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エッセイ

隠居老人の建言~作者さん、騙されてませんか?~

作者: 隠居老人




○前文

 哲学にあらず、中二病でもなく


 ジェネレーションギャップのせいか、私の文章は判りづらいと、よく御指摘いただき、解りやすく書こうとして長文になるようですので


 先ず、考える事を止めて怠けたい気分の方がいれば、色々と面倒でしょうから、()()()()()()の時に読んでください。


 ‘ 概念 ’とか、そういう言葉が出てくるので。


 と言っても‘ 中二病 ’な話ではありません。


「俺様は、死という概念を超越する魔法により‘ 神祖 ’となったのだ」とかのアレじゃないってことですね。


 あるいは‘ 哲学 ’の話でもありません。


「物事が思考によって捉えられたり表現される時の思考内容 や表象。 また、その言語の意味内容。」とかの本質を追求するアレじゃないってことですね。


 だから‘ 概念 ’とは、言葉の意味くらいに考えて気楽に読んでやってください。


 ‘ 主観 ’とか‘ 客観 ’なんて言葉も出てきますけど、これも同じです。


 中二病的なラスボスの独白めいた話ではありません。


「‘ シュレディンガー ’の猫のように、‘ 主観 ’でしか判断できない人間を超越し、私は完全なる‘ 客観 ’を得て神となり、全知全能の観測者になるのだ!」とかのアレじゃないってことですね。



 同じく、こっちも‘ 哲学 ’の話でもありません。


「‘ 主観 ’とは、認識し行為する人間存在の中心である観点とその観点を持つ‘ 自我 ’であり、完全な主観的観点の論理は絶対論となる。また、‘ 客観 ’とは、当事者ではなく、第三者の立場から観察し、思考する観点で、その観点を持つ実体はない概念であり、客観的観点による観点の論理は相対論となる。」という類のアレじゃないってことですね。


 

 ‘ 主観 ’は自己中心的なモノの観方で、‘ 客観 ’は全ての人間を平等に考えるモノの観方くらいに考えてください。


 でも、自己中心的といっても、‘ 身勝手 ’とか‘ 利己的 ’とかの‘ 悪口 ’でいうアレじゃないですよ。


 観点とか観方って言葉から解るように、人間は精神的に身近なものほど、大きくて、ハッキリとして、だいじに感じます。


 精神的に遠くにあるほど、小さくて、あいまいで、どうでもよく感じます。


 そういった感じ方のもとになるのが‘ 自我 ’で、だから自己中心的なのは‘ あたりまえ ’の事です。


 つまり、相手の事をまったく考えないとかの‘ 身勝手 ’や、相手の事を考えても‘ どうでもいい相手 ’だからと悪意で接するとかの‘ 利己的 ’な行いとは別だという事です。


 要は、誰もが自己中心的ですが、誰もが‘ 身勝手 ’や‘ 利己的 ’にならないために‘ 客観 ’という全ての人間を平等に考えるモノの観方があるという事ですね。


多くの哲学のように、‘ 人 ’を特別な存在として考えるのでもなく、中二病のように‘ 自我 ’を特別な存在として考えるのでもなく。


 人文科学として、ホモ・サピエンスから、社会に情報を蓄積する事で、‘ 人間 ’へと精神的な進化した存在と考え。


 ただ、その‘ 人間が発明した言葉 ’の意味であったり、そういう人文科学の発明品としての‘ 言葉 ’を‘ 人間 ’が創った理由って何だろう?


