二十一の章 ウカシの悪意、アキツの悲しみ
磐神武彦は、人生で最大の緊張をしていた。
キッチンのテーブルに、姉美鈴と差し向かい。しかも姉はほろ酔いで目が完全に座っている。下手な答えをすれば、いつも以上に怒られ、拳骨が飛んで来そうだ。姉は酔うほどに強くなる。酔拳の継承者なのかも知れない、と武彦は思った。
「武彦」
しかし、武彦の暴走気味の妄想に反して、美鈴の顔は悲しそうだった。その顔がヤマトのイスズ姫と重なる。そして、あれこれ思い出してしまう。
「な、何?」
そのため、武彦はボッと赤面し、イスズの残像を振り払った。美鈴が尋ねる。
「その後、調子はどうなの?」
「え?」
何だ、嘘がばれたんじゃないのか……。ホッとしたが、姉の事だから油断はならない。武彦は警戒を第一級のままにして姉を見る。
「あまり一人で抱え込むなよ。母さんも、姉ちゃんも、お前の事が心配なんだから」
しかし、姉は明日世界が破滅するのではないかと思ってしまうくらい優しい口調だった。いや、むしろ元気がないと表現した方が正しいかも知れない。
「う、うん……」
酔っているせいで目が潤んでいるのかと武彦は思ったが、違った。姉は涙ぐんでいるのだ。充血した目で自分を見ている。武彦は罪悪感で押し潰されそうだった。自分はそんな弟思いの優しい姉を騙したんだ、と。
「何ともないのなら、それでいい。ごめんな、疲れて帰ったところをさ……」
美鈴のその言葉は、武彦の気持ちをグラグラと揺らした。
(姉ちゃんにこんなに心配してもらってるのに、僕はヌケヌケと亜希ちゃんと食事に行って……)
本当の事を言おうかと思ったが、そんな事をしたら弟が狂ってしまったと思われる。ジレンマだった。
「お、お休み」
武彦は姉の優しさが辛く、その心配そうな視線が痛くて、キッチンを逃げるように出た。
「お休み」
姉の声が背中に突き刺さるようだ。実際刺さったのではないかと思うほど、武彦は堪えていた。這うようにして階段を駆け上がり、自分の部屋に飛び込む。
(どうしよう……? このままじゃ、姉ちゃんに申し訳なくて……)
そして、着替えもせずにベッドに倒れこんだ。
「あ……」
また睡魔が襲って来た。かなり強いもので、瞼を開けていられなくなる。
(ツクヨミさんが呼んでるのか? いや、アキツさんが泣いてるんだ……)
まもなく武彦は眠りに落ちた。
ふと目を開けると、蝋燭のような薄明かりの中、ツクヨミが見えた。どうやらイワレヒコの部屋の中のようだ。夜はまだ明けていない。
「たけひこ様」
ツクヨミは悲しそうな顔でこちらを見ていた。その顔に武彦はギクッとして、
「どうしたんですか?」
と起き上がって尋ねた。ツクヨミは跪いて、
「アキツ様のお心が届いたのですね?」
その言葉に武彦は自分の世界で眠りに落ちる瞬間に感じたアキツの心を思い出した。
「あ、ええ。アキツさんが悲しんでいるのがわかって……」
ツクヨミは武彦の言葉に頷き、
「オオヒルメ様が、お命を懸けてヨモツを封じるお覚悟のようなのです」
あの英語の尼照先生に似ている人が? アキツが「大叔母様」と呼んでいたから、尼照先生より高齢なのだろう。ツクヨミは武彦を見て、
「アキツ様は大変お嘆きのご様子です」
武彦にはツクヨミの気持ちが痛いほどわかる。彼はアキツに対する思いを押し殺して、只管彼女に尽くそうとしているのだ。強い人だなあ、と武彦は思う。
「そうですか」
幼馴染で同級生の都坂亜希にそっくりなアキツが悲しんでいると聞くと、今まで以上に武彦の心は動揺した。亜希とキスをした時を思い出し、つい赤くなる。
「如何なさいましたか、たけひこ様?」
ツクヨミが武彦の心の揺れを見抜いたかのように尋ねた。武彦はツクヨミに心の中を見透かされたかと思ったが、彼がそんな不躾な事をするはずがないと思い直した。
「僕に何かできる事はありますか?」
武彦は妄想を振り払い、ツクヨミを見た。
「何やら、ヒノモトに不穏な動きがあります。それを収めぬ事には……」
その時、ツクヨミの脳裏を強烈な悪意が駆け抜けた。気が滅入るようなおぞましい悪意だった。彼はその内容を感じて雷に撃たれたような衝撃を受けた。
「どうしたんですか?」
武彦が尋ねた。ツクヨミはその問いかけにハッとして、
「今、数多の民の叫び声が聞こえました。何かが起こっているようです」
「え?」
武彦はツクヨミの顔色を見てギクッとした。ツクヨミは多くの人の命が尽きるのを全て感じてしまったため、酷く蒼い顔をしていたのだ。
「何事か!?」
