― 次のステージへ ―
風が少しだけ冷たくなり始めた春の夕暮れ。凜は庭のベンチに座り、膝の上に置いた文庫本を閉じたところだった。
「凜!」
玄関から声がして、振り返ると、スーツ姿の勇真が立っていた。ネクタイを少し緩めて、どこか照れくさそうに笑っている。
「ちょっと、話したいことがあってさ。いい?」
凜は頷き、俺たちは並んでベンチに腰掛け、いつも通りの何気ない会話をした後に、ちょっとしたサプライズを準備していた。
「決まったんだ。四月から、赴任先が決まったんだ。教師として、さくらの高校に」
凜は一瞬、目を見開いた。
「えっ!さくらちゃんの高校って、あの安東高?」
「うん。監督が昔ちょっとだけ関わってた学校でもあるらしい」
凜は静かに頷いた。
「お父さん、きっと喜ぶよ。勇真が先生になるって、ずっと応援してたもん。私もすごく嬉しい」
「さくらにはまだ言ってないんだ。驚かせようと思ってさ。でも、凜には一番に伝えたかった」
「私……勇真が教師になるために夜遅くまで勉強していた姿を、誰よりも近くで見てきたからとっても嬉しいよ」
「俺が教師になろうって思ったの、監督の影響もあるけど、凜がいたからだよ。ずっと、そばにいてくれたから。俺が頑張れるって思えたの、凜が支えてくれたからなんだ。感謝してる」
「私は何も勇真の手伝いをすることなんて、出来ていないよ」
そんな凜とのやりとりだったが、この日、俺が教師を目指した本心を初めて凜に伝えた。凜には助けられてきた。実際に分からない問題を教えてもらったりはあったけど、挫折しそうでしなかったのは凜自身が医師を目指して頑張っている姿を見ていたからだ。
「赴任先がさくらちゃんの高校ってことは、また振り回されるね!でも楽しそう」
「それはもう覚悟してる。俺にとってはそれは小さなことでしかなくて、教師として、一人の社会人として、ちゃんとやってみたいんだ」
ふたりは顔を見合わせて、ふっと笑った。
「ねえ、勇真。先生のお仕事はたいへんみたいだけど、変わらないでね。今のまま、まっすぐで、優しい勇真のままでいてね」
「変わらないよ。凜や監督に胸張って見せられるような教師になる」
夕陽がふたりの影を長く伸ばしていた。凜はそっと本を置き、俺の肩にもたれた。
「おめでとう、勇真先生」
その言葉に、俺は少し照れながらも、静かに頷いた。
「ありがとう、凜。俺、頑張るよ。これからも、ずっと」
勇真は凜と別れたあと、家族への報告をどう話そうか考えながら家路についた。
——その日の夜——
「四月から、さくらの高校に赴任することになったよ」
夕飯のあと、湯気の立つ味噌汁をすすりながら、勇真がぽつりと告げた。
「えっ?」
さくらは箸を止め、ぽかんと俺を見つめた。
「え、え、え!? うちの高校!? マジで!? なんで!?」
「こっちだって、ええええーだよ!」
「確か学校側からは、教員は親族の通う学校と重ならないように配慮されるって聞いてたんだ。ただし一緒になる可能性はゼロではないとも」
「うわー、終わった。わたしの高校生活、わたしの自由が」
さくらは頭を抱えてソファに倒れ込んだ。
「毎日さくらの兄ちゃん先生って呼ばれる想像しかできない」
俺は苦笑しながら、さくらの頭を軽くぽんと叩いた。
「安心しろ。担任にはならない。それとテニス部の顧問になる予定だ」
「え、テニス部!? うちの部、けっこう強いよ? お兄ちゃん、補欠だったくせに」
「うるさいな。補欠でも、努力はしてたんだよ。監督の教えを、今度は俺が伝える番だと思ってる」
「お兄ちゃん、そういう姿はかっこいいんだけど、私の頭の中は今はそれどころじゃないよ」
「そうだろうな」
「うん。私のことを学校で変なふうに言ったら、こっちもバラすからね。この人、家ではムダ毛の処理ばっかりしてますって」
「やめてくれよな!」
夕暮れのリビングに、家族の笑い声が響いた。




