8-1
朝、目が覚めた瞬間から、灯はその日の空気がどこか重たいことに気づいていた。
外は曇天。低く垂れ込めた雲が街を灰色に染め、どこか現実味のない静けさが漂っていた。
出勤の支度を整え、会社の自動ドアをくぐった瞬間、灯の胸にざらりとした違和感が走った。視線。言葉にされない“なにか”が自分に向けられている。
「……おはようございます」
笑顔を浮かべて声をかけても、返ってくる挨拶は曖昧で、上滑りするような響きだった。
(また、だ)
心の奥で、小さく震える声が囁く。彼女は“誰か”と違うことを知っている。
恋人が女性であることを、誰にも明かしていないはずだった。だが、人の噂や、SNSの一片、たまたま目撃された手の振る舞い──それだけで、「普通じゃない」と決めつけられるのに十分すぎる。
昼休み、灯はデスクに広げたコンビニのサンドイッチを手にしたまま、ふと窓の外を見つめた。曇り空の向こうに、小さな光を求めるように。
──その頃、しおりは母親と電話をしていた。
「……そう。別に、結婚の予定はないの」
『もう三十も近いのよ?あなた、いつまで夢みたいなこと言ってるの』
「夢なんかじゃないわ」
声が硬くなるのが、自分でもわかった。しおりの母親は昔から“普通”を好んだ。公務員、結婚、子育て。型にはまった“幸せ”だけが唯一の正解であるかのように。
『あの子と、まだ会ってるの?』
その言葉に、しおりは一瞬、呼吸を止めた。
「……うん。私は、灯といるのがいちばん自然なの」
『普通じゃないわよ、そんなの』
その瞬間、胸の奥で、何かがちりりと音を立てて切れた。
──夜、灯の部屋。
雨が降り始めた。しとしとと、まるで心の隙間にしみこむように静かに。
灯は、濡れた傘をたたみながらしおりを迎えた。その顔はどこか疲れていて、だが安堵もあった。
「おかえり、しおり……」
「ただいま。……会いたかった」
たった一言で、積もった孤独がほどけていく。
ふたりは抱き合い、唇を重ねる。
ゆっくりと、確かめるように──




