エスプレッソ
「アッキーはさあ。休みの日って何してんの?」
同僚の月ヶ瀬岳があくび交じりに聞いてくる。
この男は本当によく喋る。
いい天気だね―空が青いね―しかしヒマだね―こんな日は店閉めてサーフィンとか行きたくない?――そして冒頭に続く・・・
「ツッキーってプライベート果敢に攻め込んでくるよね。」
これまた同僚の可愛川詩緒が呆れたように言う。
「好きな相手のことは知りたいものだよ。シオチャン。」
月ヶ瀬の飄々とした調子に詩緒は顔をしかめ、
「これって一種のハラスメントですよ。アキサン、答えたくないことは答えなくていいですからね?」
と、安芸の方へ話しかけた。
「何ハラ?ベツバラじゃない?」
月ヶ瀬がいたずらっぽく言うと、詩緒は
「もう!ふざけてる!」
と、ふくれっ面をした。色白の頬が真っ赤になっている。
月ヶ瀬はいわゆるムードメーカー的存在で、「エヴィバディトモダチ」、「エニタイムゴキゲン」な男だ。女好きで軽いが、接客はピカイチ。加えて彼の淹れるドリンクは、どれも評判がいい。
詩緒はバイトだが、なぜ接客業を選んだのか不思議なくらい不愛想で、可愛らしい見た目と裏腹にかなりの毒舌だ。客から口説かれることも多いが、その度に氷の視線と辛辣なひと言で撃退している。
賑やかなのは嫌いじゃない。だが、それはあくまで自分以外の人間が盛り上げてくれればということだ。
安芸自身は月ヶ瀬とは真逆の人間だという自覚がある。現にこのやり取りで、まだひと言も口を挟めていない。
人と話すのが嫌なわけではない。思ったことがうまく言葉にならないだけだ。だから複数人いる場では、話すのが得意なヤツが回せばいいと思って黙っている。「何を考えているかわからない」とか、「おとなしい(暗い)」などと言うヤツもいるが、変に気を遣い、慣れないことをして地雷を踏むよりよほどいい。
そうはいっても、明るくて人懐っこく、基本的に器用な月ヶ瀬や、地雷気にせず心のままに思ったことを口にする詩緒を羨ましく思うこともある。ごくたまにだけど。
「ソルトちゃ~ん!」
カラカラとドアに付けたカウベルが音をたて、来客を告げた。いつも競馬新聞片手にドア側のテーブル席に座る常連、丹波と鶴城が入ってきて、「コーヒー二つね。」と言いながらいつもの席へ座った。
詩緒は先ほどのふくれっ面の残った奇妙な表情で水の入ったコップを二人の前に置いた。
「最近注文の復唱してくれないのよ。」
と、丹波。鶴城も、
「それどころか『いらっしゃいませ~』すら言われないからね。」
とこぼす。でも愚痴のわりに2人とも笑顔だ。詩緒の不愛想な接客は「ソルトの塩対応」と、常連客の間で妙な人気がある。
「すみませんね~、ホント。丹波さんと鶴城さんが来てくれないと、うちは商売あがったりですよ。」
コーヒーを淹れながら月ヶ瀬が如才なく話しかける。
「いいの、いいの!こっちは好きで来てるんだから!ツッキーのトークも楽しいし、アキチャンは相変わらず男前だしね。」
丹波はそう言うと、鶴城と2人で豪快に笑った。詩緒はやれやれと肩をすくめた。
安芸は「ごゆっくり」と薄く微笑んだ。これができるようになっただけでも大きな進歩だと思う。安芸は詩緒とはまた別の意味で愛想に乏しい。
バイトでモデルをしていたことがある。高校の時に付き合っていた彼女に、勝手に雑誌の読者モデルに応募されたのがきっかけだった。
今思えばモデルはいい仕事だった。カメラの前でだけは不思議と笑顔になれたし、撮られている間はあまり会話をしなくても済む。そんなに大きな仕事をもらっていたわけではないから、関わる人数もそこまで多くない。
映画のエキストラを頼まれたこともあったが、あれは最悪だった。とにかく現場に人が多い。内心ビクビクしながら、エキストラなのだから言われたことだけやって拘束時間を乗り切れればいいと思っていたのに、何か手違いがあったらしく、急にセリフのある役を割り当てられてしまった。
主演は当時人気絶頂の若手演技派俳優で、安芸も惚れ惚れするほどかっこよかった。相手役の女優は人気アイドルから転身したばかりで、バラエティー番組では舌っ足らずな話し方で人気があったが、俳優としてはまだまだ評価されていなかった。
主演俳優にフラれた相手役女優が泣きながらその場を立ち去り、転んで起き上がれなくなっているところに、「あの、立てます?大丈夫ですか?」と声をかける通行人。これが安芸の役どころだった。
(あの、立てます?・・・立てます?・・・違うな・・・立てま・・・うーん、大、ダイジョウブデスカ・・・違うな・・・)
物陰でブツブツ復唱してみる。セリフはこれしかないのにガッチガチだ。
「エキストラさん入りまーす!」
リハーサルの声がかかった。握りしめた手にじわりと汗がにじむ。
通行人役のエキストラたちが適当に歩いている中、女優がもの凄い勢いで走ってきて、マットの上に豪快にスライディングする。
(リハーサルからこれかよ)
平静を装って近づく。
(あの、立てます?大丈夫ですか?)
