ブレンド
オーブンを開けると甘い香りが鼻を突く。神流亜子は、この瞬間がたまらなく好きだった。
いい色。火は通っているかな?うん、大丈夫そう。これに生クリームを添えてベリーソースをかければ、定番スイーツ『焼きたて手作りスコーン』のできあがり!他にもパウンドケーキ、シフォンケーキが焼きあがっている。
気がつくと別方向からもいい匂いがしてくる。
「ベシャメルソース。グラタン用?」
神流は隣で鍋をかき回している男に声をかけた。男は手を止めず、視線も動かすことなく「そう」と答えた。
(そっけないなあ。まあ、慣れたけど。)
ほぼ黙ったまま、ひたすら木べらを動かしている男の横顔をじっと見つめる。長い睫毛、整った眉、切れ長の目、高い鼻、唇は少し薄く、少女漫画から抜け出してきたかのような端正な顔立ちだ。
見つめるうち、片方の眉がピクっと動いた。口元もだんだんへの字になってくる。
(おもしろ・・・)
「・・・近い」
「だってアキチャン喋んないから(おもしろくて)」
「フツー調理中に喋らないだろう。」
「この間さ、ミトちゃんに言われてたやつ。ほら、えっと、何だっけ?何に似てるって言われたんだっけ。」
「はあ?」
「あーもう!ここまで出かかっているのに。気持ち悪いなあ。何だっけ?ねえ。」
「アキチャン」こと安芸大和は、眉根を寄せて、
「どうでもいいから。それ。」
と不機嫌そうな声で言う。その背後から、
「ハシビロコウ!」
と、明るい声がした。
「ハシビロコウだよ。ね?アッキー。オーナーさ、アッキーは喋んないし、動かないし、ハシビロコウみたいだって言ってたんだよ。」
「そうだ!そうそう、ハシビロコウ!サンキュ、ツッキー。ふう、もやもや解消!スッキリ~」
サムズアップでにっこりする男を、安芸は苦虫を噛み潰したような顔で振り返りながら、
「ツキガセ~」
と恨めしそうに言った。月ヶ瀬岳は常に口角の上がった人の良さそうな顔をにこにこさせていて、安芸とは対照的だ。
「もうアッキーってば、そんな顔したらイケメンが台無しだよ。」
言いながら、月ヶ瀬は焼きたてのスコーンをぱくっと口に入れた。
「あーっ!!」
神流が両手で頬を挟んだ顔で悲鳴を上げる。
「ちょっとお!何すんのよ!!」
「うんま!アコチャン天才すぎる。」
「バカ!おまえ調理台に粉こぼすなよ!!」
安芸も珍しく大きな声を出す。
3人がぎゃーぎゃーやりあっているところへ、オーナーの美都瑛が
「おはよー。賑やかだねえ。」
と顔を出した。
「ミトちゃ~ん、オソマツッキーがつまみ食いした~。」
さっそく神流が美都に泣きついた。
よくある日常のやり取りなのだろう。美都は神流の頭をよしよしと撫で、月ヶ瀬に
「おいしかったでしょ。後で給料から引いておくから。」
と言ってにっこりした。
「ええっ!勘弁してよぉ~、オ~ナ~。アコチャンもさぁ、オソマツッキーとかひどくない?」
月ヶ瀬が悲鳴を上げる。神流は美都の後ろからアカンベエをしてみせた。後ろでハッと息をのむ音がした。神流、月ヶ瀬、美都がそちらを見ると、安芸が、
「ベシャメルソースが焦げた・・・」
と情けない顔で鍋を見つめていた。そういえば焦げ臭い。やり取りに夢中で誰も気づかなかった。
しょんぼりと鍋に水を張る安芸。3人は何と言っていいかわからず顔を見合わせた。
「カンナ、この前の新作スコーン、春の限定メニューに加えようよ。」
気を取り直して美都が明るく言う。
「桜のスコーン?嬉しい!」
「でも、ちょっと出足が遅かったね。桜の時期もうすぐ終わっちゃうから、来年は1ケ月早めよう。」
「ラジャ!定番にしてもらえるならがんばっちゃうよ!」
安芸は別の鍋で再度ベシャメルソースを作り始めた。背中から「話しかけるな」オーラがにじみ出ている。美都はその背中にチラッと視線を走らせただけでキッチンを出た。
(この二人ってどういう関係なんだろ。)
美都と一緒に店を立ち上げてから3年。広告会社の同僚だった頃より更に仲も深まったと思うのだが、安芸とのことははぐらかされたままだ。
安芸は店をオープンする前に美都が突然「うちのシェフよ」といって連れてきた男だ。元々調理は全て自分でやるつもりだった神流は少し驚いた。
「まだシェフを雇うほどの余裕はないけど。」
神流が囁くと、美都は
「安心して、彼にも出資してもらうから。共同経営者の一人よ。」
と、安芸の肩を叩きながら言った。
相談なしに勝手に決められたというモヤモヤも少しはあった。でも美都の唐突な行動はいつものことだったし、安芸の困惑した表情を見ている限り、大方彼も巻き込まれて戸惑っているのだろう。つくづく同情する。
神流は初対面で共同経営者と言われたこの男をしげしげと観察した。
すっごい美形。モデル?着こなしのセンスがいいし、それに足長っ!
