迷宮の森の殺人
「それで、ご主人が失踪されたのは、いつ頃です?」
と、鏑木が訊いた。向かいのテーブルで、きちんと腰を下ろした妻の由紀子は、木製のブレスレットをつけた片手に握った封筒をじっと見つめながら、
「一昨日ですわ。突然のことで、私、気が動転して。それでも、何かの間違いだろうと思って、気を沈めていたんですが、今朝になって、こんな手紙が、届いたんですの」
そう言って、由紀子は手にした封筒を鏑木に差し出した。鏑木は、慎重に封を開けると、中から、一枚の白い便箋を取り出した。そして、改めて封筒をよく観察した。
「郵便局の消印や切手はありませんね。直接、ポストに投函されたらしい。差出人の名前もない。怪しいですね。中を拝見しますよ」
中の便箋には、定規で引いたような機械的な文字でこう書かれてある。
「この世がつらくなった。皆には、悪いが、僕は消えてしまおうと決意した。すまない。こんな僕を許してくれ。 浩一 」
鏑木慎一郎は、しばらく黙って文面を見つめていた。その後で、
「これ、浩一さんの筆跡ですか?何だか、直線で書いたような文字ですが?」
「いいえ、違います。そんなことをする主人じゃありません。きっと誰かが真似て書いたんだと思いますわ」
その時、ふたりは、由紀子の居間にいた。彼らの住む、この洋館は、3階建ての西洋風建築の大邸宅である。その3階の一番右端に由紀子の居間があったのだ。
「こんなこと、ご相談出来るのは、私の知り合いの中でも、鏑木さんだけなんです。ぜひ、お願いします。主人の行方を調査願えませんか?」
「弱ったなあ、僕も探偵ではないものでねえ?お力はお貸ししたいのですが?」
そう言って、鏑木は席を立ち、外の空気を吸おうとして、部屋の窓辺に立った。外の景色は、荘厳な趣があった。少し離れたところに、切り立ったような断崖があり、その遥か下は、深々とした森になっていた。
「迷宮の森と言いますのよ。あの森は」
と、由紀子が察知して声をかけてきた。
「一度、入り込んだら、決して生きて出てくることはない。恐ろしい森ですわ」
鏑木は、大きく深呼吸して、外の新鮮な空気を吸い込んだ。気分がリフレッシュされる。
その時である。
窓から見える断崖の上に、ふたつの人影が映った。小さくて、よく分からない。しかしである。
そのひとつが、やがて、ぐらりと揺れて、そのまま、まっ逆さまに崖の下に落ちていく。墜落である。
鏑木の顔が、硬直した。その様子を知ったのであろう。由紀子が駆け寄ると、窓の外を見たが、もう事のあとであった。
「何ですの?どうかして?」
鏑木は、しばらく黙っていたが、それから、しばらくして、
「ちょっと、待って下さい!」
驚くべき事が起こった。断崖の上の残った人影が逃げ去るように駆けて消えていったのだ。
「これは大変だ!何かの事件があったようですよ。すぐに警察へ連絡しないと」
「今の逃げていく人、何ですの?いったい、何が?」
そのまま、由紀子は、まるで全身の力が抜けたように、椅子にへなへなと、座り込んでしまった。
鏑木は、携帯を取り出すと、警察に連絡して、場所と、今までの経緯を説明して、電話を切った。
「お母さん、..............、あれ、お客さん?」
扉が開いて、真面目そうな背の低い好青年が現れると、部屋の彼らを見て言った。
「あら、登志雄、何か用なの?」
「そろそろ、お昼だよ。それに、猛夫兄さん、知らない?」
「さあ、どこかしら?あたしなら、すぐに行くわ、待っててちょうだい」
「うん、分かったよ」
扉がしまった。鏑木が、
「お食事なら、どうぞ。僕は、警察からの返事次第で、出掛けなくてはなりませんからね」
「そうですか?それじゃあ、遠慮なく、お昼にさせてもらいます。この部屋は、どうぞ、ご自由に」
そして、妻の由紀子は出ていった。しばらくの間、肘掛け椅子に座って、鏑木は黙考していた。すると、再び、部屋の扉が開いて、初老の、小柄で、抜け目なさそうな男が現れると、
「奥さん?、..............、おや、あなたは?」
「僕は、鏑木と申します。奥さんから調査を受けて参りました。それで、失礼ですが、あなたは?」