指示どおり屈むと、倒れた姿勢から頭を持ち上げた女優と至近距離で目が合った。潤んだ大きな瞳、長い睫毛、テレビで見ている時は何とも思わなかったが、実物は遙かに綺麗だ。
一瞬セリフを言うのを忘れていた。ハッと我に返ると、先ほどから呪文のように繰り返していたセリフを口にする。冷静に・・・冷静に・・・しかし、思いとは裏腹に、口から出た言葉は、
「あの、立てまふ?大丈夫れすか?」
だった。
(あ・・・)
頭が真っ白になった。顔から血の気が引いた。
「・・・大丈夫です。」
顔を背けながら女優が立ち上がった。そして、そのまま足を引きずって歩き出す。一瞬間があってカットの声が響いた。
(終わった・・・)
ひと言しかないセリフをかんでしまった。ずーんと落ち込んだその時、前方に歩きかけた状態で止まっていた女優が、ブッと吹き出し、大笑いした。
「どうしたの。樹莉ちゃん。今の良かったよ?」
「ごめんなさい。ちょっとツボっちゃって。」
女優は肩を揺らしながら監督の方へ向かうと、すれ違いざまに安芸の背中をポンポンと叩き、
「アナタのおかげで緊張がとけた。ありがとう。本番もこの調子でがんばりましょうね。」
と囁いた。
青ざめていた顔が今度は一気に赤くなるのが分かった。そして思い出す。これはリハーサルで、まだこれから本番がある。現実にかえってげんなりした。
(青くなったり、赤くなったり、また青くなったり・・・俺は信号機か)
それにしても女優の樹莉はさすがだ。カットの声がかかるまで集中が切れることなく、そして失敗した名もないエキストラにまで気さくに声をかけて和ませる。
正直、アイドル上がりの女優だと心のどこかでバカにしていたと思う。でも彼女はプロだ。エキストラの自分は、リハーサルでかんだことなど問題にもされない。彼女の格の違いと意識の高さに、安芸はモデルの仕事をいかにバイト気分で適当にやっていたか思い知らされた。
その一件以来、安芸はモデル事務所を辞めた。
調理の専門学校に入学すると、学校から紹介されたフレンチレストランでバイトをしながら練習を重ね、卒業してからフランスへ修行に出た。
料理は小さい頃から好きだった。共働きで忙しい家庭だったが、両親は安芸がやりたいと言うことは絶対に否定しなかった。ご飯を炊いてみたいと言ったら米研ぎから教えられ、炊飯ジャーのスイッチを入れただけでも「おいしい!」と喜ばれた。ご飯が炊けるようになったら、みそ汁を作りたくなった。始めは乾燥わかめを入れるだけだったが、そのうち豆腐やキノコを入れたくなって、子ども用の包丁を買ってもらった。母は家事が得意ではなく、料理も好きではなかったが、安芸の料理好きを尊重し、限られた時間をやりくりして色々教えてくれた。黒焦げのハンバーグでも嬉しそうに食べてくれた。
こうして中学生になる頃にはすっかり食事を作るのは安芸の担当になった。母は1ヶ月分の食費を渡し、食材の調達も全て安芸に任せた。
その頃にはレシピも自分で考えるようになっていた。父は安芸と似た、口数の少ない、何を考えているか分かりづらい人だったが、新しいメニューの時には感想を述べたり、注文をつけるようになった。料理をすれば、こうして父とも対話ができる。安芸は不器用な自分を守る盾のように、どんどん料理の腕を上げていった。
勉強は得意ではなかったが、フランスへ行くために語学は必死でがんばった。2つ上の姉が大学で同じゼミに通うフランス人留学生を紹介してくれて、運よく彼女のフランスの実家にホームステイさせてもらえることになった。
その家はパリ郊外にあって、修行先へは電車で1時間半ほどかかる。朝は早く、帰りは遅かったが、マダムは安芸に必ず朝晩のきちんとした食事を摂らせた。マダムが作る素朴なフランスの家庭料理は、安芸の心に小さな火を灯した。
修行先に選んだレストランは安芸の腕に期待していた。契約の期間が過ぎて日本へ戻る時には、東京のホテル内にある系列店を紹介してくれた。
仕事はやりがいがあったが、いつも何かが違うと感じていた。でも仕事があるだけありがたいと思い、考えないようにしていた。自分は運がいい。この程度の料理人ならごまんといて、誰もが理想を叶えているわけではない。東京のホテルに入るようなフレンチの名店で働けるなど、身に余る光栄だ。
その頃付き合っていた彼女は店の同僚だった。美人ではなかったが笑顔が愛らしく、いつも優しい雰囲気をまとっていて、みんなから好かれていた。
付き合い始めたきっかけはよく覚えている。ふたりで食事をした帰りに告白された。