小柄な神流からは見上げるようだった。まだひと言も発していないが、明らかに何か言いたげだ。
おとなしい人だな。神流は自分から話しかけてみることにした。
「神流亜子です。美都とは会社員時代からの付き合いで、この店は二人で立ち上げたの。えっと、これからよろしく。」
彼の端正な顔は年齢が読みづらかったが、恐らく自分よりも年下だ。
「安芸大和です。」
安芸はぼそぼそと自己紹介した。
(それだけ?)
子どもか!シンプルすぎてツッコミたくなる。氏名だけでは素性がこれっぽっちもわからない。
「アキはね。山下のクラブの前の植え込みに、泥酔して、ダイブして、泣いていたところを拾ったの。」
神流の心情を察したのか、美都が話し出した。
「み・・・ミトサン?」
安芸は思わず目を見開いて美都を振り返った。美都の雑すぎる紹介に、クールな印象だった安芸の表情がボロボロと崩れていく。
(青くなった・・・おもろ)
このクールな超絶イケメンが、クラブの前の植え込みに、泥酔して、ダイブして、泣いていたって?うわあ、ダメだ!想像できない!神流はワクワクしてきた。
「へえ~、なんで泣いていたの?」
興味津々で聞いてみる。
(口パクパクさせてる・・・おもろ)
どうやら、ただ単に無口というより言いたいことがうまく言葉にならないようだった。
「彼女にフラれてやけ酒あおってたら飲みすぎたんだよね?で、気がついたら植え込みにダイブして泣きながら寝ていたと。いやあ、延々愚痴られるし、デカいからタクシーに乗せるのも一苦労だったし・・・大変だったわあ。」
またもや美都が雑に代弁する。安芸は何でも喋ってしまう美都の前に弁明を諦めたのか、しょんぼりと肩を落とした。
(今度は落ち込んだ。しょぼん顔かわいいし、おもしろすぎる!!)
端正すぎるご面相のせいかポーカーフェイスに見えるが、意外と思ったことがそのまま顔に出るようだ。神流はどんどん安芸に興味がわいてきて、もやもやがすっかり消えてしまった。
結婚が早く小さい子どもがいる美都は昔からあまり夜遊びなどしなかったが、離婚後すぐは寂しさからか、それとも少し荒れていたのか、元夫が子どもと過ごす週末はクラブで強い酒をあおっていたようだ。安芸とはどうやらそこで知り合ったらしい。でも聞けたのはそこまでだった。知り合って身の上話をし合ううちに一緒にカフェをやることになったのは想像がつくが、明らかにただの知り合いではない空気感を醸している2人の関係の本当のところは聞けないでいる。そして聞けないまま3年、今に至る。
「そういえば土曜日に桜スコーン試食してくれた中学生、可愛かったね。」
月ヶ瀬がグラスを磨きながら言う。
「白樺女子の?」
神流が言うと、月ヶ瀬は「そう」と人差し指を立てた。
「アンタの女の趣味はついにそこまで低年齢化したか。」
神流があきれると、月ヶ瀬は「違うって!」と慌てて否定した。
「おまえはただの制服マニアだろ?」
安芸が口をはさむと、テーブルをセッティングしていた美都も、
「そういえばここに来たばかりの頃は、しょっちゅうユニフォーム作らないのか聞いてきたもんね。」
と話を合わせた。
「あのねえ。みんな誤解してるよ?俺のこと。俺は世界の恋人だよ?それに制服に惹かれて恋をするわけじゃないからね。・・・聞いてる?アコチャン。」
「誤解じゃなくて理解。それに途中で耳がキーンとしたから聞いてなかった。」
神流はいつの間にか肩に回された月ヶ瀬の手をシッシと振り払った。月ヶ瀬は誰にでも簡単にこういうことをする。それがわかってからはドキッとすることも少なくなった。
