第七章 異世界レストラン・なよ竹亭
第七章……異世界レストラン・なよ竹亭
モンスターブローカーのニウバ氏も連日のなよ竹亭来店だった。きょうは鯨の竜田揚げの注文はすでに通っていたのだが、すました顔でその皿には手を付けない。まず同席の女性に勧める。しかし、そのお相手の若いふたりはそれぞれ頼んだ甘い酒だけを口に運んでいる。小さくて丸くて底の浅い盃はいっぱいになったり減ったり盛んに往復するが、お嬢さん方もまたテーブルに並ぶ豪勢な海の幸にも手を付けなかった。それでもニウバさんに不満はないようで、こちらも手酌でやっている。
彼女たちは地元出身だったから、料理には関心を示さなかった。
観光用ではない、地元の人が食べる料理を楽しめる店を紹介してほしい、という口実に乗って同伴した昨夜のキャバレーのキャストたちだった。ニウバさんは昨日も奮発したが、その成果だった。
若い人が自分たちの食べたいものもちゃっかり追加でまぎれ込ませて適当に注文したんじゃないか……オッサンがそう思ってしまうのは、揚げ物のソースがまず昨日とはちがっていたからだ。交易品で作るものも港街ハッダンだから名物と呼ぶのかもしれないが、キウイフルーツのサルサはもっと南国のイメージで、黄色い色がこれまたデザートのようで、場違いな気がしないでもない。若いふたりは、ソースとかタレとかよりもシロップと呼びたくなるようなそれをなまり節につけて食べた。白く濁った東の国の名産の甘い酒に、それをつまみにするのだった。
その地味な見た目のツナの出来損ないのような、なまり節というものもニウバさんは初めて食べた。無造作に切り分けられた魚の柵の表面が灰色がかった色になってて、それが薄くスライスされただけ。火が通って、身の表面にはところどころ少しめくれ上がるように割れている部分もあるのが、チャンクという感じ。素材のもとのいわゆる筋肉の形に並んで、でも、色実が悪くて刺身の出来損ないと言われそうな……ここで出される「たたき」という刺身の一種は、表面だけが焼かれ、身は焼かれたその皮一枚のようなところ以外まるきりレアだった。あっちは青い薬味やらニンニクやらショウガやらが肝心の魚が隠れるほどてんこ盛りで大量に添えられで、つける醤油も甘いのや酸っぱいのを混ぜたのやら数種類の小皿が付いてきた。が、なまり節は同じ皿の端っこにマヨネーズがにゅるっと塗りたくられただけ。で、ご飯と一緒に出てきた。もしかすると寿司の原始の姿だったり、あるいは成れの果ての家庭向けの亜流だったりするのだろうか? 魚を生で食べる文化は東の戦士の国からと、つとに聞く。この宿もその伝承された味と、魔法とが名物だった。とにかく、出されたままにご飯に乗せて食べてみると、果せるかなこれがツナマヨよりも断然うまい。
茹でるので色は白っぽくなる。まず焼き目を付けてから、などという手間もかけてないので、見栄えの悪い灰色になってしまっている。手を加えないゆえに、よりレアな、生食に近い食感になるが、かわりに日持ちはしない。もっとさまざまに加工したほうが商品として扱いやすくなるが、そうしないし、だからあまり作られない。よって市場には出て来ない。缶詰のツナのほうがポピュラーなのはしかたないだろう。
ニウバさんはふたくち目は、ふたりにならって甘いソースで試してみた。それから表情を変えないまま、
「なるほど」と言った。
今度は、鯨以外も豪勢に盛られたフライのうちから白身魚らしいのをよくある長細い形から推測して小皿にとり、サルサソースを気持ち少なめにかけてみた。こっちは不思議に合うようだった。そのあと、フライの山の下敷きや添え物になっている葉物を手で取ってサルサをすくうように付けて食べてみる。やっぱりこれが一番しっくりくる。
「スイートチリソースみたいに思えばいいのよ」背の低いほうの女の子ダランが、ニウバさんの一連の流れを見てそう言った。
「なるほど」と今度は納得するニウバさんであった。
「え~、スイートチリでもパイン入ってるやつあるじゃん。あれとはだいぶ違わない? あっちのほうがフルーツ感強くてもソースになるじゃん?」やっぱり地元でも最近出てきたメニューのようで、ふたりで揉めている。ニウバにとってここは定宿でレストランも常連だったが、これらの料理は今まで知らなかった。特にソースのほう、きのう出なかったのは、竜田揚げには生姜味が付いてるからだろうが、メニューにもなければそれ以前も見たことがなかった。初めての味なので、この店も初めてという顔で食べている。
フルーツにこだわってそうなもう一人のラピイイワは、細面のそれでいてちょっと目の離れた顔をこれまた細い肢体に載せた長身の女性。こだわってる割りには、昨日キャバレーで出てきたフルーツ盛り合わせは、王都でも出て来そうなよくあるものだったが。
今どきの若い人は、単に高価であるとかブランドであるだけでは欲しがらないというのではなく、欲しいものがないとよく言われる。
それでも、ひとこと言いたい場合もあるようで、これも甘みが特徴の東の戦士の国特産の濁り酒に変更したダランが、小さな身体でぐいぐい行きながら反論した。
「スイートチリなんて甘くてニンニク入ってりゃ同じような味するじゃん。パイン入りなんて買ってるのラピちゃん? ならフルーツのソースでよくない?」
「生春巻きのなかにフルーツ入ってるのもあるね。でもアレあたしきらい」
「パイン入りは好きなのに?」
「パインはいいの、サルサも黄色いし。あとパインパンも好き」パインは細かくなってればスイートチリのニンニクのみじん切りにまぎれるという細かい話もすれば、いきなり話題は飛んで、
「パインパン、あったあった懐かしい。子供のころ食べたよ。レーズンパンとはちょっと違うんだよね。おいしいんだよね」
「菓子パンがいいんならスイートチリもいいじゃん」
ラピイイワも揚げ物に手を伸ばす。お菓子でありながらパン。ソースでありながらフルーツの存在感。魚のフライのぷりぷりな食感は肉を焼いたものに近くなっていて、魚でありながらパインは入ってないながらも似たような色のソースに合わないこともない。つまり、なまり節のようなレア感はなくなっても、まあイケる。そんな複雑な顔はしないで食べている。
「あんたがいいんならいいよ。たださ、パインパン懐かしいけど、酢豚にパインは要る?」
「要る」
「要るのね。じゃあポテトサラダにリンゴいる?」
「え? ポテトにリンゴ? ヨーグルト味のフルーツサラダ以外にそんなのあんの?」
「ある」
「へ~、知らない」
神経質なのか、何なのか。見た目からは魚顔のラピイイワがそんな感じがするが、話はあっちこっち移って、主張を引きずったりはしない。
なんだかレストランで話題に出されてもそれを聞いて、ほら、と注文できなそうなものばかりで聞いててもしょうがないと思い始めたニウバさんも、麦酒から濁酒に変えることにした。盃は、自分の分もダランがもらってきた。
「おれも知らないよ。でも、やっぱりいろいろ意見は分かれるんだよね。こだわりって誰にでもあるからね。他人と比べてみたいなことがいやなんじゃないの。昔と比べてとか」
「なんの話?」
「いや、最近の若い人らは悟ってるなんて言われて、欲しいものもないって聞くから」
「だって、レストランに来たら食べたいもの頼むでしょ」
「うん、まあそうなんだけど、世代というか風潮というか、よく聞くからね」
キウイのソースが気に入ってるらしいラピイイワは箸が進む。
「みんなが同じものを欲しがるのがおじさんのころには当たり前だったの? 意見が分かれることはなかったわけ? そんなのおかしいって思わなかったの?」
世代でくくられるのは誰でもどの世代でも嫌だろう。
「そうよ、元がおかしかったのよ。みんなって結局、数だからね。押し切られてただけなんじゃない。銭にうるさい人は金持ちにさえなればなんとかなるって時のままなのよ。銭はあっても上級って言われない人なんていくらでもいるじゃん。ああいうのは今じゃなくてもどうかと思うんじゃない」
ダランも同意した。時代がおかしかったのに、その頃の人から今はおかしいって言われてもまともに受け取れないのだろうが、しかし、ニウバにしてみれば、今がまともになってるかどうかはまだしも、
「いやいや、確かにブローカーは銭を仲介にして増やすのが仕事だが、数字じゃないんだよ。例えば、わたしは1Gのものが一〇〇Gで売れるほうが、一〇〇Gが一〇〇〇Gなるよりうれしいんだよ。儲けは九〇〇Gのほうがだいぶ大きくなるけど、そういうもんじゃないんだよ」
「ええ~、そんなボロい商売してるんですか?」ダランは小さい身体ながら欲深いところもあるのか。
「ボロくないない。そんなうまく行くことなんか滅多にないよ。ほとんどは八〇Gのものが一〇〇も行かないでやっと売れるかってところさ」
誇張ではなく、儲けた自慢にならないようにするカムフラージュでもなく、ニウバさんは打ち明けた。
「そういうことなら、お店で高い酒呑むなんてバカバカしいんじゃない? 原価がわかるとおいしくないでしょ」
「君らが注いでくれれば美味いよ」
「でも、なまり節はマヨで食べてるし。そんでご飯にのっけてるし。それが一番おいしいけど、もうお酒も関係ないよね」
素っ気ないというか、色気も何もあったもんじゃない料理だから、そういう食べ方にもなってしまう。
郷に入っては郷に従えで、結局はそれが合うのだろうと思うが、そもそも黄色いフルーツのソースは揚げ物に付けるもので、その他は若い女性特有のアレンジではないのか。固形物の多いソースが別皿なのは、どっちの料理に添えられたものかは考えなくてよくて、フライのサクサク感を保つための出し方にすぎないのではないか。だが、わざわざ地元の人に聞くことでもなし。
彼女らに自分の盃にお酌を頼むのは、果たして飲み方として合っているのか。濁り酒もその陶器のマスキュラスな容器も、自分が呑む用の平べったい小さな入れ物も、マナーとしての所作は知ってるが、この場での判断がつかない。まだ酒のせいではない。
フルーツの盛り合わせ商法の否定とまでは承らないが……ラピイイワがそんな目で見てるような気がしてきた。
「だったら宝石なんかはどうだい。欲しいと思うだろ、さすがに」
「きのうも言ってたね。その胸のなんだっけ。あっ、昨日とは付いてる宝石が違う」興味がないようなことでも、その辺の認知は客商売ゆえに抜け目ない。
「ループタイだよ。そうなんだよ、きょうのはまあ普段着というか……ビジューは交換できるし、外せばこれ自体で使えるから」と、右手の人差し指で首元の宝石をいじり、左手の甲を指を開き気味にしてラピイイワのほうに向けたが、それが石を指輪にもできるというジェスチャーだとは気付かれなかった。石と共にネクタイに類するものを構成する二本の長いひもが少し揺れる。
「あんましてる人いないよね。この辺じゃ」と、暗にトレンドではないと匂わすダラン。が、流行っていないとまでは言わない気の遣いようであった。ループタイはともかく、衣装の良しあし、高級品やブランド品の知識は商売柄たくわえられていた。ループタイが首元を飾るシャツが真っ白なのはいいとして、生成りの薄手のジャケットはこの季節によくある色や形でも、良い布地を使っているのは見てとれた。
「王都でもいないわな。最近は何でも簡単、効率、コスパにタイパだから」と、ループタイをいじり続ける。これはネクタイパフォーマンスではなく、実利、コストパフォーマンスのことではあるのだが、そんな冗談は上級の人は言わずに銭にものを言わせる方法を採るわけで。
「そうだよねえ。じゃ宝石を買う人もいないんじゃない」
「それはまた話が違うんだよ。セレブが付けてるとなると売れるんだよ。君らもちょっと欲しくなるだろ?」
「普通に使ってる人がいないのにセレブでそんな人……いるのかもね? 逆に個性的ってことになるのかな。でも宣伝のためじゃないの?」ステマという用語はこの世界にはないが、その概念はある。商品があれば広告はあるし、その目的は違いをアピールすることになるから。
「あたし雑誌で見たことある、ジュエリー特集。でも、そういうのじゃなくて普通にネックレスだった。それで詳しい説明が載ってるのは服のブランドだけだったけどね」
ラピイイワが引っ掛かるような物言いをする。
「やっぱりスターが使ってるとメディアも取り上げるし、宣伝価値があるってことだろ」
「でもアクセだし?」装飾とは中身ではなく飾りだから、あんまり意味ないという話をしたはずだと少し眉を寄せたラピイイワに、