こんなことを言うとツキガセに蹴り飛ばされそうだが、安芸は自分の容姿がコンプレックスだった。あまりに見た目だけで寄ってくる女が多かったからだ。そういう女は、見た目から勝手に想像する「安芸像」のようなものがあって、そこから逸脱すると勝手にがっかりする。安芸は今まで何度も傷つけられてきて、若干女性不信気味だった。
彼女のことは好ましく思っていたが、完全には信じきれなくもあった。そこで聞いてみることにした。
「なんで俺なの?」
彼女は
「よく分からないよ。」
と答えてから、少し考えるような仕草をし、
「気が付いたら好きだったんだもん。」
と言った。
耳まで赤くなった彼女を見ていたら愛おしさが込み上げ、安芸は「いいよ。付き合おう。」と頷いてほっそりした体を抱きしめた。
付き合ってみると、本当にいい子だった。優しくて明るく、特においしいものを食べている時の顔は、大輪の花が開くような笑顔だった。安芸はその顔が見たくて、よく自宅で料理を作った。
「おいしいよ。大和。私、幸せだなあ。」
と顔をほころばせる。安芸はその笑顔に、自分の方こそ幸せだと感じた。いつも素直で率直な彼女は、嘘のない人だと思っていた。
ある日のランチタイム、フロアの人手が足りなくて、安芸はウエイターとして駆り出されていた。コックコートは着たままだったが、注文を取り、料理を運んだ。
窓際の席に女性が座っていた。注文を取りに行くと、タブレットから顔も上げずに
「ランチのA。セットはサラダ、カフェラテ。カフェラテは先に持ってきて。」
と、早口で言った。
「かしこまりました。」
昼はビジネス利用も多く、ビジネスマンのせっかちな態度もなれっこだった。
食事が終わり、会計に向かう時にたまたま目が合った。
「ごちそうさま。今日も美味しかった。」
そう言うと、その客は去り際ににっこりと微笑んだ。
「・・・ありがとうございました。」
客から「ごちそうさま」と声をかけられるのはよくあることだ。なのに、不思議と彼女のことだけは印象に残っていた。
後から思い返しても理由はよくわからない。まあ、わりと綺麗だったが、そこら辺にいるような美人ならモデル時代に飽きるほど見ているから今更何とも感じない。
運命論者ではないが、これが縁というものなのだろうか。とにかく、まさか後日ひょんなところでこの女性と再会しようとは、安芸はこの時、夢にも思わなかった。
「なあ、この後飲みに行かね?」
同僚の宇佐が仕事終わりに声をかけてきた。
「悪い、今日はムリ。試したいことあって。」
安芸が食材のチェックをしながら答えると、宇佐は気を悪くした様子もなく
「レシピ開発か?がんばるね~。」
と言った。
「乃木澤さんが今度試食してくれるって。この前の賄いを気に入ったみたいだ。」
「まじか!すげーな。あの人スーシェフのお気に入りだろ?出世の近道じゃん。」
「早く自分の料理を店で出したいだけだよ。」
「なんにせよ、羨ましいわ。そういや、呉羽は?早番だっけ?」
「いや、今日は週休。」
「じゃあ、お前ん家で待ってんの?」
「どうかな?約束はしてないけど。」
「あの子、いい子だよな。やっぱ結婚とか考えてるわけ?」
「・・・なんで?」
安芸は不思議そうに宇佐を見た。宇佐の方が1年先輩だが、年は同じだ。宇佐が明るく、気さくな性格なのもあって、同僚の中では一番よく話す。でも酒抜きで恋愛話をするほどの仲ではない。
「別に深い意味はないよ。ただの好奇心。」
「・・・そっか。」
一瞬の沈黙の後、
「じゃ、俺、帰るわ。がんばって。」
と、宇佐は出口へ歩き出した。
「また明日な。」
安芸が冷蔵庫から首だけ出して宇佐を見送ると、ひらひらと手を振りながら去っていく後姿が見えた。
「後になって思えば」という瞬間はよくあることだ。それはたぶん、人生に張り巡らされた伏線を回収する瞬間なのだろう。
「ああしていたら」、「こうしていれば」と人生の伏線について思いを馳せる時は、大抵良くないことが起こっている時だと安芸は思う。人間、絶好調の時はあまり過去を振り返らないものだ。
安芸は自分がネガティブな思考をしがちだという自覚はある。でも、考えずにはいられなかった。あの時、店に残るのをやめて宇佐と飲みに行っていたら。宇佐は彼女を呼び出すこともなかったのではないか。
いやいや、きっかけはもっと前だったかもしれない。もっと早く仕事を辞めるべきだった。合わないと思いながら店を続け、思い入れのないまま好意的な評価を受け、こんなものだろうと深く考えることなくやってきた。