(言ってみれば子犬にじゃれつかれているようなものだよね)
神流は思った。私なんか月ヶ瀬のような遊びなれた男が本気で相手にするわけない。こういうやつは誰でもいいみたいに言うけど、結局は綺麗で可愛い女の子を選ぶんだから。
自分が簡単に恋に落ちるタイプではないのは自覚している。美都にはよく「思い込みが激しい」と言われる。そうかもしれない。
もちろん彼氏が欲しいとは思う。もっと言えば結婚だってしてみたい。いや、今すぐしたいくらい。
「今週ユート入る日いつだっけ?」
美都がカウンター越しにキッチンへ声をかける。
「今週は入ってないっスよ。履修登録とかなんとか?大学の方が色々と忙しいみたいで。」
月ヶ瀬が答えると、美都は「そっかあ」と頭を掻きながら眉根を寄せた。
「え?なんかユートじゃなきゃダメな案件ですか?」
「うん。スタッフルームの電球切れちゃって。あの子デカいじゃん?」
「あー、ちょっと前からチカチカしていたもんね。ついにいったか~。」
神流が言うと、月ヶ瀬は
「えっと、電球交換要員としてユートのデカさが必要ってだけなら、この子も十分デカいっスよ。ほら。」
と、安芸の両肩に手をかけて押し出した。
「おまえだって、たいして変わらないだろう。」
安芸は嫌な顔をして月ヶ瀬の手を払いのけた。
「じゃ、この際ツッキーでもいっか。手が空いた時に頼むわ。」
美都が言うと、月ヶ瀬は慌てて
「ま、待ってくださいよ!『この際』とか?『でもいっか』とか?色々心外なんスけど・・・てか、さり気にアッキー外してません?」
とまくし立てた。美都は事もなげに
「イケメンは電球変えないの。というわけで、頼んだよ。」
と言うと、月ヶ瀬の肩をポンっとたたいた。
「なに・・・なによ、その『アイドルはトイレに行かないの』みたいな・・・」
安芸も月ヶ瀬の方へ木べらを突き出しながら小さい声で、「頼んだ」と言うとニヤッとした。
「待ってよ。なによこの流れ・・・」
神流は月ヶ瀬の訴えるような視線を感じた。こういう時、月ヶ瀬はだいたい最後に自分を頼ってくる。
(諦めて電球を変えるんだ)
神流も目配せで思いを伝える。月ヶ瀬はそれに気づいたのか、
「ハイハイ!わかりましたよ。三枚目はおとなしく電球を変えますって。」
と両手を上げて降参すると、なぜか神流の手を掴んでスタッフルームへ向かった。
「え?なんで私まで!?」
「ケーキ焼けて暫くヒマでしょ?一人で作業するの寂しいから一緒に来てよ。」
「失礼ね!暇じゃないよ!ちょっとぉ~」
月ヶ瀬に引きずられるように連れていかれる神流に、美都と安芸は笑顔で手を振った。
「電球どこだっけ?」
収納の前で腕組みをしながら月ヶ瀬は神流に聞いた。
神流は(聞く前にまず探せよ!)と心の中で毒づきながら、
「工具棚だったと思う。」
とそちらへ向かった。
スタッフルームはカフェの上、3階の小部屋を大家さんの好意で使わせてもらっている。店で使っていない家具や、月ヶ瀬が趣味の旅行で集めてきた世界のお土産、神流や安芸のバイブル―レシピ本、美都が娘の雲母とハマっているアニメのキャラクターフィギュア、他にもスタッフそれぞれが持ち込んだお気に入りの品がバランスよく配置され、居心地の良い空間ができあがっている。
神流は工具棚の一番上に電球を見つけた。背伸びしてみるが、小柄な神流にはギリギリ届かない。
(ツッキー・・・)
悔しい思いで振り返ると、月ヶ瀬は美都のフィギュアを「また増えてる」とつまんで眺めていた。
(もう!)
