1-1
梅雨入り直前の、じめりと湿った午後。
白いシャツの襟元に貼りついた汗と、アスファルトから立ちのぼる熱気に、私はそっと小さく息をついた。
「……最悪」
声に出してみると、余計に憂鬱になる。
仕事帰り、電車を乗り過ごし、慣れない駅で降りてしまった自分を恨んだ。
見知らぬ住宅街、どこか仄暗く、知らない国に迷い込んだような静けさ。
そのときだった。傘を持たずに信号を渡ろうとしていた私の目の前に、一つの黒い影が差し出された。
「入る? ……びしょ濡れだと、後が大変よ」
突然、声がした。
低くも澄んだ、女の声。
見上げた先には、**彼女――海野 灯**がいた。
黒髪のボブ、アイラインが鋭く整えられた都会的な目元、白シャツに黒のリボンタイとタイトスカート。
濡れたアスファルトと無機質なマンション街の中で、彼女だけが別世界の人間のように、整然と立っていた。
私はそのとき、まるで濡れた野良猫のような気持ちで、黙ってその傘の中に入った。
「あの、ありがとうございます……」
「謝らないで。見てられなかっただけ。……私も、ひとりが苦手なだけ」
ふと見れば、彼女の腕も濡れていた。差し出した傘の傾きが、明らかに私を庇っている。
優しさ? それとも、ただの気まぐれ?
その真意を知るには、まだ私たちはあまりに他人だった。