「わしは、医師の鷲尾と言いましての。ここの客ですわ。ちょっと、内密の話がありましてな」
と、にやにや笑いを浮かべると、
「そうか、もう、降りていかれたか?それでは、わしも」
そう言って、彼も消えていった。再び、静寂が戻った。
電話が鳴った。警察からだった。
「ええ、僕です。............、はい、...........、はい、...............、今からお伺いします、どうぞ、よろしく」
電話を切ると、さっそく、彼は、身支度をして部屋を出る。廊下を抜けて、玄関へと向かう。彼は、これから、問題の崖の下の森へ行く所なのだ。
「これは、殺しですな。いや、今回も、鏑木さんのおかげですな。死体が発見できましたよ」
彼らは、森の外れ、断崖の真下にいた。辺りは、うっそうとした木々に囲まれている。死体は、崖の下の樹の枝の上に乗っていたらしい。周囲は、鑑識の連中で混雑していた。ツルツル頭で、痩せた匂坂警部が、いつもの疲れた顔つきで、
「今回は、鏑木さんの目撃のおかげで、迷宮入りの行方不明の事件に終止符が打てましたよ。ありがとうございます」
「それで、被害者は?」
「胸の中央辺りをナイフでひと刺しですな。たぶん、鏑木さんの目撃から行くと、ナイフで刺し、崖の上から死体を投げ落としたんでしょう。殺人を迷宮入りにするためにね。被害者は、所持品から、品川浩一、46歳、あの洋館の主人と、判明しました。品川浩一と言えば、アパレル業界では知らぬ者のない第一人者ですからな。それで、なぜ、鏑木さん、事件を目撃されたんです?」
鏑木は、先刻の経緯を警部に説明した。警部は、納得して、
「で、これから、どうなさるおつもりで?」
「とりあえず、奥さんに報告してきますよ。また、何かの情報があれば、ご報告しますよ、では、また」
品川家の昼食は、賑やかであった。由紀子の親友で、女優の榊原はるかが、皿にミートローフを盛り付けながら、
「でも、由紀子、心配よね。ご主人、早く見つかるといいけど。でも、あの人の事だから、けろっとして帰ってくるんじゃないの?」
「なら、いいんだけども」
それまで、野菜スープを飲んでいた娘の理香子が、器を置いて、
「突然に消えちゃうようなお父さんじゃないのに」
と、上を見上げた。遅れて帰ってきた息子の猛夫が、ナプキンを取ると、立ち上がり、
「何だか、今日は食欲がないよ。部屋へ帰る」
と言い残して、食堂を出ていった。隣の席にいた顧問弁護士の守屋芳郎が、残念そうに、
「どうも、猛夫君は、気の荒いところがあるな、もう、いい年なんだから、大人にならないと」
次男の登志雄は、黙って食事をしていた。真面目な青年である。
そこへ、遠慮がちな態度で、鏑木が皆の前へ姿を見せた。どうも言い出しにくいらしい。
「それで、どうなりましたの?あの事件?」
と、由紀子が訊いた。
「それが、あの」
「さあ、遠慮なく、おっしゃって」
「はい、今、森の中でご主人の死体が発見されました。どうやら、他殺のようです」
由紀子が気を失いかけたようだ。それを、隣の鷲尾医師が支えて、何とか取り直したらしい。
「父さんが殺された?誰に?」
と、登志雄が真剣な口調で言った。
「それはまだ。皆さんのお気持ち、お察し致します。ああ、奥さん、どうされました?」
「私、部屋で休んで参ります。どうぞ、皆さん、寛いで下さい」
そう言って、由紀子は食堂をあとにした。
見ると、鷲尾医師がにやにやと笑っている。不敵な奴だな、と鏑木は思った。
誰もいなくなった食堂に、理香子と鏑木のふたりが残った。鏑木は、濃い珈琲を飲みながら、優しく、理香子に、
「ショックかな、理香子君」
と、尋ねた。理香子が、
「ううん、もう直った。誰だっていつか死ぬもの。でも、誰に殺されたんだろう?」
「君に心当たりはないの?」
「さあ、お父さんの事、あたし、知らないから。でもさ、この家の中じゃ、色々とあるのよ。特に、猛夫兄さんと、お父さん、あまり仲が良くなかったから。皆も知ってるわ。しょっちゅう、喧嘩ばかりしてたもん。でも、登志雄兄さんとお父さんは、何だか馬があってたみたいね。よく一緒にドライブ行ったりさ。兄弟でも違うみたい。性格かな?」
「君はどうなんだい?」