「まず映画スターって人が昔の話だし。最近あんま言わないよね」とダランが付け加えて、若いふたりは虚構やあこがれについてさえも同じように平板に語る。
「人気の人はいるわけだろ、売れてるから宣伝に駈り出されるんだろうし……」ただし、この世界にインフルエンサーはいない。この世界でも商品を扱うのは正規の業者だけでなく、ブローカーもいるが……。
「うちのお店だって人気ランキングあるんだけど……」
ニウバさんは、若い世代はのんびりしたもんだという思い込みから、その皮肉とも取れる機微はわからず、
「それはだって歌のランキングだろ」などと、ボーカル以外は誰だっていいみたいなことを言い出す。アマチュアバンドの人気のあるボーカルを引っ張って来ればあとは寄せ集めで何とかなるという古い芸能事務所の考え方に似て、若者は拒否反応。しかし露骨にはそれを出さない。
「クァンギちゃんも来てるね」
と、お店の二番人気、歌はもしかするとメロニーちゃんよりも評価が高いホステスの名を出した。
「そうだね」そらとぼけるニウバおじさんだったが、同伴できるならあっちのほうが良かったという雰囲気はにじみ出てしまっていた。別テーブルのノギュウ氏と彼女にはチラッと視線を送るだけにしたのだが。
それに対しても薄いリアクションのダランは、
「あたしらの歌は? 良いコーラスって評判なんだけど」と一回は自慢も入れながら、
「そのくらいはわかりますよ。お店の売りは君らも含めたショーなんだから。そういう評判が立つってことはタイプの違う歌姫に合わせたステージをやれてるってことだし、対応できるだけ歌のレパートリーもたくさんあるんだろうね」
「まあね、古いも新しいも今の時代にはないのは聞き手も同じだから、ちゃんと受け取ってくれるよね」と、謙遜はバブルラップのように欠かさず挟み込む。会話のクッションというより保護材であった。
「おれらの時代のヒット曲が生で聴けるのはいいよ」
デジタルネイティブには、コピーもオリジナルもないという。すべての時代の作品が入り混じっているように、劣化もないデジタルではノイズは回線の不調かおまえの操作ミスだけ、すべてが混淆した上、AIでの混濁は商売上というより効率のためにここでも行われた。いわく誰でもない作曲家にAIを使ってヒットチャートやレコード会社経由とは関係ない曲を大量に生産させる。それをプレイリストにしれっと混ぜる。元手は最小、品揃えは充実、ただし品質は度外視、そして儲けるのは自分たちだけという、インチキネットモールみたいなことはこの世界にもあるのだった。それでも、複製芸術などという揶揄が、価値でなく方法の時点で消え去っているし、カバー曲にも格だの商売っ気だのといったバイアスは無いのだった。まあ、パクリを認めないやつはいつまでもどこまでも知らんぷりなのであるが。
そんな輩はともかく、一方ではエンタメとしては夢の無い話であって、ニウバさんは、
「バズってないのが不思議だよ。君らだけでもダンス動画とか上げたりしないの?」
「逆に曲が難しくない?間口が広すぎて尺は短すぎて。やっぱ思い付きみたいなことに急に火がついてバーッてみんなやり出すから流行るんで、狙っちゃうとねえ……」
音楽のメロディーはすべて出尽くしたあとのようなあきらめが、やはりニウバさんにはすんなりとは飲み込めない。
「おれだってバズったことあるのに」
「おじさんが? またまたあ」
「まあ、おれじゃなくて、おれがある映画スターにプレゼントした腕時計が話題になったんだけどな」
「あらら」ダランは盃から酒をこぼしそうになって、口でフォローするように顔を前に出しながら言った。
ニウバは、それを自分のことでもないのに自慢のように話したことではなく、映画スターという存在に対する疑問と取った。
「知らない? 時代劇で高い腕時計が映ってたの」
東の戦士の国の風俗、文化を、彼の国でも現在ではなく遠い時代なのでよくわからないところもある逸話やそれに基づく創作によって、他国から見るとより情緒的により人間臭く、劇的に描いた映像作品が時代劇。だからこそ、高級腕時計のような現代のものが映り込んでいるのはおかしいのだ。
「裏話的な? ゴシップみたいな?」ラピイイワは盃も置いて話をつなぐだけになっていた。
「いやいや、実際に映ってたんだよ。映画館で見れたんだ。別に笑いは起きなかったけどね、そのときにはみんな知ってたし」
自分は知らないということをわざわざ言ってもしかたないから、
「ウケてもないのにバズったんですか?」と、ダランは事実を確かめる。
「その前に話題になったんだよ。スターさんもメディアにフィーチャーされるようになったしね」
その現象を知らない以上、原因や関係性まで疑うことはしないのがこの世代で、ニウバも話を続けやすい。
「だってダイヤをまぶしたようなキンキラキンの派手な時計だよ。派手なだけじゃなく黄色い輝きのカナリーイエローていう珍しいダイヤなんだよ。そのキラキラが時計の周囲を丸く囲んでるんだ。それだけでも普通は驚くよ。そんなのがサムライが刀を構える袖からちらちら見えてりゃ誰でもびっくりするよ、映画だったとしても」
「カットはしないのかな? だってNGでしょ、そんなのが映ってたら」
「モブシーンだったから」
「じゃあ、スターなのに主役じゃなくてモブで、だから映っちゃいけないものを身に着けてても問題にならなかったというか無視された……」
「スターさんだから笑って済ませられたんだよ。ひと笑いくればそれでOKっていう……」
「それってそんな自慢できることなんですか?」
「現にカットはされてないからね。腕時計のシーンがNGにならなかったのは、技術的にカメラワークやカット割りに凝ったシーンでもあったからだよ。監督の気に入らない演者は話の上ですぐ殺されてがすぐに消えるなんて言うだろ、同じようなことで、ただのモブシーンとして見捨てられたら、単純なカットバックで処理されてそれこそ途中で消えてたろう。でもそうじゃなかった」
「見てないんですけど、カットバックってどういうのですか?」
「ふたりいたら交互に一人ずつ映してそれを入れ替えるだけのカットだよ。喋ってる人が映って喋って、次もう一人が喋るとその人だけを映した絵になって喋ってる、その繰り返しだよ」
「なんか映画というよりテレビドラマみたい」
「テレビは演者の顔をアップで撮らないと、演出というより商売上まずいみたいだけどな」
ファスト映画で把握する世代には、テレビとの差異など気にもならない。
それが発明された時代にいなかったことも、すべてのメロディーが出尽くしたあとの何もかも終わったあとのような隔絶の意識をもたらすのか、あるいは単に遅れてしまっただけなのか。
音楽に関連したことで言えば、例えば携帯音楽プレーヤー。
ウォークマンと総称するガジェットは、iPodまで続き、スマホに集約されてしまった。が、音楽をどこでも聴けること、普段のBGMにできることは生活スタイルを変えてしまった。
ところで、ウォークマンが採用していた記憶装置は、カセットテープだった。その操作性はアナログなもので、A面B面を手で裏返さなければならない、頭出しできないスキップできない、早送り巻き戻しはサーチではなく勘でタイミングを計るしかない。デジタルの時代になって、イントロがない、サビから始める、そんな形態の楽曲が増えたと言われるが、ではその逆の現象が起きていたか、昔はイントロも全体も長尺でサビもたっぷりだったか、というとそんなわけはないわけで。歌は世につれ、世は歌につれ、スタイルには流行り廃りがあるだけのこと。
ライフスタイルが変わったとは、ここで話題の腕時計もフミの待受けに表示される時計に集約されたというようなことで、固有名詞が錯綜してもわかりにくくはないようだからこのまま話を進めようか。
とにかく、スターさんがやりづらいのは、時代がくだるとどこも同じようで。
スターシステムに一見似ているテレビの演出も、小さな画面だからスーバープレイかどうかわからないのはそれは見る目の無さで、スター性の矮小化はまぬがれない。
誰に関しても情報が多すぎて、神秘的であり続けられない。私生活も押しなべてSNSに並列されると、秘密というよりも瑣末になって、誤爆という名の自爆、炎上という名の売名、サロンとは名ばかりのエコー無しチェンバー。挙句、匂わせというスターさんからは出て来ようもない、オーラの対義語のようなものまで自ら顔写真入りの団扇であおぐようにまき散らす。
そのようにして映画スターがほとんど絶滅して、そして次世代の売れっ子は事務所が選び、広告代理店が作り、それを製作委員会方式で広めるようになった。
作品というより商品の流布のコントロールの話にしても、方法論はビッグデータの活用など進歩しているかもしれない。やることは増えて、効果的になってるのだろう。
が、ターゲットをモブとしか考えないマーケティングも行き付くところまで行っている。
モブという括りなら何してもいいというよりどんな奴でもいるという逆説は、若い世代の突出もできないし、したくもないからしない傾向の照射でもあった。例外も特例も、データとしてはもう出ている。
音楽のメロディーはすべて出尽くしたという俗説がまことしやかに囁かれている時代。だとしたら、その後の世代は新しいものは生み出せないし、やることは何も残っていない。オリジナルも変革も終わってしまっていて熱くなれるものなどなくて、あるのはただチルなノリだけ。
しかし、ノリとは刹那の現象であった。それは、正確過ぎてもダメ。千分の一のミリ秒単位まで細かくても、その半拍つまり一万分の五ミリでもズレちゃダメ。しかし、そのまた半拍の遅れがないとグルーブは生まれない。それほどまでにリアルタイム性が問われることであった。
チルなノリも、接客業ではめんどくさい客への対処法として昔からいくつもあって……。
「タイトルはわかるよ、有名な映画ならね。名作は残るけど、逆によっぽどの駄作でないと口コミで知られることもないし、笑ってしまうような駄作ってジャンルもあるけど……」
「出たよ、ファスト映画。いや、見てて笑いが起きるってのは駄作ってことじゃないんだって、あくまでスターのやることで……」
「タイパの批判もよくあるけどね……。とりあえず駄作は見たくないし、あらすじと結末は知らないとハズレかもしれないし」
「そこなんだよな。なんで用意がいるんだろうな、どんでん返しでだまされるのってある種、痛快でもあるよ。話に振り回されてもいいだろ」
「映画はウソ。ウソだとわかってるのにだまされるのって想定内ってことじゃん」
「映画はウソだけどインチキじゃないよ」
「同じじゃん、二時間弱のウソ話に本気になりたくない」
「そういうウソじゃなくって、例えば戦争だよ。きれいごと、プロパガンダが付きものだろ。それをフィクションというウソで批判するのが映画なんだよ。例えば、こんな話よ、前の戦争で帝国の捕虜になった英国兵士に橋を架けろという命令が出され使役されるが、兵士は先進国の英国の威信に賭けて立派な橋を完成させようとする。つまり、強制労働なのに、帝国の意に沿った形で労働に励む。一方でまた、英国軍による捕虜救出作戦が決行される。ところが途中で、救出部隊の一人が負傷して足手まといとなってしまう。ここでもやはり英国兵はその名誉にかけて作戦完遂のために負傷した兵を途中で見捨てようとする。救出作戦に行ってるのに兵士をジャングルに放置して見殺しにしようとする。英国兵はあるいは敵のメリットになることをやり、救出とは真逆のことまでやってしまう。捕虜を虐待する帝国だけが野蛮で遅れてて非文明的で狂ってるのではなく、みんな狂ってる。戦争なんてそういうもんだって表現できるのが映画であり、フィクションだよ」
知られざる逸話のような物語に興味を引かれたのか、ふたりとも盃を傾けながら黙って聞いていた。
