!」
武彦が魔物と戦っている隙に、オモイは姿をくらませてしまった。
「ツクヨミさん!」
オモイが逃げてしまうのに気づいていたが、武彦はツクヨミ救出を優先した。
「ええーい!」
アメノムラクモが魔物を両断した。
『たけひこ様』
イスズの意識が武彦に近づいた。
「イスズさん、ありがとうございます。もう少しで、姉の幻に捕まるところでした」
武彦は改めてイスズを見た。そしてようやく彼女が裸なのに気づいた。光っているのでそれほどはっきり見えないのであるが、胸の膨らみはわかる。
(わわ、イスズさん、何も着てない!?)
武彦は慌ててイスズから目を逸らせる。また美鈴と顔を合わせ辛くなりそうな武彦である。
『姉?』
イスズは、武彦の姉美鈴が自分に瓜二つなのを聞いている。
『左様ですか』
イスズは合点がいった。だから、武彦の声が自分に聞こえたのだと。彼女は嬉しくなった。
『たけひこ様、私は離れていても、貴方のおそばにおりますから』
イスズは微笑んで武彦の耳元で囁くと、光と共に消えた。武彦は耳がこそばゆくなり、顔を赤らめた。
「……」
ツクヨミもイスズがそのような力を持っている事を知らなかったので、唖然としていた。いや、イスズ自身も、その力に初めて気づいたのかも知れない。
(イスズ様のお力、恐れ多いものだ)
武彦は全裸のイスズが消えたので、ホッとしてツクヨミを見た。
「とにかく、あいつを追いましょう!」
「はい」
二人は再び飛翔し、オモイ追跡を再開した。
ウガヤ王の進軍を知り、アキツ達は立ち止まったままだった。
イツセは考え込んだまま。アキツも黙っている。クシナダだけが苛ついて馬を動かす。
「クシナダ、ホアカリ殿に使いに行ってくれぬか」
不意にアキツが告げた。クシナダは馬を停め、
「ホアカリ様に、ですか?」
「ええ。ウガヤ殿を説き伏せらるるは、ホアカリ殿しかおらぬと思う」
アキツの言葉にイツセが顔を上げた。
「そのようです。父はもはや、我らの言葉に耳を貸すとは思えませぬ」
「しかし、戦をしている国の王であるお二人が、お話になるでしょうか?」
クシナダは不安だった。ホアカリは確かにウガヤの兄であるが、ウガヤはホアカリを軽んじている。
「クシナダの申したい事はわかります。ですが、今はホアカリ殿にすがるしかないのです」
アキツはクシナダを見た。クシナダは目を伏せて、
「わかりました」
と言うと、無数の水を呼び寄せて大きな船を造り、馬ごと乗り込むと、地を滑るように走り去った。
「間に合いますか?」
イツセが不安を隠し切れずに呟く。
「間に合わせねばなりませぬ」
アキツはクシナダが去った方角を見て力強く言った。
武彦とツクヨミはオモイを見失っていた。
「どこだ?」
武彦は地上に降り立ち、付近を探ったが、オモイはいない。
「また、何やら秘術を使ったのか?」
ツクヨミは歯軋りして悔しがった。
『オモイが目指すはウガヤの軍のはず。そこへ向かうしかあるまい』
アメノムラクモが言った。ツクヨミは頷き、
「そうですね。参りましょう、たけひこ様」
「はい」
二人は飛翔し、ウガヤ軍を目指した。