向日葵のような彼女の明るさと優しい笑顔は日々の癒しで、二人で過ごすささやかな幸せは、このままずっと続いていくものと疑いもしなかった。
でも本当のところはわかっていなかった。ある日の閉店後、完成したレシピの試食を乃木澤に食べてもらった。彼は心なしか厳しい表情をしていた。
ひと口食べて暫くの沈黙の後、「・・・うまい」と言ったが、表情は硬いままだった。何かを言おうとして、言葉を選んでいるように見えた。
「なあ、安芸。これを見てくれ。」
乃木澤は安芸にレシピのメモを渡した。安芸は怪訝な顔をして受け取り、内容を確認すると、そこに書かれていたレシピは安芸が乃木澤に試食してもらったものと酷似していた。
「似ていると思わないか?」
安芸は血の気が引いていくのが分かった。
「・・・そうですね。というより、ほぼ同じです。」
絞り出すようにそう言った後、混乱した頭で、ふと自分が誰の真似もしていないことを弁明しなければと思った。でも日頃から口下手な安芸は、何を言っても言い訳に聞こえるのではないかと戸惑った。
乃木澤は黙り込んだ安芸をじっと見ていた。この小さいが老舗ホテルのレストランで、たくさんの新人を見てきた。よくあることだった。乃木澤もまた安芸にかける言葉を探していた。
「少し前、試食をしてもらいたいと言ってきた者がいた。俺とスーシェフが残っていたので試食をした。よくできていたし、なによりスーシェフが気に入ったと言って、次のランチの一品に加えることになった。このレシピはその時に預かったものだ。」
安芸は震える声で聞いた。
「それはいったい誰が・・・」
「呉羽だ。」
一番聞きたくない名前だった。「なんで」と、頭の中で反芻する。乃木澤は真っ青になっている安芸を気の毒そうに見つめた。
「俺は君に目をかけてきた。仕事は真面目だし、センスもある。
君は人としては不器用だが、それでも他人のレシピを盗んで出世を狙うようなケチな男だとは思わない。また、呉羽の実力だけでこのレシピが完成できたとも思えない。
つまり、問題は別の所にあるということだ。呉羽は、その、君の同期だろ?」
乃木澤が言おうとしていることは何となく分かった。
「俺は立場上見て見ぬふりはできない。呉羽とはきちんと話をするつもりだ。
しかし、君たち同期組が切磋琢磨しながら支え合ってきたのもよく知っている。このことで店の雰囲気が悪くなるのは本意ではない。」
「・・・少しだけ時間をいただけないでしょうか。呉羽と話がしたいんです。」
乃木澤は頷いた。
これは乃木澤の恩情だ。できることなら目を背けていたいが、もう向き合うよりない。呉羽の為にも。
ずっと外見を見ただけで全て分かったように決めつけられることが嫌だった。
呉羽は素朴で純粋で、人を傷つけることのない優しい女性だった。彼女だけは安芸を決めつけるような言い方をしたことがなかった。
でも、逆にそれは安芸が彼女をそのように決めつけていたのではないか。
彼女のような人は、野心など持たない。他人を羨んだり妬んだりしない。そう決めつけていたのではないだろうか。
今、安芸の中にある怒りや悲しみは、レシピを盗まれたことではなく、攻撃する術も理由も持たないと勝手に思い込んでいた彼女が牙をむいたことに対するものではないか。
話をすると、呉羽はあっさり罪を認めた。
きっかけは安芸が宇佐の誘いを断ったあの日だった。いつものように安芸の部屋で一緒に食事をするつもりで待っていたら、夕飯を作ろうとした矢先に宇佐から電話で呼び出された。宇佐は呉羽に、安芸が出世の為にレシピ開発に励んでいると話した。乃木澤に期待をかけられている、同期の中でいちばんの出世頭だろうとも言った。
話を聞いているうちに、だんだん呉羽の中にくすぶっていた不満が沸き上がってきて、気がついたら宇佐相手に安芸の愚痴をぶちまけていた。宇佐は親身になって呉羽の話を聞いてくれた。
それから何度か二人で会っていたが、安芸は今ここで聞くまで、全く気づいていなかった。
ある日宇佐が、スーシェフと飲みに行った時に呉羽のレシピを見てもらえるよう頼んできたと話した。
「私、まだ自信がないよ。」
「でも、このままだと安芸に先を越されるぞ。安芸の部屋に行った時に、あいつのノートを見ることはできないのか。」
「レシピのノートを置いてある場所は分かる。でも盗作なんてできないよ。」
「盗作じゃない。アイデアを借りるだけだ。それにあいつはまだ発表していないんだから、盗んだことにはならないよ。」
「でも・・・」
「今しかないチャンスなんだぞ!いくら世の中変わってきたって言っても、あんな老舗のレストランで女が出世するなんて、まだまだ難しいんだ。分かっているだろう?」