「しかも、その救出作戦には収容所から脱走してきた米国兵の中佐が混じってる。病院でだらだら過ごしてるところを土地に詳しいってことで案内役に引っ張り出されるんだが、こいつが実は兵士の身分を偽ったインチキなやつなんだ。収容所に入るときに将校なら国際条約によって強制労働を免れられるからって、捕まる前に死んだ上官の軍服をはぎ取ってちゃっかり着てたようなやつで、そこを突かれてせっかく逃げてきた収容所にまた行くような羽目になるわけだ。でも、その途中ではさっき言ったことが起こる。救出作戦で行ってるのに仲間を見捨てるなんておかしいと、インチキなやつだけがまともなことを言うんだよ。身元は不確かでウソの身分でも、狂った世界の中ではそれが何なんだってことだろ。米国兵は成上りの新興国の出だが、伝統があっても他の土地では通用しなくて規律は正反対の隷従をもたらす状況でメリットは何かという当たり前の考えを持ってる。それは、関係性をよく考えて避けるべきは避け、利用できるものは使ってちゃんと自分で考えることで、帝国と英国の規律の違いや図らずも両者が同調してしまうストーリーが本筋で、米国兵のエピソードはサブなんで映画は長尺になって、それをどうこう…」
しかし、ニウバ氏のとっておきの映画ネタにもかかわらず、女性ふたりは乗ってこない。漫然と盃を重ねて退屈そう。
知る人ぞ知る作品、それもタイトルは有名だが語られないタイプ。いわゆるマイナー、カルトの、要するに重箱の隅を楊枝でほじくって探し当てる、博捜というよりもっとセコイ……とまで考えて、ダジャレを思い付いたがつまんなそうな女の子には言えないから、止めた。
戦争をおもしろがることもしない世代なんだろうか。フィクションじゃないとしても、たとえ現実でも、戦争なんて自分をマッチョに見せたいハゲとうまいことを言うだけになった元コメディアンが対戦するDLCなし地域の限定のゲームみたいなものか。片方は投げ銭集めがうまい。もう片方は違う課金で儲けて、やる必要もないのに本人は歴史と思ってるファンタジーな承認欲求で、転生したのを知ってるのは本人だけとは真逆の様相で、絶対その先の少なくともハゲが死んだ後には覆さるのが決定的なアナクロで不毛な侵略を続けてる。そんなハゲとチビのライバーだから観る人は少なくなる一方で、投げ銭はCGに負け、いいねはテレビじゃいじられキャラでもコメントへの返しは達者な芸人にも負けている。
ニウバ氏はあくまでブローカーであってハンターではないから、バトルについてもここまで考えたりはしないだろうが……。
しかし、そんな両者を見慣れてれば、もっと対立構造がややこしいフィクションなどめんどくさくなるのか。いや、やっぱりおもしろいものは見慣れるというか自分で試してみないと、他人の評価や前からの評判だけじゃわからないから、
「ちょっとは見たくなったかな? どうだい」
念のため訊いてみたが、
「それで助かったの? ハッピーエンド? それがわかればいい。わかった上でないと暗い話は見たくないかな」
「まあ助からないよね、捕虜だし敵に協力的になってるし、救出部隊はパラシュートで降りる特攻隊みたいなものだし。でも、どっちかだけ助かってもまったく違う話になるし二つのストーリーを追いかける作りだからハッピーエンドとは言えないよね。あ、最後は暗くはならないよ、戦争なんて虚しいって、変にカラッとした感じになるよ」
ネタバレを避けるのは、ファスト映画を見る者にとっては小さな再生速度大きなお世話のようで、
「むなしいのに明るいの? なんか……」と、何かに例えようとしたダランは途中であきらめて、
「むなしくて明るくて……そんで、ハッピーだとしたら、こんな大皿に盛り合わせじゃなくてさ、欧風の白い大きさの違う皿が二枚になってて料理はその真ん中にほんのちょびっとしかなくて、でも三ツ星ですごくおいしいけど、三口ぐらいでなくなっちゃうみたいな?」
「ああ、そんな高級レストラン、港のほうにあるね。住宅街にもぽつぽつあるね。おいしいんだけど、なんか全部バターが強いみたいな」
例え話のほうで話が弾んでるなら、まあしかたない。
「だから、食べてみないとわからない、自分で見てみないとわからないってことだよ」
「スターさんが出てるの?」
ラピイイワがいきなり話題を転じた。
「いや、外国映画」
「昔の戦争の話は時代劇って言わないの?」
「言わないな。歴史ものって言うかな。向こうじゃジェダイだけ」
「ジェダイって?」
「そっちはもっと長い話になるよ。シリーズは多いし、最近のがまた評判が悪くて語りにくいかな……」
「言いにくくても長い話でもいいんだけど。おじさんが喋る分にはね」
しかし、ニウバ氏が話を続けることはなく、
「昔のスターさんの演技は切り抜き見たでもちょっと違うってわかるけど、でも昔の映画はみんな早口で何言ってるかわかんないのよね」
「それもよく聞くな。でも慣れだよ。ふるさとの方言だって長く聞いてないと忘れるだろ」
「あたしたちここから出たことないし。ずっとこの街に暮らしてるの、まあここの方言はきつくないけどね」
アクセントはだいぶ違うけど……と言うのもニウバ氏はやめて、
「やっぱりなあ、そんなんじゃ視野も狭いままだよ。見聞を広げないと。そうすれば古い映画の良さもわかるよ。聞き取れるようになるよ」
「ええ~。偏見だよ、おじさん」
「そうだよ、映画なら月に一本は見てるんだから、わかるよ」
「少ない少ない」
「ええ~、多いよ。フル尺は一本だけど、ダイジェストや切り抜きで……」
「そんなの認められないな。ちゃんと頭から最後、エンドクレジットまで、早送りなし」
「ハヤオクリってサーチのこと?」
「そこから通じないんだよなあ」おじさんの溜め息。「でもバズったのはNGシーンだけど、映画に参加したのはまだあるよ」
「おじさんが? え? 映画に出たことあるの?」おどろくダラン。
「いやいや、そんなわけないだろ。小道具さ、小道具を納めたの、それが映画に使われたんだよ」
「小道具? プロップ? プロパティーの仕事をしてたの?」
「いや、小道具そのものだよ、アイテムだ。そんときはおれのつてで見つけた昔の刀に見える剣を……」
「え? じゃあそれって戦士から貸してもらったりしたんじゃなくて、ブローカーのおじさんが探してきたアイテムを映画で使ったってこと? 伝説の勇者の剣なんてあるかどうかもわかんないだろうけど、東の戦士の国から兵隊に来てるっていうし、本物の刀でいいんじゃないの? 本物を使わないってほんとにスターなんですか?」
虚を突かれた思いだった。確かに見映えのいいアイテムを探すこだわりより、本物にこだわるのが筋だ。本当にアイテムにこだわるなら、変なNGをカットしないで放置したりしなかっただろう。自分の係わりばかりで、映画をデータでしか見ないような真似をしてしまっていた。
本物でないと板についてないと若い子でも思うのか。板につく……これが舞台から来た言い方だが、その伝統芸能を知らなくてもわかるのか。
スターだからそれでいいんだ、とも思うが、それはスター本人にまつわる話であって、スターが出た映画はまた別。銭持ってるからと上級では済まない、首相なのに他国の首脳との会談で犬みたいに走って寄ってく、首相なのに食べ方が汚いみたいなものか。
しかし、そうか、モンスターブローカーだからか、とは思われたくない。
その偏見もないようだった。もっとも彼女らホステスはその辺の扱いに慣れているが。
とにかくスターだ。
「スターってのはね、スタントも自分でやる人で、そんな小道具だの衣装だのは用意されたものを着るだけさ。だからときどき本人はかっこつけてるんだけど、とんでもない恰好で笑いが起きたりするんだよ」
「そういうのはちょっとおもしろいよね。海外で流行ってる恰好を最先端のつもりで着てて、実は全然似合ってないミュージシャンとか今でも笑っちゃう。なんかパクリとは違うおかしさがあるよね」
「Tシャツに書いてる英語の文章がとんでもない意味だったりしてね」ダランのTシャツには往年のロックバンドのロゴが入っていた。
「ああ、サインをもらっても名前が全然読めないとかね」
「サインってうれしいんですか?」
「もちろん。小道具はスターのサイン入りで返ってきたよ」
「道具が台無しにはならないの? アンティークとかそういうことじゃ……」
「いや、昔風に見えるってだけでプレミアなんてないさ。それよりスターのサインのほうがいいよ」
「ええ~? 名前書いてるだけなんでしょ? うれしいかな? 握手ならまあわかるけど」と、ダランは意外なことを言った。
「サインより握手? こっちがびっくりだよ、ファスト映画でいいって言ってるのに、本人とサインじゃどっちが省略されてる?」
「それとこれとは話は別よ」
「そうね、サルサもキウイをスプーンで食べるのも好きで、どっちもいいとこある。でも、肉を柔らかくする下味にキウイを使うのなんかもったいない」
「ふうん」と、言うしかないニウバ氏だったが、
「宝石は? 宝石こそ本物の輝きで、ガラス玉とは反射も違う、光量も違う、色褪せない。スターの直筆のサインは日に焼けて変色するけど、スターと直接握手した思い出はいつまでも残るってことだよね。じゃあガラス玉じゃダメなんじゃないか?」
「う~ん?」
やはり興味がないようで、ラピイイワは酒の容器に手を伸ばした。持ってみた重みから空らしく、ニウバ氏のほうに確認のように振って見せた。ニウバ氏がうなずくと、徳利を持って、お酒のおかわりに立って行った。
チルなノリのこの世代とはいえ、その第二段階といったところまでは進んだのだろうか。ラフな服装。夜のお店のお世辞がばればれの上っ面だけの会話でもないし、酒が進んでいる。もっと呑むために自らお代わりを取りに行った。オッサン扱いされてるが、そのくらいの雑な扱いは親しみとも取れる。
そんなオッサン特有の都合のいい思考の結果、席に残ったダランに、
「じゃあ本物を見たら欲しくなるかもしれないよね、宝石も。今ね、カナリーイエローの石も持ってるんだよ」
「さっきの腕時計のやつですか。映画で使われても、でもあたし見てないし……」
「カナリーだからさ、大滝詠一の曲で……」
「ああ、ロングバケーションの……」
「そうそう、そのカナリアの色なんだよ」
いまいち関係があるとも思えないが。
「その石があるんだよ。あの石を見たらさ、古い歌の情景も見えるようになるよ、きっと」
「……」
「見せてあげるから、部屋においでよ」ダランちゃんだけに言うよ、という調子を込めてニウバ氏は言った。
「あした、お店に持ってきて見せてよ。大滝詠一好きな子多いし、みんなの反応も見たいし」
その営業トークにより、ニウバ氏の翌日の散財も決定してしまったのだった。
「しかしあんなにいっぱいスパンコールのついたドレスは着るのに、ダイヤモンドはいらないんですか。宝石もいらないなんて、いまどきの若い女性はほんとにほしいものがないんですね」
「ダイヤモンドはレディーの友達なんて映画の中だけの話でしょ。衣装や何やかや派手なわりに話は普通につまんない大昔の映画」
イシブミはスクリーンを持つ。であれば、フミには通話機能だけでなく小型スクリーンが付与され、さらにまたスクリーン投影型の仕組みとそれらすべてに供給されるコンテンツ群もあってしかるべきである。いまさらだが。
「それ以前に、錬金術師はいてもダイヤモンドを錬成するジョブってないよね」
「ゲームデザイナーというジョブの人がダイヤモンドに縁が無いんでしょうね」
「鑑定ってゲームでよくあるのにね。黄金は鑑定というよりフォーナインの純度の問題だろうし。それか指輪には力があるってことにくくられて、ダイヤもルビーも付いてる石にすぎないのかも」
「石にすぎないというのも作者の都合で、何が付いてるかで値段も全然変わりますよ。それよりも道具には使用限度があって、何回か使うと効力を失って壊れてしまうって問題のほうが大きいんじゃないですか。ダイヤモンドなら壊れることも傷つくこともないわけで、都合が悪いというか設定が台無しというか……」
「それこそ歌の文句じゃないんだから、ダイヤだって割れるし壊れるよ」
「そういう仕様になってないという話ですよ」
異世界というものがラボグロウンという気がしないでもないが……。
「なのに、あなたはダイヤモンドもオリハルコンも欲しくないと言う」
「だってねえ。欲しいですか?」
「まあ、ぼくは欲しいです」
「爪とか歯にまで嵌めてる人いるのに? あんなのと一緒に思われたくないじゃない?」
「そりゃまた極端ですな」
クァンギって変な子なのかなという印象を持っていたノギュウ氏は、お店とはまた違った会話を仕掛けてくるような今日のテーブルトークに少し驚かされていた。
昨日、クラブでナンバーワン人気のメロニーちゃんの代わりに席に着いた子だった。のっぽで、細くて、男好きはしない。顔は……事務員にしとくにはもったいないし、受付でもイケるだろうが、それ以上かと言われると?が付くくらい?
