10-1
朝が来る。
小鳥のさえずりと共に、カーテン越しのやわらかな光が部屋に差し込む。白いリネンのシーツの中、柊木しおりは、隣で静かに眠る海野灯の額に指先を添えた。
呼吸が穏やかで、目元はどこまでも柔らかい。昨夜、どれほど深く、どれほど遠くまで互いを知り尽くしたか──その余韻がまだ、皮膚の奥に残っていた。
「灯……おはよう」
低く、囁くように言うと、灯がゆっくりと目を開けた。深い眠りからゆるやかに浮かび上がるように、黒い瞳がしおりを捉える。
「……うん。おはよう、しおり」
裸の肩を引き寄せ、額と額を合わせる。言葉にしなくても伝わる想いがそこにあった。愛してる、と、ありがとう、と、ずっとここにいて、と──。
ベッドの上で毛布を抱きながら、小さなキスを交わす。日常が、ようやくこの朝に溶け込んだような気がした。
──でも、それはまだ序章にすぎなかった。
*
灯が職場へ戻った日。社員食堂の窓際、コーヒーを片手に書類をめくっていると、背後から囁くような声が聞こえた。
「ねえ、知ってる? 海野さん……なんか、ちょっと“そういう感じ”らしいよ」
「うそ……女同士で付き合ってるってこと?」
心臓が一瞬で冷たくなる。手の中のカップが震え、コーヒーが机にこぼれた。
──まだ、誰にも言ってないのに。
どこから洩れたのか。いや、仕草や目線、なにかに“気づかれた”のかもしれない。そう思った瞬間、灯の中で自分自身への疑念が渦を巻いた。
(わたしが、いけなかったのかな)
*
しおりのもとにも波は押し寄せていた。ある取引先の女性経営者が、面談の最後に唐突に言った。
「あなた、噂が出てるわよ。女性と暮らしてるとか……そういうのって、ビジネス的にはちょっとね」
しおりは微笑みを崩さず、頭を下げた。でも、唇の内側を噛んでいた。灯と過ごすことで、自分の人生の一部が“否定される”ような感覚。
(この世界は、まだこんなにも……)
その夜、連絡は最小限だった。灯は「今日は疲れたから、早く寝るね」とだけメッセージを送った。しおりも返事を打ちながら、心のどこかがざらついていた。
「……守りたいのに、わたしは、守れてるのかな」
そして数日後──
灯がふいにしおりの部屋に現れた。
雨が降っていた。髪も、服も、濡れていた。
「どうしたの……濡れてるじゃない」
玄関で立ち尽くす灯に、しおりが駆け寄る。
「……ねえ、しおり、わたしたち、離れた方がいいのかも」
その一言に、しおりの時間が止まった。
「え……?」
「わたしのせいで、あなたが仕事を失うかもしれない。評価も、人間関係も、全部……わたしといたら、しおりが傷ついてしまう」
震える声。必死に抑えた涙が、その黒い瞳を潤ませる。
しおりは無言で灯を抱きしめた。
「バカだよ、灯」
「……え?」
「愛する人のことで、悩んで、苦しんで……それが“せめてもの誠意”だと思ってる。でもそれは、“わたしがどうしたいか”を無視してる」
「わたしは、あなたといたい。傷ついても、怖くても、それでも一緒にいたいって思うの」
しおりの手が、灯の背中を撫でる。雨の冷たさが、少しずつその温もりに溶かされていく。
灯は、崩れるようにしおりに身を預けた。
「……ほんとに、いいの……?」
「灯じゃなきゃ、だめなの」
雨の音が、ふたりの世界を包む。
その夜、灯の髪を乾かしながら、しおりはこう囁いた。
「あなたといるこの人生を、誇りにしたい」
灯は、涙をこぼしながら笑った。
「うん……うん、わたしも……あなたに愛されてることが、誇りだよ」
そしてふたりは、再び静かな夜を、愛を持って迎え入れた。
まだ風は強い。
けれど、その風の中を、ふたりは手を取り合って歩いていく。