それでも呉羽は迷っていた。
私だってがんばってきた。
宇佐の言うとおり、確かにレストランの厨房は未だに男社会だ。例えば作業台や棚の高さ一つとっても、男性目線で作られているから使い勝手が悪い。それでも誰もが忙しい中、手が届かないから取ってくれなどと甘えたことは言えない。これだから女は使えないと陰口をたたかれるのは絶対に嫌だ。
毎日が張り詰めていた。でも呉羽は自分が周りからどう見られているかよく分かっていた。明るくて誰とでも親しくできる純朴な女の子。パブリックイメージはそんなところだろう。でもそれは本当の自分とは少し違うこともよく分かっていた。本当の自分は負けず嫌いで腹黒く、見栄っ張りだ。周囲が思う自分でいる方が都合がいいから、そのようにふるまっているだけだ。
とはいえ、外面を取り繕うのが日常だったから、決して無理をして演じているわけではなかった。少なくとも安芸と付き合う前まではそう思っていた。
「苦しかったの。ずっと前から。」
呉羽がぽつりと言う。
「さっきから言っているとおり、私は大和が思っているような可愛い女の子じゃないんだよ。大和はカッコ良くて、元モデルだったとか、海外の店で修業したってステイタスもあって、一緒にいると私が私以上に見えるかなって思っていた。」
呉羽は安芸の顔をじっと見ながら続けた。
「分かってる。ひどいよね、私。安芸が一番嫌いな人種でしょ。」
安芸は口数が少なくて、一見何を考えているかよく分からない男だ。同僚の中には敬遠している者もいた。
でもよく知ってみれば、嘘がつけない真っ直ぐさや、子どものような純粋さに気付く。
無条件に呉羽を信じている真っ直ぐな瞳で見つめられていると心がざわついた。自分が嘘つきだと思い知らされた。
安芸は料理が本当に好きだった。
一緒にいる時は色々と作ってくれたが、たとえ素朴な料理でもレベルの違いが感じられ、呉羽は複雑な気持ちだった。
でも世渡りの上手さは自分の方が長けている。安芸は力があってもアピールするのが苦手だ。
だから宇佐から安芸が乃木澤に気に入られていて、レシピを開発していると聞いた時は心底驚いた。彼にも野心があるということか。
「呉羽は安芸とこのまま一緒になれば、立場的には安泰だよな。」
探りを入れるような言い方だった。呉羽は宇佐が安芸をよく思っていないことに気付いていた。
恐らく自分が持たぬものを持つ者に対する嫉妬。綺麗な顔立ちに抜群のスタイル、料理のセンス、そして職場一の人気者の彼女まで。しかも全てを持っていながら、その価値に気付かず、執着することがない。その純粋さが何より妬ましい。
きっと私たちは同じだ。宇佐は私なんだ。
酒の力も手伝って、呉羽は宇佐に何もかもをぶちまけていた。
宇佐もまた呉羽の中に自分を見ていたのだろう。自分には才能などない。チャンスも廻ってこない。だから呉羽を助けようと思った。スーシェフに取り入り、呉羽の腕試しの機会を作ってやった。そして安芸のレシピを流用するように入れ知恵した。
安芸は作った料理を全部ノートに記録していた。ノートはキッチンに無造作に置かれていて、いつでも見ることができた。
乃木澤に見せるつもりのレシピには印がついていて、より書き込みがされていた。呉羽は写しを取りながら「バカじゃないの」と思った。私がこれをどうにかするなんて、夢にも思っていないんだ。呆れと嫉妬と申し訳なさで、泣き笑いのような顔になった。
安芸が考えたものだと悟られないように宇佐の手を借りてアレンジを加え、スーシェフに試食してもらった。スーシェフは成長を称賛し、ランチのメニューに加えると言った。
その場に乃木澤がいたのは誤算だった。安芸から話があると家に呼ばれた時、全てバレてしまったのだと悟って覚悟を決めた。
「そんな眼で見ないで。」
呉羽は目を逸らした。
「その眼が嫌だった。真っ直ぐで。綺麗で。見つめられると苦しかった。」
「俺が好きじゃなかったってこと?」
呉羽の目に涙が溢れた。
「よく分からないの。違うとも言い切れないけど。」
呉羽は大きく息をついた。
「大和が私を想ってくれるのが嬉しかった。大和といると、自分が本当に「大和が好きな私」になれた気がした。汚いところなんてない、優しい女の子になれた気がした。
それは大和を好きだったってことなのかな?私はちゃんと大和を好きだったのかな?」
安芸の目にも涙が浮かんだ。
「私はどこまで行っても自分が一番大事なんだと思う。ごめん、大和。」