ただ歌はうまかった。ショータイムは、メロニーちゃんと人気を二分するほどだという。あっちはソウルフルなパワー系のヴォーカルで、クァンギはメロウな、ちょっと可愛げのある、フェミニンというには若すぎて、ガーリーというには場違いで、でもいいボーカルで声量も十分、ピッチの狂いはなかった。
客あしらいはよくはないが、素っ頓狂な会話がかえって楽しいと面白がられる。しかし、誤解もされやすい、特に高齢の客には。
水商売はまだルッキズムが通常運転していて、むしろどこかの国の自動車の認証試験などよりも厳しい基準となっている。自社の基準のほうが国より厳しくやってます、役所が決めたことは硬直的で古くて現実には合わないんです、都会では自殺する若者が増えてます、それでも私はエアバッグまで誤魔化します。いいわけである。
ファッションに基準など無くて、かと言って個人の好みで済ませられはしないで、流行に左右されながら雰囲気で判断される。少なくとも流行に詳しいことはアピールポイントの一つにはなって、それだからテーブルに呼んだのだと言いたいのだ。良い客と思われたいのだ。それは、
「昨日のドレスも良かったけど、普段着もかわいいね。いまどきっぽくて」
と、ノギュウ氏がわざわざ翌日の今、褒めるくらいに常識なのだった。そして、よくあるそんなお世辞はスルーされる。
ノギュウ氏はいつものスーツよりちょっとカジュアルな、でもちょっとめずらしい縞のジャケットを着ていた。一見、地味な色の組み合わせで、しかし、気になると妙に印象に残る色の組み合わせの織りだった。身体にぴったり合ってて仕立てもいい。そんなことにホステスが言及するときは、それが欲しいということである。ドレスのするために生地をねだることもありうるが、そんなそぶりも見せない相手なので、自ら言葉を付け足して、
「じゃあ整形はどうです。いまどきはもう当たり前のようになってて王都の若い人の間では当たり前になってるようですよ」
「だって、同じ顔になっちゃうんでしょ。自分の顔が変だから、イヤだからって、まぎれてどうすんのよって感じ」
「みんなが綺麗と思うような顔になるってことでしょう」
「そんなチワワとダックスフントの雑種でチワックスみたいな無理矢理な定番、いやよ。大リーグのピッチャーならまだいいけど」
「雑種じゃなくて、いまはミックスっていうらしいですよ」
「お好み焼きかい、そんなの言い方だけよ。広島焼きって言うと怒られるけど、広島風のほうがなんか亜流って感じでイヤな気がするけどなあ」
確かにお好み焼きは整形が大事だった。丸くするのはもちろん、押さえつけ過ぎてもいけない。そういう変わったオーダーでシャンパンなどを楽しませるのが、クァンギの人気の理由らしい。
「整形は悪いことだと思ってますか?」
「昔からやってる人はやってるし。本人次第よね。でも、その本人が自分の顔を無くしていいってどういうことなんだろう。わかんない」
「他人は勝手にやってるし自分も勝手だと? 理由はそれだけですか?」
「自分なりの理由がないとダメってのも、ちょっと前からうるさくなった自己責任みたいでそれもイヤよね。別に他人に影響されてやってもいいと思う。自給自足っていうの?」
「? 自暴自棄ですか? 捨て鉢になるような?」
「なに? 何を捨てるの?」
「つまり、やけくそってことですよ」
「クソってあんた。クソってことはないでしょ、綺麗になるって言ったの、おじさんだよ」
「いや、そういうことじゃなくて」
「じゃあ何、整形しないとあたしは都会じゃ通用しませんか? 口入屋さん」
「いやいや、これはただの世間話ですよ」
「でも、メロニーちゃんは誘ってたのよね」
「彼女には断られましたよ」
「誘ってたのよね」
これはプライドなのだろうか。欲しくもないプレゼント、行きたくもない土地への勧誘、それが他人にされていると気になる。あるいは、お店のナンバーワンが誘われて、自分にないのは序列の強化のように思われるのか。
「整形なんかしなくても大丈夫です」と、先取りして軽く言うことで、クァンギはおじさんの沈黙をあしらってしまった。
そして、つきだしと言われる小さな皿に盛られた前菜を口に運んだ。それはこの店では無料サービスで頼む前から出てくる一品だった。ゆえに何が出てくるかわからないし、断ることもできず、オーダーのチェンジはない。クァンギは、ふき、というエメラルドグリーンの丸い筒状のたぶん野菜を箸でつまんで口に運ぶ。たぶんで済まして何なのかノギュウ氏にしては確かめたりしないでいたのは、味は普通に出汁で煮ただけだし、無料だから一品になってるが普通に煮物に混じってそうだし、その煮物の中からあえてよって探し出すほどでもなかったし、まあ、そういうことだった。しゃきっとした歯ごたえはいい。野菜ではあるが、煮すぎるとクタッとしてしまうところがないのが特徴らしい。だから調理の加減を考える必要もなく作り置きもできて便利なのだろう、それで済ましていた。
続いて、クァンギは果実酒のグラスを飲み干した。キャバレーではないから珍しい酒ではないとわかっていながら、ボトルを指差して、もう一杯いいかと断りを入れる。もちろん、ノギュウ氏はうなづいた。それからポケットに手をやろうとしてやめた。この娘はタバコをいやがらないし、この店ではテーブルで吸うことも可能だったが、やめといた。そして、ノギュウ氏はメロニーちゃんの話題は避けて、
「都会は同じような人が多いわけではないですよ、むしろ、個性を発揮する手段は多い。外見もその一つで、さてそれからどうするってことですよ」
「王都でまたキャバ嬢でもやらないかって?」しかし、クァンギはやはり引っ掛かってるようだった。
「そういうわけでもないんです、個性の、まあ、その入り口の話で。その人にあったジョブを紹介するのがぼくの仕事です」
「整形とか、条件が多そうね。中抜きはしない代わりに?」
ノギュウ氏は苦笑いした。
「チビは中抜きでもなんでもして、他人を低く見たいんですよ。自分だけ得をして他人より銭を高く積み上げたい。チビに限らず頭が棒グラフでできてるやつっているもんでね」仲介業者の言うことではないようだが、卸売業者とも違って、徴税人には契約とその合意があるということらしい。
それもこれもチビのモンスターブローカーの話なんだろうと、クァンギにも察しがついた。どうやらここでの同席、というか同じタイミングでかち合ったのが気にくわないらしい。あちらの客はお店で高いものばかり注文して話題になっていたが、羽振りがいいというより、こだわりもなく銭をばらまいてるだけのようだった。たくさん銭は使っていたが、店の女の子たちの評判は必ずしも良くはなく、ただ接客は楽だと言われていた。
「自分以外のプレミアムで自分を高く見せたい。どうかすると高く売るより、自分で持ってたい。欲しくもないのにってことかな」
「あら、ダイヤモンドは欲しいんじゃなかったんですか? 昨日も首んとこに提げてましたよ、なんか大振りのごつごつしたやつ、珍しい石だって自慢してたみたいね。チャージもまた奮発してたわよ、シャンパン何本空いたんだっけ」
皮肉な笑いは、クァンギには似合わなかった。
「やめときましょう、本人の顔も見えますし。ゴシップの類いはネットでたくさんだ」
レストランにくだんのブローカーがいるのはわかってるはずだが、悪気がなくて事実そのままならどこでもしゃべるのか、そんな屈託がないから噂話はあくまで他人事なのか、あるいは、他者からの評判などコントロールできないという承認が当たり前の世代なのだろうか。
「ええ~、ネットで何を読んでるんですか?」
「人に関する情報は集めないと。商売ですからね」
「ふ~ん」有名人のゴシップも借金のブラックリストも、逃げたやつの尾ひれはひれのついた書き込みも、その一言にまとめられて話は終わってしまった。
「おじさんが欲しがる情報はメロニーちゃんの彼氏の行方?」
「いやいや、あいつはしょっちゅういなくなるから。ただの借金のターゲットってだけさ。どっちかというとメロニーちゃんのためにならないと思ってね。男がいるとファンが離れてしまうし、当のサグサスって野郎がねえ……」
「お客さんがそれ言う? なんか大きなお世話って感じ」
「メロニーちゃんのほうが追っかけてる状況だから。だから男がいるって匂わせてもないのに、ぼくまで知ってるし」
「おじさんはだってあいつの借金を取り立ててるんでしょ」
「それはそうだけど、サグサスの野郎は誰かから銭を引っ張ったりはしないんですよ。銭はなくてもぼくのところに顔を出すし、ぼくが斡旋した銭になる仕事は無視して姿を消しやがる。そんなやつを追いかけても銭があろうがなかろうがキリがないだろうってね」
「今どきの男なんて弱者の属性が多いから、別に……」
「捕まえられるって? いや、まあ君はそうなのかもしれないけど、でも君が匂わせするのはダメですよ。プロとして、男がいても知られないようにするべきだと思いますよ」
「なんか別れさせたいってだけなんじゃ?」……だけのオタクまでは言われなかったが、
「いや、ぼくの本業とも関係なくメロニーちゃんはサグサスとは切れるべきと思うだけで、別の仕事に誘ってもそれ以上のことは関知しませんけど。勧めた仕事が性にあったら、あっさりあいつのことを忘れるような気もするんですよ。でも、君を誘うとしたら、匂わせは今すぐやめてもらわないと」
「なんであたしばっかり? だからナンバーツーってこと?」
「サグサスの野郎はネタになるから。今だってメロニーちゃんの笑い話になってる。別れ話すら苦労話や不幸なネタじゃなくて、たぶん本人がうっかり喋っても笑って聞き流せると思う。うっかりで済むんならいいが、でも匂わせはダメだ。その話をファンの人にはできないし、歌なんか聴いてられないって態度の客の隣じゃこっちもゆっくり聴けないよ」
「そんなことがナンバーワンの条件なら、めんどくさいし」
隙があることをチルと言うのだろうか。しかし、誰にとっての隙なのかでずいぶん話は変わってくる。
「そのメロニーちゃんは消えたみたいですね」だからヘルプだったのだが。
「勝手に休むのはたまにあるけどね」
「サグサスが姿を消した噂は、またかという感じでどうでもいいでしょ。たぶんメロニーちゃんもちょっとそんなふうに思われてる。でも、他の歌手やキャストが勝手に休んだらそうはならないでしょ、まして男がいるなんて噂があったら」
「どっちなの? 男がいても真面目にやってればいいの? 男を切ったら休んでも大丈夫な人がいるの?」
「それは個別の事情ですよ。一概には言えません」そう言い切るだけの言葉の重みは、例えば事情通などといういかがわしい肩書よりも口入屋にはあって「まず本人のキャラがある。それから個々の関係性かな。それと周りからどう見られているか」
「あの瘦せっぽちの男のキャラならステージにも立ってるし客もわかってると思うけど。男がいるって匂わせてるのと比べられることなのかな、あいつがメロニーちゃんに追っかけられてるってベクトルが見えてるだけで、そんな違う?」
まるでアイドルの噂話のようで違和感を持たれる人もいるでしょう。ここはキャバ嬢やホステスの話ではなく、歌手、それもスカウトやオーディションに挑む、あるいは勝ち抜いたあとにどうするのか、というお話としてお読みください。何らかの集団の力関係の話をもっと敷衍させて、カーストに類するあるとして、それを上ったり降りたり、どうにかしようとする経過として。
「そのベクトルに銭の流れが乗ってたら話は違ってくるでしょう?」商売の話は説得力があった。「それがない関係だからメロニーちゃんの話は聞いてられるが、それなら切れたほうがいいってなるんですよ」
「キャラの話ならあたしも行けそうなんだけど。昔から笑われること多かったし」
「え?」
「なんでかはわかんない。あたしは普通に喋ってるだけなんだけど、けどステージで笑いが起きるし」
「それは別に、まあ客にウケてるならいいんじゃないですか」また意外な話になったとノギュウ氏は思った。
「でも、あいつも、サグサスもステージで笑いを取ってる。もちろんあいつとは違うと思うけど、けど、笑われてるのはあたしのほうじゃないかって気持ちにはときどきなるのよね」
「いや、気のせいだと思うよ。君はMCだけでなく、ちゃんと歌もウケてるよ、あの野郎はやってることからして笑いになってる」
