シーン1 夫婦のつまずき
主人公の“せいの一家“はこの“なんだろう商店街“で、4代続いた足袋屋を営んでいる。現家長は菅太郎という名の男で歳は55歳、若い頃は家業を嫌い、ミュージシャンになると言って、書き置き1つ残さずにとつぜん家を出た。夢は夢でしかなく、都会の風はそう甘くはなく、北風に存分に吹かれて底冷えを知り、菅太郎は懐に13円しか入っていない古びた財布一つで実家に舞い戻った。
当時まだ存命だった父・幸男に、頭を下げた菅太郎は家業を1から叩き込まれ、今では客の足を見ただけで、ピッタリと足にフィットする足袋を作れる達人と呼ばれる職人になった。だが、この男には微量の酒でも、記憶が飛んでしまう悪癖があった。
妻の時子は菅太郎が東京に住んでいた頃、行きつけだった飲み屋で働いていた女で、200万の借金を担いだまま菅太郎と結婚して、この“狸“に入った女である。新婚当初、借金取りが狸を探し当てて訪れて事情を察した義父の幸男が「俺が作った借金だ」と家内を納得させて一件落着させ、義母のトキはそんな時子が気に入らず、亭主が無言で承知したのも歯痒く、時子に若干辛く荒く当たっていたが、70を超えた今、少々物忘れをするようになっている。そんなトキに変わって、店内のこと、客への挨拶回り、等々諸々は今や時子が取り回していた。
菅太郎と時子の間には28歳の宗介、26歳の詩子、18歳の雷の2男1女の子どもがいる。長男の宗介は若き日の菅太郎の如く、公務員になると言って家を出た。現在は神奈川在住である。長女の詩子は家事手伝いをしながら狸の従業員として働き、次男の雷は時子に似て端正な顔立ちをしていて、それを十二分に自覚してか、俳優になるという夢に向かうか、大学に進学するかの思案中で、未だ将来の進路を決めかねている。
今の時代、着物のリサイクルショップがあり、ネット販売も手伝って、徐々に霞むかのように業績は傾きつつあったが、その現実を他人事のように思えるほどに狸には代々付き合いのある歌舞伎界、舞踊家、茶人らからの発注が滞りなく入っていた。そんな狸に思わぬ一見さんからの高注文が入った。幸男の祖父・羅門の時代からの贔屓筋の舞いの名家・草家派の現家元の草家新日からの紹介だった。
その注文は苦戦している同業者から見れば羨ましい限りで、関東足袋協会の副組合長を務め、同業者の不況を見聞きしていた菅太郎は、1000足ずつを5件の店に譲ることに決めた。総額7000万相当の取引である。
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軒先に置いた博多屋台椅子に座った杵屋の店主・吉之助が、隣に座る娘の園恵に話しかける。吉之助は菅太郎と同じ歳の幼馴染で、菅太郎が東京に家出した折も唯一その行き先、連絡先を知っていた男で、何かと幸男やトキを気遣い、その様を菅太郎に伝えていたりもして、出戻った菅太郎と時子を一晩家に泊め、翌朝一緒に幸男とトキに頭を下げて取りなした気の良い男である。
そんな吉之助の一人娘・園恵は今年で23歳になるが、園恵が9歳の時、母・智子が家を出てから何に対しても執着しなくなり、奔放な物言いをする様になった。たまに道理を突いた一言を、TPOの気構えしないままに言い放ったりして、周りを押し黙らせたり、ドン引きさせたりする。そんな園恵は高校を卒業して家業を手伝ってはいたが、客に向き合うこともなく、レジを打つわけでもなく、家事は大の苦手で、日がな一日父の側を離れようとはせず、ノンベンと生きている女であった。
吉之助「今日の夕食は何が食べたいんだい?」
園恵「麻婆豆腐」
吉之助「おととい食べただろう。お前好きだね、麻婆豆腐」
園恵「噛まなくていいから、めんどくさくなくていいんだもん。豆腐は畑の肉ってお父ちゃんが教えてくれたでしょう」園恵は少々早口で話す癖があったが、その声色は虹のように人の心を和ませる。
吉之助「そんなこと、父ちゃん言った覚えないけどな」
園恵「また嘘ついて、嘘つきは父ちゃんの始まりって言うでしょう」
吉之助が誤りを正そうとすると、豆腐屋のラッパが響き渡り、「あっ、せいちゃんだ!」勢い良く立ち上がった園恵が叫ぶ。「お父ちゃん!!ボール持ってきてーー!!」ハヤシ立てるような、ねだるかのような口調で園恵は言った。
吉之助「まったく、立ってもいないのに親遣いが荒いね」とぼやくが、園恵を見上げた視線は嬉しげだ。
毘沙門天の奥から自転車に乗った豆腐屋・清吉が出てくる。清吉は呑気な様子だが、突撃ラッパの勇ましさで、高らかに、キッチリと、ラッパを吹いていた。ワクワクを隠せない園恵のそばに自転車が止まり、
園恵「せいちゃん、豆腐3丁ちょうだい」
清吉「ごめん。今日は完売したんだよ」
園恵「じゃあ! どうしてラッパ吹くのよ! ここ通んなくてもいいでしょう! 遠回りになるんだから!!」
清吉「俺はさ、豆腐屋だし、ラッパ好きだし、園恵ちゃんに会いたかったし」
園恵「馬鹿!」と言い捨てて店に入って行く。
そこに園恵とすれ違い見送りつつ、軒先から出てきた吉之助が清吉にボールを渡し「3丁頼むよ」と言うが、清吉は「馬鹿!」と園恵の口調を真似て言うや、自転車を漕ぎ出した。
何事もなかったかのように吉之助は「私、ばかよね〜、お馬鹿さんよね〜、後ろ指〜後ろ指刺されても〜」と歌い出す。
そこへ
はんなりとした足取りの舞踊の草家家元、草家新日が1人の男を伴って「Google mapでは……この辺なんだけど……」と言いながら、視線をキョロキョロさせて路地に入って来た。ご機嫌にフリ付きで歌っていた吉之助が、振り向きざまに新日に気づき、日舞を舞うようにしながらシナを作り、作って新日に近づいてゆく。
吉之助「これは、これは、家元お元気でしたか?」
新日「お会いしたことありましたっけ?」
吉之助「この間、テレビでお会いしました」
新日「ああ、特集番組」
吉之助「そうです、そうです。あの時、履いて頂いたのはうちの草履でして、狸の時子さんの見立てで、足袋と一緒にご自宅にお届けさせてもらいました」
新日「そうでしたか、お世話をおかけしました」
狸の家内から時子の「ギャー!!」と言う悲鳴が聞こえ、時子の声が「痛い!!」と叫ぶ。新日は「なに、なに、何があったの」と伴っていた男を前に押し立てて、吉之助は「またか!今度はどこだ!」と言いつつ、なぜか何の関係もない男を先頭にして、3人は狸へと入ってゆく。
菅太郎の肩を借りた時子が右足を引きずり、店の奥にある居間に現れ、
吉之助「時ちゃん、今度は何を落としたんだい?」
菅太郎「足型をね」
吉之助「そりゃ、痛かったね」
時子「あっ! 家元」
菅太郎「あっ! 家元」足早に進み出た菅太郎は敷居に蹴っつまずいて、悶絶のままピョンピョンと跳ね続け、時子はその脇を足を引きずりながら通り抜けて、
時子「騒がしいことで、あいすみません。さあ、どうぞ、お家元お座りください」と言って座布団を出した。