桜紅茶
「ねえ、お茶していきましょうよ。」
母が足を止めて言った。
桜の花びらがひらひらと舞う。石造りの小さなビルの前に置かれたA型看板には、カフェメニューのイラストがチョークで可愛らしく描かれていた。
正直おなかはすいていたが、早く帰りたかった。父もそうだったと思う。心の中で父が反対してくれることを願った。だが父は、
「いいね。ちょうど喉が渇いていたんだ。」
と言った。ツカエナイ・・・
父の同意を得て、母は嬉しそうにビルへ入っていった。父に促されて、しぶしぶ私も入った。1階は不動産屋だった。看板のカフェは2階らしい。
ドアを開けるとカラカラ音がした。
「可愛いお店!ね?」
母の大発見でもしたような顔が鼻につく。そんな母を微笑んで見つめる父にも辟易した。
確かに、こぢんまりしているが感じのいい店だった。椅子やテーブルは不揃いだがアンティークっぽい感じで統一感がある。そこかしこにグリーンが飾られ、アーチ形の窓から入ってくる爽やかな風が心地よかった。
「いらっしゃいませ。」
美人だが無表情な店員が声をかけてきた。
「3人です。」
父が指を3本立てると、店員はにこりともせずに、
「お好きな席へどうぞ。」
と言った。母は私と父の意見も聞かずに窓際の席へ座った。勝手な振る舞いに腹が立ったが、窓から見える桜はすばらしかった。
「ふう・・・」
父は一息つくとネクタイを緩めた。母が隣にバッグを置いたので、私は父の横に座った。
「荷物置こうか。」
と母は手を差し出した。私は首を横に振った。だって膝に鞄をのせていると落ち着くから。
「コーヒーが飲みたいけど、『桜の紅茶』って気になるなあ。」
メニューを見ながら母が言った。
「お決まりですか?」
さっきの無表情な女ではなく、若い男の店員がテーブルに水の入ったコップを並べながら声をかけた。今度の店員は気さくな笑顔。まさに真逆のタイプだった。
「えっと、コーヒー2つと・・・沙羅は?桜紅茶なんておいしそうだよ。季節限定だって!」
気になるとか言っておいて自分はコーヒーかい?そして娘に押しつけるのかい?
母の勝手な言いようにイライラする。何で私の飲み物までこの人が決めちゃうんだろう。
「入学式ですか?」
店員が聞いてきた。
「そうなんです。」
母が機嫌よく答える。
「その制服は白樺女子かな。おめでとうございます。受験がんばったんだね。」
店員は私に笑顔を向けた。学校名を言い当てられて母も父も嬉しそうだが、私は(女子校の制服に詳しいとかキモっ!)と思ってしまった。
「桜紅茶おすすめですよ。特に『晴れの日』にはぴったりのお茶かと。」
彼もプッシュしてきた。何なの?アナタタチ。でも思いとは裏腹に桜紅茶に惹かれている自分がいる。それに、ここで別のものを頼むのも大人げない気がした。
「じゃあそれで・・・」
父母も店員も、私が自分の意見に従ったとでも思ったのか嬉しそうに見えた。私はますます腹が立った。
初めて着る制服は落ち着かなかった。葡萄茶色のリボンを巻いたYシャツの首は締めつけられているようだったし、皮のローファーも足に馴染んでいなくて痛かった。
今朝、出かける前に母は、制服姿の私を家の前に立たせて何枚も写真を撮った。近所の人がそれを見て、おめでとうと声をかけてくれる。私は恥ずかしくてたまらないのに、母は得意になっていた。SNSにでもアップされたらドウシヨウ・・・そんなことされたらもう学校なんて行けない。
受験は大変だった。
と言っても、勉強が苦だったからではない。行きたくもない学校のためにモチベーションを上げるのが大変だったんだ。
受験組はクラスで3人。私以外に、公立中高一貫校狙いの青山力人。電車で5駅の街にある名門、白樺女子学院を私と一緒に受験する田町涼香だ。
