1-3
灯さんは、私の髪についた水滴を、ハンカチでそっと拭っていた。
それは、まるで恋人同士のような距離だった。
けれど私は――怖いくらいに、その手を振り払うことができなかった。
「……しおり、って言うのね?」
胸元の社員証に目を落とした彼女が、小さく名前を呟く。
その声音は、やさしく、どこか寂しげだった。
彼女の指先は、ハンカチの縁を滑らせながら、ゆっくりと私の頬に触れた。
「あなた、触れられることを避けてきたのね。なのに……今は、震えてない」
私は自分の手が、膝の上で小さく握りしめられていることに気づいた。
「……どうして、そんなことがわかるんですか」
「わかるわよ。……私も、同じだったから」
彼女はそう言って、私の手を、そっと包み込むように握った。
雨の音が遠くなったように感じた。
濡れた指先が、じんわりと体温を奪っていく。
それなのに――なぜだろう。温かく感じた。
「灯って、呼んで」
そう囁いた彼女の声は、風のようにやわらかくて。
だけど、どこか、抗いがたい熱を孕んでいた。
そのまま、彼女は私の頬に唇を近づけた。
ほんの一瞬、私の理性が叫んだ。
こんな見知らぬ女性に……
ここは雨のバス停、人気のない場所。
誰かに見られるかもしれない――
でも、身体は逃げなかった。
むしろ、心の奥底では、その唇を待っていた。
「……灯さん、どうして……?」
「触れていいかどうかなんて、あなたの目を見れば、わかるの」
唇が、頬に落ちた。
濡れた熱の感触に、私は瞼を震わせた。
それはキスというにはあまりに淡くて、けれど、ただの挨拶にはあまりに甘い。
「……また、会いたい?」
「……うん」
「じゃあ……次は、ちゃんと誘って。もっと深いところまで、触れていいように」
そう言って、彼女は傘も差さずに歩き出した。
私は、ただその背中を見送っていた。
雨音が、ふたたび耳に戻ってくる。
――濡れた頬に、いまもまだ彼女の唇の感触が、かすかに残っていた。