― 刺さる言葉 ―
勇真は凜の家を訪ねていた。
ピンポンを押すと、沙耶が応答した。
「勇真君ね、凜は用事で出かけているの、もうすぐ帰ると思うけど」
「そうですか」
「あっ、でもいいんです。今日は凜に用があるんじゃなくて、監督に線香をあげようと思って」
「そうなの。いつもありがとう、じゃあ上がって、まだ何も片付いてないのよ」
仏壇の前で手を合わせていた勇真は、そっと目を開けた。
目の前の遺影には、柔らかく微笑む透の姿。
線香の煙がまっすぐ天井へ昇り、静寂の中で時計の秒針の音だけが控えめに鳴っている。
背後で障子が開く音がした。
「ごめんなさいね、ひとりにして」
沙耶の声だった。
そっと勇真のとなりに腰を下ろす。彼女の所作はどこか疲れてはいたが、その眼差しは静かに澄んでいた。
仏壇に手を合わせたあと、沙耶が湯呑みにお茶を注いで、勇真の前に置く。
「はい、どうぞ。まだ暑いけど、温かいお茶がほっとするでしょう?」
「ありがとうございます」
勇真が一礼し、湯呑みを両手で包むように持つ。
テーブルには線香の香りがほのかに残っていたが、空気はもう少し落ち着きを取り戻していた。
「大学は、どう? 教職って、大変なんじゃない?」
沙耶がふと、会話の糸口を探すようにやさしく問いかけた。
勇真は少しだけ息を吐いて、苦笑した。
「はい。やることだらけで、正直へとへとです」
「まあ、そうよね。子どもたちの前に立つんですもの、甘くはないわよね」
「でも、やりがいはあります。今は小学校の現場実習があるんですけど、子どもたちと接してると、なんか元気が出てくるというか」
沙耶はうんうんと頷きながら、口元に手を添えて微笑んだ。
「似合ってると思うわ、勇真くん。子ども、好きだったでしょう? 昔から」
「え、そうですか?」
「うちの凜が、さくらちゃんと遊んでる姿、よく見てたけど、あなたはそばでちゃんと見守ってたじゃない。子ども扱いしないで、ちゃんとひとりの人として向き合ってた」
勇真は思い出したように、小さく笑う。
「あの頃も、さくらに振り回されてたなぁ。今も、さくらに振り回されっぱなしですよ」
「ふふ、でもああいう姿ってね、人となりがよく見えるものなの。透も言ってたわ。あの子、教師に向いてると思うぞって」
「そう、だったんですね」
「ええ。あなた、叱るのが上手だって」
「叱る?」
「ちゃんと、相手のために言葉を選べる。勇真にはそれが出来る。透、よく言ってたわ」
勇真は静かに目を伏せると、そっと湯呑みを口に運んだ。
沙耶はそれを見届けてから、少しだけ声を落とす。
「勇真くん。自信、持ってね。あなたはね、見てくれてる人がちゃんといるわよ」
その言葉に、勇真の胸の奥がじんわりと熱くなる。
「ありがとうございます。なんか、そう言ってもらえると、ほっとします」
「ううん、ほんとのことを言っただけ」
しばらくの沈黙の後。
「勇真くん」
沙耶が優しく呼びかけた。
「あなたのこと、うちの人はよく話していたわ。あの子は、何かあると真っ先に飛び込む子だって。たとえ自分が傷ついても、誰かのために動ける……それって簡単なようで、なかなかできることじゃないのよね」
勇真は小さく息を呑んだ。
「俺なんて、何も、監督には、何一つ、報いられるようなことは」
言いかけて、喉が詰まる。
「いいえ。ちゃんと届いてたわ。あの人も、凜もずっと見てたのよ。あなたの真っ直ぐなところ」
少し間が空いた。
そして沙耶は、少し視線を落として、ふと遠くを見るように語り始めた。
「凜ってね不器用なの。子供の頃から、あまり感情を表に出す子じゃなかったの。でもね、ある日ぽつりと、こう言ったことがあるの。お母さん、勇真といるとね、なんだか、息がしやすいのって」
勇真はその言葉に、目を見開いた。
「苦しくない?」
「ええ。何も気を張らなくていいし、自分でいられるって」
沙耶の横顔には、どこか微笑にも似た哀しみが滲んでいた。
勇真は何も言えなかった。ただ、喉の奥に何かが引っかかったまま、拳を握った。
その時、外から風がそっと吹き込んで、障子がかすかに揺れた。線香の煙が一筋、斜めに流れる。
沙耶は立ち上がり、仏壇の前で手を合わせた。
「あの人も、空の上で見てると思うわ。今でもきっと、あなたのことを頼れる男だって、思ってる。きっとあの人も嬉しかったと思うの、勇真君と一緒に過ごすことが出来て……」
その言葉が落ちると同時に、勇真の胸の奥で、長いあいだ押し潰されていた何かがぎしりと音を立てた。
喉の奥がひどく熱い。胸がつまる。息が苦しい。
頼れる男……監督が、自分の事をそんな風に。信じてくれていた?
沙耶の言葉のひとつひとつが、心の深い場所に染み込んでいく。
生前、監督が自分に向けてくれていた視線。何気ない会話の端々にあったあの温度。すべてが鮮やかに蘇る。
そして同時に、凜の告げた想い――
「勇真といるとね、なんだか息がしやすいの」
「自分でいられるって」
その言葉までもが、胸の中でひとつに重なっていく。
知らないふりをしていた。
気づかないふりをし続けていた。
凜の気持ちにも、自分自身の気持ちにも。
俺にとって小さいころから接してきた凜は、姉弟のような延長だと思っていた。
しかし今でも凜は、この俺を拠り所にしていてくれたのか。
テニスの試合の後、凜はそれを教えてくれていたんじゃないのか。
凜に余計な負担をかけたくない。
自分が動くことで、誰かの関係が乱れるなら、踏み込むべきじゃない。
そんなふうに、どこまでも周りを優先して、肝心なところで逃げるように蓋をしてきた。
でも監督は、自分を頼れると言ってくれた。
凜は、自分といると呼吸が楽だと言ってくれた。
それを沙耶の口から改めて聞かされた今、心の奥底に押し込めていた感情が、堰を切ったように流れ出してくる。
逃げ続けることで守れるものなんて、本当はどこにもなかったのかもしれない。
(監督が信じてくれた自分なら。
凜が心を開いてくれた自分なら。
今度は、俺がちゃんと動かなきゃいけない)
胸の中心で、そう強く叫ぶ声があった。
それは迷いを吹き飛ばすほどの熱を帯び、静かに、しかし確かに、勇真の中に根を下ろしていく。
透が背中を押してくれているように感じる。
沙耶の言葉が、その手をさらに強くしてくれる。
まるで長い冬の後に、ようやく自分の春が芽吹き始めたかのようだった。
勇真はゆっくりと沙耶の背中を見る。小柄で細い体。その背中が、少しだけ寂しげに見えた。
「ありがとうございました」
小さな声で勇真が言った。
沙耶は振り返って微笑んだ。
「いいのよ。凜のこと、これからもどうかよろしくね」
勇真は、ゆっくりと頭を下げた。
仏間の静寂の中で、遠くに秋の虫の音が響いていた。