「・・・お前のことが好きだった。でもよく見えていなかったんだな。
俺の勝手な思い込みや理想の押し付けで辛い思いをさせた。すまなかった。」
「謝らないでよ。」
呉羽はしゃくりあげながら言った。
「俺は出世したいとは思っていなかった。別に欲がなかったわけではなくて、今の店は自分の居場所ではないと感じていたから。漠然といつか自分の作りたい料理を出す店を持ちたいと思っていた。
でも安定した職を失って勝負に出るのが怖かった。上手くいかなかったら、お前に苦労をかけることになる。だったら今のままの生活を続けていくのも悪くないかなと思った。」
安芸はゆっくりと考えながら話した。
「乃木澤さんが俺のレシピに興味を持ってくれた時、少しその話をした。自分の店を持つにしても、もう少しここで経験を積んで金を貯めたらどうかと言われた。
そのことをお前に話せば良かったと思っている。俺はうまく説明できないから、いつも自己完結してしまう。だから何を考えているか分からないよな。悪かった。」
「大和。私たち、別れよう。」
泣き笑いのような顔で、呉羽は静かにそう言った。落ち着いた声だった。
彼女の気持ちは分かっていた。分かっていても心を抉った。あらかじめ用意されていた言葉をそのまま言っているように安芸には思えた。
「話してくれてありがとう。でも、もっと前にそれを聞いていたとしても、もっと早く終わりにしていただけだと思う。私はそういう女なんだよ。」
もう何が正しいのか分からなかった。
乃木澤には、呉羽と話をしたことを伝え、同時に店を辞めると言った。乃木澤は驚き、言葉を尽くして引き留めた。乃木澤の気持ちはありがたかったが、辞めるのは独立の準備であって彼女の為ではないと話し、納得してもらった。
安芸は呉羽がその後どうなったか知らない。宇佐を含め、同僚とは一切連絡を絶った。
大切な存在だった呉羽も、親しみを感じていた宇佐も安芸を裏切っていた。もう誰が味方なのかも分からない。だったらいっそのこと全ての関係を切ってしまおう。
宇佐ら同僚に本当の意味で仲間意識があったのかどうか疑わしいが、それでも喪失感は襲ってきた。特に呉羽を失ったことには。
何もせずにぶらぶらしてふた月過ごした。
せっかく貯めてきた開店資金を食いつぶすわけにはいかないとは思うが、どうにもやる気が出ない。
そんな時、モデル時代の仲間から遊びの誘いがあった。酒には弱いし、喋るのも得意ではないから普段はあまり参加しないのだが、何の気が向いたのか誘いにのることにした。少し人恋しくなったのかもしれない。
そこは港近くの大きなクラブだった。
何度か来たことがあるが、大きい方が人に紛れられて都合がいい。
「久しぶり!なんか痩せた?」
モデル仲間なのでみんな長身で服装も洒落ている。当然大勢の中にいても目立つ。周りの女がチラチラこっちを見て噂話をしている。こういう雰囲気は苦手だ。どうせ女を連れてきているのだろうと思っていたら、今日は全員男だった。女がいれば声をかけられることもないだろうと思っていたのに当てが外れた。
「あそこで飲んでる子たち可愛くね?」
カワイクネ・・・カワイクネエ?可愛いのか?可愛くないのか?
「現地調達かよ。」
「あ、女呼んだ方がよかった?」
「いや、別に。」
こういうところで知り合った女とはうまくいった試しがない。かといって、彼らに紹介された女が気に入った試しもない。
「行かない?」
「もう少し酔ってからにするわ。」
「そっか。じゃ、気が向いたら来なよ。」
隅の席に陣取って、暫く仲間たちの活躍ぶりを見ていた。
可愛いのか、可愛くないのか・・・
つまらないことをボーっと考えながらカクテルのグラスを傾ける。基本的にジュースみたいな甘い酒しか飲めない。それもごく少量でいい感じに酔えるのだから安上がりだ。無事に女たちを口説くのに成功したのか、仲間たちは連れ立ってダンスフロアに移動している。こっちに来いと目配せされたが、笑って手を振り、やり過ごした。
だんだん頭がぼんやりしてきた。気がついたら誰かに話しかけていた。
(こいつ誰だ?)
たまに相槌を打ちながら話を聞いているのは、明らかに知らない人間だった。
(なんで俺は知らないヤツに身の上話をしているんだ?)
安芸は今まであったことを語っていた。料理が好きなこと。フランスの家庭料理に魅了され、いずれ店を持ちたいこと。そのためにホテルのレストランで一生懸命に働いていたところ、同僚と彼女に出し抜かれて、店を辞めざるをえなかったこと。
(惨めだ・・・)
