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【完結】キスの続きを、まだ知らないままで。  作者: 泉水遊馬
【第7章:「名前のない痛みを、あなたと越えて」】
17/32

7-1

―1―


 冬の終わりが近づいていた。街はまだ灰色の空気を纏っていたが、どこかに春の匂いが混ざり始めていた。灯は、仕事帰りのオフィス街を歩きながら、肩に重くのしかかる疲労を感じていた。


 今夜もしおりの家へ行く予定だった。


 それだけが心の支えだった。


 灯の部署では新しいチーム体制が始まり、数人の異動があった。その中に、いわゆる“軽口が多い”男性社員がいた。本人は悪気がないつもりなのかもしれない。でも、彼の口からふとこぼれる言葉が、灯の心をじわじわと蝕んでいた。


「海野さんって、なんか……女同士で遊んでそうだよね」


「趣味でやってるだけでしょ? 結婚願望とかないんだ?」


 笑いながら言われるその軽さが、たまらなく苦しかった。


 自分がどう生きて、誰を愛するか。それは“遊び”なんかじゃない。灯にとって、それは生きるすべてだった。


 でも、言い返せない。

 反論したら、「図星だった?」とでも言われそうで、ただ俯いて笑ってみせるしかなかった。


―2―


 しおりの部屋は、いつものように静かで、温かく迎えてくれた。


「おかえり。今日は……顔色がよくないね」


 灯は、しおりの言葉に堪えきれず、そのまま彼女の胸元に顔をうずめた。


「……何も言われてないのに、全部透けて見えてるみたい。ほんと、ずるい」


 しおりは笑わなかった。ただ黙って、灯の背中を撫でてくれた。


 何も言わなくていい。ただ触れていてくれる、それがどれほど救いになるかを、灯はもう知っていた。


―3―


 その夜、ふたりはゆっくりと身体を重ねた。


 灯がベッドに仰向けになると、しおりがそっと彼女の手首にリボンを結んだ。


「怖かったら、すぐに言って。やめるから」


「……ううん。縛られてる方が、安心するかも」


 目隠しはしなかった。

 代わりに、しおりはじっと灯を見つめたまま、唇をゆっくり這わせていく。


 首筋、鎖骨、乳房、腹部……そして脚の内側へ。


 指先と舌が、やさしく、焦らすように灯を溶かしていく。キスの合間に囁かれる言葉が、灯の心をじわじわと蕩かしていく。


「ここが気持ちいいんだね……もっと震えて」


「誰に何を言われても、私はあなたをこんなに愛してる」


 灯は涙を流しながら達した。


 それは悲しみではなかった。しおりが自分の全部を受け止めてくれる、その安心と快楽の先にある幸福だった。


―4―


 バスローブに包まれて、ふたりは窓辺に並んで座った。


 冬の街灯が静かに瞬いている。灯は、自分の手の甲に残るリボンの跡をそっとなぞった。


「私ね、学生のとき、“気持ち悪い”って言われたの」


「……」


「好きな子ができて、その子に告白したら。次の日から、机に花が生けてあった。死ねって書かれた紙も、教科書の間に挟まってた」


 しおりが、灯の手を握りしめる。


「それでも私は、誰かを好きになることをやめなかった。怖かったけど……誰かを諦めたくなかったの」


「……灯は、強いね」


「強くなんてないよ。ただ、しおりに出会えたから。私を“気持ち悪くない”って、思ってくれたから」


「そんなの、当たり前じゃん。灯は、すごく……かわいいし、綺麗だし、優しいし……」


 しおりの声が震える。


「……私が守りたいんだよ。灯のこと、ちゃんと」


 ふたりは、額を寄せ合って小さく笑った。


―5―


 数日後。しおりは、実家へ久しぶりに帰省していた。


 姉と顔を合わせたのは、数年ぶりだった。


「今、付き合ってる人とかいるの?」


「……うん。いるよ」


「へえ、また女の子?」


「またって……別に、“遊び”でやってるわけじゃないよ」


「まだそんなこと言ってんだ。いつまで“女ごっこ”してるの? もう三十路でしょ」


 その言葉に、しおりは静かに目を伏せた。


 灯の顔が脳裏に浮かんだ。

 泣きながら「しおりが好き」と何度も繰り返していたあの夜。


 あの言葉を、あの瞳を、裏切るようなことは絶対にできない。


「……私はね、誰よりも真剣に、その人のことを愛してる。あなたに認めてもらわなくても、私の愛は変わらない」


 姉は、しばらく黙っていた。

 そして、ため息をついたまま、それ以上は何も言わなかった。


―6―


 その夜、灯の部屋を訪れたしおりは、バッグから小さな箱を取り出した。


「これ……渡そうか迷ったけど。開けてみて」


 灯がそっと蓋を開けると、そこにはシンプルな鍵が一つ、入っていた。


「うちの合鍵。もう、ずっと一緒にいない? 私たち……住もうよ、一緒に」


 灯は、ゆっくりと顔を上げた。

 そして、ふわりと微笑んで──涙をこぼした。


「うん……うん、私、あなたと生きていきたい」


「じゃあ、もう誰にも遠慮しなくていいね」


「ううん。むしろ、あなたに愛されてることが誇りなの」


 灯は、しおりの胸に顔を埋めた。

 その手には、合鍵がしっかりと握られていた。



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