 そう考える‘ 考え方 ’についての話です。








●序文


 この世の中には色々な‘ 人間 ’がいます。


 ホモ・サピエンスという種を‘ 心 ’という概念で分類するなら‘ 人間 ’は二つの対立する概念とその中間に分けられます。


 ‘ 人 ’と‘ 人の間に棲む人未満のホモ・サピエンス ’そして‘ 人の皮を被った獣 ’。


 ‘ 人 ’とは‘ 心を大切にする者 ’で。


 ‘ 人の間に棲む人未満のホモ・サピエンス ’とは‘ 心を持つ者 ’で。


‘ 人の皮を被った獣 ’とは‘ 心を持たない者 ’で。


 つまり、‘ 心 ’とは‘ 人と獣を分け隔てる概念 ’で、‘ 心ある者 ’と‘ 心ない者 ’とそれらの‘ 分別がつく者 ’と‘ 分別がつかない者 ’の全てを通して‘ 人間 ’というように呼ぶという意味です。


 それら全てを含めて人間。






 そう、この世の中には色々な‘ 人間 ’がいます。


 ()()()()()()()()という事で人間を分類するなら、‘ 大切な何かを持つ者 ’と‘ 大切な何かを持たない者 ’そして‘ 大切な何かを探す者 ’がいます。


 目に見える‘ 物質 ’であったり、容のない‘ 概念 ’であったり、その二つを併せ持つ何かや誰か。


 それは、‘ 知性 ’によって分類され大切にしたいものなのか判断されます。


 それは、‘ 認識 ’と名づけられた精神の働き。


 簡単に言うと、心の中で‘ 現象 ’や‘ 事象 ’に分類のための‘ ラベル ’を貼るという事です。


 大切なものとそうでないもの。

 知ったもの全てにラベルを貼るのが‘ 認識 ’です。


 そして、‘ 大切さ ’で序列をつけた‘ ラベルの貼り方 ’は、‘ 価値観 ’と名づけられています。


 つまり、その序列を、どういう基準でつけるかが‘ 価値観 ’です。


 ラベルにつける大見出しは、基本的な‘ 指標となる概念 ’です。



 ‘ 指標となる概念 ’は、‘ 善悪 ’、‘ 好き嫌い ’、‘ 優劣 ’、‘ 正誤 ’などの対立する二つの概念で、二つを結んだ線の間の相互距離のような一次元間の位置としてラベルに記されます。


 昔の人達は、これに‘ 二元論 ’と名前をつけました。


 そういった無数の‘ 一次元 ’の線を、‘ 三次元 ’の空間に並べたグラフが人間の‘ 論理的な精神構造 ’と考えてみてください。


 もちろん、‘ 一つの同じ概念 ’でも、自分と他の人では、微妙に違う分類がされていますから、人との係わり合いで、自我はそれも‘ 認識 ’します。


 そして、他者と自分の考え方の違いや同じ所を集めた‘ 一次元 ’の線が重なり合った‘ 二次元 ’の面として、‘ 共通概念 ’を‘ 認識 ’します。


 こうなると、もう図にでも書き出して整理しないと、どこに何があるか、解らなくなりますよね。


 だから、この辺りの分類で、脳の原始的部分は、自我に対して縁遠いもので、生存に必要のない考えとして、分類するので‘ 感情 ’と結びつかず、脳の新しい部分が担当して、‘ 理性 ’と結びつけた分類がされます。


 ‘ 共通概念 ’である‘ 言葉の意味 ’は、普通はそういった‘ 感情 ’と結びつかないものとして‘ 認識 ’されるわけです。


 けれど、強い感情を伴った記憶などが、‘ 認識のラベル ’に書き加えられると、それは特別な‘ 付加価値 ’を持つ‘ 概念 ’として‘ 共通概念 ’と区分されます。


 ‘ 付加価値 ’という言葉は、ポジティブな意味で使われる場合が多いですが、価値観とは差異の認識ですから、ネガティブな‘ 付加価値 ’がつく場合も当然あります。


 例えば、戦禍や災害で‘ 死 ’を一度でも身近に感じた人間とそうでない人間は、‘ 死ぬ ’とか‘ 殺す ’という言葉や、物語の中の‘ 死 ’に纏わるシーンでの感じ方が違います。


 年寄りが‘ 家 ’で死ぬ事も少なくなったのもあり、‘ 身近な死 ’が縁遠くなったので、‘ 死 ’に対しての‘ 認識 ’に差が生じた例で、気づき難いので、歴史的にも社会的問題を多く引き起こしています。