手元にあったグラスに残っていた酒を飲みほした。黙って話を聞いていた相手が慌てて制止しようとした。が、グラスは空っぽだ。
(なんだ?この味・・・)
喉がカッと熱くなり、頭がクラクラしてきた。風に当たりたくて外に出た。
ふらふらしながら暫く歩き、植え込みに勢いよくダイブした。頬を水滴が伝っていく。泣いているのか?俺は。
さっきまで話を聞いてくれていたヤツが追いかけてきた。涙とはっきりしない意識の中でぼんやりとしてはいるが、わりと綺麗な女だった。
「俺・・・どこで間違ったのかな?」
女は落ち着いた声で、
「何も間違えてないよ。間違ってない。」
と言った。そして、
「おいで」
と手を差し伸べた。彼女の肩に寄りかかりながら、
「・・・どこかで会ったっけ?」
と聞いた。
そう、どこかで会ったことがあるような気がした。
「なにそれ。ナンパ?」
女はクスクス笑いながら、
「でもそれ、私も思ってた。」
と言った。
今も当時のことをからかわれる。
「彼女にフラれてひたすら飲んで、べろんべろんに酔ったうえに私のテキーラ一気飲みしたんだよね?で、気がついたら植え込みにダイブして泣きながら寝ていたと。」
概ねその通りだが、表現にデリカシーがなさすぎる。それに別にやけ酒ではない。
その時はこんなに長く続く縁だとは思わなかった。
助けられたお礼と、その後にやらかしてしまった諸々のお詫びに朝食を作ったら、すっかり気に入られてしまった。
「私、ずっとあなたの料理のファンだったよ。」
ある日そう言われて、やっとホテルのランチタイムによく来ていた女性を思い出した。
「そうそう、この味!また食べられるなんて幸せだなあ。」
嬉しかった。
彼女に呉羽と似たところはほとんどなかった。自立した女性で、呉羽よりずっと大人だった。唯一似たところといえば、食べている時の顔か。
食べるのが好きらしく、安芸の料理をおいしそうに食べるその顔は本当に無邪気で幸せそうだった。
「おいしいよ。大和。私、幸せだなあ。」
あの笑顔も嘘だったのか。料理を作る原動力だったのに、それを失ってしまったら、もう誰かの為にうまいものを作るなんてできない気がしていた。
彼女にまた料理の世界に引き戻してもらったと感じている。とはいえ、そのきっかけは唐突で強引だった。
「友だちとカフェを開こうと思っているの。」
ある時2人で会っていた時に急にその話になった。
「へえ?」
「もう店舗も見つけてね。あとは契約するだけ。」
「・・・おめでとう。開店したら花を贈るよ。」
急な展開に困惑しながらも、安芸は何とか祝辞を述べた。すると美都はきょとんとして、
「なに他人事みたいなこと言ってんの。」
「え?」
「アッキーも一緒にやるんだよ。いつまでプーでいるつもり?」
と言った。
「お、俺?」
「そう!おれ。」
何を言っているんだ?このヒトは。
「き、急に言われても・・・ミトサン今までそんな話したことない・・・」
魚のように口をパクパクさせている安芸を、美都瑛は面白そうに眺めた。
「したことなかったっけ?」
「ないだろ。」
「でもやるでしょ?」
「拒否権ないわけ?」
安芸が弱った顔で上目遣いに美都を見ると、
「ない!」
と、にやにやした顔で美都は言い放った。
「友だちはパティシエなの。今度紹介するね。アッキーより年上だけど、すっごく話しやすくていい子だから。」
マジかよ・・・
美都の言動は大抵突拍子ないが、今回はいつもに増してひどい。振り回すにもほどがあるだろうと安芸が反論しようとしたとき、美都は心底嬉しそうに
「神流のケーキとアッキーの料理があったら無敵だよ!私、幸せだなあ。」
と言った。
いつだって、この笑顔がずるいと思う。自分の料理が好きだと言われて、この顔をされたら・・・敵わないじゃないか!
「あったよ~。アーティチョークの缶詰!や~っと見つけたよ~。」
カウベルが音をたて、美都がよろめきながら入ってきた。丹波と鶴城がシンクロした動きでそっちを見る。
「おっ!丹鶴ツインズ。いらっしゃい!」
「ミトちゃ~ん!」
「なになに、丹鶴?ちょっとまとめないでよ~。なんか、お笑いコンビみたいじゃな~い。」
丹波と鶴城が嬉しそうに突っ込む。
「あ、アンチチョップ?何それ?」
「プロレス技じゃないんだから。アーティチョークですよ。」
詩緒が冷たく言う。
「こらこら。一応お客さまだからね?」
美都が、それはそれで失礼な調子で窘める。
缶詰を安芸に手渡し、ジッと目を見つめた。
「・・・ありがとう」
気圧されたように安芸が謝意を述べる。
「うん!」
美都はまだ安芸から目を離さない。
(まだ何か?)
