― この観覧車が最後の景色 ―
夕暮れが近づく遊園地。
ライトが徐々に灯り始め、カラフルな光が二人の顔を優しく照らす。
遊園地の喧騒とは裏腹に、麗華の表情はどこか静かで決然としていた。
勇真と麗華が手をつなぎ歩く。
勇真が何か言いかけるのを遮るように、私は明るい声で話しかけた。
「ねえ、せっかくだし、あれもう一回乗らない?」
勇真は、少し意外そうな顔で笑った。
「珍しいな。もう観覧車に乗るのかと思ってた」
私は微笑んだ。いつも通りのように。
「だってさ前にも言ったけど、観覧車って最後に乗るから意味あるんだよ。もうちょっと遊ばなきゃ、今日が終わっちゃうでしょ?」
(勇真と一緒の時間を少しでも長く過ごしたい……)
私は小走りで勇真より先に進んだ。
いつもより少し早足なのは、背中を見せてしまえば顔が隠せるから。
(泣いちゃダメだ。もう少しきちんとできる予定だったのに。絶対に、泣かないって決めたんだから。もう少しだけでいい。ほんの少しだけ。最後の最後まで、私はいつもの元気な勇真の彼女でいたい)
——
バイキングの列に並ぶ二人。
前に並ぶカップルたちは、写真を撮ったり、手をつないでいたり。
そんな光景に目をやりながら、私はいつもを演じた作り笑顔。
「次はあれ乗ろうよ、わたあめも食べてないし。ほら、アレ似合ってたじゃん、あのヘンな帽子」
勇真が苦笑する。
「また被らせる気かよ。あれは売り物だからお店の人に怒られるよ」
「うん、記念だけ撮っとこ。ね?」
その「記念に」という言葉に、勇真が少しだけ目を細めた気がした。
「今日の麗華って、いつもと違うみたいだけど、どうかしたの?あまり目を合わせようとしないし、少し元気が無いかな?」
「ううん、何でもないよ」
勇真はそれ以上は確かめようとしてこなかった。
——
バイキングに乗り込む直前、麗華が勇真を振り返る。
夕暮れの光を受けた彼女の笑顔は、少しだけ陰っている。
バイキングが動き出す。
風に髪がなびく中、麗華は笑う。
——
夜のライトにてらされた観覧車乗り場の前で、私はゆっくりと話し始めた。
「勇真……」
私は声を震わせながらも、小さく深呼吸し話しはじめた。
「今日まで一緒にいてくれてありがとう。たくさんの思い出ができて、嬉しかった」
勇真は突然の言葉に、動揺した様子だった。
とっさに勇真は状況を悟り、私の手を握り返した。
「なに?急に!」
「私、もうあなたの心の場所がわかってる。凜ちゃんのこと、ずっと見てた。いつも、なにをするのも勇真からではなく私からだった。好きだけじゃ足りないとわかったんだ」
私の言葉に、遊園地のざわめきが一瞬遠くに感じられた。
「だから、私、初めてのデートで来たこの遊園地で身を引くことにしたの。あなたが本当に好きな人のために、道を空けるのが私の幸せなんだ」
「でも、好きだった、だからがんばって行ってらっしゃいって言えるよ」
私は観覧車のチケットをそっと勇真に見せた。
「これ、最後に二人で乗るためのチケット。これからは、あなたと凜ちゃんの幸せを願ってる」
勇真の姿は茫然と立ち尽くしているように見えた。
——
突然の別れの言葉を聞き、俺の耳には遊園地の音がほとんど入ってこなくなっていた。観覧車の受付の人が話し掛ける声も、すべて水の底から聞こえるようにぼやけていた。
彼女の瞳に宿る強さと優しさに胸が締めつけられた。
麗華が静かにゴンドラへ乗り込む。俺は足が地面を離れる感覚さえ曖昧なまま、その後を付いて行った。まるで知らない世界に連れていかれる気持ちだった。
(麗華が終わらせるって、今、本当に言ったのか?今のが別れの言葉だったのか……)
自分の頭の中の声でさえ、自分のものではないように感じた。
ゴンドラがゆっくりと地上から離れる。その揺れにも、心がまったく付いていかなかった。
麗華はそっと俺の手を握り、窓の外を見つめ、少しだけ微笑んでいるように見えた。
俺は無意識に息を呑む。麗華の横顔が、光に照らされて淡く輝いていた。
麗華の言葉は、静かで迷いがなくて、ただまっすぐだった。
その真っ直ぐさに触れた瞬間、俺の胸の奥で何かが音もなく崩れていく。
麗華の瞳がそっとこちらを見た。穏やかで、それでも底の見えない眼差し。
まるで全部分かっていたと言うように。
俺は、どうして?という疑問の余地もなく、自分の心を見透かされていた事を知った。反論する言葉なんてどこにもなかった。
(麗華は俺なんかよりもずっと、俺が封印していたはずの心の中を分かっていたんだ)
その事実だけが、じわじわと胸に広がり、息を奪っていく。観覧車の揺れがいつもより大きく感じるほど、心の足場が崩れていた。そして、目の前の光景が全部色を失って見えた。
「……きれいだね」麗華は静かにつぶやいた。
その声は、驚くほど落ち着いていて、別れを告げた直後だとは到底思えなかった。
俺は返事をしようとして、音にならないまま唇が震える。
そんな俺の様子を見て、麗華がふっと微笑んだ。優しくて、なおさら俺を苦しめるような微笑みだった。
「勇真、手……冷たいよ?」
その麗華の指先の温かさが、逆に俺の動揺を露わにした。