自分よりだいぶ年下の月ヶ瀬が更に幼く感じる。そんな月ヶ瀬に、自分の身体的ハンデにより頼らなければならないのは悔しい。何とか伸び上がれば届きそうな気もするが・・・
(踏み台がなかったかな?あ、これでもいいか。)
手近な所にあった段ボール箱を引きずってくる。中身はコピー用紙のようだ。これなら乗っても大丈夫そう。
「よいしょ」
箱の上に乗ると、電球の箱に指先が触れた。「よっしゃ!」
と、その瞬間乗っていた箱がくしゃっと潰れ、僅かにバランスが崩れた。足元がふらつき、神流の顔から血の気が引く。
(ヤバい・・・)
咄嗟に目を瞑る。だが、思いのほか柔らかい衝撃とふわっと甘い香りに、神流は自分が抱きとめられていることに気づいた。
「・・・っぶねえ・・・」
ため息交じりの呟きに見上げると、触れそうな近さに月ヶ瀬の顔があった。
「届かないなら呼んでよ。無茶しないで。アコチャンが落ちてたら、俺、自分を許せないわ。」
いつもより低い声。口角が上がっていて笑っているように見える顔も、今は少しも笑っていなかった。
「ごめん・・・」
神流は片手で電球の箱をしっかりと握りしめ、もう片方の手で月ヶ瀬の白いパーカーを掴んでいた。落ちると思った時より心臓が騒いでいる。甘い香りはヘアワックスの香りだろうか。飲食業だから香水はつけていないはず。細身だと思っていたが、パーカーの下に感じる腕は案外逞しかった。
「アコチャン、俺・・・」
話しかけられて我に返ると、瞬間顔が火を噴いたように熱くなった。慌てて飛びすさるように月ヶ瀬の腕から逃れ、
「あ、ありがと、ありがと・・・まったくね。小っちゃいんだから自分でできると思うなって話だよね。いや~、若い時よりバランス感覚も悪くなった気がするわあ。あはは・・・も~う、デブだから重かったでしょ?ホントごめんねえ~」
と、ごまかすように一気に喋った。
(どうしよう。目が見れないよ)
月ヶ瀬の表情が気になったが、つい目をそらしてしまう。
月ヶ瀬はふっと微笑むと、「貸して」と神流の手から電球を取り上げ、切れかかった電球と交換した。
(何か話さなきゃ)
そうは思うのだが、こんな時に限って話題が見つからない。いつもお喋りな月ヶ瀬も珍しく黙ったままだ。
(何か言ってよ)
もう三十路過ぎなのに、自分の経験値の低さが嫌になる。
「電球って何ゴミかな?燃えないゴミ?」
ようやく沈黙が破られ、神流はほっとした。
「わかんない。調べておく。取りあえずゴミ箱の横に置いておこう。」
「オッケー。あのさあ。さっきは危なかったよね?アコチャン命拾いしたよね?つまり、俺は命の恩人だよね?」
いつもと変わらぬ軽い口調でペラペラと話し出した月ヶ瀬に安心する。まあ、あのまま落ちても命にかかわるほどのことはなかったと思うが、
「そうね。助かった。ありがと。」
と、素直に答えた。
「じゃあさ、じゃあさ。これでスコーンのつまみ食いの件はチャラってことでいいよね?」
「え?」
「オーナーに言っといてよ。このままじゃ給料から引かれちゃうよ~。」
調子のよさに呆れる。
(もう!さっきの雰囲気は何だったのよ。)
まったくいつもどおりの様子に気が抜けた。やっぱりお互いに仲間以上の感情を抱くことはないようだ。そもそも年齢が離れすぎているし、ね。