「あたしは、お父さん、大好きよ。あまり話す機会はなかったけどね。だって、お父さん、社長してたでしょ。忙しいらしくて、いっつも飛行機乗って、出張してたんだもん。どうしようもない」
そこへ、女優の榊原はるか、が、現れた。彼女は、青い顔をして、その場に突っ立っていた。首には、ルビーのネックレスをつけている。片手に、1本の血まみれの細身のナイフを持っていた。
「榊原さん!」
その鏑木の声で我に返ったらしい。急に、真剣な様子で、
「ああ、あなたでしたのね?これ、さっき、あたしの部屋のクローゼットで見つけましたの。これですかしら?事件に使われた凶器は?」
「ちょっと、拝見しますよ?................、どうやら、そのようですね。このナイフに見覚えは?」
「そうですわね、確か、1階の浩一さんの居間に、壁一面、コレクションの短剣が並べて飾られてありましたから、そこに似たのがあったかもしれませんわね。でも、何であたしの部屋のクローゼットに置いてあったのかしら?」
「これは、お預かりしますよ。至急、鑑識に回しておきますので」
榊原はるかは、体格がよく背も高い女性である。男並みの体力もありそうだ。
「それで、はるかさんは、なぜこの館へ?」
「あら、ご存じないの?今回は、浩一さんのお誕生日パーティーですのよ、年に一回のね。でも、そんな時に殺されるなんて、浩一さん、ついてないわね?」
鏑木は思った。となると、そんな状況で、突然にあんな置き手紙を残して、失踪する彼の気持ちが分からない。何故だろう?
笑顔で、鏑木は、
「あなたの主演された「赤い薔薇の女」、拝見しましたよ。見事な悪女ぶりですね。たいした演技力をお持ちでおられる」
すると、榊原はるかは顔を赤らめて、
「ありがとうございます。でも、あれは、すべて監督の指導ですわ。そのおかげです。役者なんて、いわれた通りに動くだけのマネキン人形みたいなものですわよ、ふふふっ」
とは言うものの、彼女もまんざらではないらしい。すっかりと気分も直っている。
「で、あなたは?」
「僕は鏑木と申します。奥さんに依頼を受けたんですが、こんな事になってしまいましてね」
「鏑木さん、映画がご趣味?」
「いえいえ、残念ながら。読書なんです。本はいつも持ち歩いているんですがね。特に奇術の本とか、古本屋の本棚に首、突っ込んで探してますよ、笑えますね?」
食堂の扉が開いて、落ち着いた様子の由紀子が姿を見せた。
「おや、奥さん、もう気分は戻られましたか?」
「ええ、お陰さまで。ねえ、百合子、ちょっとお話に付き合ってよ?何だか寂しくなって」
「すぐ行くわ。由紀子のためなら、食事だって付き合うわよ!」
どうやら、百合子というのが、はるかの本名らしい。そして、ふたりは、揃って部屋を出ていった。
「綺麗よね、はるかさんって。憧れちゃう、あたしも女優になろうかしら?」
理香子が笑って言った。彼女の手に持ったテディベアのポーチが揺れた。鏑木が、
「僕、これを持って、警察へ行ってきます。どうぞ、理香子さんはごゆっくりと。紅茶でも飲んでいて下さいな」
「ありがと」
鏑木は、屋敷を出た。外は、やや寒い。彼は、上着の襟を立て
て、下り道を急いだ。
やがて、前を歩く守屋弁護士に追いついた。
「おや、あなたでしたか?確か、守屋弁護士でしたね。で、どちらへ?」
「ああ、探偵さん。いや、なに、下の町まで、ちょっと事務所の同僚と会いに行くところですわ。厄介でね、弁護士稼業ってのは。それで、あなたはどちらへ?」
「僕は、事件の証拠物件を届けに地元の警察まで行くところです。それに、警部さんともちょっとお話ししたくてね。じゃあ、急ぎますので、これで」
守屋弁護士と別れて、鏑木は、やがて下町の警察署の扉を潜った。
1階の手狭な面会室に、苦り切った顔をした匂坂警部が、腕を組んで、部屋の中をウロウロと歩き回っている。そわそわしているようだ。
「どうかされました?警部さん?」
「進展がなくてね。事件の手がかりもないものだから、これから、品川家に乗り込んで、聞き出そうかと思ってたところです。ところで、鏑木さんは?」
「見つけましたよ、殺人の凶器」