青山はクラスで1番頭が良かった。頭が良すぎて誰とも話が合わないようで、特定の友だちはいなかった。でも気さくに勉強を教えてくれるので、いつも周りに人が集まっていて孤独ではなかった。彼が中学受験をする目的は明確で、大好きな天体の勉強をするために大学へ行くこと。その分野でトップクラスの研究をしている大学に入るために1番近道の高校へ行くことだ。家があまり裕福ではない青山は、親に負担をかけないよう公立の中高一貫校を選んだらしい。人気で倍率が高く、私立の名門校なみに狭き門だ。
田町涼香は6年間ずっと同じクラスの腐れ縁で家も近く、よく一緒に遊んだ。とはいえ、同じ中学を受験することは偶然だった。腐れ縁もここに極まれりといったところだ。
涼香の家はわかりやすく言うと、白くてメルヘンで、お花であふれている大きなおうちだ。お母さんも家と同じで、白くてメルヘンでひたすら優しい。お父さんは海外勤務らしく何年も見ていないが、小柄で、お母さんと似た雰囲気の人だったと思う。
白樺女子は母と祖母の出身校だ。娘ができたら通わせようと夢見ていたのだろう。そこがまず鬱陶しい。
「白樺女子の制服、ブレザーになったんだよね。セーラー服着てみたかったなあ。」
ある日、帰り道で涼香が言った。
「涼香はどうして白樺女子に行きたいの?」
私と同じような理由かもしれない。親に勝手に決められて、何となく受験するだけなのかも。でも、涼香の答えは違っていた。
「従姉が通っていて楽しそうだったから。外国語教育に力を入れたカリキュラムが特徴的で、英語の先生は全員ネイティブなんだって。それに大学までエスカレーターで行けるしね。実はパパは受験に反対で、ママが一緒に説得してくれたの。」
そう話す涼香の目はキラキラして見えた。私はショックだった。結局、青山も涼香も自分の意志で受験するということだ。なんだか自分だけ地に足がついていないような気がして悲しくなる。
あまり成績の上がらない私に、母は家庭教師をつけた。現役の大学生で、すごく痩せていて化粧っ気はなく、地味でおしゃれとか興味がなさそうなお姉さんだった。見た目の印象はともかく教え方はうまかった。それに話も合いそうにないから雑談をすることもなく、勉強に集中できた。
涼香は家庭教師のほかに、塾と英会話スクールに通っていた。大好きだったピアノ教室は回数を減らし、バレエは辞めてしまったらしい。忙しすぎて最近はあまり遊ばなくなった。それどころか、学校以外で姿を見かけることもなくなった。近くに住んでいるのに・・・
「沙羅ちゃん、お受験するんだよね。」
クラスの女子が聞いてきた。
「うん。」
「一緒の中学に行けないんだね。」
「白樺女子でしょ?あそこレベル高いから、入れたらすごいってママが言ってた。」
「しかも『お嬢さま学校』だよね?いいなあ。うちなんてビンボーだから絶対にムリ!ま、受かる頭もないけどね。沙羅ちゃんが合格したら、同級生で通ってる子いるって自慢しちゃうな。」
「もう!大げさだよ。」
こんな会話はウソ笑いでやり過ごす。慣れてきたけど、やっぱりキツイ。疎外感。別の中学へ行くってだけで、みんなとは違うの?それにうちはごくごくフツーのサラリーマン家庭だ。『オジョウサマ』って言われるほど、ゆとりある暮らしぶりではない。
涼香や青山は何も感じないのだろうか。少なくとも外見からは気にしていないように見える。話してみたいけど、この頃の涼香は何となく声をかけづらくなっていた。青山とは今まで個人的な話をしたことがない。いきなり聞いたら変に思われるかも。
試験を2か月後に控えたある日、帰りの会が終わると、涼香は慌ててランドセルを背負った。家庭教師が来る日なのだろうか。
「涼香。」
声をかけてみる。
「一緒に帰りたかったけど、急いでるよね?」
