「……まさか、水が弱点、なの?」
カツン!
突如、暗闇の廊下の奥から足音が聞こえた。
ギィィィィ……ギィィィィ
その後に続いたのは、金属のような何かを床に引きずる音。
黒板を爪で引っ搔くような、不愉快な響きだ。
その足音と引きずる音は、ジワジワと大きくなってくる。
一歩ごとに床板が軋み、空気が押し潰されるように重くなった。
(まさか……〝奴〟が来る!?)
ポケットの中で、小さな布袋が揺れる。
おばあちゃんがくれた古びたお守り。
「いざというとき、これがあんたを守ってくれるからね」
笑顔の声が、一瞬よぎる。
(お守り、本当に力があるなら、今私を守ってよ……)
やがて奥から姿が現れた。
二メートルを優に超える巨体。全身を漆黒のロングコートに包み、顔は影に沈んでいる。
右手には、私の身長に迫るほどの長さの巨大な刃。その刃で床を引きずりながら近づいてくる。
その巨体が廊下を埋め尽くし、背後の闇が逃げ道を飲み込んでいくようだった。
間違いない――あの不死身の殺人鬼だ。
蛍光灯の明滅に合わせ、鈍く光る刃先。
一歩後ずさると、背中が壁にぶつかる。逃げ場はない。
やつの呼吸音が低く唸るように響き、胸の奥を震わせた。
刃が振り下ろされる。反射的に横へ飛び退く。
その拍子に隣の台に置かれていた花瓶が落ち、床に水がこぼれた。
――その瞬間だった。
黒いコートの裾がわずかに揺れ、奴の動きが止まる。
「う゛う゛う゛……」
奴は明らかに動揺していた。そして、足元に近づいてきた水を、まるで毒でもあるかのように避けた。
「……まさか、水が弱点、なの?」
呟いた次の瞬間、巨大な刃が再び振り下ろされる。
熱と冷たさが同時に押し寄せ、視界が赤に染まる。
息ができない。手足が冷えていく。
赤かった視界はやがて黒く染まっていった。
そして、最後に感じたのは――ポケットの中で、布袋が熱く脈打つ感覚。
――そして、目を開けた。
カツン!
ギィィィィ……ギィィィィ
同じ暗闇の廊下。蛍光灯の点滅、迫る重い足音と金属を引きずる音。
(どういうこと……? 私はさっき殺されたはず)
あの痛み、あの冷たさ、全部覚えている……あれは夢と片付けるには本物感があった。
デジャブというより、まるで、ループしているようなそんな感覚。
だけど、迷っている暇はない。奴がもうすぐ来るのだから……
(さっき見た記憶が確かなら……奴は水を恐れていた。ならば――)
わたしは花瓶に手を取った。それを武器のように握る。
足音が近づく。恐怖はもちろん残っている。だが、今度はもうただ怯えて死ぬつもりはない。
ポケットの中で、お守りがまだ温かい。
死ぬ前は灼けるほどだったその熱が、今は静かに脈を打っている。
「おばあちゃん、ありがとう……今度は自分で頑張ってみるよ」
やがて奥から姿が現れた。
「……どうせ殺されるんなら、試してから死んでやる」
「かかってこい!!!」
俺たちの戦いはこれからだ!