そう言って、鏑木は、例のナイフをハンカチで包んだものを警部に差し出した。
「これをどこで?」
「女優の榊原はるかの部屋から見つかったそうです。どうも、犯人があの館を暗躍してますね」
「そうですか?それじゃあ、これから、御一緒に品川家へ参りますかな?」
ふたりは、車に乗り込んで、一路、品川家の館へ向かった。
到着すると、さっそく匂坂警部は皆に自己紹介してから、2階の大広間を借りきって、関係者を順に事情聴取した。その間に、鏑木は、プラリと表に出ると、時間があるのを幸いに、邸宅から問題の崖まで、出掛けてみることにした。ぐるりと回り道をして、屋敷から15分ほどで、断崖の淵までたどり着いた。見ると、誰か、崖っぷちで一人でたたずんでいる。それは、妻の由紀子であった。彼女は、黒いロングコートに紅い毛糸のマフラー、白い手袋をして崖のほとりにいた。鏑木が近づくと、振り向いて、寂しそうに微笑んだ。
「冬の海は、厳しいですわね。波が荒れて、北風が吹きつけて。ここで、主人、亡くなったんですのね。まるで夢のようで、現実と思えませんわ。主人は、ここで刺し殺されて、ここから、崖の下に投げ落とされた、まるで荷物か何かのように。....................、まだ、犯人の手がかりは見つかりませんの?」
「いやいや、今回の事件には、僕も手こずりますよ。警部さんも苦労しているようで。奥さん、何か、犯人に心当たりは?」
「さあ、どうでしょう?でも、細身のナイフなら女性でも扱えますのね?ああ、恐ろしい。こんなことが、この館で起こるなんて」
「あなたは、もう警部の事情聴取は受けられたんですか?」
「ええ、先ほど。警部さん、どうやら、息子の猛夫を疑っているようですわね?あたしから、猛夫の事、根掘り葉掘り、聞き出して。嫌ですわ。自分の息子が疑われるなんて。鏑木さんにはお分かりになりませんわね?」
それから、ふたりは、しばらく世間話をして、揃って館へ戻った。
玄関では、仕事から戻った守屋弁護士が、着ていた赤いトレンチコートの汚れを落としていた。綺麗好きらしい。彼は、鏑木の顔を見て、今、同僚と喧嘩別れしてきた所なんだと、興奮したように愚痴をこぼしていた。
館では、匂坂警部が鏑木を待っていた。匂坂警部が言った。
「今、地元の鑑識から分析結果の連絡を受けましてね。例の細身のナイフ、ごく少量の赤い繊維が付着していたらしいんです。彼らによると、手袋の繊維でもついたんじゃないかっていうんですがね。それと、ナイフの出所なんですがね。やはり、浩一のコレクションでした。壁から、1本、盗まれてましたよ。殺人犯の仕業でしょうな。やはり、内部犯行の可能性が高いようですよ」
それから、仕事をひとまず終えたのか、警部は館から帰っていった。
「そこのビーフソテーのパイ、取ってくださる?」
と、榊原はるかが、守屋弁護士に言った。
「この赤ワイン、何だか酸味がきついね?」
と、鷲尾医師が不満そうに酔いながら言った。
それまで、シーザーサラダを食べていた登志雄がフォークを置くと、
「ねえ、さっき、警部さんに訊いたんだけど、お父さん、自分のコレクションのナイフで殺されたって本当?犯人の奴、残酷だな、許せない」
由紀子が話題を変えるように、はるかに、
「ねえ、今度の新作、いつ上演されるの?」
「来年の春頃かしら?次は、あたしが初挑戦の時代劇なの。結構、頑張ったのよ。重かったわ、鬘が」
鷲尾医師がニヤニヤして、
「色っぽいヌードシーンでも御披露ですかな?ふふふ」
これを無視して、はるかが、
「由紀子、絶対に見に来てよ。チケット渡すからね」
「はるかさん、主演何作目の映画なの?」
と、理香子が真面目に訊いた。
「今回で16作目よ。でも、理香子ちゃんにあの映画はまだ早いわね?」
「おあいにくさま。あたし、こう見えて、もう23歳よ。立派な大人ですからね」
「あら、ごめんなさい。そうとは知らずに」
その時、酔ったようにフラフラと鷲尾医師が立ち上がると、