ちょっと険しかった表情がふわっと和む。
「急いでるけど、いいよ。一緒に帰ろう。」
小柄な涼香は私を見上げるように言った。
小さい頃から彼女はいつも優しかった。クラスのみんながイメージする白樺女子に行くようなお嬢さまって、涼香のような人のことだと思う。大きな瞳、少し困ったような眉、真っ直ぐで腰まである長い髪。ガーリーでシミひとつない服や持ち物は、女子が憧れるブランドのものばかりだった。性格は嫌味なく、どちらかというと、おとなしかったので、やっかみからいじめられるようなこともなかった。要は根っから育ちがいいんだと思う。
「久しぶりだね。一緒に帰るの。」
久しぶりすぎて何だか緊張してしまう。
「そうだね。」
「受験勉強進んでる?」
「うーん。ぼちぼちかな。模試の点があまり良くなかったから、勉強時間増やしたの。」
家庭教師が来るまでに帰らなくてはと涼香は続けた。
私たちは暫く無言で歩いた。
でも本当は話したかった。優しい涼香はきっと耳を傾けてくれる。何も言ってくれなくていい。ただ、誰かに聞いてほしかった。
私ね。本当は受験なんてしたくないの。白樺女子に行きたいなんて全然思わないの。でもそれは、どうしても学区の中学校に行きたいってことではなくて、『お受験する子』なのが嫌なの。周りと違うのが嫌なの。それにね、ママが最初から決まっていることみたいに言うのが腹立つの。がんばらなきゃいけないのは何のためなのかわからないの。
心の中で「あのね」とくり返す。でも続く言葉が出てこない。せっかく二人きりなのに。きっとまた暫く話す機会なんてないのに。焦って頭がカチコチになってくる。
「沙羅ちゃん。」
唐突に涼香の呼びかけが耳に入ってきた。心臓が飛び出しそうに驚き、返事が上ずったような変な声になった。
「なに?どうしたの?」
「沙羅ちゃん、前に私がどうして白樺女子に行きたいのか聞いたでしょ?」
「うん。」
私はドキドキしながら答えた。
「沙羅ちゃんは?どうして白樺女子に行きたいの?」
「え?」
「聞いたことなかったなあと思って。」
それは話したかったことの取っ掛かりなるはずだった。向こうから聞いてきたのだから、紛れもなくチャンスだった。なのに、私の口からでてきたのは、誰に聞かれてもいいように用意されているお決まりの回答だった。
「うちはママもおばあちゃんも白樺女子だから。」
涼香は「へえ~」、「そっか」と言った。それだけだった。また暫く無言で歩いた。涼香の家の屋根が見えてきた。
(なんだよ・・・)
涼香にしてみれば、それしか言いようがなかったと思う。でも腹が立った。なんだかとてもイライラした。
ほどなく涼香の家の前についた。
「バイバイ。」
涼香は小さく手を振って、門の中へ入っていった。
「うん。バイバイ・・・」
私も手を振った。涼香はにっこり笑った。相変わらず白くてメルヘンな家だった。けど、違和感があった。そういえば、たくさんあった花がない。正確に言うとほとんど枯れていた。花の季節ではないといえばそうなのかもしれないが、涼香のお母さんは枯れた花をそのままにしておくような人ではなかったはずだ。
「涼香!」
庭の途中で涼香は振り返った。
「なに?」
思わず呼んでしまったが、先刻同様に言葉が出てこない。とっさに、
「大丈夫?」
と言った。とんちんかんな気がしたが、他に何も出てこなかった。
「大丈夫だよ?」
涼香は小首をかしげて、いつものようにふんわりと笑った。何も変わったところはないように見えた。
「うん。そっか。急いでいるのにごめんね。」
「バイバイ。」
涼香はもう一度手を振って家に入った。気のせいだよ、気のせい。何をやっているんだろう、私。結局最初から最後まで何一つ言いたいことが言えないまま、私は消化しきれない思いを抱えて家に帰った。
