「彼氏がいるって言ったら面倒だから」と、彼女は俺の存在を隠していました
「彼氏がいるって言ったら面倒だから、会社ではいないってことにしてる」
去年、美緒が転職して間もない頃のことだった。
彼女はそう言って、俺の作ったオムライスにスプーンを入れた。
「面倒?」
「どんな人とか、結婚しないのとか。そういうの聞かれるの、嫌じゃない?」
「そりゃ、俺も根掘り葉掘り聞かれるのは嫌だけど」
「でしょ」
その頃、付き合い始めて一年半ほどだった。
同棲を始めて、まだ二か月。
俺は二十九歳で、美緒は二十八歳。そろそろ将来の話をしてもいい頃だと思っていた。
「いないって言わなくても、私生活の話はしたくないって言えばいいんじゃないか」
「それ言える雰囲気だったら苦労しないよ」
前の職場では、彼氏がいると話した途端、上司に結婚の予定を聞かれたそうだ。飲み会で俺の写真を見せろと騒がれた話も聞いている。
「転職したばっかりだし、波風立てたくないの」
そう言われると、強くは言えなかった。
「俺、友達には美緒と住んでるって話してるよ」
「侑人の周りはそういう人たちじゃないからでしょ。いいな、恵まれてて」
オムライスの湯気が、二人の間を上っていた。
俺はスプーンを持ち直した。
「……わかった。でも、それで誰かに誘われたら、ちゃんと断ってな」
「断るよ。当たり前じゃん」
その返事を、疑わなかった。
*
美緒が会社で俺の話をしないことと、俺を大事にしていないことは、同じではない。
そう考えていた。
家では普通に仲がよかったからだ。
ソファで映画を見るときは、必ず俺のほうへ足を伸ばしてくる。
俺が仕事で遅くなる日は、先に食べていていいと言っても、簡単なものを作って待っていた。
旅行の写真を二人で選んで、冷蔵庫に貼ったこともある。
俺は住宅設備会社で施工の手配をしている。繁忙期は帰りが遅く、現場からの電話で休日が潰れることもあった。
そんな日に、美緒が買ってきた弁当を二人で食べながら、くだらない動画を見て笑う。
それで十分だと思っていた。
ただ、転職して半年が過ぎた頃から、会社の人に会いそうな場所では、少し離れて歩くようになった。
「この辺、営業の人がよく来るんだよね」
そう言って、つないでいた手をほどく。
一度、駅前の商業施設で女性に声をかけられた。
「三枝さん?」
美緒と同じくらいの年の人だった。
俺の顔を見て、少し笑った。
「お休みのところ、ごめんね。お友達?」
「そうなんです。買い物、付き合ってもらってて」
美緒は笑って答えた。
俺も、軽く頭を下げた。
その人が去ったあと、美緒は俺の袖を引いた。
「今の、総務の人。変に聞かれると長いから」
「……うん」
「ごめんね」
その日は謝ってくれた。
だから、そこで終わらせた。
帰り道、また手をつないでいいものか迷っていると、美緒のほうから腕を絡めてきた。
「何食べたい?」
「肉」
「雑」
笑う顔は、いつもの彼女だった。
*
学生時代の友人、松岡から連絡が来たのは、翌年の六月の水曜だった。
美緒との交際は二年、同棲は八か月になっていた。
『今、電話できる? 美緒さんのことで』
画面を見て、すぐにかけ直した。
松岡は美緒とも面識がある。引っ越しのとき、車を出してくれた一人だ。
四月から美緒と同じ会社に中途入社したが、配属先の支店が違ったので、まだ会っていないと聞いていた。
入社が決まったとき、美緒にも話した。
『別の支店なら、仕事で会うこともないと思うよ。うち、支店同士の行き来ほとんどないし』
そう言って、特に気にしていなかった。
「どうした?」
「先に確認なんだけど、お前ら、今も一緒に住んでるよな」
「住んでる。何?」
向こうで、息を吐く音がした。
「今日、本社研修だったんだよ。同期の中途組で昼食ってさ。美緒さんと同じ部署の、桐谷って人がいて」
「うん」
「今週の土曜、美緒さんと水族館行くって」
冷蔵庫の音が聞こえた。
今週の土曜は、美緒が会社の人たちと買い物に行くと言っていた日だった。
「二人で?」
「うん」
「仕事の話とかじゃなく?」
「デートだって言ってた。俺も最初、彼氏いるんじゃないですかって聞こうとしたんだけど……その前に、本人から彼氏はいないって聞いてるって」
俺は冷蔵庫に貼ってある写真を見た。
春に二人で行った海だった。
「松岡、お前が俺の友達だって話した?」