ヒノモトの魔剣士であるスサノは、奥方のクシナダが何かを感じて水に探りを入れたので叫んだ。
「これは、ウカシ殿です。ヤマトに進軍しております」
クシナダは水を操りながら答えた。スサノは思わずヤマトの将軍である旧友のタジカラを見た。
「何!?」
それを聞きつけたタジカラが立ち上がって叫んだ。その奥方であるウズメもクシナダを見た。
「如何なる事だ? ウカシは城の留守居役。奴が進軍とは、解せぬぞ」
スサノはクシナダに近づいた。
「ウカシ殿はこちらに向かっているのではないようです。ああ!」
クシナダは目を見開いた。水から更なる知らせを得たようだ。
「如何した?」
スサノが重ねて尋ねる。クシナダはスサノ、タジカラ、ウズメと視線を移しながら、
「ウカシ殿がヒノモトとヤマトの国境の村を襲い、民を殺しております」
と悲しそうな顔で伝える。
「何だと!?」
スサノとタジカラが同時に叫ぶ。
「これは危うき事です、お館様。民が殺され、悪しき心が大きくなっております!」
八百万の神を召喚して辺りを調べたウズメが叫んだ。
その頃、早馬がヤマトの城に着いていた。馬は城門を潜るとそのまま倒れてしまった。伝令兵も馬から転げ落ちるようにして降り、城の中へと走った。
「申し上げます! ヒノモトの軍が我が国の村を襲い、民が殺されております!」
謁見の間に辿り着いた伝令兵は息も絶え絶えに報告した。
「何と!? 誰の仕業か!?」
ウガヤは激怒して椅子から立ち上がった。伝令兵は、
「ヒノモトの留守居役、ウカシ殿の軍でございます」
「ウカシだと!?」
ウガヤはそばに控えている軍師オモイを見た。オモイは苦々しそうな顔をし、
「何という恥知らずな……。すぐにどなたかに出陣のご命令をお出しください」
とウガヤを見る。隣に座る妃のタマヨリも心配そうにウガヤを見ている。
「うむ」
ウガヤは大きく頷き、
「タジカラはおるか?」
と尋ねた。オモイは深々と頭を下げて、
「いえ、お出かけのご様子で」
タジカラとウズメはウガヤには告げずに出陣したので、ウガヤはタジカラがいない理由を知らない。
「何? いずこへ出かけたのだ?」
そのため、ウガヤはますます憤激した。
「誰も知らぬようです」
オモイは顔を上げて答えた。ウガヤは怒りが収まらず、
「このような夜更けにどこに参ったのだ、タジカラは!? すぐに探させよ」
「はは」
オモイは再び頭を下げてニヤリとし、
(ウカシめ、思い切った策に出たな。しかし、私もこのままにはしておかぬ)
「私が参りましょう、父上」
そこにイワレヒコが現れた。当然の事だが、姿を消したツクヨミが武彦の代わりに喋っている。オモイは誰にも聞こえぬように舌打ちをした。
「よし、すぐ出立してくれ。敵は皆殺しじゃ!」
ウガヤは目を血走らせて怒鳴った。しかしイワレヒコは、
「いえ、父上。それではヨモツが蠢きます。追い返すだけに留めます」
と反論をした。オモイは部屋の隅に下がり、愉快そうにその父子のやり取りを見ていた。
「手緩いぞ、そのような事では! ヒノモトの兵共は皆、生かして帰すな!」
それでもウガヤはそう息巻いた。するとイワレヒコは、
「そのような事は致しかねます!」
と大声で言い返した。ツクヨミが言霊を使ったのだ。ウガヤは大人しくなり、オモイはギョッとしてイワレヒコを見た。
(イワレヒコの声が……?)
オモイはしばらく考え込んだ。
(今のは如何なる事か? イワレヒコの声で、何故これほど動揺するのだ?)
彼にはツクヨミの存在がわかっていない。
「では、出立いたします」
イワレヒコは呆然としているウガヤと嬉しそうに自分を見ているタマヨリに頭を下げ、オモイを一瞥してから、謁見の間を出て行った。
タジカラとスサノはそれぞれの奥方を国に帰し、ウカシの軍がいると思われる村に馬で向かっていた。
「愚か者が! あの者、一体何を企んでおるのだ?」
タジカラがそう言うと、スサノが、
「彼奴は得体が知れぬ男だ。クシナダはこの上もなくウカシを嫌っておる」
「私も斯様な事をする者は好かぬ。戦に民を巻き込むなど、許しがたき行いぞ」
タジカラは顔を真っ赤にして怒った。
アキツもまた、ウカシの悪行を感じていた。彼女はアマノイワトから出て、遠くヤマトとヒノモトの国境を見やった。
「何という事を……。これでは大叔母様のお気持ちが汚されたようで……」
彼女はオオヒルメの事を思い、涙を流した。それと同時に、武彦とツクヨミの声を聞いた。
「オオヤシマをお救いください、たけひこ様」
アキツはそう強く願った。