「あいつはただ好きなことやってるだけに見えるんだけど」
「いや、違う。好きなものがわかってないんだよ」
借金の期限には呼び出して、利子について、追加で代銭納するのかそれとも何かをやるのか、交渉と提案がある。あの野郎はすぐ姿をくらますくせに、そんなときには指定の喫茶店などに約束の時間よりも先に来ていて、のんびり本など読んでいる。そして、待ちましたよ、という顔で本を閉じるのだが、それが詩集だったりするからまたイラっとする。
あいつは詩のつもりで、ステージで喋っている。めくり……大福帳のような白い紙の束に演者や演目を書いて舞台の端に置く立て札……を持ってきてそのお題もポエトリーリーディングというわけのわからないものになっていて、それをスケッチブックのように使ってネタをするのかと思ったら放置で、そこでひと笑いある。そして、本を片手に変な抑揚でもって語るのは、詩のつもりらしいが日常会話のような普通の話も区別なく挟まって、それもこれも本に書いてあるらしくて、詩の部分は覚えてこいよ、フリートークに台本いらないだろと、もうなんだかわからない。年配の客は特に、昔のアングラのうさん臭さを思い出してほくそ笑む。
クァンギはMCをやってもギャグやコメディーのつもりはないらしい。だが、笑いが欲しくないわけでもないらしい。でないと、サグサスのやってることと比べることなどないだろうから。
「笑いが欲しいところで起きるってわけじゃないから、それって客も狙いがわかってないってことで、笑われてるのよね。昔からよくあったのよ。それと、あんたは何考えてるかわかんないって親にまでよく言われたし」
やはり、とても意外だった。
「休みの日は何してるの?」
「ええ~別に何もしてないよ」ダランが先に答えた。
「そうよね、休みは休みたいよね」
答えのようで答えになってないラピイイワ。濁り酒には同種の清酒よりもアルコール度数が高いものがあるのだが、それよりも地元だという気楽さなのか、やっぱり。
「王都に買い物とかは行かないの?」
「全部通販で買えるし」「そうそう」
「でも実際に流行ってるものはわかんないでしょ、行ってみないと」
「まあね、検索にはトレンドの項目もあるけど、個人を狙って最適化してても3パターンぐらいに絞られてるしね。動画サイトのおすすめで挙がってくるのも前見たバンドが一個でしょ、あと映画の予告をちょっと見たらジャンル関係なく新作の告知がずらっと並んで、そんであとでみるから何個か並ぶくらいかな、でもあとで見ようと思っててもずっと見てないやつを出してくるよね、なぜかあれ。なめてるよね。甘い、辛い、酸っぱいしかわからないって言われてるみたいでムカつく」甘いもの好きのラピイイワがやる気のない調子で言った。
「だったら実際に自分の目で見てさ、買い物したらさ」
「でも店員がうしろ付いてくるのもいやなのよ」
「ああ、そりゃわかる。見張られてるみたいでいやだな」それは万引きの注意で、手に取った物の説明をし倒して返事をする間も与えず買わせてしまおうとチャンスを狙ってるのとは違うようだが、でも、首に宝石を光らせてる人が万引きするわけないかと思い直し、
「あれ逆効果だと思うけど、店員ってずっと付いてくるよね」ダランも続けた。
「お勧めをそのまま買いそうに見えるんじゃないのかね。やっぱり一回は都会に住んでみないと雰囲気でわかっちゃうんだよ、そういうの。おれの場合、警備員まで寄ってくるよ」
なんだ、わかってたのか。
「ここも十分都会でしょ」と意外としつこいダラン。その割に、バンドTシャツにジーンズのラフな恰好だ。もっと高い店に誘われたらどうする気だったのか。
「いやいや、やっぱり最先端は王都でないとわかんないだろ」
「情報なんて何でも流れてくるし。自分と関係ないような変なのも混じってるけど、それがネクストカミングの移り変わりの始めだったりもするしね」
「アンテナを張ってなくても偶然流れてきて、それが最新よりもっと前だったりするってことかい? 例えばどんなこと?」
「おじさんにはわかんないよ、女子の流行だしマニアックなことだから。でも流行って言ってもみんなが同時にそうなるみたいなことはないから。昔のマネキンが着てる服全部買うみたいなものじゃなくなってるのよ」
「それも極端だな、昔でもそんな奴は少数派だったさ」と、おじさんが実感を込めてかぶりを振ると、揺れるループタイ。
「そうだよ、自分なりに考えて、服だって何だって探してるもんだよ」ラピイイワはワンピース、服のことである。漫画みたいに露出度が高いのはお店だけであった。
「でも、センスって磨かれるものだろ、良いもの見ないとわかるようにはならないだろ。ただの流行でもさ、本物を実際に見ないと」
「あたし、センスもめんどくさい。本物かどうかより上質なものならそれでいいよ」ラピイイワのワンピースはシンプルなAラインだった。
「まあね、結局おしゃれはこなれ感っていうし、個人的にしっくりくればいいのよ」ダランのTシャツでは長髪の小汚いオッサンが下のほうが二股にとんがった形のエレキギターをかき鳴らしていた。オッサンの表情は陶酔してる様子だった。
「なんだか締まらない話になっちゃったな……」音楽好きのニウバ氏はバンドTシャツを別に悪くは思っていない。それを同伴に着てきてもまあいい。
「だって情報は大量に流れてくる上に最適化されてるっていうんだよ。こっちが選ぶ前にもう3つ4つに絞られててさ、それ以外を探しても、それ以下のものしかないんだよ」
「でも定番ってあるだろ今でも。例えばトンボ柄は? あれ人気商品だろ、女物は薄手の羽織るやつあるよね若い子も着てるよね。ありがたいことにトンボの羽根はおれのビジネスの中心の一つなんだよ」
なるほど、定番を押さえた上で、首にひもを巻きつけるような変な真似してるのか。さらに宝石は本物ってわけか。
「学校でも習った。トンボの羽根が高級な生地になるんだよね。でも、羽根を取ってくることより加工して使う魔法技術の話だったよ。工業製品だと羽根の模様が消えてただの部品になってたのが、アパレル用が開発されて東の戦士の国のシルクに並ぶ高級品になったって……」
「それよそれ、でも何? トンボの捕獲の苦労は教えないの? 東の国は、細戈千足とも秋津洲とも呼ばれる、昔から文武両道だよ、戦士だけの国じゃないよ。なのに銭になる技術の話しかしてないの? そこまでしか行ってないのかよ」
「別にトンボの生地もフェイクでいいし。技術が進んでそういうのが出てるよ、安くていいのが」価値について言ったが、めんどくさいことを技術で何とかしてくれたら価格はどうあれ買うけど……ラピイイワの顔はそう言っていた。それが欲しいのは今の自分で、その前の経路や手続きをすっ飛ばしてくれたなら、こっちも付属情報は省いて物がいいかどうかで決める。遠い国発祥の濁酒をなみなみと注いだ薄い盃をラピイイワはスプーンの逆手持ちの要領で持って、こぼれないように口に運んだ。
「そりゃ、お勧めは安かろう悪かろうに流れるよ」
「そんなことないよ、透け感もちゃんとあって、そんな悪くないよ」
「だいたいサイトを運営してるのが安いしか売りのない後進国なんだろ。コストパフォーマンスてより比較優位で低賃金なだけじゃなくて、劣悪な環境で長時間労働させて下げたコストだろ。戦いはそうじゃないんだよ。戦いはフェイクじゃ済まないんだよ、こっちの身にもなってくれよ、まったく、トンボはデカいんだよ」
その途中経過はさっき無視されたようにニウバ氏も思ったはずで、それでも言わずにはいられなかった。が、あっさりと、
「先進国でもどこでも情報も商品もフラットに並んでるからね」
古い歌も最近の新曲もフラットに聞いているから、同じようにステージでパフォーマンスできることをニウバ氏もほめたばかりだった。
こっちがブレてたら、そのあとに来る合意を取り付けるなんて期待できないだろう。軌道修正しないと、ということで、
「この辺のトンボが一番デカいの知らない? 見たことない? 映像でも」
「フミで見れると思うけど」ダランはしかしその装置を手に取ったりはしなかった。
「フミの小さい画面じゃ迫力は伝わらないよ。スポーツのスーバープレイなんかも小っちゃい画面じゃわかんないだろ」
「見れるんだから、わかるでしょ。結果は」
「また出たよ、ファスト映画と変わらんな、どれもこれも。いや、この辺のトンボはデカくて肉食で、羽根は緻密さは同じで綺麗で……」
お客の話題に乗せられるように付いていきたい。それはキャバ嬢ふたりにとっては商売上のテクニックであり、商機の獲得である。
だが、絡み酒のように違う話題でも巡りめぐってやっぱり悪口を言いたいトークになってきていた。どちらからともなく、ふたりは酒を呑むペースを上げた。
「もともとは東の戦士の国のものだったんだ?」
「トンボ? いや、どこにでもいるよ世界中。ただ、虫の羽根の模様なんて改めて注目しないだろ。虫やトカゲやそういうものを美術の視点で捉えて、絵の題材や衣装の柄に使ってたのが東の戦士の国の珍しさなんだよ」
「ふ~ん」だが、初耳という感じでもないふたり。
「そういう意味では今でも田舎のままの東の戦士の国が流行を作ったんだけど。でもやっぱり今も遠い国で交流も少なくて個人の旅人がせいぜいで、文化のレベルで影響があるわけじゃないよね。謎の国のままだ」
「いいじゃない、それで。そんなところがあってもいいよ。情報が来ないって言っても制限してるのは距離なんだし」
「でも人が来ないとトンボの発祥なんて誤解も生まれるから。簡単に自殺しがちな民族とか」
「そういうのはちょっと怖いけど……。でもほんとかな」ラピイイワは、こんなうまいものがあるのに、という感じに盃を重ねている。
「ね? ここらにも人は来ないだろ、ミュージシャンなんか特に。だから王都に行かないとわかんないってやっぱり」
だいぶしつこい。商品というかアイテムへの思い入れはわかるんだが、東の戦士の国へのこだわりは取って付けたようだし、ファッションはループタイだし、ダランはレスバの反論のエサみたいだとわかっていても喰いついてみることにした。
「それが違うのよ、音楽はさ、地方までやりに来るのよ、ライブ」
「こんな田舎、コンサートは飛ばされるんじゃないの」魔法で何かされるとか、そういうことではない。コンサートツアーの公演スケジュールで、他の開催する土地に比べて人口が少ないわけでもなく規模が小さいわけでもないのに開催されない、はざまの都市では理不尽さも込めて、そんなふうに言うのだった。
「うちはジャズやってるのよ。バンドマンは細かくまわってくれるわよ、演らしてくれるお店があるなら」
あ、そうか、というリアクションで、小さくうなずいたニウバ氏は、それが咀嚼のついでかのように料理に箸を伸ばした。
「うちの店のステージのバックは月替わりで入る生バンドだから」そしてそれが関渡津泊の特徴なのだった。港街に流れ者は付きもの。そうやって入り混じる。転生を無視すればヘレニズムとも言える。
「だいたいメインはジャズだから新曲は少ないけど、スタンダードだけでもないのよ」
「ね?」
「ね?」ヒット曲や歌謡曲もやってるのは知っていた。ニウバ氏は、
「有名な人も来るのかな?」と訊いた。
「タレントなら都落ちなんて言われるのかもしれないけど、ミュージシャンのライブは関係ないから。いろんな人が来るよ」
「そうそう。ベースはたいてい変り者だね。あとオルガンはエロい奴ばかり。ギターはわがままな人が多いね。すごい我が強い、われがわれがの人ばっかり。でも、バンドのリーダーやってるとそうでもない、そういうとこ見せないね。バンマスはかっこいい人多い」
「それとドラムは……」延々と続く。
無名性は都市の特徴である。むしろ、ここで二人は無名性を楽しんで語っているが、しかしそれは地元でつるんでるローカルな話題としてだった。承認は他人に求めるものではなくて、すでに街中に知れ渡っていて拡散も簡単にするもので、知らないオバサンが唐突に、しかし親しげに話しかけてきたりする。親の知り合いかと思ったら自分のこともよく知ってる、小さいころからなんなら世話をしてあげたなどと言う。見ただけでなく、その時に話した、または自分から聞いたことのように家族しか知らないような話題を出してくる。自分のことだから話を合わせ続けることもできて、知り合いのような気分になってくる。そうすると、その隣で話を聞いていたオバサンの友達も次からはそんなふうに話しかけてくるようになる。このような情報への馴染み具合が田舎なのだ。
