二十二の章 トミヤの嘆き、ナガスネの戸惑い
ヒノモトの国の留守居役であるウカシは大軍を率いて、ヤマトの国の村を襲撃した。彼は表向きはヒノモトの武将であるが、本当はオオヤシマの地下深くに存在する闇の国ヨモツの女王であるイザの配下である。彼の使命は、オオヤシマの混迷であった。
ヒノモトの軍の突然の来襲に村は大混乱に陥った。火矢が飛び交う中、民が逃げ惑う。老若男女を問わず、皆必死だった。
「一人も生かしておくな! 皆殺しにせよ!」
ウカシは軍の遥か後方に陣取り、命令していた。彼は、一心不乱に弓を引いて剣を振り回す兵達を冷淡な目で見ていた。
(兵共にはヨモツの水を飲ませてある。皆、俺の思いのままに動く)
ウカシはまた、スサノとタジカラが近づいている事も承知していた。二人が近づいたら、全軍をぶつけるつもりだ。そして、自分は何もせずに退く。決して自らの手を汚さない、実に卑怯な男である。
「ナガスネ様は如何したか?」
ウカシは伝令兵に尋ねた。兵は跪き、
「ナガスネ様はヒノモトに向かわれております」
意外な返答に彼は眉を吊り上げた。
「何?」
ウカシはその時、スサノの奥方であるクシナダの気配がしないのに気づいた。
「おのれ、二手に分かれたか」
彼は歯軋りし、
「このまま全軍、ヤマトへ攻め込め! ヒノモトの勝利はもうすぐぞ」
と命じると、馬を駆り、陣を抜けた。
(クシナダめ、ナガスネをヒノモトに戻し、俺を後ろから攻むるつもりか?)
ウカシはニヤリとした。
「そうはいかぬ。このウカシ、そのような手には乗らぬぞ」
彼は馬に鞭を入れ、闇に包まれた街道を疾走した。ヨモツにその身を捧げたウカシには闇は闇ではなかった。彼は日中のように自在に馬を操っていた。
そのナガスネの軍は、クシナダの進言でヒノモトに帰還中だった。
「如何なる事か、クシナダ?」
馬上でナガスネが尋ねる。クシナダはナガスネより半馬身下がったところを進みながら、
「留守居役のウカシ殿が謀反にございます。陛下のご命令も無きまま、ヤマトを攻めております」
「何と!」
ナガスネは馬を止め、
「ならばウカシを討たねばならぬ!」
と後ろを見やった。クシナダは馬を下り、跪いた。
「ですが、兵の数が違います。ここは一度城に戻るが得策にございます」
「うむ……」
確かに今ナガスネが引き連れているのは、あくまで奇襲のための小部隊。ウカシが大軍を率いているのであれば、死にに行くようなものである。
「わかった。任せる」
ナガスネは再び馬を進めた。
「ありがとうございます」
クシナダは騎乗し、ナガスネに続いた。
しかし、ウカシはクシナダ達が思う以上に狡猾だった。
「ナガスネ様、謀反にございます!」
ウカシの先発させた伝令兵がヒノモトの城に先に到着し、謁見の間でホアカリに報告をしていた。
「まさか! ナガスネが謀反とな!」
ホアカリは俄かに信じられなかったが、自分に何も告げずに軍を出している以上、ナガスネの行動は解せないのは確かだった。
「偽りを申すな! 我が兄が謀反などと!」
ホアカリの妃であり、ナガスネの妹であるトミヤには、尚の事信じがたい話だった。
「偽りではございませぬ。ナガスネ様は陛下のご命令もなしに、ヤマトの村を攻めて、民を殺しております」
兵はウカシにヨモツの水を飲まされて操られている。彼はウカシに吹き込まれた「真実」を語っているので、その表情からは嘘とは思えない。
「そのような事……」
あまりの話に、トミヤは泣き伏してしまった。
「父上、如何なさいますか?」
嫡男ウマシが、ホアカリを追い詰めるように見ている。彼は元々ナガスネを好かない。これを口実に追い落とそうと考えているのだ。只、ウマシにはナガスネを殺すつもりはない。昔から自分を蔑んで来た伯父を屈服させたいだけだ。
「ウカシに伝えよ。ナガスネを追い、事の真偽を正せと」
ホアカリは伝令兵に苦渋の思いで命じた。
「ははっ!」
伝令兵は頭を下げてから退室した。ホアカリは最善の策と思い、命じた。しかし、それは最悪の選択だった。ウカシにナガスネ討伐の大義名分を与えてしまうからだ。
ヤマトの国を出立したイワレヒコの軍は、途中でタジカラの奥方であるウズメに出会った。
「イワレヒコ様」
ウズメは馬を降り、跪いた。
「如何した、ウズメ?」
イワレヒコは騎乗のまま尋ねた。ウズメは、
「ヒノモトのウカシ殿の軍が、国境の村を攻め、民が殺されております」
ウズメを見た武彦は、そのあまりに露出の多い衣にドキドキしていた。
「それは聞いておる」
姿を消してイワレヒコの後ろにいるツクヨミは、ウズメがまた自分に気づいている事を知った。ウズメはチラチラとこちらを見ているのだ。
(ウカシという男、一体何を企む?)