安芸も黙って見つめ返す。非常に分かりづらいが、こんな時の安芸は大抵の場合、困っている。
「アッキー、オーナーたぶん褒めてほしいんだよ。」
月ヶ瀬が耳打ちする。耳がこそばゆくて安芸は顔をしかめた。
そう言われると、美都が尻尾を振るスピッツに見てえてくる。
(いい年して褒めてほしいとか・・・)
面倒くさい。
シッシッと月ヶ瀬を追い払いながら、
「よく見つけたな。大変だっただろ?」
と、ぼそぼそ声をかけた。
たちまち美都の顔が、ぱあ~っと明るくなる。この人は思っていることがすぐ顔に出る。
「そうなの!最初は小町マートに行ったんだけどないじゃない?でね、横浜まで行ったんだけど・・・」
月ヶ瀬が安芸の背中をポンポンと叩き、交代して美都の話に相槌を打つ。丹波と鶴城も笑顔で聞いている。詩緒はあきれ顔だが、黙って丹波と鶴城のグラスにレモン水を注いでいる。美都は上機嫌だ。
でもみんなご機嫌を取ろうとしているわけではない。安芸もそうだ。なんていうか・・・そういうバランスなんだ。
「そういえばさあ、俺、この前会社の前でドラマの撮影してるとこ見ちゃったよ。」
鶴城がカップを口に運びながら得意顔で言う。カップを持つ小指が立ってしまうのは鶴城のいつもの癖だ。
「へ~?そうなの。知ってる俳優いた?」
丹波が話にのってくる。
「そうそう!ほら!人気女優の・・・なんだっけ~。昔、アイドルだった。ほら!」
「アイドル?すーちゃんとか?」
「古いなあ、丹波さん。もっとイマドキの女優さんだよ。あ~!最近名前が出てこないのよ。」
「なんてドラマの撮影だったんです?」
詩緒も興味ありげに話に加わる。
「人気の刑事ドラマだと思うよ。パトカーも見えたし・・・あ!思い出した、『追跡25時』!」
「わかった!樹莉だ。」
詩緒が興奮したように言うと、丹波と鶴城が「そうそれ!」と頷く。
「樹莉ちゃん可愛いよねえ。」
「そうそう。ちょっと舌っ足らずでさあ。そこがいいのよ。」
「でも雑誌のインタビュー記事で読んだんですけど、すごくコンプレックスだったらしいですよ。喋り方。」
詩緒は言いながらファッション雑誌を持ってきて二人の前に広げる。グラビアが数ページ続いた後にインタビューが載っていた。
「へえ~、俳優に転身したばかりの頃はセリフが聞きづらいって怒られてばかりで、辞めようかと思ったこともあるってさ。」
「あれがいいのにねえ。」
「この後、『私の代表作になった映画の撮影で出会ったエキストラさん。緊張されていたんでしょうね、リハーサルでセリフを噛んでしまって。本番じゃないから監督もそのままいったし、気にすることなかったんですけど、すごく落ち込んでいらして、私思わず声をかけたんです。ちょっと自分を見ているような気がしたのかも。でも励ましたつもりが私の方が励まされていました。全力で取り組んでいるんだから、喋り方が個性的とか?そんなこと些末なことだなって。気にしなくなったのはそれからです。』コンプレックスを乗り越えたエピソード、素敵じゃないですかぁ?売れる人は違うっていうか、強いですよねえ。」
「いい話じゃないの。可愛いだけじゃなくて芯が強い子だって、オレも思っていたのよ。」
「鶴城さん調子いいなあ。でもいい話だね。ホント。あ、ソルトちゃん、コーヒーお代わりね。」
「はーい。エスプレッソひとつ。」
「コーヒーよ?ソルトちゃん。コーヒー!」
丹波が慌てて言うと、月ヶ瀬がすかさず
「はい!エスプレッソお待たせしましたぁ!」
と、カウンターにデミカップを置いた。あらかじめ準備されていたかのような早さだ。
「ツッキーまで!あ~あ~、出てきちゃったよ。出てきたからには飲まないとね」
「丹波さん、いつもいじられるよね~。って、飲むんだ?エスプレッソ。」
「もったいないじゃない?」
「お嫌いですか?エスプレッソ?」
詩緒が聞く。
「カップが小さいから損した気分にならない?」
丹波が砂糖を入れながら言うと、月ヶ瀬が
「実はカフェインの量もドリップコーヒーより少ないんですよ。」
と、うんちくをたれた。
「そうなの?濃くて苦いからそんな気しないけどね。よけいに損した気分だなあ。」
口を尖らせる丹波に、美都が
「じゃあ、サービスでいいよ。」
と声をかけた。
「あら、いいの?なんか悪いねえ。」
丹波が上目遣いに美都を見る。
「うちの子たちが勝手にしたことだし。その代わりにまた来てね。」
「いいなあ。ボクもエスプレッソもらおうかしら。」
「鶴城さんはお代いただきますから。」
すかさず詩緒が言う。
「苦いの飲んだら甘いものが食べたくなっちゃった。今日はアコチャンお休みだっけ?」
丹波が詩緒に聞くと、詩緒は顔をしかめて
「え、なんでカンナさんのシフト知ってるんですか?」
と、ちょっと引き気味に水をつぐ。丹波は慌てて先週本人から聞いたのだと言い訳した。
「焼き菓子やチーズケーキならあるし、よかったらアッキーが何か作ってくれるよ。」
と、月ヶ瀬。
「パンケーキ焼きましょうか?」
カウンター越しに安芸が声をかける。
「いいねえ!じゃあ、ホットケーキね。」
丹波が勢いよく言うと、詩緒は小さい声で「パンケーキだってば」と呟いた。
「あ、エスプレッソ代はツッキーに付けておくから。桜スコーン代と共に来月分のお給料から引いておくね。」
「お、オーナー!?」
口をパクパクさせている月ヶ瀬は放っておいて、美都は安芸に話しかけた。
「ねえ、そういえば前に聞いた映画のエキストラの話ってさあ・・・」
安芸の肩がビクッとはねた。ホールの話は耳に入っていたが、黙ってやり過ごす気でいたのに。美都はニヤニヤしている。ホントこの人は!
「え!?なんですか?エキストラって?」
詩緒が食いついてきた。意外とミーハーなのか。そこに月ヶ瀬、丹波、鶴城が加わって安芸は引くに引けなくなり、とうとう黒歴史をみんなの前で話す羽目になったのだった。