「まだ。別れてたら、俺が余計なこと言うのもおかしいし。確かめてからと思って」
「そっか」
「……どうする?」
すぐには答えられなかった。
「その人に、俺から話を聞いてもいいか、確認してもらえる?」
松岡は、わかったと言った。
「悪いな、こんな電話」
「いや。ありがとう」
礼を言ったあとで、やっと椅子に座れた。
*
その晩、美緒が帰ってきたのは九時過ぎだった。
「ごめん、食べてきちゃった。連絡するの忘れてた」
俺は鍋の火を止めた。
「土曜、どこ行くんだっけ」
「買い物。会社の子と」
「何人?」
「まだ決まってない。なんで?」
美緒がバッグを椅子に置いた。
「駅のほう行くなら、コーヒー豆、頼もうかなと思って」
「ああ、わかった。忘れてたらごめん」
そこで話が終わった。
確かめるために嘘をついた自分も、嫌だった。
けれど、松岡から聞いたことをすぐにぶつけて、ただの勘違いだと言われたら。
俺はまた、信じる理由を探してしまう気がした。
翌日の夜、桐谷という人から、松岡を通して連絡が来た。
俺に連絡先を渡していいと了承してくれたらしい。
『三枝さんのことで確認したいことがあると伺いました。私もお聞きしたいです』
金曜の仕事帰り、駅前の喫茶店で会うことにした。
自分の恋人が別の男とデートするのか、その男に聞きに行く。
約束を入れてから、しばらくスマホを握ったままだった。
*
桐谷啓介は、俺より少し年上だった。
店の入り口でお互いに会釈をして、奥の席へ座った。
彼は名刺を出しかけて、途中で手を止めた。
「すみません。癖で」
「いえ」
俺たちは、少しだけ困ったように笑った。
笑えることがあるとは思っていなかった。
「瀬川さんは、三枝さんとお付き合いされているんですね」
「はい。二年になります。今は一緒に住んでます」
桐谷さんは目を閉じた。
それから、頭を下げた。
「知りませんでした」
「……彼氏、いないって?」
「はい。最初に食事に誘ったとき、確認しました」
最初。
その言葉で、明日が初めてではないとわかった。
「何度か、会ってるんですか」
「会社の外で二人では、三回です。仕事帰りの食事が二回と、先週の日曜に映画を」
先週の日曜。
美緒は、前の会社の友達と映画に行くと言っていた。
帰ってから、面白かったとパンフレットを見せてくれた。
俺も見たいと思っていた映画だったので、今度一人で行こうかなと言った。
「今回の水族館は、私から誘いました」
桐谷さんがスマホをテーブルに置いた。
「二人の話に関係するところだけ、お見せします。ほかの人の仕事の話も入っているので、画面を送るのは控えさせてください」
「わかりました」
画面をこちらへ向けた。
『土曜、二人で行きませんか』
『行きたいです! デートのお誘いだと思っていいですか?』
『そのつもりです』
『楽しみにしてます』
短い文だった。
読み間違える余地がなかった。
「交際を申し込むつもりでした」
桐谷さんが言った。
「ただ、松岡さんからお話を聞いて、明日の待ち合わせについては、まだ返事をしていません。今日の仕事が終わってから連絡すると伝えています」
「……すみません。先に直接聞きたいって、俺が頼んだから」
「確認せず、思い込みで責めたくなかったのは、私も同じです」
彼のコーヒーは、まだ減っていなかった。
「瀬川さんは、どうされたいですか」
俺は膝の上で握っていた手を開いた。
「俺がいることを隠してるのは、知ってたんです」
桐谷さんが顔を上げた。
「会社で恋人の話をすると面倒だからって。前の職場で嫌なことがあったって聞いてたんで、仕方ないのかなって」
言いながら、ようやく違いがわかった。
彼女が俺の話をしないことと、誰かに彼氏はいないと言って近づくことを、俺は同じ箱に入れていた。
「でも、これは……無理です」
桐谷さんは、ゆっくりうなずいた。
「私も、明日はお会いしません」
「そうですか」
「はい。今夜、電話して理由も伝えます。仕事に戻って、残りを片づけてからになりますが」
俺はうなずいた。
今夜は自分も美緒と話すつもりだと伝えた。これ以上、こちらの都合で待たせたくなかった。
席を立つ前に、桐谷さんが尋ねた。
「同居されているとのことですが、今夜、大丈夫ですか」
「はい。話します」
彼は少し迷ってから、言った。
「私は、三枝さんから、結婚を考えられる人と出会いたいと聞いていました」