(よかった。今、うちの店すごくいい感じだから、仲間に恋愛感情とか抱いて気まずくなりたくないもんね。)
神流はふとすると思い出しそうになる月ヶ瀬の腕の中の記憶を打ち消すかのように頭を振ると、
「ミッションもこなしたことだし、戻りますか!」
と明るく言った。
「ホント頼むよ。頼んだからね?」
神流は必死な月ヶ瀬の背中を「わかったわかった」とポンポンたたきながら、
「あ、じゃあコーヒー淹れて。いつものアレでね。」
と言ってにやりとした。
「アレですか。」
「そう。ツッキー特製『神流亜子さまのためのスペシャルブレンドコーヒー』を淹れてくれたら、スコーンのこと許してあげる。」
普段は軽く見える月ヶ瀬だが、彼の淹れるドリンクは本当に美味しい。特にコーヒーを淹れるのは天才的だと神流は密かに思っている。
月ヶ瀬は1年前に客としてふらりとやってきた。
初対面の印象は悪くなかった。爽やかな風貌に清潔感のある服装、何より口角の上がった顔が、憎めない雰囲気を醸し出していた。
持ち前の人懐っこさで美都や神流、安芸ともすぐになじみ、ずっと前からの知り合いかのようだった。
月ヶ瀬は店が気に入ったのか、その後もちょくちょく訪れるようになった。
会話の半分は女の子の話で、そうとう女好きのようだったが、あまりにあっけらかんと話すので誰も嫌な感じはしなかった。一方で店の中に飾られた洋書を読んでいたり、今まで訪れた国々の国際情勢について語ったりして、語学が堪能でインテリな一面ものぞかせた。
「ここは居心地がいいなあ。俺もこんな店を持ちたいよ。」
「お店をやりたいの?」
「いつかはね。でも会社員とっとと辞めちゃってまだまだ貯金が足りないから、スキルアップも兼ねてバイトかけ持ちしているんだ。だけどそうすると、金は貯まっていくけど暇がなくなるんだよね。だから細かいことは何も決めてなくて。」
「あー、わかるかも。私もそうだったもん。仕事と家事と子育て、考えることが毎日そればっかりで、それ以外のビジョンが何も見えなかったから。
そーだ!ねえ、うちで働く?そんなにいいお給料は出せないけど社員で雇うよ。生活が安定した方が起業の意欲がわくでしょ?」
神流と安芸は顔を見合わせた。出た!美都の気まぐれスタンドプレー!!
その頃2年目を迎えた店は思いのほか順調で、3人は営業時間を延ばす為に人を雇おうかと話していたところだった。
とはいえ・・・
「ミトちゃん、ミトちゃん、そういうことは私たちの意見も聞いてもらわないと・・・」
慌てる神流の横で安芸もうなずいている。
「え~、だってこの子絶対にいい子だよ!2人だってスタッフ増やそうって言ってたじゃん。」
「言ったけどさあ。」
神流は月ヶ瀬に助けを求めるように、
「君も急にそんなこと言われても困るよね?出会ったばかりなのに。」
と聞くと、月ヶ瀬は
「マジっすか?いや~、ここで働かせてもらえるなら願ったり叶ったりですよ。」
と意外にも前向きだった。
「ちょっと!アキチャンも何とか言ってよ。」
予期せぬ反応に驚いた神流は安芸に泣きつくと、安芸は冷静に
「何ができる?」
と月ヶ瀬に聞いた。
「接客だけならバイトでもいい。他に何かできることあんの?」
(さすがアキチャン!)