試験の日は雪だった。
「なにも今日降らなくたっていいのに。受験票持ったね?長靴にしなさいよ?こういう時は履きなれている方がいいからね。この前買ったのじゃなくて古い方。ママはパンプス持たなくちゃ。そうそう、あなたの靴も持たないとね。忘れるところだった。」
「受験票はさっき確認した。長靴はいつもの履いてる。替えの靴はここに入れたよ。もう、ママの方が落ち着きないじゃない。」
慌てる母を見ていたら、かえって冷静になってきた。仕立てはいいけどシンプルすぎる紺のツーピースは、この日の為に母が用意したものだ。もちろん好みではないけど、受験が終わったらもう着ることはないと思うと、何だかもったいない。
試験と面接を無事に終えると気が抜けてしまった。母は帰りにハンバーグをごちそうしてくれたが、噛みしめても味がよくわからなかった。とりあえず、全て終わったんだ。
次の日、家庭教師が自己採点の手伝いに来てくれた。
「うんうん。これだけ解けていれば、実際も7割強正解しているんじゃないかな。がんばりましたね。」
「よかった!本当に先生のおかげです。」
今日は私の部屋ではなく、リビングのテーブルに採点結果を広げながら話をしている。
母が深々と頭を下げると、家庭教師は恐縮したように両手を振った。
「そんな!私のお手伝いなど微々たるものです。沙羅ちゃんの努力だと思います。」
「おいしいケーキを買ってあるんです。先生、ぜひ召上がってくださいね。」
母はいそいそとお茶を淹れにキッチンへ立った。リビングは、私と家庭教師だけになった。この人とは勉強を絡めない会話をしたことがないので、何となく気まずかった。それに勉強の時はいつも隣に座っているので、正面から顔を見るのも少し恥ずかしかった。
「今日はスーツなんだね。」
会話の糸口を探して声をかける。
「インターンシップの帰りなので。」
これが「リクルートスーツ」ってやつか。普段から地味だから、就活の為に敢えて選んだものとも思えないけど。でも、よく見ると今日は薄っすら化粧をしているようだ。眼鏡も縁のない物をかけている。
「お待たせしました。先生、チョコレートとレアチーズどちらがお好き?」
「すみません。では、レアチーズで。」
ビターで大人っぽいチョコレートケーキではなく、可愛らしいハート型の苺がのったレアチーズケーキを選ぶとは意外だった。案外可愛いものが好きなのだろうか。
「おいしい。ケーキなんて久しぶりに食べました。」
「先生、一人暮らしですものね。今度就活でしたっけ?」
「そうなんです。余裕があれば本当は院に進んでもう少し勉強したいところですけどね。うちは一人親家庭だから就職浪人はしたくないと思っていて。」
「あら。何だかもったいないね。奨学金で続けることは難しいの?」
「母はそれでもいいと言ってくれているんですけどね。でも勉強はいくつになってもできるし。幸いやってみたい仕事もあるので、今は就活をがんばろうと思っています。」
家庭教師はそう言うと微笑んだ。笑うと目が糸のように細くなり、猫みたいで可愛かった。この人、こんな顔してたんだ。毎週2回会っていたのに、ぜんぜん顔を見ていなかったことに気付く。
「合格発表の後に改めてごあいさつに伺いますね。あと少しだけど、小学校生活、楽しんで。」
母に促されて門まで家庭教師を送る。ではまた・・・と頭を下げようとしたところで、彼女は振り返った。
「ずっと聞いてみたかったことがあります。最後なのでいいですか?」
ハア?驚きすぎて、「なに?」という声がビミョーに裏返ってしまった。
「沙羅ちゃんは、本当に白樺女子に通いたかったのですか?」
頭が真っ白になった。
ずっと問いかけてきたこと。そして誰かに答えを聞いてほしいと思ってきたこと。その答えを求めてきたのが家庭教師なんて、予想外すぎて言葉にならなかった。