声が出なかった。
「先に知っていたほうがいいと思って。申し訳ありません」
俺は首を振った。
それから、ようやく言えた。
「教えてくれて、ありがとうございます」
*
帰ると、美緒は洗面所にいた。
顔にシートマスクを貼り、前髪を留めていた。
「遅かったね。ご飯は?」
「食べてない」
「私も。何か頼む?」
いつもの金曜だった。
明日は二人とも休みだから、少し遅くまで起きていてもいい。
「美緒、話がある」
俺の声を聞いて、彼女が振り返った。
「土曜、桐谷さんと水族館に行くんだよな」
顔のシートが、口元だけ浮いた。
「……誰から聞いたの?」
「桐谷さんに、直接」
美緒がシートを剥がした。
折りたたみもせず、洗面台のごみ箱へ落とした。
「なんで知り合いなの?」
「松岡が同じ会社に入ったって話、したよな。本社の研修で、一緒になったんだって」
「松岡くんが、余計なこと言ったの?」
俺は首を振った。
「俺とまだ付き合ってるか、確認してくれたんだよ」
美緒は黙った。
俺はダイニングの椅子を引いた。
「座って話そう」
彼女は向かいに座った。
テーブルには、明日持っていくつもりらしい小さなバッグがあった。
先週、一緒に買いに行ったものだった。
「水族館、デートだって聞いた」
「向こうが、そう思ってただけで」
「美緒が、デートのお誘いだと思っていいですかって聞いてたよな」
彼女が唇を結んだ。
「映画も行ったんだって?」
「……行った」
「前の会社の友達じゃなかったんだ」
返事はなかった。
「なんで、嘘ついたの」
聞いても、何も戻らないと思った。
それでも聞きたかった。
「侑人に言ったら、嫌がると思って」
「嫌がることをしたんだよ」
「でも、まだ何もないよ」
まだ。
その一言が、やけにはっきり聞こえた。
「桐谷さんから告白されるの、わかってた?」
美緒の目が泳いだ。
「なんとなく」
「それで、行こうとしてたんだ」
答えは必要なかった。
それでも俺は、彼女の返事を待った。
「……自分の気持ち、確かめたかった」
椅子が、少し遠くなった気がした。
「結婚を考えられる人と出会いたいって、言った?」
「それは、雑談で」
「俺と結婚するつもりがないなら、俺に言ってほしかった」
美緒が顔を上げた。
「ないって言ってない」
「じゃあ、なんで」
自分でも驚くくらい、声が詰まった。
俺は一度、息を吸い直した。
「俺は、今年の夏、うちの親に会ってもらおうと思ってた」
美緒の目が揺れた。
「そういうの、聞いてない」
「うん。今日初めて言った。でも、先月、美緒の実家に行ったとき、次は侑人の家だねって言っただろ」
美緒の母親がくれた菓子折りの紙袋が、棚の横に残っていた。
「俺だけ、そのつもりだったんだな」
「違う。違うよ」
それからも、俺たちはしばらく話した。
美緒は「侑人が嫌になったわけじゃない」と繰り返した。俺には、そう言いながらほかの人との気持ちを確かめに行く理由が、どうしてもわからなかった。
頼むはずだった夕飯のことは、二人とも口にしなかった。
やがて、スマホが鳴った。
テーブルの上で画面が光る。
桐谷さんの名前だった。
美緒は俺を見た。
「出ていいよ」
俺は言った。
彼女は画面を見つめて、電話に出た。
「……もしもし」
相手の声は聞こえなかった。
俺は窓のほうへ顔を向けた。
「違うんです。それは、もう、ほとんど」
胸の奥が冷えた。
「ちょっと待ってください。侑人とは、ちゃんと話してて」
俺は美緒を見た。
目が合うと、彼女は言葉を止めた。
電話の向こうから、短い声が漏れた。
美緒が何か言う前に、通話は終わった。
彼女はスマホを置いた。
「……明日は会わないって」
「うん」
「侑人と住んでるのを隠して、ああいうやり取りをする人とは、付き合えないって」
俺は黙って聞いた。
「仕事では普通にするから、私的な連絡はやめてほしいって」
美緒の指が、スマホの縁をなぞった。
「私、別に、侑人と別れたかったわけじゃないの」
俺は彼女の顔を見た。
「今、ほとんど別れてるみたいに言おうとしたよな」
指が止まった。
「……うまく説明できなくて」
「美緒」
名前を呼ぶと、彼女はやっと俺を見た。
「別れよう」
*
美緒は、しばらく何も言わなかった。
冷蔵庫の写真の端が反っていた。
貼り直そうと思っていたことを、今になって思い出した。