神流が感心していると月ヶ瀬は、
「何ごとも勉強だと思って色んな仕事経験したから、けっこー色々できるよ。」
と言う。神流が大きいこと言うなあと呆れていると、美都が
「じゃあコーヒー淹れてくれる?」
と親指でキッチンを指した。
「ラジャ!」
月ヶ瀬は敬礼の真似をしながらキッチンに入る。神流は慌てて後を追い、予備のエプロンを渡して簡単に設備や器具の説明をした。
ほどなくして、慣れた手つきで月ヶ瀬がハンドドリップでコーヒーを3つ淹れ、カウンターに座る3人の前に置いた。美都の分には温めたミルクがたっぷり入っていたが、神流と安芸はブラックだった。
「スペシャルブレンドとカフェオレでございます。」
月ヶ瀬がにっこりと笑う。コーヒーを淹れるだけなら誰だってできるからと思いながら、神流はコーヒーをひと口すすった。
「え?」
「おいしい。」
「うん・・・うまい。」
月ヶ瀬は「よっしゃー!」とガッツポーズをした。香り高く雑味のない味わいは、豆の良し悪しだけではないように思う。明らかに神流が淹れるのよりもうまかった。それに、
「私、カフェオレ注文してないよね?」
と美都が聞くと、月ヶ瀬はにっこり笑って
「ミルク入れないと飲めないって話、わりと最初の頃に聞いたから。」
と言った。記憶力の良さと咄嗟の機転に舌を巻く。
「決まりだね。」
美都は笑顔で神流と安芸の肩をたたいた。
こうしてひょんなことから仲間になった月ヶ瀬だが、コーヒー以外にも彼の淹れる飲み物は概ね評判が良かった。もちろん接客は完璧だし、手先も器用でDIYもお手のもの、次第に店になくてはならない存在になっていた。
月ヶ瀬が入ったことによって、美都が経営全般と宣伝活動、神流がスイーツ、安芸が食事、月ヶ瀬がドリンクと接客という役割分担が明確になった。
月ヶ瀬は美都をオーナーと呼び、一目おいていた。自分よりだいぶ年上だからか、美都の持つ雰囲気からなのかはわからないが、共同経営者ということからいえば(もちろん出資金額はだいぶ違うが)神流や安芸だってオーナーなのだが、どちらかといえば2人は彼にとって自分と同列のようだった。
神流は下の名前を知るやいなや『アコチャン』と呼ばれた。5歳も年下なのにずいぶん遠慮のない態度だが、不思議と嫌な感じはしなかったのでそのままにしている。
そして彼はやたら人との距離が近い。気さくでお喋りなのもそうだが、物理的距離も近く、ごくごく自然に肩や腰に手を回したり髪を触ったりと体に触れてくる。初めは驚いたし、深く考えもしたが、見ているとどうも性別年齢立場問わず誰に対しても同じようにしているので、間違っても自分が特別などとは思ってはいけないと肝に銘じた。
ある日、神流と月ヶ瀬は遅番で、2人きりで店番をしていた。外は夕方からの雨で人通りも少なく、閉店時間30分ほど前になると人っ子一人歩いていなかった。
「うわー。まだ降ってるよ。」
月ヶ瀬が窓を開けると雨が庇から吹き込んできそうになり、慌てて閉めた。
「今日はもうお客さま来そうにないね。クローズしちゃおうか。」
神流が声をかけると、月ヶ瀬は「賛成!」と右手を上げた。
(ツッキーって片付け早いよね)
副業やら付き合いやらでプライベートが忙しいのもあるようだが、店を閉めてからの作業がとにかく早い。レジ閉めもあっという間に完了し、掃除や雑務もほぼ1人でやってしまう。おかげで神流はキッチンの片付けや明日の準備に集中できる。
「アコチャン、この後時間ある?」
「うん。今日は帰るだけ。どうしたの?」
神流が聞くと、月ヶ瀬は
「じゃあコーヒー飲んでいこうよ。」
とにっこり笑った。
「いいよ。雨が強いけど、どこに行く?近場だと・・・」
「いやいや、ここでいいじゃない。俺、淹れるからさ。」
と、神流がまだ何も言わないうちから準備を始めた。
「うちの店か~い!」
神流が笑うと、月ヶ瀬も笑って、
「そ、今日はね。デートはまた今度。」
と軽い口調で言った。
「あれ、そのキャニスター見たことないんだけど。ブレンド?」
月ヶ瀬はチラッと神流の方を見て、
「ご名答!ま、飲んでみてよ。」
と、きれいな手つきでコーヒーをハンドドリップした。
「どうぞ」
淹れたてのコーヒーから立ち上るふわっとした香気が鼻をくすぐった。
(これ・・・)
口にした瞬間から好きだと感じた。爽やかでフルーツのような香り。コーヒーも果実なのだと実感する。
「おいしい」
月ヶ瀬は「よっしゃ!」とガッツポーズした。
「え、え、なにこれ、なにこれ!?新しい配合?すっごく好みなんだけど。」