彼女らより少し前の世代は、悟り世代と呼ばれた。その命名は、この世界の情報はほぼほぼ知っているという、ネットの普及を表していた。
情報の氾濫と、それに反して対応を諦めたような心理の凪。諦念、無常感ではなく、悟りと言ったのは、最適化についての誤解のためだったろう。仕向けられてされた最適化を、個人を理解したうえでの取捨選択であるとし、自分も承知であるしわかってるかのように受け取った。つまり最適化とは適正化であるという誤解があった。
おすすめに個人としては首をひねるようなものがあっても、誤差をただのノイズだと思った。揺らぎであるとは考えなかった。
現に、システムは最適化どころか、適正化とは程遠いものだった。システム、OSは寡占のせいもあってカスタマイズはBのレベルで止まって、Cはいつまでも不自由なまま。そして、ソフトウェアとしてのシステムの最たるものは政治である。
裏金なんてものが最適化されたシステムからどうして出てくるのか。欠陥がないと生まれるはずがない。世襲が多いということは、政治的障碍児が生まれる確率が上がるのか。だとしたら、悪癖、旧弊、宿痾として残留しているものに合致することが最適化なのか。これは皮肉でなく、反社会化である。
政治家を先生と呼んで、肝心の学校の先生は成り手がいないという風潮がよく表していた。かつては大学まで行った人が珍しくて身近には学校の先生ぐらいしかいなくて、一方で、小学校しか出ていない汚職政治家が、有能だったと懐かしく語られるようになったことも。
そして、選挙に有象無象がしゃしゃり出るようになり、まるでトンマとマヌケがキャプテンの玉入れ合戦の様相を呈し、バカづらした当選者はその結果に相応しいそんなクソゲーみたいなことをやってるうちに、かつての経済大国は凋落の一途となったりした。
彼女らのちょっと前は、Z世代と呼ばれた。そのころになると、チルで、悟り澄ますことはやめたようだ。
「なんでバンマスだけほめるのよ、付き合ってたことがあるからって」
「十分変人だったけどね」
笑いあう二人。
そうしてその次の世代は、こんなふうにラフに、雑になる。オッサンの客の前でこんな話をできるほどに。もっともこの場合はオッサンのしつこい話をかわす彼女らのホステスとしての話術かもしれなかった。
そして、ここは港街であった。文化の交叉点という環境を考えるべきであろう。それと音楽というジャンルだ。
ライブはその日だけやられることであり、その日にしか起きないことが起こる。わけてもアドリブ、その偶然性は、コンピュータやAIにとっては頭から投げ出してしまう例外でしかなかった。
「いいバンドがやったライブなら聴きたい人いっぱいいるんじゃないか。録音はしないの?」
「ジャズだけなら、むしろマイナーだから名前を隠して自分の曲を許可したりもアリなんだけどね。歌はねえ、昔の芸能事務所って力があったから今でも権利をがっちり握ってるのよ。あと、特にナツメロとか関係者が行方不明になってたりして、そもそも権利があやふやで誰も手を出せなかったりする。まあ、その日だけ歌うのはノリで済むんだけど」
「へ~、いろいろあるんだな。でも、録音できるならしたいな」
「したい? おじさんが? モンスターを捕まえるみたいにキャプチャーするの?」
「いやいや、おれはブローカーなんだって。まあ、やるときはやるけど、基本的に物流の人間だ」
「録音だったらあるにはあるよ。演者はPAのラインの音を確認用に聴けるようにはなってるから。でも、客席でライブをキャプチャーできたら、ちょっと聴いてみたいな」
「そんなアナログなことまで知ってるのか」
そういうライブレコードも聴いてるってことは、この子たちはただのバックコーラスではないし、それによってもお店のレベルが知れるのだった。
「え? ライブストリームをキャプチャーするんでしょ。現場か配信かの違いはあってもデジタルでエンコードしてデータ化するんじゃないの?」
二人ともが心底びっくりした顔をした。それはニウバ氏にすら非常に幼い表情に見えた。
「そうだよ、使うのはデジタルの機器だけど、人力でこっそり客席から録るってこと」
「そういうこと」なんだかほっとした顔の二人。「もうウォークマンでもきれいに録れるからね、フミみたいな小さな機器でも行けるからね、そういうことね」
「物流のブローカーでも一応モンスターと戦うことはあるよ。でも、昆虫タイプまでかな。この辺のデカいトンボでもうきつい」
なぜか言いわけのように付け加えるニウバ氏であった。
「ウォークマンは欲しいな」
「あたしも」
彼女たちはそれが作られた時代には遅れた世代だ。それが発明された時代にいなかった。だが、生活のスタイルまで変えたことは情報として知っていた。
それは隔絶の意識をもたらし、情報の洪水は何もかも終わったあとだとまで思わせたようだ。
しかし、例えばニウバ氏とて、ロックの時代には間に合っていない。
紙の本は今でも残っている。漫画、ラノベの他は紙でしか出ないことも多いから、健在と言ってよい。
確かに電子書籍も読書のスタイルを変えた。しかし、残りページが薄くなってくると、こっからあとに登場人物が増えても詳しくはとても書いてられないだろうから犯人じゃない、今まで出てきた人の中に犯人はいて、そろそろ解決かな……と余計な推理までやってしまうように、ページ数表示がされていればデジタルでも同じことは起こる。気になることがあったらページの端を垂れ耳の犬のように三角に折って栞代わりにするのも、デジタルではその名の通りのブックマーク機能が装備されている。
複製芸術がどんなに正確にデータを複製できても、受容のスタイルまで規定できない。あるいはすでに規定された形式は、繰り返しから変化の要素を消去してしまう。スタンダードがメインのジャズでも、世代によって個人によって、こんなに受け取り方が違うのにも係わらず、そう思ってしまう。
そしてまた繰り返しのように、ダランが立ち、徳利を手に酒の注文に行った。勝手にお代わりをするため席を外したすきに、
「そう言えば、マイルスのブートレグがあるんだよ。波止場のレコード屋で見つけて自分でハイレゾにエンコードしたやつ。映画のサントラの前に何回かやったライブだから有名で、メンバーからあんまり評価されてないけど、でもモードの端緒もあるっていうし、おれは好きなんだよねえ」
伝説にまみれたサントラの前哨戦のライブ録音は、ジャズ好きの気を引くのにうってつけだった。
「聴く? 部屋でならスピーカーもセットできるけど」
「ダランのほうが聴きたいって言うと思うよ」
「え? なんで。ふたりで聴こうよ」
「あたしはコルトレーンが好きで、神懸かりもちょっとあるかなって思ってる派よ。だからモンスターも邪神であってほしいと思ってたりする」
まるで不思議ちゃんのようにそんな不吉なことを言われては、話を続けられないニウバ氏だった。
なよ竹亭のカウンターには、白衣を着たじいさんが陣取り、清酒を水のように呑んでいた。肴はお菓子だ。自分のお土産がさっそくお持たせで出てきた砂糖漬けの珍しい野菜。甘さの向こうから苦みがほのかにやってくる。
「先生、ダメですよ、もうその辺で」
「いいんだ、診察は済んだ。呑ませてくれよ」
「もうだいぶ行きましたよ」ハゲ頭に赤みがさしていた。その風貌は、例えるなら東の戦士の国の単色の絵画。線で描いたような深いしわが顔に太く走る。姿は、同じく彼の国特産の細長い豆、さやごと茹でて、ゴマで和えるやつ、のその一本。がりがり、という音は似つかわしくない。干からびたような痩せ方ではなく、かくしゃくとしていた。
「久しぶりなんだ。もう少しくれ」表情はあまりない。ただ、冷めたお銚子を狭いカウンターの上でちょっとだけ押してキッチンのほうへずらす。
モリモト先生がツバサ族の診察に行ってることは誰も知らない。患者に病名を聞かないように、医者に患者の話など訊かない。だが、大昔の羽衣伝説の登場人物であることは、この街の者なら誰でも知っている。それが悲しい恋の説話であることも。
となりの席には、これまた酒を水のように呑む、同じように年配のじいさん。イロカワ先生も同様に痩せて、ハゲてて、まるでカウンターに季節外れの赤いぼんぼり二つ。
「ムカつく、胃がむかむかする」
「おまえ、内科だろうが。自分でなんとかせい」
「そうだな。もう少し呑めば、一回目の峠を越えるかな?」
「なんじゃそれ。討ち死にするんか」
ジジイ同士の会話はよくわからないから、若女将・オルーカも口をはさまない。しかし、あやめは、
「お菓子でお酒飲むなんてもったいない」
などと、カウンターの向こうからちょいちょい小言のように言う。
「好き好きじゃろう」
「一番いい組み合わせってあるでしょ」
「誰にとってもいいなんてもの、かえってどっちつかずでよくないもんじゃ」
「その誰にとってもは歴史が保証します。隣の人と比べるなんてより遥か昔からの多くの人の……」
モリモト先生が長命の耳長族なのは見ればわかるが、清酒は自分の故郷の産だから遠慮なく意見を述べる。
「いらんいらん。ほんの数秒、ぬるくなっただけで味は変わる。保存食ですら香り付けに酎ハイに入れると違う顔を見せるぞ」と、砂糖漬けをつまむ。
詩的な表現に面食らって黙るあやめ。ここはオルーカの出番だった。
「蒸留酒は酔いがきついですよ。わかってるからソーダで割るんでしょセンセ。さあ、だいぶ過ごしましたよ」
「ふむ?」
一本取られたようなリアクションをしたのは隣のイロカワ先生で、
「そうだな、メシにするか」
と、ミニミニ衝立のようなメニューを二人の間に置く。
「んん? もう米の飯行くのか?」
「最近、米が高いからな、異常なくらい。うまいメシとメシに合うおかずが食べたい」
「異常だよな」
と言って、モリモト先生も付き合ってやる。二人はいろいろとお得な定食セットを頼んだ。メインは肉か魚かは旅慣れた人の選び方にイロカワ先生が従った。
黙々と食べるじいさん二人の画は、なんとなく微笑ましい。
食べながら、
「テラス席のパーゴラに這わせてた朝顔は枯れてしまったのか」
「最近の暑さは異常ですから」
あやめが学生のころにはそんなことはなかったのだが。
「じゃあ、これはどうだ?」と、つまむモリモト先生。
「え? この緑はフルーツじゃないんですか?」
「瓜とかヘチマの仲間らしい」
ここで想定されてるのはゴーヤです。東の戦士の国を産地としないことに他意はありません。文化の違いを強調したい世界観なので、ちょっと違う地方をそういう扱いにしたい。北海道をそっちの入れるのもアリだと思います。今は夏という設定なので話にも出てきてませんが。
ところで、ゴーヤを初めて食べたのはいつ、何歳ごろだったでしょうか? 高校生くらい?
キウイもそうですが、昭和世代は子供のころから馴染んでいたとは言えない食べ物でした。
だから、普通にあるものとして、日常的にありがちな素材、小道具にするには違和感があるのです。
なよ竹亭のテラス席にはグリーンカーテンがあるという設定なんですが、それをゴーヤをするのは今は当たり前かもしれませんが、そのような世代からしたらちょっと構えてしまう。
また、そんな普通な設定をわざわざ登場人物たちに語らせるのが埋め合わせというか字数稼ぎというか、そのように取られてもいやです。こっちに普通に扱う意識がないから陳腐になってしまうようなことは避けたいのです。
経験だけでなく、知識にしてもそうです。
羽衣伝説を始め、柳田国男の説を取り上げたいと思ってます。
しかし、知識がないと、何かを初めて食べたときのような驚きは柳田の本を読んでも味わえない。何とも言えない苦みも含めた、野蛮さ、迷信深さ、その結果としての陰惨さ、にもかかわらず確かに存在する健康さ。
古代も中世もRPGはごっちゃにやってるようですが、そうなりたくもない。
そういうことなので、もっとこの世界を細かく描いたのちに、いにしえの伝説に踏み込んでみたいと考えています。
詩もそうです。
若いうちだけのこと? はしかみたいなもの? 年を経れば、古典でも小説を読むようになれば離れていくジャンル?
