― 静かな横顔 ―
年が明けて間もない放課後の図書室。
窓際の席では、凜が静かにテキストを読んでいた。冬の夕暮れのやわらかい光が横顔に落ちて、その表情がどこか寂しげに見えた。
窓際のテーブルに、ペンの走る音だけが響いていた。
静けさの中、カタッと椅子の音がして、凜が顔を上げる。俺はノートと参考書を抱え、彼女の横の席に立つ。
「ここ、いい?」
「うん、いいよ」
凜はいつも通り穏やかに返す。俺は少し照れながら腰を下ろした。
「ホント、この時期になると勉強しなきゃって焦るよな。マジで進級できる気がしないんだけど。留年なんてなったら親にも迷惑掛かるし、そうなったこと考えるとゾッとする」
声を潜めて言うと、凜は小さく笑った。
「また大げさな、でも前よりはちょっと頑張ってる気がする」
「え、それならちょっとぐらいは褒めてくれてもいいんじゃない?」
「じゃあやればできる子だよ、勇真は」
「俺は凜の子分かよ」
そんなやりとりをしながら、久しぶりにふたりきりで過ごす時間に、俺はちょっとだけ懐かしさを覚えていた。
けれど勉強に向き合おうとすると、頭の中は相変わらず進級のことでいっぱいだ。凜といる楽しさを感じる余裕なんて、最初はまったくなかった。
「凜、消しゴム借りていい?」
「うん、どうぞ」
差し出されたのは、柴犬の絵が描いてある小さな消しゴムだった。
女子のものなんて気にしたこともなかったのに、凜が使っていると思うと、なんだか特別に見えてしまう。
昔は、女子なんてみんな同じだと思ってた。妹のさくらと変わらないって。
でも今の俺には、凜のこういう小さなものさえ、妙に胸に引っかかった。
「この問題、分かんねえ。どこで間違えたんだろ」
ノートをずらすと、凜が身を乗り出して覗き込む。その距離の近さに不意に心臓の音が大きくなるのを感じた。
「ここ、符号が逆だよ。マイナスにしないと」
「あー、マジか。ありがと」
凜は真剣に問題を見つめている。その横顔を見ていると、小学生の頃の凜をふと思い出した。
小さな手で一生懸命俺に勉強を教えてくれた、あの頃。
言葉を探しているうちに、口が勝手に動いた。
「翔太、すごいよな」
「この間のテニスの大会でシングルス準優勝だったんだよ」
唐突に口をついて出た言葉に、凜が一瞬まばたきをした。
「うん、すごいよ。頭もいいし、ちゃんとしてるし」
「いいやつだよな、マジで」
「うん」
しばらく間が空いた。
「でも……」
ぽつりと漏れた凜の声は、本当に小さかった。
顔を上げると、凜は何かを言いかけたまま、視線を下に落とす。
「でも?」
「なんでもない。勉強に集中しないと」
それ以上は言ってくれなかったけれど、その一瞬、何か迷っているように見えた。
俺はペンを動かす手を止め、もう一度凜を見る。
冬の光に照らされた横顔は、どこか遠くを見ているようで、静かで、きれいだった。
「どうしたの?」
「え?」
思わず声が漏れたらしい。俺はごまかすように笑った。
心の奥で浮かんだのは、別の思いだ。
凜が俺に勉強を教えてくれた時間って、なんか――特別だったよな。
でも今は、その特別は翔太のものなんだろう。
「ここ、もう一回やってみて。自分でできた方が、忘れないよ」
細くて、小さくて、優しい指先。
その温度が、胸の奥にじんわり残る。
俺は息を整えて、もう一度問題に向き合った。
図書室は静けさを取り戻す。
でも、さっき触れた凜の気配だけは、ずっと、消えなかった。