「だろ?だってこれ、アコチャンのためにブレンドしたんだもん。」
「え?」
「オーナーは深煎りが好きだけど、アコチャンは店のブレンドよりフルーティーで軽めの方が好きって言ってたでしょ?だから勉強がてらアコチャンが喜びそうな配合を考えてみたんだ。モカを基本に3種類。めちゃめちゃ難しかった~!まだまだだわ~。」
「ツッキー・・・」
「名付けて、『神流亜子さまのためのスペシャルブレンドコーヒー』だから。」
「ネーミング、ダサっ!」
「いいんだよ。店で出す予定ないし。」
ヤバい。嬉しい・・・
うっかり自分が特別だと思いそうになる。
違うから。このヒトは人類皆兄妹だから。こういう人を好きになったらダメだから。
湯気の向こうに揺れるいつになく優しい眼差しに持っていかれそうになる心をぐっと押しとどめる。
「また淹れてくれる?」
「もちろん!アコチャンが望むならいつだって!」
いつもの軽い口調。にっこりと笑う顔は誰にでも見せる人の好い笑顔で、心の中までは読み取れなかった。
(でも楽しい)
たとえ恋じゃなくてもいい。神流は月ヶ瀬と2人で他愛のない話をしながらコーヒーを飲むこの時間を楽しんでいた。
そしてそんな関係は今も続いている。たまに2人だけで閉店後にコーヒーを飲みながら話す。
今日は、月ヶ瀬は遅番だが、神流は早番だった。新しいメニューを考えたいからと美都を先に上がらせて、神流は月ヶ瀬の作業が終わるのを待った。
月ヶ瀬はいつものキャニスターを持ってきて、神流の為にコーヒーを淹れた。お湯が落ちるのを眺めながら、美都と安芸の噂話をする。
「オーナーはもう誰とも付き合わないのかな?」
「うーん。どうだろ?娘のキララちゃんもまだ幼いし、今は色々考えちゃうんじゃないかな。先のことはわからないけど。」
「そういう話しないんだ?」
「聞きづらいのよ。何でも話せる友だちではあるんだけど、ミトちゃんもアッキーも距離が近くなりすぎて、知ってしまったら今のバランスが保てなくなりそうな気がするっていうか。」
月ヶ瀬はふーんと聞いていたが、ふと真面目な顔で、
「アコチャンは変化を恐れて身動きが取れなくなっちゃうタイプ?」
と聞いた。
「ずっと変わらないものなんてないんだから、言いたいことは言った方がいいし、やりたいことはやった方がいいと俺は思うけどね。」
月ヶ瀬はそうやって生きてきたのだろうと思う。語学を身につけ、世界を回り、夢を見つけた。その夢を叶える為に会社を辞め、色々な経験をして、今ここにいるのだってステップアップのためのほんの一時のことなのだろう。
神流は自分が会社を辞めた時のことを思う。会社から期待され、順調に仕事をしてきた美都が、唐突にカフェを経営したいと言い出した時のこと。
大好きなお菓子作りを本格的にやりたいと思いながらも、安定した生活を手放す勇気がなくて現状維持を続けていた自分に、なぜかカフェの夢を熱く語る美都。そう、今でも不思議に思うが、あの時はひととおり聴いてから、自然と「オッケー。じゃあ一緒にやる。」という言葉が出てきたんだ。話の中で美都は神流を誘う言葉を口にしたわけではない。でも神流は自分が必要とされているのが分かっていた。そして恐らく自分も、手を取り、引き上げてくれる存在を待っていた。だから会社を辞めて美都の唐突な提案についていくことに何の躊躇いもなかった。
そんな衝動は後にも先にもあの時だけだ。
神流は自分が基本的に何も変わらないのが好きなことはよく分かっている。
「言わんとしていることは理解できるけど、私はツッキーとは違うよ。私は「今じゃない」と思ったら言わないし、動かない。無理はしないと決めているの。」
「じゃあ、「今だ」と思ったら動くの?」
「うん。たぶんね。」
月ヶ瀬は納得したのかしていないのか微妙な表情で神流を見つめると、ぱっと視線を外して伸びをしながら、
「んがーっ!今じゃないのかあ。」
と大きな声で言った。神流は驚いて目を見開くと、
「なによ。急に大きな声出して。」
と口を尖らせて言った。
「何でもないよ。もう1杯飲む?それともビールに変える?」
神流は握りこぶしを突き上げて
「ビール飲みたい!飲みに行こ!」
と、元気よく言った。
なぜかヘコんだように見える月ヶ瀬。でも神流は気付いていない。
神流は飲み終わったカップを自分で洗い、
「早く、早く!」
と、月ヶ瀬を急かした。
(今はこれがいい)
店を出るなり「競争だ!」と3階へ階段を駆け上がる月ヶ瀬を、神流は「ガキ!」と笑いながら追いかけた。