― ぽっかり空いた隙間 ―
教室のドアには「Welcome Cafe C-2」の手描き看板。高校二年生の文化祭2日目、二年C組は教室を喫茶店風に飾りつけ、模擬店を開いていた。机は二人用に並べられ、白いクロスと紙製のメニュー。後ろの黒板には、チョークで「本日のおすすめ」と書かれている。窓から差し込む柔らかい陽射しに、ゆったりとしたジャズのBGMが重なっていた。
「ご注文、アイスコーヒー、ミルク多めでーす!」
制服の上からエプロンを着けた勇真が、明るく声を上げる。彼はウェイター役。ぎこちないお辞儀や、少しこぼしそうなトレーの扱いに、お客さんから笑いが起きる。
「勇真くん、今のこぼしてない!?」
「ギリギリセーフ!」
笑いながら、勇真は次の注文へ走っていった。厨房スペースでは、凜が手際よくホットドリンクを淹れていた。
メジャーカップを手に、真剣な表情でミルクを測る横顔。白いカチューシャと三つ編みが、少しレトロな喫茶店の雰囲気に似合っていた。
「凜ちゃん、手慣れてるね~」
「うん、家でもコーヒーよく淹れるから」
そんな何気ない会話が、聞こえてくる。一方、レジの前では翔太が接客中。爽やかな笑顔で女性客たちに囲まれながら、チケットを受け取っていた。
「翔太くん、また来たよー!」
「ありがとう。カフェオレでいい?」
翔太の周りに集まった女子たちの黄色い声に、場の空気は柔らかく弾むように感じた。
ピークの時間を越えた頃。客が一段落し、店内が少し落ち着いた。勇真がトレーを片手に、カウンターへカップを下げに行く。
ふと、厨房に立つ凜の横顔に目をやった。凜は気づいていなさそう。けれど、手元のカップを洗いながら、ほんの少しだけ、顔を上げた。
(あ……)
一瞬だけ、視線が交わった——気がした。そして、どちらからともなく目を逸らす。それだけのこと。でも、勇真の心には、小さな波紋が残った。
(凜、変わったな)
表情も、少しだけ大人っぽくなったように見えた。ただ、それが翔太のとなりにいる時間が作ったものだと思うと、どこか少し、胸がざわついた。その後ろで、翔太が凜に声をかけていた。
「あと30分でラストオーダーみたいだよ。少し休む?」
「うん、ありがとう」
やさしい凜の声に、勇真は聞こえないふりをした。
外の風が、校舎のカーテンをふわりと揺らした。
教室には、コーヒーの香りと、言葉にできない凜との距離感だけが残っていた。
——
グラウンドに立ちこめる砂埃と、鳴り響く応援団の声。秋晴れの空の下、校舎の壁に反射した陽の光が、まぶしくて目を細めた。
体育祭の後半、メインイベントのクラス対抗リレーが始まろうとしていた。勇真は、第3走者だった。運動が得意なわけではない。足も、そこそこ。ただ、やる気だけは人一倍あった。
「頼んだぞ、勇真ー!」
クラスメイトに背中を叩かれながら、白いハチマキを結び直す。目の前には、自分より足の速い選手ばかりが見える。
一方、観覧席では凜のとなりから翔太がスタート地点へ移動しようとしていた。翔太はアンカーだ。体育祭実行委員も務める翔太は、みんなから頼られていて、今日も完璧にこなしていた。
「翔太くん、最後頼んだね」
「任せて。絶対1位、取るからさ」
スターターのピストル音が響く。
1走、2走が次々にバトンを渡す中、勇真の番が来た。となりのレーンの選手が一気に前に出る。
でも勇真は、バトンを握る手に力を込めて、前だけを見て走った。もつれそうな足、砂に取られるスニーカー。でも、歯を食いしばって、懸命に走った。
——
観客席の凜は笑いながらも、リレーの名簿を見て、一人の名前に目が止まった。
(望月勇真、出るんだ)
何も知らなかった。クラスは同じなのに、話す機会はほとんどなくなっていた。
凜は、その姿から目が離せなかった。勇真の走りは、結局順位をキープした程度だった。何かを劇的に変えたわけじゃない。
でも、走り終えて息を切らしている彼の顔は満足そうに見えた。それを、スタンドから見ている自分がいる。
そして、自分は翔太の彼女。
リレーは結果的に、翔太のラストスパートで優勝を勝ち取った。クラスメイトの歓声があがる中、翔太は凜に笑いかける。
でも凜は、グラウンドの端で水を飲む勇真の背中を、無意識に追っていた。
日焼けした首筋。白いシャツに付いた砂。疲れているのに、どこか満ち足りた顔。自分のペースで頑張り続けている。
——
体育祭の閉会式、表彰の拍手が鳴る中、勇真は凜の方をふと見た。目が合う。でも、お互い言葉はなかった。ただ、それだけで、胸が少しだけ熱くなった。
午後の教室は、照りつける西日でオレンジ色に染まっていた。体育祭が終わり、表彰式を終えたクラスメイトたちは、テーブルを囲んで勝利の余韻に浸っていた。
「翔太、やっぱ速ぇーな!」
「いや、勇真のリレーも地味に熱かったっしょ」
「てか、うちのクラス強くね?」
「イエーイ優勝!」
ワイワイと盛り上がる声の中、勇真は教室の隅でスポーツドリンクのペットボトルを握っていた。
ハチマキを外して乱れた髪のまま、ひと口ごくりと飲み込む。ふと、視線の先に凜がいた。教室の窓際、女子数人と並んで笑っている。
笑顔が綺麗だった。翔太がなにかを言って、凜が少し吹き出す。その光景に、勇真の目がほんの一瞬だけ止まった。
楽しそうだな。
そう思っただけ。それ以上でも、それ以下でもないはずだった。
でもその時、凜がふとこちらに目を向けた。目が合った……気がした。そして、すぐに逸れた。お互いに、なにも言わない。
なにも、できない。
(もう、俺が凜の事を助ける必要はないんだ。ちゃんと隣には翔太が居るんだから)
ペットボトルの水滴が、勇真の指先を冷たく濡らしていた。笑い声の中、彼は黙って席に戻り、静かに窓の外を見つめた。
空には、秋の雲がゆっくりと流れていた。