「よろしいですかな、皆さん。ここで、ひとつ、このわしが、ここにいる誰かさんにとっては気になる話題をひとつ、聞かせてご覧にいれよう。もしもですな、仮にですぞ、もしも、あの事件の時に、偶然にも、このわしが、殺人の現場にバッタリと居合わせたとしたら、そしてですぞ、その犯人の顔を見てしまったとしたら、さあ、どうですかな?、そして犯人も気づいていなかったとしたら?今の今まで?さあ、どうです?面白いでしょう?ふふふ」
あまりの発言に、一同は黙り込んだ。隅の席で、食事していた鏑木が、思わず喉にトーストを詰まらせて、咳き込んでいた。
「何が言いたいんです?鷲尾さん!」
と、猛夫が剥きになって叫んだ。
「まあまあ、怒らないで、猛夫さん。皆さん、そろそろ食後のお茶はいかがかしら?」
と、穏やかに由紀子が言った。皆はお茶を楽しみ、何気ない世間話に花を咲かせて、時刻も遅いということで、それぞれの部屋に戻っていった。
翌朝である。朝の館の静寂を破って、突如、理香子のけたたましい悲鳴が上がると、皆が驚いて、部屋を飛び出してきた。
「おじさまが、..........、おじさまが、................、ベッドで殺されてる!」
一同が、鷲尾医師の寝室に駆け込んだ。
彼は、ベッドに横たわり、胸を真っ赤な血で染めて死んでいた。凶器は、どこにも見当たらなかった。
「すぐ警察に連絡しましょう」と、鏑木が携帯を取り出しながら言った。
「あたし、朝食の支度ができたって、一番におじさまを起こしに行ったら、................、そしたら、.................、そしたら、..........」
皆で、興奮している理香子をなだめにかかっている間に、鏑木は、死体のあるベッドのそばの床から奇妙なものを発見した。それは、木で出来た、ごく小さな球であった。何だろう?とりあえず、鏑木はそれを拾い上げてポケットに納めた。
鷲尾医師の寝室がある2階は、警察の人々で右往左往していたので、その喧騒を逃れて、鏑木は、1階の食堂で静かに珈琲を味わっていた。そこへ、疲れきった顔をした守屋弁護士が現れると、テーブルに就いてため息をついていた。ふたりとも無言であった。やがて、思い出したように守屋弁護士が口を開いた。
「やはり、昨晩の口封じですかな?どう思われます?」
「おそらく、本当に鷲尾医師は、犯人の顔を見たのだと思いますよ。それで、それに感づいた犯人の手で、刺されたんでしょうね」
「いや、恐ろしいものだ。彼も下手なことを言ってしまったものだねえ」
そして、次の言葉を続けようとした時、食堂の扉が開いて、緊張をした顔の由紀子が、手に血だらけのナイフをぶら下げて立ち尽くしていた。彼女は、ゆっくりと手のナイフを持ち上げて、ふたりに示した。
「これ、私の部屋で見つけましたわ。いったい、どういうことですの?」
「部屋のどこにありました?」
と、鏑木が訊いた。
「クローゼットのなかです。いつ、誰が、こんなものを?」
「またですか?」
「また?どういう意味ですの?」
「いいえ、何でもありません。ごめんなさい。すぐ警部に伝えておきましょう。お貸しなさい?」
由紀子からナイフを受け取ると、よく観察した。前と同様に、細く鋭く刃の長い短剣であった。
そこへ、都合よく当の匂坂警部が姿を見せて、彼らに言った。
「調べたところでは、やはり、凶器は浩一さんのコレクションの短剣と思われます。また1本、壁から消えていましたよ。おや、鏑木さん、そのナイフは?」
「由紀子さんが発見しましたよ。部屋にあったそうです。たぶん、凶器はこれだと思いますよ。どうぞ、鑑識の方へ渡しておいて下さいな」
鏑木は、ナイフを手渡した。警部は受け取ると、鏑木に、
「で、鏑木さん、実際のところ、どうなんです?もう、犯人の見当はとっくについてらっしゃるんでしょう?」
「いやあ、弱ったなあ.............」
鏑木は、慌てたように、カップに残った珈琲の残りを飲み干した。その様子を由紀子と守屋弁護士のふたりが見守っている。
「少しの間、お時間をいただけませんか?ちょっと、ひとりで考えてみたいと思うんです。事件の整理をしたくて。では、失礼して、僕は、これで」
そう言うと、鏑木は3階の自室へ戻っていった。
机に向かい、鏑木は集中して思考していた。何か、おかしい。どうも、矛盾して仕方がない。何故なんだろう?