「もう会わないって言ってたじゃん」
美緒が言った。
「桐谷さんとは、何も始まってないんだよ」
「始まらなかったのは、向こうが断ったからだろ」
彼女は口を閉じた。
「俺が知る前に、自分でやめたわけじゃない」
「そうだけど……」
「今、別れてない俺を前にして、別れかけてるみたいに説明した。それはもう、聞いたから」
美緒は目をこすった。
「侑人は、私のことわかってくれると思ってた」
「何を?」
「ちょっと迷って、馬鹿なことしたって」
言葉を探す間、俺を見ていた。
返事を間違えれば、俺が冷たい人間になるような気がした。
前にも、こんなふうに黙ったことがある。
「わかんないよ」
初めて、そう答えた。
「わからないから聞いた。会社で俺の話をしないのも、嫌だったけど、理由があるならって思った」
美緒がうなずいた。
「でも、その間に、俺と住んでる家から、別の人とのデートに出かけてたんだろ」
うなずきが止まった。
「もう、平気なふりできない」
美緒が泣き始めた。
俺はティッシュの箱をテーブルの真ん中へ寄せた。
抱き寄せることは、できなかった。
「今日、どこか行ってってこと?」
「今すぐ出ていけとは言わない。部屋のことも、荷物も、ちゃんと決めよう」
この部屋は俺が一人で住んでいたところに、美緒が越してきた。
名義も俺のままだった。
「今夜は、俺が松岡のところに行く。明日、午後に戻るから」
「なんで、そうやって決めちゃうの」
「一緒に寝られない」
美緒は顔を伏せた。
旅行用のバッグに着替えを入れた。
松岡に電話をすると、詳しく聞かずに来いと言ってくれた。
玄関で靴を履いていると、美緒が来た。
「会社で、言えばいい?」
振り返った。
「彼氏いるって。ちゃんと言うから」
彼女は泣いた目で俺を見ていた。
「今から言われても、もう俺じゃないよ」
美緒が息を止めた。
「別れるって、さっき言っただろ」
俺は鍵を持って、外へ出た。
*
松岡の家で、冷めた焼きそばを食べた。
連絡したとき、ちょうど作っていたらしい。
「温める?」
「いや、いい」
食べ始めると、思ったより腹が減っていた。
昼から何も食べていないことに、そのとき気づいた。
「別れた」
「そうか」
松岡は、自分の皿の紅生姜を俺のほうへ寄せた。
「要らないなら、最初から乗せなきゃいいだろ」
「勢いで出しすぎた」
俺は笑いかけて、失敗した。
箸を置いたら、目の奥が熱くなった。
「俺、あいつの友達って言われたとき、笑って頭下げたんだよ」
松岡は何も言わなかった。
「俺まで話合わせてさ。嫌だったのに」
テーブルに、ティッシュの箱が置かれた。
さっき自分が美緒にしたのと同じだった。
俺は二枚抜いて、顔を押さえた。
「なんで、あそこで言わなかったんだろうな」
「言えなかったんだろ」
松岡が言った。
「お前が黙っててくれたのを、あの人が利用したんだよ」
すぐには返事ができなかった。
焼きそばを食べ終わるまで、松岡はテレビをつけなかった。
*
翌日の午後、美緒と話した。
彼女は二週間後に部屋を出ることになった。それまでは実家に泊まり、休みの日に荷物をまとめに来る。
その日、美緒は何度もやり直したいと言った。
俺は、そのたびに首を振った。
「一回くらい、間違えることあるじゃん」
そう言われたときだけ、返した。
「俺を友達だって紹介した日も、映画に行った日も、昨日の電話も、別の日だよ」
美緒は黙った。
最後に荷物を運び出した日、冷蔵庫の写真をどうするか聞かれた。
「持っていきたいなら、持っていって」
彼女は二人で写った写真を一枚だけ、バッグにしまった。
「桐谷さん、会社でも本当に普通なんだよね」
玄関へ向かう途中で、美緒が言った。
「誰にも言ってないみたい。挨拶したら返してくれるし、仕事も教えてくれる。でも、本当にそれだけで」
俺は段ボールの底を持ち直した。
「そっか」
「私、何やってたんだろ」
答えられなかった。
まだ、その後悔を聞いてあげられるほど、傷は浅くなかった。
マンションの下に停まっていた美緒の父親の車へ、最後の箱を載せた。
父親には、別れることと引っ越しの手伝いが必要なことだけを話しているらしい。
何度も頭を下げられたので、俺も頭を下げた。
美緒は合鍵を返した。
「……ありがとう。一緒に住めて、嬉しかった」
俺は鍵を受け取った。
「俺も、嬉しかったよ」