ツクヨミ程の力を持つ者でも、ウカシがヨモツに通じているのを見破る事ができない。それはウカシが意図的にツクヨミとの接触を避けていたからでもある。
「タジカラとスサノ殿が、ウカシ殿の軍に向かいました」
ウズメはツクヨミの方を見るのを止め、イワレヒコを見上げて言った。
「そうか。わかった。我らもすぐに向かう。ウズメは城に戻り、この事を父上達に伝えよ」
「はは」
ウズメは馬に戻る前にそっとツクヨミがいる辺りに近づき、
「お気をつけなさいませ。ウカシは得体の知れぬ者です」
と囁いた。
「かたじけない、ウズメ殿」
ツクヨミも小声で応じた。ウズメは微笑み、馬に戻った。
「行くぞ」
イワレヒコは馬に鞭を入れ、走り出した。それに大軍が続く。ツクヨミは姿を消したままでイワレヒコの横を飛翔している。
(うはあ)
イワレヒコの中の武彦は驚嘆していた。
(どうしてこんな事ができるんだろう?)
武彦は不思議だった。馬に乗った事もないし、スポーツ全般がダメな武彦には、今起こっている事が信じられなかった。
『どうなさいましたか、たけひこ様?』
ツクヨミが武彦の心の中に話しかけて来た。
『どうして馬に乗れているのだろうって、凄く不思議なんです』
武彦も心の声で返した。
『今はイワレヒコ様のお身体だからです。貴方がなされぬ事でも、イワレヒコ様がなされる事はおできになれます』
『そうなんですか』
武彦は何となく納得した。
『イワレヒコさんの頭は眠っているけれど、身体は起きているんですね?』
ツクヨミは微笑んで、
『ほぼそのとおりでございます。ですから、戦になれば、貴方は鬼神の如き強さになります」
『……』
想像がつかない武彦だった。
「むっ?」
闇の果てに、火の手が見えて来た。ウカシの軍が攻めている村のようだ。
「あれか……」
武彦はつい声に出して呟いてしまった。しかし、喧噪にかき消され、兵には聞こえていなかった。
「うおおお!」
タジカラとスサノは、たった二人であったが、まさしく鬼神の如き勢いで戦っていた。戦力的には数十倍のはずであるが、ウカシが残して行った兵達は、烏合の衆でしかなかった。すでに敗走が始まっていた。
「やめよ、スサノ。こやつら、操られておる」
タジカラが一人の兵を捕まえて叫んだ。
「そういう事か」
スサノは剣を鞘に納め、馬を止めた。
「クシナダがおれば、たちどころに救えるはず」
スサノは水使いの魔導士である奥方を帰らせた事を悔やんだ。
「おお、我が軍の援軍じゃ」
タジカラがイワレヒコ軍に気づいた。スサノは振り返り、
「イワレヒコ殿? 大事ないか?」
と心配そうにタジカラを見る。彼はイワレヒコの残虐さを知っている。戦場がより混乱するのではないかと危懼しているのだ。しかしタジカラは、
「大事ない。イワレヒコ様は、変わられた」
「そうか?」
それでも心配なスサノだった。
軍を離れたウカシは、ヒノモトの城から戻った伝令兵と合流していた。
「軍は散り散りになっている。もはや負け戦。それは良い。もう一手打たせてもらおう」
ウカシはまた狡猾な笑みを浮かべた。
ナガスネの部隊は、城までもう一息のところまで来ていた。
「ナガスネ様、お迎えに上がりました」
騎馬隊が現れた。ナガスネのよく知る老武将の部隊である。
「うむ。大儀である」
ナガスネは彼等を労った。彼はその部隊の背後にある邪悪なものに気づいていない。
「どうぞ」
その老武将は樽を運んでいた。
「馬も皆も喉が渇いておりましょう。水をお持ち致しました。お召し上がりください」
「うむ」
ナガスネは馬を降り、兵達を休ませた。
「ささ、ナガスネ様」
その武将が差し出した椀をナガスネは受け取った。
「やはり、水はヒノモトのものに限るな」
老武将は歯を見せて笑った。
「そうでございましょう」
ナガスネが椀に口を付けようとした時、何かが椀を弾いた。
「む?」
ナガスネは飛ばされた椀を見てから、背後に目を向けた。そこには、険しい顔のクシナダがいた。
「何をする、クシナダ? 血迷うたか?」
クシナダは樽を運んで来た老武将を睨んだままで、
「ナガスネ様、その者は悪しき水を持っております。口にしてはなりませぬ」
「何?」
ナガスネがもう一度老武将の方を見ると、彼は歯軋りをしてこちらを睨んでいた。
「今一歩のところで!」
ナガスネはその変貌に驚愕し、
「これは一体?」
「その者は、ウカシの手の者です。水は毒です」
クシナダの声に、ナガスネの部隊の兵達は驚いて椀を放り出した。
「退けっ!」
彼等は素早くその場から立ち去ろうとしたが、クシナダの水の方が早かった。クシナダの放った水は鋭い刃のように襲いかかる。
「グエエエッ!」
ナガスネ暗殺部隊は、たちまちクシナダの水の攻撃で死んだ。
「もはや城に戻るも危うき事となりました」
クシナダが言った。ナガスネは眉間に皺を寄せて、
「そのようだな」
と呟いた。
クシナダの言う通りだった。ウカシはすでに城に帰還し、ホアカリに嘘の報告していた。
「ナガスネ様、謀反にございます。我らの問いかけを振り切り、ヤマトに攻め入りましてございます」
「何と……」
呆然としてウカシを見るホアカリ。未だにその話を信じられず、泣き続けるトミヤ。伯父の謀反を好機と捉え、隙を窺おうと策を巡らし始めるウマシ。その三人の反応を見て、ウカシは確信する。
(勝った。これで、ヒノモトは滅ぶ)
そしてウカシはニヤリとした。