言わなければならない言葉は、山ほどある。待ってくれとか、嫌だ、行くなよとか。でも、どの言葉も麗華に伝えるには相応しくなかった。
それは麗華の覚悟を知ってしまったため。
観覧車はゆっくりと昇り続けた。
夜景が広がっていくのに、俺の視界は逆に狭まっていった。
思考が途切れ途切れになる。何度も同じ問いだけが頭の中で反響した。
麗華は窓に手を添え、静かに外を見ていた。
下を見れば人々の楽し気な喧噪が、もう届かないほど遠くなっていた。
観覧車が昇り詰めた時、麗華がつぶやいた。
「ありがとう、勇真くん。あなたの笑顔が大好きだった」
眼下にきらめく遊園地の光が、麗華の頬を照らしていた。
その光の中で、彼女は小さく呟いた。
「この観覧車が下に着いたら、お別れだよ」
——
気丈にそう話した麗華だったが、あふれ出す涙をこらえきれなくなった。
俺の身体は硬直し、小さく震える麗華の手を握る事しかできなかった。
麗華は外を眺めていたはずだった。だが肩が小さく震え、その震えが徐々に大きくなる。
それを最初に感じ取ったのは、握っている彼女の手からだった。
俺ははっとして麗華を見る。彼女は必死に涙をこらえようと押し殺した声。目元が滲み、視界を曇らせているのが分かる。
麗華は首を横に振り、無理に笑おうとした。だけどうまく笑えず、唇が震え、目尻から涙がぽろぽろと零れ落ちていく。
「ほんとはもっと一緒にいたかった……」
「でも……あなたの幸せ、邪魔したくないの」
「だめだね、今日だけはちゃんとするつもりだったけど、ぜんぜん出来なかった……」
麗華は俺の胸に額を押しつけ、泣き声を漏らす。
俺は胸が潰れそうだった。それでも抱きしめ返す腕に、力を込めることができない。
麗華の心の痛みを受け止めても、答えを返す資格が自分にはないと分かっていたから。
「……ごめん、麗華……」
その一言が、彼女の嗚咽をさらに強くした。
観覧車の揺れに合わせて、麗華の身体も小刻みに震え続ける。
地上の光がだんだん近づいてきた。
現実に戻されるようで、俺の心も締め付けられた。
麗華は涙で濡れた目元を必死に拭き、呼吸を整えようとした。
「ごめんね、最後なのに泣いちゃって……」
そう言いながら、まだ喉が震えていた。
俺は首を横に振るしかできなかった。
やがて無情に、観覧車は地上に降り、麗華はそっと俺の手を離した。
涙で赤くなった目のまま、彼女は小さく微笑んだ。
「バイバイ……」
麗華は振り返らずに一歩、二歩、そして三歩。
涙を袖でそっと拭いて、でも歩く速度を落とさない。
俺は「ちょっと待って」と言おうとして喉が詰まる
涙を拭きながら小さくなる麗華の姿を、ただ茫然と視界に収めていた。
そして、大切なものを手放した喪失感に渦巻かれていた。
ただ自分の身体は意志とは違い、その姿を追いかけようとはしなかった。ただただ、愛おしい姿が消えるまで立ち尽くすだけだった。
(俺って、酷い人間だ。あんなに真剣に向き合ってくれてた麗華の事を……このまま見送ることしか出来ないなんて……)
勇真は罪悪感や喪失感で足が動かなくなっていた。
——
遊園地からの帰り道、コンビニで見かけた焼き芋ののぼりを見つけた勇真。
ふと、麗華の声が蘇った。
「秋って焼き芋でしょ!一緒に食べよ?」
その声が、風に混ざって聞こえた気がした。
何でもない時間が、ただ楽しくて、あたたかかった。
(あいつ、全部わかってたんだな。俺のこと)
ずっと、麗華は自分の心に正直だった。
遠慮がなくて、言いたいことを言って、笑って泣いて怒って……でも、不思議と嫌じゃなかった。
(俺、こんなに誰かにちゃんと好きだよって言われたこと、あったっけ)
振り返れば、麗華はいつだって先に言ってくれた。
「今日会えてうれしい」
「がんばってるの見てたよ」
「勇真って、本当はすごく優しい人でしょ?」
彼女の目に映る自分は、どこか誇らしげで、少し照れくさかった。
(あいつの言葉に、どれだけ救われてたんだろう)
そう思った瞬間、胸の奥に、ぽつんと穴が空いたような感覚が残っていることに気づく。
(もう、俺のこと呼ばないんだな、勇真って)
携帯を開いてみる。メッセージアプリの履歴。スクロールするほど溢れていた日常のやりとりが、数日前でぴたりと止まっている。
「ばかか、俺」
失ってからじゃないと気づけないなんて。
その笑顔の裏に、どれだけのがんばりや背伸びがあったのか。
どれだけ、彼女が自分に向けて真剣だったか。
気づかなかったわけじゃない。ただ、それをちゃんと返してこなかった。なんとなくで、付き合ってる気になってた。でも、麗華は違った。自分の気持ちに素直だったよな。俺なんかより、よっぽど
じんわりと胸が熱くなる。誰にも言えなかったこと、言わずにいた想い。全部、見透かすように笑って、冗談みたいに包み込んでくれた彼女のことを、今さらになって、どんどん鮮やかに思い出していく。
そして気づいた。惹かれてたのは、あの笑顔でも、可愛さでもない。俺の弱さを、丸ごと受け入れてくれたこと。
それが、一番あたたかかったんだ。
『麗華、ゴメン。俺みたいな奴と一緒にいた事で、辛い思いをさせてしまった』と、ラインを書きかけ、消去――