「・・・通いたかったよ。本当に。」
まただ。涼香の時と同じ。また私は本当の気持ちが言えないんだ。
家庭教師は曖昧な笑みを浮かべ、
「ありがとう。気になっていたんです。教えていても最後までやりがいを感じられなかったので。」
と言った。そしてぽつりと、
「良かったと思いますよ。受かっているといいですね。」
とナゾの言葉を呟いて去っていった。
受験の少し前から涼香は学校へ来なくなっていた。担任は「おうちの事情」としか言わなかった。
受験会場では見つけられなかった。色々話をしたかったのに、がっかりだった。
ある日、帰り道で同じクラスの青山に出会った。青山は帰る方向が逆だったはずなので少し驚いた。聞いてみると、図書館へ本を返しに行くのだという。持っていた3冊の本は、「宇宙」や「星座」などと書かれた大人向けの図鑑だった。何となく星のことを聞いてみると、嬉しそうに冬の星座の話をしてくれた。気を遣って振った話題だったが、あまりに青山の話し方がうまいので、いつの間にか聞き入っていた。
「ごめん。オレばかり話しているね。つい夢中になっちゃって、親にもよく言われるんだ。「相手を置いてけぼりにするな」って。」
「ううん。いいよ。おもしろかったし。」
勉強にしか興味がなくて友達もいない人と思っていたので、大人びた気遣いが意外だった。
「そうだ。藤代総合に合格したんだってね。おめでとう。」
「知ってたんだね。ありがとう!」
青山は顔をくしゃっとさせて笑った。こんなに明るく笑う人だったとは驚きだ。
「クラスで話題だもん。みんな知っていると思うよ。」
「ああ、うん。いや、みんなが言っているのは知ってたんだけど。藍住はあまりオレなんかのことに興味がないだろうと思っていたから。」
そうだけど・・・失礼なのは私の方なのに、図星を指されてショックだった。
「気に障ったらごめん。」
「ううん。別にいいけど。」
あまり良くなかったが、取りあえずそう言う。
「藍住は白樺女子だよね。発表はいつ?」
知ってたんだ。
それこそ、私のことなど興味ないだろうと思っていた。
「明日。ネットで分かるの。」
「そっか。緊張するね。」
「ううん。別に。落ちてもかまわないし。」
前を向いたまま話していたが、青山がこちらをまじまじと見ているのが伝わった。私の口はかまわず喋りだした。
「私ね、白樺女子に行きたいなんて思ったことないの。受験は親がそうしろって言うから仕方なく。受けるしかなかったの。あ、最初はね、落ちたら恥ずかしいし、嫌だって言ったんだよ?でも、うちのママ全然聞いてくれなくて。自分やばあばの出身校だからって。勝手に私に自分の夢を押しつけてくる・・・みたいな?」
「藍住・・・」
青山が困っているのが分かったが、喋りだすと止まらなかった。青山とはほとんど初めましてに近いくらい個人的な会話をしたことなどないのに、なぜ今まで誰にも言えなかったことをペラペラと語っているのか、自分でもリカイフノウだった。
ひと通り言いたいことを言ってしまうと、大きく息をついた。青山は私が落ち着くのを待ってから、
「藍住はさ、白樺女子の文化祭とか見に行った?」
と聞いてきた。
「学校見学会は行ったけど。」
質問の意図が分からなくて戸惑った。
「オレも受験とか興味なかったんだ。でも親と先生が相談して、オレには基本的に大学進学を目指すやつが通う中高一貫校が向いているんじゃないかって、学校見学会に無理やり連れて行かれたんだ。そうしたら、頭の良さそうな人ばっかでさ。オレなんて入ってもついていけるわけないってビビッてたんだけど、暫くして今度は母ちゃんが文化祭に行こうって言いだして。しょうがないから付き合ってやったら、すごく楽しかったんだ。みんな活き活きしているし。まじめそうな人が本気でアホみたいなことやってたりするんだよ。そうしたら興味が湧いてきて、行ってみたいって思うようになったんだ。一旦そう思ったら、それは目標になって、なんだか大学で天体の研究をしている自分の姿が見えてきたんだ。」