中学生だったオルーカはみずみずしい感性を失っているなんてことにしないために、古い友達のあやめが再会するんですが、これももっと詩について書いてからのほうがいいと思います。
というわけで、お話はテーブル席にもどります。
「都会には余裕があるから。他人と関わらなくても生きていけるからね。それは無名性ってことだから今どきの承認欲求とは矛盾するのかな、わからないけど」なぜこんな話になっているのかがノギュウ氏はわからないのである。「でも、人と関わるのがゼロになるってことはないから、そこはまあグラデーションというか、ネットでは有名だけど日常は誰も知らなくて何でもないような人も……あれだ、外国の有名な歌手が日本じゃ誰も知らなくて普通に街を歩けるみたいな……」
「ああ逆にね? なんか聞いたことある。でも、そういう人はやっぱり発信してるんだから結局は見られてないと、目立たないとイヤなのかも」
「なるほど、そう取るんですか」
「うん。自分に気付かないなんて、この国は田舎だって言っちゃうほど図々しくはないと思うけど、でも、田舎の生きづらさもわかんないだろうね。田舎で可愛がられる安心感と、固められるっていうか停滞っていうか、このまんまじゃ何にも変わんないしどうにもならない感じ……」
生きづらさの話になるとは思ってなかった。ホステスも人気商売だし、いろいろな客のあしらいはめんどくさいこともあるだろうが、もっと気楽にやってると思っていた。このような食事の誘いや金銭の余禄も多いだろうお店のナンバーツーでもあるし、競争に勝ちたいといったガツガツした根性とは縁の無い世代のように思っていた。世代自体が順位や勝敗をはっきりさせないで協調や均等を方針として教育された、その前後の世代との比較ではともすれば否定的に言われてるような、ある種の谷間のように言われる。みんなで手をつないでゴールするかけっこが象徴するような。そんな評価に甘んじているとは思わなくても、評価をはっきりしないという指針からして身に迫るようなことはないのではないか、勝手にそう思っていた。
クァンギは、親に可愛がられ大切にされ育ったと言った。三歳からピアノを習い、歌も専門的に学んだという。確かに、店でも適宜コーラスに指示を出して引っ張る我流とは違う調和したステージを見せていた。五歳からはヴァイオリン。東の戦士の国の縦笛はノイズの多い独特の奏法でいかにもマイナーな楽器だったが、それもねだると買ってくれて頼むと習いに行かせてくれた。ダンスも水泳も、やりたいと思ったことはなんでも自由にできた。でも、何を考えてるかわからないとは、いつも言われていたという。そして、よく笑われたと言った。メジャーにはなりようのないような縦笛を首をぶん回しながら吹いて、濁ったりかすれたりする音を途切れ途切れに出して練習してると、習い事をいっぱいやってなんで優雅で近代的でメカニカルな金属の横笛よりも遠い国のただ樹を伐っただけのような土着的ともいえるこれが最後まで残るんだろうと家族は笑っていたそうだ。
家族に可愛がられていても、みんなが笑顔になって……明るい雰囲気で……うんぬんではなくて、それを笑われていたと感じていたようだ。
それだから、海外のスターは図々しくて、都会は笑いを介するほどの付き合いはなくていいとなるのか。海外のスターを物理的によりも遠くに感じるのか。
「伝説の芸人って人が何人かいて、ファンタジーじゃないから実在はしたんだけど映像は残ってない。でも録音はたくさん残っててね、その凄さの片鱗はわかるんだよ。音だけ聞いても笑えるんだよねえ」
「音だけ? ラジオみたいに? それがフリートークじゃなくて決まった落語ってネタなんですか」
「え? ラジオは関係性の近いメディアだって言うあれかい、ラジオの喋りは友達や仲間みたいに親密で身近に感じるって。でも結局は他のメディアの情報も補完しながら見てるんだからね。例えば、学生は制服を着て同じ格好してるから表面的には同世代や同級生に合わせられても、本当に深い関係になるのは簡単なことじゃない。ラジオの他に映像に出るときは、いつも同じ揃いのスーツや同じ衣装でやってる芸人は、その辺の制服の効果をうまく使ってるだけじゃないかな」
「ええ? わかんない。今のラジオのパーソナリティが伝説のネタの録音とそんなリアルタイムで比べられてるのがわかんない」
それが伝説級という一つの証拠でもあるのだろうが、
「フラって言ってね、なんとなく笑ってしまうってことあるだろう、なんか佇まいでもう笑ってしまうって言うか。好感度みたいな明日はまた変わるかもしれないものじゃないし、嫌悪感みたいに個人的な事情が含むことでも否定的にさせないような、はっきりはしないけど強い印象があるんだよ」
「ふーん、専門用語で言われるとそうかもって思っちゃうけど、でも、そんな雰囲気みたいなものが音だけでもわかるってことなんですか? 伝説っていうか、そんな魔法みたいな」
「今でも華があるって言うだろ。あれはさっき出てた人の印象がずっと残るっていう、レイドバックな効果じゃないかな。フラはまあその逆だな、もう見ただけでこいつおもしろそうって予感がするというか……」
「ちょっとわかるかも」
「いや、聞いてみりゃわかるんだよ」
「有名な動画ならたぶんあたしも見たことあると思うんですけど」
「いやどうだろう、音声だけだから。昔のものだから権利があっち行ったりこっちが独占だって言いだしたりめんどくさい事情もあるし、だいたい聞いてるのは年取った連中だけだから違法アップロードなんてないだろう」
「有名なものだったら音だけでも動画ファイルになって上がってるんで。画を付けたり音だけ抽出したり誰かが何かしらやったりするんで、たいていのものは見れると思いますよ」
「へえ~」
情報社会とは、ただ洪水のように溺れるしかない情報量のことと思っていたが、機会があるという意味ではいいこともある。
しかし、ファスト映画の世代だ。ダイジェストなのか、早送りなのか、大ネタとは切り離されていそうだが。
「一番有名なのって誰なんですか」
「やっぱり、志ん生かな……」
「やっと勝ったみたいな……」
「それ辛勝」
というわけで、その伝説の落語家の子供時代からの不良ぶり、若いころの放蕩ぶり、ネタの稽古だけは毎日やってたというがそれでも女郎買いにもいそしんで、そして戦地に巡業で行って敗戦でにっちもさっちも行かなくなって死んだと思われたのがひょっこり帰ってきたあとは、がらりと芸が様変わりしていてやっと名人と呼ばれたのが晩年であった、その長いてんまつを語った。
クァンギはだまって聞いてはいるが、あまり乗り気ではない様子。女郎の話が出たから、技芸に優れる白拍子について連想して、あるいは身体で払うという方法も正統であった自分の商売のルーツを思い出しでもしたのだろうか。その漂泊する芸能民については、今のところ名前しか出ていないメロニーちゃんの出番で述べることとしよう。彼女らの違いについては物語として書くから説明は省いて、
「それから金語楼の酒の伝説かな、これも戦争が絡んでるが……」
戦時中、酒も統制品となってなかなか手に入りにくくなった。だが、街の世話役のような家には配給も余計にされるもの。すると金語楼は、なぜか食料ではなく酒がある日に限って芸人でございますという顔でやってきて、座敷におじゃまして家族の爆笑をかっさらい、出された酒を飲み終えるとまたさっと去っていくのだが、それが3合の配給の日は3合きっかり、5合配給のときはちょっと長く喋ってそれで5合を飲み干して帰るのだという。配給の日も量もその日になるまで誰にもわからないのに、当日には必ずひょっこり現れて、ある分はすっかり飲んで、そして、すっと帰っていくという。
喋るノギュウ氏も、のどが渇いていた。だが、長く喋りすぎただけのことで、緊張のためにひりつくようなイヤな感じはない。となると、とにかく水分を取り入れたいのはなくて、のどを潤したい。だから炭酸なんていらない。シャンパンなんて、それこそ夜の店で頼むとバカ高いが、シュワシュワなんて風呂でのぼせたとき以外いらないんだからバカバカしい。泡なしで比べてもはるかに安いレストランの酒が、きょうは美味い。
「今の話はなんか聞いたことあると思うし、ちょっとフラってものもわかってきたと思うけど……でも、それって生まれながらのものなのかな、やっぱり」
化ける、ということも今の話には出てきたはずだが、と思ったので、果実酒のグラスを手放せないノギュウ氏はまだゆっくりと呑み続けていた。
「だったらガチャだから、フラを持っていれば楽勝なのかな?」
生きづらさを語ったことがちょっと頭をよぎったが、いわゆる親ガチャを、クァンギがわからないものの例として出したのがまた意外で、
「ガチャは得じゃないの? 恵まれた環境、地形効果をもらいましたみたいな」
「バフも古いし。めぐたいなんてもう言う人いないし。アスリートに対しても努力や訓練を見せるかどうかはおいといて、才能だけって言ってるやつは世界には行けてもジャンルは越えらんないね」
これには「ふーん」と、ノギュウ氏のほうが感心させられた。「努力や訓練はいらないって話のほうが若い人は好きそうだけどね」
「偏見です。じゃあフラがあれば自動的に笑いが発生するの? その前に芸はやらないとステージに上がらないと発生しようがないわけで」
多様性だのコンプライアンスだのは、ノギュウ氏たち古い世代には悪口としてしか聞こえてこないのだが、なるほど。
「歌の練習は毎日するよ。新曲はチェックするし古い曲も掘るし、わけわかんない外国語の詞も覚えるし、反復すれば身体が覚えてくれて、歌ってる間ほかのことも考えられるしやれる余裕も生まれるからね。お客の反応を確かめたり」
クァンギも細い手で大きな花のような形のグラスを持ち、果実酒に口をつけた。そして、見つめ返して薄く笑う。クァンギのそれが今夜の一番はっきりした笑顔だったようにノギュウ氏は感じた。が、情報が溢れかえり、あらゆる分野で情報は出尽くしたとまで言われるそんな世の中で、何を考えてるかわからないと言われるのはどんな気持ちなんだろう。そう言えば、天然の笑い、養殖の笑いという言い方が昔はあって、ガチャと同じくらい浅い理屈だったと思い出していた。
「でも、あたしは笑われるんだよね。歌で拍手ももらえるけど、笑いが起きる。メロニーちゃんのときもその彼氏も笑いを取ってないわけじゃないんだけどね」
「君はウケてるよ。ステージは歌だけじゃなくてMCもあるんだから、ウケてるでいいんだよ」
「超ウケるじゃなくって?」クァンギはもうちょっとだけ大きく笑って「おじさんはそう言ってくれるしお客さんみんな拍手くれるけど、一部のお客は笑ってるんだよね、あいつの、サグサスのステージが一部にはウケて大半は笑ってるのと変わらないんじゃ……」
「いやいや、わからないよ、おじさんにはわからないけどさ、ぼくもあいつが何やってるかわからなくて笑ってる客の一人だけどさ、あいつと君は絶対に違うよ」
笑われるというのは、詩というジャンルなのか? ポエトリーリーディングというパフォーマンスか、韻を踏むのが駄洒落にしか聞こえないのか。あるいは、怪しげな食材の運び屋で、偽物でもそれらしく見えるなら高値の一皿に仕立てられてサーブされることは店も客も全部承知の公然の秘密で共有して、そんな黙認の慣例まで破るようにステージという高いところにのこのこ出てきて、やってることはさっぱりわからないという状況のことか。
たぶん三番目の理由だと思うが、それはオッサンの意見だとノギュウ氏にはわかっている。
「あいつは君みたいに好かれてはない。憎めないやつって感じかな。あいつと同じように笑われてるなんて考えないでいいと思うよ」
敢然と言い張るのに、クァンギの顔がほころんだ。
「でも、しょっちゅう追いかけてるんですよね。それだけ何回も銭を貸してやってるんですよね。徴税人ににらまれててもあいつは憎まれないやつだと、みんなにも伝わってるんですかね?」
その口ぶりは皮肉っぽくはなかったが、サグサスというよりメロニーちゃんに含むところはあったかもしれない。
「いや、そんな大層なことじゃないんだって」いわく言い難いところなど債権者と債務者の関係にはないのだから、あいつ自身、あるいはあいつの芸ということになるが、そうなると言いよどむのもしかたない。笑われてるやつの説明を、自分もそうだと思い込んでる人に区別できるくらいにするのは、笑いの分類であり、そんなレッテル貼りは笑い自体に拒否されるものだと自分でも承知しているのでフワッとした言い方になった。
「あいつは好きなことをやってるように見えるんだけど違うんですか?」
「違うね、あいつは自分が好きなことすらわかってない。やりたいことはあっても見えてないのさ。だから何が客にウケるかなんて関係なくて、あんなステージをやってしまうんだよ」
「でも、おじさんがやらせてることにもならない? 銭を返すために別のことをやれとは言わないんでしょ」
「自分がやりたいこともわかってないんだから同じさ。また別のわけのわからないことを始めるだけだよ」
