7-1
―1―
冬の終わりが近づいていた。街はまだ灰色の空気を纏っていたが、どこかに春の匂いが混ざり始めていた。灯は、仕事帰りのオフィス街を歩きながら、肩に重くのしかかる疲労を感じていた。
今夜もしおりの家へ行く予定だった。
それだけが心の支えだった。
灯の部署では新しいチーム体制が始まり、数人の異動があった。その中に、いわゆる“軽口が多い”男性社員がいた。本人は悪気がないつもりなのかもしれない。でも、彼の口からふとこぼれる言葉が、灯の心をじわじわと蝕んでいた。
「海野さんって、なんか……女同士で遊んでそうだよね」
「趣味でやってるだけでしょ? 結婚願望とかないんだ?」
笑いながら言われるその軽さが、たまらなく苦しかった。
自分がどう生きて、誰を愛するか。それは“遊び”なんかじゃない。灯にとって、それは生きるすべてだった。
でも、言い返せない。
反論したら、「図星だった?」とでも言われそうで、ただ俯いて笑ってみせるしかなかった。
―2―
しおりの部屋は、いつものように静かで、温かく迎えてくれた。
「おかえり。今日は……顔色がよくないね」
灯は、しおりの言葉に堪えきれず、そのまま彼女の胸元に顔をうずめた。
「……何も言われてないのに、全部透けて見えてるみたい。ほんと、ずるい」
しおりは笑わなかった。ただ黙って、灯の背中を撫でてくれた。
何も言わなくていい。ただ触れていてくれる、それがどれほど救いになるかを、灯はもう知っていた。
―3―
その夜、ふたりはゆっくりと身体を重ねた。
灯がベッドに仰向けになると、しおりがそっと彼女の手首にリボンを結んだ。
「怖かったら、すぐに言って。やめるから」
「……ううん。縛られてる方が、安心するかも」
目隠しはしなかった。
代わりに、しおりはじっと灯を見つめたまま、唇をゆっくり這わせていく。
首筋、鎖骨、乳房、腹部……そして脚の内側へ。
指先と舌が、やさしく、焦らすように灯を溶かしていく。キスの合間に囁かれる言葉が、灯の心をじわじわと蕩かしていく。
「ここが気持ちいいんだね……もっと震えて」
「誰に何を言われても、私はあなたをこんなに愛してる」
灯は涙を流しながら達した。
それは悲しみではなかった。しおりが自分の全部を受け止めてくれる、その安心と快楽の先にある幸福だった。
―4―
バスローブに包まれて、ふたりは窓辺に並んで座った。
冬の街灯が静かに瞬いている。灯は、自分の手の甲に残るリボンの跡をそっとなぞった。
「私ね、学生のとき、“気持ち悪い”って言われたの」
「……」
「好きな子ができて、その子に告白したら。次の日から、机に花が生けてあった。死ねって書かれた紙も、教科書の間に挟まってた」
しおりが、灯の手を握りしめる。
「それでも私は、誰かを好きになることをやめなかった。怖かったけど……誰かを諦めたくなかったの」
「……灯は、強いね」
「強くなんてないよ。ただ、しおりに出会えたから。私を“気持ち悪くない”って、思ってくれたから」
「そんなの、当たり前じゃん。灯は、すごく……かわいいし、綺麗だし、優しいし……」
しおりの声が震える。
「……私が守りたいんだよ。灯のこと、ちゃんと」
ふたりは、額を寄せ合って小さく笑った。
―5―
数日後。しおりは、実家へ久しぶりに帰省していた。
姉と顔を合わせたのは、数年ぶりだった。
「今、付き合ってる人とかいるの?」
「……うん。いるよ」
「へえ、また女の子?」
「またって……別に、“遊び”でやってるわけじゃないよ」
「まだそんなこと言ってんだ。いつまで“女ごっこ”してるの? もう三十路でしょ」
その言葉に、しおりは静かに目を伏せた。
灯の顔が脳裏に浮かんだ。
泣きながら「しおりが好き」と何度も繰り返していたあの夜。
あの言葉を、あの瞳を、裏切るようなことは絶対にできない。
「……私はね、誰よりも真剣に、その人のことを愛してる。あなたに認めてもらわなくても、私の愛は変わらない」
姉は、しばらく黙っていた。
そして、ため息をついたまま、それ以上は何も言わなかった。
―6―
その夜、灯の部屋を訪れたしおりは、バッグから小さな箱を取り出した。
「これ……渡そうか迷ったけど。開けてみて」
灯がそっと蓋を開けると、そこにはシンプルな鍵が一つ、入っていた。
「うちの合鍵。もう、ずっと一緒にいない? 私たち……住もうよ、一緒に」
灯は、ゆっくりと顔を上げた。
そして、ふわりと微笑んで──涙をこぼした。
「うん……うん、私、あなたと生きていきたい」
「じゃあ、もう誰にも遠慮しなくていいね」
「ううん。むしろ、あなたに愛されてることが誇りなの」
灯は、しおりの胸に顔を埋めた。
その手には、合鍵がしっかりと握られていた。