「私はそこまでは・・・」
「藍住はさ、白樺女子のこと知ってたんじゃないのか?なんでそんなにがんばれたんだ?」
「え?」
「そこなんだと思う。」
彼が何を言っているのか分からないまま、うちの近くの曲がり角まで来てしまった。青山は笑顔で「じゃあな」と手を振ると、図書館の方へ走っていってしまった。ボーっとしたまま角を曲がった。すると、田町涼香の白くてメルヘンなおうちの前に、トラックが2台止まっているのに気がついた。すっかり枯れて芝だけになった庭で、涼香がぼんやりと運ばれていく荷物を眺めていた。びっくりしすぎて足がすくんだ。突っ立って不躾に涼香を見ていると、涼香の方がこちらに気付いて手を振った。
私がおずおずと手を振り返すと、「入ってきて」と声をかけてくれた。
「久しぶりだね。」
涼香は少し痩せたように見えたが、表情は明るく元気そうだった。
「引っ越すの?」
思考停止中の頭から何とか言葉を絞り出す。
「そう。パパとママが離婚することになったから、大分のおばあちゃん家の近くに引っ越すことになったの。」
もうこれ以上驚けないというくらい驚くことばかり聞かされて、私は本当に何も言えなくなった。
「パパね。外国で別の家族を作ってたんだって。なんと子どももいるんだよ。ひどいでしょ?でも家に帰っている間はママとも仲良しで、私にも優しくて、本当にいいパパだったから誰も気がつかなかったの。そうしたらある日、お金に困った向こうの『奥さん?』が電話をかけてきて、ママにバレちゃった。ママおっとりしているけど真面目で神経質だから、すっごく怒って・・・怒ってパパを責めているうちはまだよかったんだけど、そのうち心を病んじゃって、家のこととか何もできなくなっちゃったの。パパは会社の都合でまだ日本に戻れなかったし、私はママについていてあげるくらいしかできなかったから、一時期は地獄のようだったよ。でも家の様子がおかしいと気付いた近所の人や先生が助けてくれたの。パパは会社に向こうの家庭のことが知られて日本に戻ることが決まったんだけど、ママと私を心配したおばあちゃんが大分に連れて帰るってパパに怒って、それで離婚して引っ越すことになったんだ。」
壮絶だった。受験はしなかったらしい。噂になるのを避けるために、卒業式まで学校は休むのだと涼香は言った。
「卒業式は出たいじゃない。」
ここまで涼香は淡々と話した。寧ろ表情は清々しかった。私は何が正解だか分からず、適当な相槌を打つしかなかった。事情を聞いた同級生は私だけらしい。何もしてあげられない私は、せめて卒業式では、ずっと涼香のそばに寄り添っていようと思った。
「お待たせしました。」
ふわりと甘い桜餅のような香りが鼻をくすぐった。口に含むと味は紅茶の味だった。優しい香りに何だかほっとする。私は桜紅茶がすっかり気に入った。
「失礼します。よろしかったらお召し上がりください。」
目の前にお菓子のお皿が差し出された。
「よろしいんですか。」
母が聞くと、先ほどのお喋りな店員は
「実はうちのパティシエの試作品なのでご遠慮なさらずに。あ、試作品といっても自信作だからね。うちのパティシエは天才だから。」
と、恐縮する私たちに笑顔を向けた。キッチンから物音が聞こえたので顔を上げると、丸顔をプチトマトのように真っ赤にした可愛いお姉さんが口をパクパクさせながら店員に向かって拳を振っていた。「ヨケイナコトイウナ」かな?店員とパティシエのお姉さんの関係性にほっこりする。
