三十二の章 オオヒルメの無念、ウガヤの苛立ち
アマノイワトの別棟の小さな社の前で、アキツは自分の気を最大にしていた。彼女の長い髪が気で舞い上がり、目もやや吊り上がり気味になっている。
(うまくいくのかわからぬが、イザに立ち向かうにはアメノムラクモを解き放つよりない)
怖さもある。言い伝えでは、アメノムラクモの解放に失敗した者は、命を吸われ、枯れ木のようになって死んだという。しかし、闇の国ヨモツの女王イザに対するには、何としてもアメノムラクモが必要なのだ。
(死を恐るるつもりはない。只、しくじるのは許されぬ)
アキツの額に汗が幾筋も伝わる。
「大叔母様、私にお力をお貸しくださいませ!」
彼女は今は亡き大叔母オオヒルメに祈った。そして気を凝縮して行き、指先に集中する。
「アメノムラクモよ、我に従い、我の力となれ」
アキツは指先から気を放ち、神剣アメノムラクモに宿した。アキツの気がスウッと剣に溶け込む。アキツの舞い上がっていた髪が元に戻り、吊り上がっていた目も下がった。
「は!」
その途端、アメノムラクモの輝きが増し、部屋全体を照らす。アキツもその光の強さに目を細め、手を翳した。
「?」
だが、輝きは収まってしまった。しかもアメノムラクモには何の変化もない。
「しくじったのか?」
アキツは眉をひそめ、神剣を見つめた。
『足りぬのだ、アキツ』
声がした。アキツはハッとして振り返った。そこには、眩い光の中、オオヒルメの霊が立っていた。
「大叔母様!」
アキツは歓喜の涙を流し、オオヒルメに近づいた。
『アキツ、アメノムラクモは両刃の剣ぞ。御し方を誤らば、オオヤシマを滅ぼすやも知れぬ』
オオヒルメの真剣な表情とその厳しい言葉に、アキツは涙を拭い、
「はい」
と答えた。
『お前一人の気では、その剣は御し切れぬ。無理に使わば、お前の命ばかりでなく、皆の命を奪う事となろう』
アキツはオオヒルメの言葉にギクッとした。オオヒルメは慈愛に満ちた目でアキツを見、
『案ずるな、アキツ。私が力を貸そう』
「大叔母様!」
アキツは喜色に顔を輝かせた。
『私の魂をアメノムラクモに納めよ。さすれば、その剣を御する事ができよう』
オオヒルメの言った事にアキツは衝撃を受けた。それはオオヒルメの魂の消滅を意味するのだ。アキツが死んで、天に昇っても、オオヒルメには会えないのである。
「大叔母様、それでは大叔母様が……」
動揺するアキツにオオヒルメは優しく語りかける。
「これは我が定め。オオヤシマに災いを招き、それを収められなんだ我が罪への償いなのじゃ」
「……」
アキツは何も言えなかった。オオヒルメの優しい眼差しに決意の強さを感じたのである。
「さあ、早う。時は待ちてはくれぬ」
「はい……」
アキツはもう一度涙を拭い、オオヒルメの魂を神剣に収める儀式を始めようとした。
『ぐう!』
突然、オオヒルメが苦しみ出した。魂が苦しむとは一体何が起こったのかと、アキツは考えを巡らせた。
『おのれ、イザめ!』
オオヒルメの魂はそれだけ言うと、スーッと消えてしまった。
「まさか!?」
アキツは想像して恐ろしくなった。
(イザが大叔母様の魂を封じたのか?)
イザはオオヒルメの首を奪った。それを取り戻さない限り、オオヒルメの魂はイザの手の内にあるという事なのだ。
「如何にすべきなのか……」
アキツはその場にしゃがみ込んでしまった。
一方、ウズメとクシナダはヒラサカから出て来ようとしているヨモツの兵であるシコメの大群を相手に苦戦していた。シコメ達は腐りかけた身体を揺らしながら、ヒラサカの向こうから這い出て来た。
「これほどの数とは……」
ウズメが海神で結界を張ろうとするが、それを掻い潜ってシコメが湧き出そうとする。
「通さぬ!」
クシナダの水の槍がシコメを討ち取る。頭を砕かれたシコメはそのまま砂になって崩れた。
「ウズメ殿、このままでは我らが潰れまする」
クシナダが叫ぶ。ウズメは、
「お館様に助けを求める事もできぬ故、何としても!」
と更に邪を封じる船戸神を召喚し、封印を強めた。
「ここは我らが命に代えても守らねばなりませぬ!」
ウズメは諦めるつもりはない。クシナダはそれを見て微笑み、
「承知致しました。命尽きようとも守りましょう!」
「忝い、クシナダ殿」
ウズメはクシナダに引け目がある。かつて夫であるタジカラとクシナダの夫であるスサノは、ウズメを懸けて争った事があるのだ。そして、スサノが自分を諦めてクシナダを娶った。ウズメはその事を気にして、クシナダと距離を置いていたのだ。
「ウズメ殿、私は貴女の事、大切な友と思うておりますぞ」
クシナダの言葉にウズメはハッとした。クシナダはニコッとしてウズメを見ると、
「我が夫スサノが命懸けで惚れた方です。私も命懸けで貴女について行きまする」
「ありがとう、クシナダ殿」
ウズメは術を使っていて涙を拭う事ができないため、顔がクシャクシャになっていた。
そして武彦達はホアカリ一行を追い、馬を走らせていた。
「あれか?」
タジカラが死人の軍勢に気づいた。ゆらゆらと不気味な動きをしている歩兵らしき者が見える。
「まだ追いつかれてはおられぬご様子だな」
スサノはホアカリ達が無事なのを知り、ホッとした。
「手早く退治るぞ、タジカラ!」
今度は私がと、炎の剣を振り上げてスサノが先発する。
「待て、スサノ! 私が先じゃ!」
タジカラがそれを追いかける。武彦はそれを見て、
「いいなあ、親友って……」
と呟き、
「僕も!」
馬に鞭を入れ、二人を追った。
(イスズの言うた事が真ならば、私は一体誰を討つために出陣したのだ?)