それは嘘ではなかった。
だから、そこで終わりにした。
*
部屋の中が広くなった。
洗面台に俺のものしかないのは変な感じがしたが、一週間もすると慣れた。
松岡から桐谷さんの話を聞かれたので、助かったと伝えてほしいと頼んだ。
桐谷さんからは、一度だけ短いメッセージが来た。
『ご無理なさらず。いつか普通の話ができたらと思います』
俺も、同じことを思った。
彼に腹が立たなかったと言えば嘘になる。あの映画を、美緒と一緒に見た人だ。
でも、知らなかった彼にぶつけるのは違った。
『そのときは、仕事の愚痴でも聞いてください』
そう返した。
夏の帰省は、一人でした。
母親には電話で先に話していたので、誰も美緒の席を用意していなかった。
「冷やし中華でいい?」
「いい」
「きゅうり切って」
荷物を置く間もなく包丁を渡された。
切ったきゅうりが太いと文句を言われ、じゃあ自分でやれと返した。
そんなふうに過ごせることが、ありがたかった。
*
その年の冬、松岡の結婚式で、俺は受付を頼まれた。
一緒に担当したのは、新婦の友人の白石千尋さんだった。
何度か準備の打ち合わせで会った人だ。
「瀬川さん、ネクタイ、ちょっと曲がってます」
「え、どっちですか」
「逆です。そっちに引くと、もっと」
直そうとして余計にずれた。
彼女は笑って、自分の首元を指した。
「結び目を、こっちへ」
「こう?」
「はい。大丈夫」
受付が終わる頃には、俺たちはすっかり腹が減っていた。
料理がおいしい式場だと聞いていたのに、緊張して食べられなかったらどうしようと千尋さんが言った。
披露宴では、隣の席でほとんど全部食べていた。
「心配、要りませんでしたね」
「今それ言います?」
小さな声で言い合って、笑った。
二次会から帰るとき、駅まで一緒になった。
同じ路線だと、その日初めて知った。
「瀬川さん、前の打ち合わせで言ってたカレー屋さん、駅の北口でしたっけ」
「そうです。行きました?」
「まだ。メニュー見たら、辛さが数字で書いてあって。普通って何番ですか」
「初めてなら二番くらい。俺は三番で水ばっか飲んでました」
彼女が笑った。
改札の前まで来た。
「よかったら、今度一緒に行きませんか」
言ってから、少し後悔しかけた。
話の流れで言うには、急だったかもしれない。
「行きたいです」
千尋さんは答えて、それから少し声を落とした。
「私、ほかの人は誘わないでおきますね」
俺は彼女を見た。
彼女も、まっすぐこちらを見ていた。
「はい。俺も、二人で行きたいです」
「よかった」
耳の下が、少し赤かった。
「あとから、皆で行くつもりだったって言われたら、ちょっとへこむので」
俺はスマホを出した。
指が一度、画面を滑った。
「来週の土曜、空いてますか」
「空いてます」
日付が決まって、店が決まった。
それだけなのに、帰りの電車では何度も予定を見た。
*
千尋と付き合い始めたのは、カレーを食べた一か月後だった。
初めて手をつないだのは、映画館を出て、駅へ向かっている途中だった。
俺から触れると、彼女は一瞬こちらを見て、指を絡めた。
駅前で、女性に声をかけられた。
「白石さん?」
千尋が足を止めた。
俺も反射的に、手を緩めかけた。
彼女の指が、それを追いかけて握り直した。
「あ、こんばんは」
「ごめんね、お休みのところ。そちらは?」
千尋が、俺を見た。
「彼氏です」
それから、俺に向き直った。
「同じ課の先輩。いつも話してる、出張のお土産くれる人」
「ああ、あのお煎餅の」
思わず言うと、先輩だという人が笑った。
「食べてくれたんだ。じゃあ、今度は大きい箱にするね」
「ありがとうございます。おいしかったです」
短い立ち話だった。
別れてからも、俺たちの手はつながっていた。
「大丈夫だった?」
千尋が聞いた。
「何が?」
「いきなり紹介しちゃって。私、舞い上がってたかも」
俺は首を振った。
「嬉しかった」
彼女が笑った。
俺はもう一度、握る力を少し強くした。
「千尋」
「うん?」
「今度、俺の友達にも会ってほしい」
「松岡さん以外?」
「うん。紹介したい」
彼女は少し照れた顔をした。
「じゃあ、変なこと言わないようにしないと」
「普段どおりでいいよ」
「それ、会ったあとも言ってね」
俺たちは笑いながら、改札を通った。
ホームに上がるまでは、手を離さなかった。
~完~