皿の上にはスコーンが二つのっていて、真っ白なホイップクリームがかかった上にはピンクの桜の花の塩漬けがのっていた。スコーンはほんのり温かくて、控えめな甘さが優しい心地にさせた。
「少しちょうだい。」
母に食べていない方をあげようとすると、母は「少しでいいよ」と小さく切ったかけらをつまんで口に入れた。
「おいしい!幸せな甘さだね。」
「そうだね。」
珍しく意見が合った。目が合うと、母はにっこりした。
「ママはさ・・・」
口に含んだスコーンの余韻か、私はいつしか優しい気持ちになっていた。今なら何でも聞ける気がしていた。
「なんで白樺女子に私を入れたかったの?」
聞いた瞬間の母の顔はちょっと忘れられないものだった。母は目を真ん丸にして言った。
「なんでって・・・あなたが行きたいって言ったからよ?」
エ・・・
「わ、私そんなこと言ったっけ?」
「言ってたよ!ヤダ~!ほら、あなた、ばあばの話聞くのが好きで、しょっちゅう学生時代の話をしてもらっていたじゃない。あの時よ。勘違いじゃないよ?何度も言ってたからね。」
母は心外とばかりに口を尖らせている。
確かに、私は祖母の話を聴くのが大好きだった。校門で毎朝、「赤鬼」というあだ名の先生が竹刀を持って服装チェックをしていたこと。でも学生鞄のポケットにルーズソックスとベルトを忍ばせて、帰りは守衛所の横のベンチでスカートをたくし上げ、ミニになったスカートにクシュっとさせたルーズソックスを合わせて帰っていたこと。持っていったお弁当は3時間目が終わると食べてしまうので、昼休みは購買へパンを買いに行き、部活が終わると今度はお菓子やアイスを買って、1日中食べてばかりいたこと。他愛のない話だが、祖母がイキイキと話してくれるので、どれも楽しくてしかたなかった。私がその時に「私も白樺女子に通いたい」と言ったかどうかは覚えていないが、母の口ぶりだと、その場のノリでそんなようなことを言ったのかもしれない。え、それで?それでなの?ママが三代続けて白樺女子に通ったというネタが欲しかったからじゃないの?
「ママは近所の中学校でいいと思っていたよ。そりゃそうでしょ。お金かかるし。でも沙羅の希望ならがんばってみようかなって。ばあばも喜んで少しは援助するって言ってくれたしさ。」
混乱したまま桜の塩漬けを口に入れる。
(しょっぱ・・・)
塩漬けのしょっぱさとは全く関係ないが、入学式で白樺女子の門をくぐった瞬間を思い出した。周りにはたくさんの親子がいて、ざわめいていたはずなのに、一瞬、ほんの一瞬、時が止まったかのように独りだった。そして目の前には、白くて大きな校舎だけが見えたんだ。その時ふと懐かしいような気持になった。まだ馴染みのない建物になぜそう思うのか不思議だったけど、今までの思いとは裏腹に、これからここに通う自分にしっくりきたんだ。
「藍住はさ、白樺女子のこと知ってたんじゃないのか?なんでそんなにがんばれたんだ?」
「え?」
「そこなんだと思う。」
そうだ。青山の言うとおりだ。今までも私は知っていたはずだ。でも目を逸らしていた。母の思いも。涼香の事情も。家庭教師の笑顔も。青山の人となりも。きっと他にも・・・
自分の気持ちだって知っている。本当は分かっている。私はこれからの中学校生活を楽しみにしている。
「食べたら行こうか。」
父が言った。
「ねえ、パパ。入学祝いに欲しい物があるんだけど。」
「へえ。何だろう。パパに買える物かな?」
「天体望遠鏡!」
「ええっ!それ、高いんじゃないの?」
「いいじゃない。」
困り顔の父に、私は言った。
「知りたいことがあるんだ。」
母は楽しそうに私たちのやり取りを見ている。空になったティーカップに桜の花びらが1枚、おみやげのように入っていた。