父王ウガヤと異国人の軍師オモイに疑念を抱きながら、ヤマトの国の嫡男であるイツセは、アマノイワトへと進軍していた。
「もしや?」
イツセは城の方を見た。
(まさかとは思うが、オモイめ、父上を……)
留守になる城が心配であるが、ここまで来て引き返す訳にもいかない。
(イスズや母上の事も気がかりだ。如何すれば良いのか?)
イツセの心は大きく揺れた。
「ああ!」
ウズメとクシナダはようやくシコメの大群を押しやり、封印を完成させ、アキツの元に戻る途中だったが、そこに突然死人の群れが現れたのだ。
「これは、ヤマトの兵……」
タジカラ同様、ウズメにも見覚えのある兵達だ。
「ヨモツの力で操られておるのですか。何という事を!」
クシナダが怒り、水の槍で死人を貫く。しかし、胴体をいくら攻撃しても、死人は止まらない。頭を狙うと、死人とは思えぬ俊敏さでかわしてしまった。
「これは……」
ウズメとクシナダは、ジワリジワリと追い詰められて行く。
「お二方、お伏せくだされ!」
ツクヨミの声が響いた。ウズメとクシナダは地面に突っ伏した。
「祓いたまえ、清めたまえ!」
ツクヨミはアキツの柏手の力を応用し、言霊を放った。
「ぐあおおお!」
それにより、死人達はたちまち消滅した。
「ツクヨミ殿!」
二人の美女が喜んでツクヨミに駆け寄った。ツクヨミは微笑んで、
「ご無事で何よりです」
「はい」
クシナダとウズメは、互いを見やり、顔や衣に着いた土を払い落としながら答えた。ウズメが、
「あの者達は、ヤマトの……」
と言いかけると、ツクヨミは、
「存じております。皆、天に導きました。ご安心くだされ」
ウズメはクシナダと顔を見合わせ、微笑んだ。
「それで、アキツ様は?」
ツクヨミは真顔になって尋ねた。
「まだお戻りになりませぬ」
クシナダは心配そうに言った。ツクヨミも、アキツの心が悲しみに満ちているのを感じていたので、
「参りましょう、アキツ様の元へ」
と言った。ウズメとクシナダは黙って頷いた。
オモイはウガヤを椅子に座らせ、その前に跪いた。
「イツセはツクヨミを討ち取れるものか?」
ウガヤが苛ついて尋ねる。オモイは深々と頭を下げ、
「陛下がお助けなさるのが一番の策と存じます」
「そうか、やはりそうか」
元々血の気が多くて合戦好きのウガヤは、こうして城に閉じ篭っているより、外に出たいのだ。しかし、彼は戦で手柄を上げたことは一度もない。
「よし、支度を致せ。出陣じゃ」
ウガヤは上機嫌で命じて立ち上がる。
「はは」
オモイはもう一度頭を下げてニヤリとした。
その頃、スサノは死人の中にかつての将軍ナガスネと同胞ウカシがいるのに気づいていた。
「何ともお労しきお姿よ……」
スサノは顔半分がなくなっているナガスネを見て涙を堪え、
「せめて我が手で天にお送り致す!」
と炎の剣を掲げた。
「スサノ……」
タジカラにはスサノの無念が痛いほどわかる。そして剣を抜くと、
「私はウカシを! お前はナガスネ殿を!」
「心得た!」
二人は馬のわき腹を蹴り、死人の軍団に突っ込んで行った。
アマノイワトの奥、ヒラサカの向こうにある闇の国ヨモツ。その最深部の玉座に座す女王イザは、オオヤシマで起こっている全てを把握していた。
「アキツ、如何様にしようとも、お前如きでは我には勝てぬ。恐れ戦くが良い」
イザは冷たい笑みを浮かべ、呟いた。