九重小雨は旅をする
蒼天だ。まごうことなく。突き抜けるように高く広がる空は目に痛いくらいに住み切っている。風が大地を抜ける。荒廃した風土。文明はあれど人はもはや残っていない、この不毛の土地を慈しむように優しくなぞっていく。ビル街を抜け、草木をからかい、今小さな建物に至った。それはもともと数人の人間が暮らすために建てられた集合住宅だった。そして、今はたった一人がそれを独占している。この地上に残った、奇跡のような一人が。
室内には草木が我が物顔で乗り込んでいる。その中にあって、比較的清潔に整えられたベッドの上でもぞもぞと身じろぎしているのが、今のこの部屋の使用人である。バッと勢いよく天井に向かって二本の腕が伸びた。
「んーーー!よく寝たー!。いや、快眠だね。これでおしっこを漏らす夢さえ見なければ最高の目覚めだったというのに、いやはや人生はうまくいかないね。」
「あ、おはよう。君はいつも早いな。」
「ん、なんだいその目は。もの言いたげだね。あ、そうか。きっと君は私が寝すぎているのだといいたいんだろう。」
言葉の主はベッドの上で反動をつけ、飛び起きた。年のころは20を超えたころの女性だ。ベッドの上にいたというのに悪びれる様子もなく当然のように普段着で、ブーツまではいたままである。
「そうはいってもね、昨日は疲れていたんだよ。見てくれよ、このベッド、シーツ。土埃に埋もれていた産業廃棄物を一日かけて水場へと運び込み、綺麗にしたじゃないか。私の奮闘を見てくれていなかったのかい。」
「あ、そういえば君は真面目そうな顔をしているくせに、案外出歯亀だったね。どうせついでに水浴びをしていた私の美しい肢体にでも見惚れていたのだろう。うんうん、なら仕方がない。私も女として嫌な気はしないよ。ほんの少し恥ずかしいけどね。」
そういって声の主はいたずらっぽく笑顔を浮かべ、ぺろりと舌を出した。
先述の通り、今この世界に現状確認されている人類は彼女一人のみである。当然のように彼女は先ほどから一人で話している。とは言っても気がふれているわけではない。
彼女の視線の先には付与付与と空中に漂う四角い物体がある。浮力も動力もまるで分らない。一見ハードカバーの分厚い書籍のようなそれの前面には液晶画面が存在している。画面には現在地の情報や時刻の情報といったなじみの深い情報軍のほかに見たことのない記号が並んでいる。
結局のところ、会話の相手にはなりえないのだが、彼女はなぜか自分についてくるこの機会のことを九十九と呼び、戯れの相手として慰みの相手に据えているのである。
「うおー!見てごらんよ九十九!今日もいい天気だ。お散歩日和だね。まだまだ朝と言って差し支えのない時間だ。一日はまだまだ長いよ。今日も元気に生き延びようか。」
返事はないが彼女の中で会話は成立しているらしい。実に楽しそうに出立の準備を行っている。
「さて、今日はどこまで行こうか。九十九、この前の経路について、確認したいんだ。教えてくれないかい。」
初めてのまともな指示が下される。九十九は機敏に彼女の横に飛んでいき、液晶部分に地図を表示する。表示された地図には彼女がここ一週間ほどのうちに歩いてきた道筋が描かれている。手慣れた様子で地図の一部をタップすると、タップされた地点に旗のマークが浮かび上がった。
「よーし、今日はこのあたりを目指してみようか。それじゃあ、出立は三十分後。ちょっと時間を取るから、ご飯を食べておしっこを済ませておくんだよ。」
「あ、それとも私と一緒に連れしょんでもするかい。君はなかなかストライクゾーンが広そうだからなあ。スカトロ趣味があったとしても、私は受け入れるつもりなんだ。どうだい、心の広いいい女だろう。」
彼女はそれからもてきぱきと荷物をまとめ、出立の準備を済ませた。それから昨日のうちに採取していた果物を皮ごとワイルドに食べきり、厠を済ませた。
「やあお待たせした。やっぱり君は準備が早いね。うんうん。早いのは悪いことじゃないよ。前戯が大事なのさ。ま、そんなことはさておき、そろそろ行こうか、九十九。僕たちの旅の道連れを探しに。」
彼女の目的は、一人と一機のこの旅路に新しい道連れを引き込むこと。そして、その旅はかれこれ約10年目になる。いまだ、人を見つけたことはない。
それでも彼女は穏やかに笑って大地を踏みしめた。あてどもない、頼りもない、されど歩くのが役目だと知って。今日も彼女、「九重 小雨」は旅をする。