ただ違うのは、やつは笑われるのさえ気にしてない。笑われてもいいとまでは思ってなくても、それでも何でもやる。たぶん本人は好きなことがわからないとも思ってないし、いろいろと探し回ってる意識も探し当てる途中の段階にいるつもりもないだろう。と言うより、これという決まったことのためにやるのではなく、新しい詩を生み出そうとしているのだろう。そのためのチャンスは拾いに行く。とりあえず思い付いたことはやってみる。本はよく読んでるし、でも他人の言うことは聞かないし、笑われるような突飛なことに見えるのはやはり詩というジャンルについて回るイメージと、そして本人が好機の到来と捉えるようなものが独特すぎるのだろう。詩を書くより、喋っている。せっかく出したまくりに書くこともせず、普通の会話と地続きに詠う。ステージで日常の話をして、オチの代わりに詩を朗唱。それを聞いて、意外と良い声だという客もいるらしいが、意外と思わないシチュエーションがその客には想定されてるのだろうか。
歌でも楽器でもなく、何をやってるのか。詩というよくわからないジャンルにさえ除け者にされたり、笑いというジャンル違いの着地になったり。
だから、笑われているのを嫌がっているクァンギにはまだ言わないほうがいい。子供時代からだとちょっとあきらめているような物言いをする女の子には言うべきではない。言うのは今ではない。
ひとりでやる芸、いわゆるピン芸では、横にツッコミを入れ訂正や邪魔をして笑いのポイントを際立たせる役回りの仲間がいない。ところでステージの上では、あらゆるものがいじりの対象であった。一般には、いじりかイジメかはそれをされた人、受け取る側が決めることだという。クァンギは、いじりであってイジメではないと最も強く言える場所で、そうとは思っていないのだった。
グルーブのミュージシャンと、ソロ歌手でもだいたい同じ……やっぱり違うだろうが、似たようなことはあるだろう。
歌手には順位が付いて回る。社会には階級があり、あらゆる集団には序列がある。それはファンタジー世界でも同様であった。しかし、それは固定されて必ず上位が強者であり下位は弱者であるわけではない。ファンタジーの魔法に寄らなくても、攻撃がはね返されたり、防御のために特性だったものを捨てなければならなかったり、一個の呪文を覚えたことで戦闘の推移が新しいパターンに移り変わったり、関係性は連鎖もするが逆転もありうる。
さらには常識とは裏腹の、例えば段位というものがある。剣道十段、その有位者はほとんどは老人である。その境地に達するにはそれほどまで長年にわたる修行を重ねねばならないのだが、実戦となるとジジイは強くはない。境地すなわち内面である。
上級だのと何だのと、社会的なアイデンティティーは既存のもののように言われる世の中。集団があるところならどこでも、子供の学校でもそんなことを言ってるらしい。
しかし、内部のアイデンティティー、本来の個性はそもそも獲得できているのか。個を確立した上で集団に反映しているのか。不安定な個のまま集団を規定するのは問題ないのか。例えるならまるで原子のブラウン運動だが、テレビモニターが液晶になって薄くなってだいぶ経つが、古いことやってるもんだ。ノギュウ氏にしてみれば「テレビも薄くなったなあ」と、画面でパントマイムの壁でもやられてるようなものであった。
メロニーちゃんを誘ったのは、男と切れたほうがいいと思ったためだ。そこでは、ノギュウ氏の関りは口入屋でしかない。サグサスと切れれば、そのせいの笑い話は消えるだろう。もっと歌い手として活躍できるだろうし、もっと遠慮なく稼げるだろう。もちろん野郎の回りを整理してやりたいのが一番ではあったが。
だが、ただの今どきのちょっと変わった娘だと思ってたクァンギは意外な顔を持っていた。男がいたほうがあるいはアイデンティティーは安定してるのかもしれない。彼氏がどんな男かは知らないが、ゲラではない、あまり笑わないやつならいいがと思うばかりだった。
「やっぱり変なことやっても許してる感じするけど」
「あいつはダメなやつだが、それでもあがいてるからね」
「それで自由にやらせてるって、やっぱり憎めないやつってことじゃないんですか」
「それは、ぼくが野郎を憎みそうな顔してるってことかな?」
「そんなそんな……。お客さんは渋いですよ、若いときに老けてるって言われても、それは年とっても顔が変わらないってことだから、年が追いついたんですよ」
「それが遅すぎることもあるよ。ぼくはこのいかめしい顔のせいでフラとは一番遠い人間としてやってきたからね」
安い酒が思いがけず素晴らしい口当たりだったせいなのか、昔のことまでもノギュウ氏はすらすらと語っていた。なぜこんな話になるのかやっぱりわからなかったが、クァンギに引き出された会話なら、クァンギが笑ってくれるのならそれでいいと思い始めていた。
それは遠い昔の話にもなって、例えば、自分には似合わないと思ったから誰かにギャグを吹き込んでそいつに笑いを取らせた思い出。ここだ、という間で「これを言え」とギャグとタイミングを人に譲って笑いを起こそうとした学生時代、あれは先生につっこめるめったにないチャンスだった。その状況下、クラスのおもしれー奴じゃなくて、ちょっと成績は悪くてズレたことを言ったりするがやんちゃなこともめげないでするやつがクラスの席の並びのすぐ後ろにいて、先生に対してツッコミになる言葉を間合いを逃がさないように素早く伝えたのだった。案の定、ツッコミに先生はうろたえて、クラス中ウケた。そのあと、こいつが「言え」と言った、と告げ口ではなく、笑いを取った手柄を逆に譲るようなことも後ろの席から付け加えて言ってたのが意外だったが。
あるいはまた、ノギュウ氏の青春時代はカセットテープのころで、レコードを持っている人にカセットを預けてダビングを頼むと、テープの余った部分に自分の勝手な語りを入れて笑わそうとする友達もいたが、録音ボタンのガチャッという音が何回も入っていて録り直ししてるのがおもしろかったという感想で、内容ではなくノイズを話題にして逆に笑わせたこと。親しくなるとそういうこともできたが……。
「ぼくの見た目は今でこそ年相応になったが、ずっといかめしい顔で細かいマニアックな笑いしか取ったことないよ。挨拶みたいにギャグを言ったことないよ」
「でも、一方では信用される顔でしょ、銭にまつわる商売を続けられるような風貌ってことでしょ」
「まあね、人は自分に無いもの持ってないものを欲しがるのかな」
「そのクラスでおもしれーって言われてた人って、そのあとどうなりました?」
「さてね? 当然お笑いはやってない、聞いたことないし見かけたこともない。噂も聞かないな」
またちょっと酒が美味くなった気がするノギュウ氏と、これまた手ずから自分のグラスに注ぐクァンギ。
「人に興味がある人の同級生に噂が聞こえてこないんじゃ、おもしれーのもそのときだけだったのかもね」
「なかなか厳しいな」
伝説とは、一度は途絶えた、廃れたということだった。
ノギュウ氏の子供のころもそのままに笑いは地位の低いものであったが、しかし大人に見える|(オッサン臭い)自分がやると重々しくなってしまって、どうでもいいはずの笑いが起こらないという目に遭ってきた。そして「今これを言う」という間で、「おまえは次に○○と言う」と思っても誰かがそれとは違ったことをジャストタイミングを逃して言って、彼が思ってたよりもそれは少ない笑いになって、そうとは知らない他のみんなはそれが普通だと思って笑っている、そんな場面をしばしば見てきた。また、そのころはテレビでも笑いの演者は下の階級で、その軽さや責任の無さに甘えていたのか安住したのか、お笑い番組自体が子供向けの幼稚なものというよりも、バカを相手にして作られていた。
そんな姿勢でやることだったから内輪ウケも批判の的になったが、だとするとバカな連中が集まって笑ってるだけになるから区別が必要だったのだが、ノギュウ氏の国の個別の事情で、それ以前に私小説の流行があった。それは、深刻ぶって自己の内情をぶちまけると評価されるような、笑いとは最も縁遠い作風で、また作品だけでなく作者たちも世間とあからさまに距離を取って徒党を組んでいた。実態はどちらも内輪ウケだったとしても、一方は世間にバカにされ、他方、何を言われても無視か何にでも喰ってかかるのを赤裸々と呼んで喜んだりさらには蔑んだりする。そのいずれにも笑いはつきまとっていた。まるで教科書に載っている作家の写真には落書きが付きものであるかのように。
総じてノギュウ氏には不満が溜まっていた。笑いがそんなものであること、そんなものすら自分にはできない、が、自分が思ってるよりもつまらないものしか生み出されてはいないこと。
やがて、あらゆる情報が溢れる時代になった。すると今度は、笑いを品定めするようなネットの言論が幼稚になっていた。
いや、幼稚だからこそ有象無象がわいて出たのか? するとまた、お笑いの演者が理屈にもならない御託を並べ、口釈が増えた。そして、そのやり取りを考察と呼んだ。伏線回収が合言葉になったが、それは推理小説よりもだいぶ稚拙なツイストに過ぎなかった。
「ジャズは大人になる呪文みたいに言われてるけど、お客さんはジャズを聴くのが似合うおじさんですよ。それだけじゃなくて、うちのお店を渋い店だなって他の客に思わせてくれるような大事なゲストですよ」
それを真に受けるほど単純ではなかったし、言い返すような謙遜など不要な会話だと思うようになっていた。
「人の興味に……。そうですね、フラって唐突に笑われることでもあるのに、ぼくはずっといいこととして考えてましたね。昔からどうも、おかしなものに惹かれるらしい」
「不幸噺が好きって人や残酷な話がおもしろいって人もいるけど。ムナクソ映画がウケるみたいな。笑わせるのは泣かせるよりむずかしいって言われてますね、それはそうだと思うけど、泣くほど怖いってのはどうなんだろう」
チルな世代は、欲しいものもやりたいことも特にないからダラダラしてるのではないのかもしれない。心が燃えるものがないのではない。先にやられてることが多すぎて知らないままでパクリと言われるのがめんどくさいと考えるほどに、観察をしているのかもしれない。
「都会は怖いところっていうけど……」
気楽に行く気になったのかと、ノギュウ氏は思った。おもしろそうと思ったなら、彼女には動機として十分だと思った。
「行くかい? 紹介はするよ」
「歌手の仕事につてがあるのかしら?」
ところで、メロニーちゃんで失われた無縁の人々を復古的に転生の代わりとして描き、クァンギは残酷な運命をたどることになるのが作劇術だろうか?
資本主義が契約の一つの形態にすぎないなら、フィクションに持ち込んでもいいのだろう。しかし、現実の銭は借主を刑務所に入れるようなことまでさせて回収しようとする。働いて返せという徴税人の仕事の範疇を越えている。それどころか、死んで保険金で返せとまでいう。転生できるわけでもないのに。
おかしなシステムはOS以外にもある|(比喩だがこっちの現実)。予定納税なんて、どうなるかわからない、ありもしないものをどうやって計算してるのか。
徴税人は、いわば未来の割り勘で動いている。
つまりは、いずれも時間に関する話であり、後戻りはできないとしても先取りしすぎず反動に気を付けて、そこから価値を得ようとしている。
「いや、ぼくは芸能の仕事とは縁がないけど、エージェント、代理人だな、何人か知ってる。信用できる人だ、それは保証するよ。でも君が歌手として売れるかどうかは保証はできない、それはまた別の問題だ」
「そんなの当然。覚悟の上よ」
「そうすると彼氏はどうなるのかな? 契約だからその手の条件も出されるけどね……」
「あたしがやることに口出しなんかさせないし」
「噂しか知らないんですけどね。まあそう悪い話は聞かないけど例えば……」
「銭を引っ張られたりはないです。家賃の折半や割り勘はあっても、それ以上はありません」ペットの猫はあたしが連れて行くけど。
「なるほど」
クァンギは真顔ですらなく普通に言った。身軽になって自分は行くんだと、表情が語っていた。
そういう気楽もあるってことは、重々承知なわけで、男はつらいよ。まあペットが捨てられるよりはいいとしよう。
しかし、覚悟と来たか。悟ってるなんて言われる世代とも違う心持ちのようだった。
チルというのが近頃じゃ流行りらしいが、たとえ残酷な行く末でも、のらりくらりとも違ったまた別の方法で乗り越えそうな気概を感じた。
「では善は急げだ。行こう」
「一応確かめとくけど、あなたが間に入るってことじゃないのよね」
「そんなおかしな契約を君に黙ってやらないよ。ただしそちらも勝手に辞めたりはなしだ。あと、あの、ゲリラ撮影みたいな、よくある、あの、道端で勝手に歌うのもなしだ」
「勝手にしやがれ……確か別れ話の映画だったような?」
「あれはストーリーなんてどうでもいい作品だったよ」ファスト映画のやり方は知らず、今見ると変なジャンプカットでそう見えるのだった。
「ストリートライブはほんとに銭がないとき、投げ銭で急場をしのぐためにはやるかもね。もうほんとにどうしようもないなら。でも、それも契約だって言うならいくらかは入れるよ」
「そうそう、それ。いや、日銭は取っといていいんだよ、そんな銭に渋いエージェントを紹介しないよ。ただ、田舎の客はやさしいけど都会は危ないから」
「ふーん、わかった。覚えとく。よしじゃあ今夜はこの街の歌い納めね」
「よし、ぼくも聴かせてもらおう」
あれ、連れ出したのかな? それともお店に出勤なのか?
うらやましそうに一瞥を送るニウバさん。ノギュウ氏は気にも留めず、それに気付かなかった。そして、クァンギが向こうの女子ふたりにアイコンタクトしたことも、おじさんたちは見逃していたのだった。