机の上には、一冊の大きな書物が置かれてある。表紙には、「カード奇術のメンタリズム」とある。鏑木は、書物に手を置き、しばらくボンヤリと物思いに耽っていた。そして、その視線は、再び机に戻された。机には、ふたつの小さな砂時計が並んで置かれている。それを彼はじっと凝視していた。
「そうか!..............、そうか!............、そうだったのか」
砂時計から、何か閃いたらしい。そして、部屋の中を腕を組んで歩き回っていたが、頭の中が整理できたらしい。やがて、身支度を整えて、部屋を出た。
扉をノックした。
しばらくして、中から顔を見せたのは、やつれた顔の由紀子であった。
「今、お時間、ありますか?少々、お話ししたいことがありまして」
「ええ、どうぞ?」
由紀子の居間に入ると、鏑木は、どっしりと肘掛け椅子に腰を下ろした。由紀子も向かいの椅子に座った。
「何ですの?鏑木さん、お話しって?」
「由紀子さん、あなたが、ご主人と鷲尾医師を殺害したんですね」
すると、由紀子は無表情に、
「私が?いったい、何をおっしゃっているのか?....................」
「あなたは、僕と一緒に、この部屋の窓から、殺人の現場を偶然にも目撃した。そうでしたよね?それで、僕は、あなたを容疑の圏外にずっとおいていた。でもね、さっき、机に置いたふたつの砂時計で閃いたんです。つまり、この事件に関わっているのは、ひとりじゃない。ふたりだっていうことをね。それが、あなた、由紀子さんと猛夫くんです。
今から3日前、あなたは、あの断崖の上で御主人をナイフで刺殺した。その時でしょう。あなたの巻いておられた紅いマフラーの赤い繊維がナイフに付着したのは。そして、不運にも、その現場を偶然、通りがかった鷲尾医師に目撃されて、あなたの顔も見られてしまった。それとも気づかずに、あなたは、現場の崖から逃げていった。それから、2日が経ち、その日の朝になって、あなたの息子の猛夫くんが、たまたま崖まで散歩に来て、浩一の死体を発見した。猛夫くんは思った。このまま、死体が発見されたら、一番に疑われるのは僕だってね。浩一さんと仲が悪いのは評判でしたからね。そこで彼は、死体隠蔽を考えた。父を行方不明にしてしまおうとね。それで、家に帰り、偽の置き手紙を作って、それを真犯人であるあなたへ、それと知らずに送りつけておき、また、崖の上に引き返した。そして、死体を抱えあげて、崖っぷちまで運び、そこから迷いの森へ投げ落とした。これで、死体も見つからずに、行方不明は成立する。ところが、その投げ落とす瞬間を僕に見られてしまい、事件が発覚したというしだいです」
「それで、何故、そもそも、私をお疑いになられたんです?」
「あなたの証言ですよ。あの崖の上で、あなた、僕にこうおっしゃいましたよね。「細身のナイフなら女性でも扱えますのね」と。でもね、あの時点で、凶器が「細身の」ナイフだっていうことを知っていたのは、発見した榊原さんとその場にいた理香子さんと、そして、そのあとの警部だけなんです。どうやら、あなたのミスでしたね」
「ふふふっ、それで?」
「そして、それで、事件は終わりを告げる筈でした。ところが、夕食の席で、突然にも、鷲尾医師があなたに暗に目撃したことを皆の前で公表した。これはまずい。あなたは思った。それで、仕方なく、あなたは、鷲尾医師の寝室に深夜、忍び込み、彼も刺殺した。その時に、刃先で、あなたのはめた手首の木製のブレスレットが切れて落ち、慌てて、木製の珠を拾ったが、拾い忘れたひとつを、あとになって、僕がベッドのそばの床から見つけたということです」
「じゃあ、クローゼットのナイフは?」
「ひとつは、あなたが、はるかさんのクローゼットに忍ばせておき、2番目は、あなたが被害者を装うために、自分で発見した振りをした。違いますか?」
由紀子は下をうつ向いてため息をついた。そして言った。
「鏑木さん、あなたには隠し事、出来ませんわね、ふふっ。でも、殺人の動機はお分かりかしら?」
「財産でしょう、浩一さんのね。彼が死ねば、その半分は妻のあなたに譲与されますからね。だれにでも欲はありますよ、あなたにもね」
「私、逮捕されたら、死刑かしらね?」
「さあ、それを決めるのは、裁判官ですからね。.................、で、どうされます?ご一緒に自首されますか?」
「そうしますわ。鏑木さん、私をエスコートしてくださる?」
「ええ、喜んで」
ふたりは、静かに部屋を出ていった。
だれもいなくなった部屋の窓から、殺しのあった断崖がそびえ立ち、その下を、迷いの森が深々と広がっているのであった...............。