 戦争をしたい少数の権力者が多数の戦争をしたくない民衆を戦争に駆り立てられるのは、こうした‘ 悲劇の風化 ’の影響です。


 昨今は、そういった‘ 死 ’と縁遠い世代になり、占領軍の統治下の‘ 恐怖 ’と‘ 暴力 ’で統治される‘ 屈辱 ’も知らぬ世代が多くなり、‘ 奴隷 ’や‘ 暴力 ’という言葉に、忌避感を覚えない人間も増えました。


 つまり、‘ トラウマ ’を持つ人間が減ったという事ですね。


 ‘ トラウマ ’というのは、心理学の言葉が一般化して、‘ 心の傷 ’というように、解釈されますが、要は‘ ネガティブな認識のラベル ’です。


 ‘ 死 ’や‘ 恐怖 ’や‘ 暴力 ’などのネガティブな感情と強く結びついた‘ 概念 ’の集合を指して、‘ トラウマ ’と考えてください。


 ‘ トラウマ ’という‘ 言葉の発明 ’がされるまでは、‘ 呪い ’などのオカルトとして、そういう‘ 無意識の心の働き ’は考えられてきました。


 つまり、‘ 概念 ’に貼られた‘ 認識のラベル ’は、意識に普段は上らないし、頻繁に書き換えられて、‘ 主観のある自我 ’からすると、その相互関係が移り変わるというわけです。


 そういった‘ 人の論理的な精神構造 ’を宇宙空間に概念を星に例えたのが‘ 内宇宙 ’という考え方です。


 そして、無意識による書き換えが‘ 暗示 ’と呼ばれるもので、技術として行えば‘ 催眠暗示 ’や‘ マインドコントロール ’や‘ 洗脳 ’になります。


 これも、言葉が創られる前は、‘ 神の啓示 ’や‘ 呪い ’などのオカルトとして考えられて悪用され続けてきました。


 それは、現代でも同じで、脳を操る薬物などの研究で、冷戦時以降には、一般人をテロリストやスパイにしたりで使われています。


 医学での使われ方では、麻酔や痛み止めや脳の病気や精神疾患の治療の向精神薬や、ホルモン異常の治療などに使われる薬物ですが、併用して使うと‘ 洗脳 ’は容易に行えます。


 ここまでは、記録がある事実ですが、そういった事実から、嘘か本当か怪しげな‘ 噂 ’も生まれ、‘ 環境ホルモン ’の米国政府陰謀説など、荒唐無稽なものから、カルト宗教や犯罪組織の誘拐や監禁とセットの真実味のある話まであります。


 そして、‘ 認識のラベル貼り ’は、無意識に行う場合、そういった‘ 噂 ’や‘ 都市伝説 ’や‘ 神話 ’によって、‘ マインドコントロール ’や、無意識の‘ 自己暗示 ’で書き換えられる事もしばしばあるので、要注意です。


 ‘ 無意識の自己暗示 ’とは何かというと、‘ 認識のラベル貼り ’の貼り方の中で、意識せずに行ってしまうもので、‘ 偏見 ’や‘ 思い込み ’です。


 ‘ 認識のラベル貼り ’は、自分を中心とした‘ 主観 ’で判断される‘ 感性 ’と、無数の‘ 主観 ’の‘ 相対性 ’を理解した‘ 客観 ’で判断される‘ 理性 ’の二つで行われます。


 自分を中心とした‘ 主観 ’で判断される‘ 感性 ’のみで行われるのが‘ 自己暗示 ’ですので、‘ 共通概念 ’や論理的な矛盾を探してやる事で、‘ 偏見 ’や‘ 思い込み ’は修正できます。


 そういった精神の働きは、‘ 悟性 ’と呼ばれます。


 ‘ 悟性 ’とは、つまり‘ 客観性を保つための精神の働き ’という事ですね。


 ‘ 自己暗示 ’によって書かれた認識は、‘ 感情 ’が‘ 理性 ’による修正を拒否しますから、論理的な矛盾を指摘され「嫌だ! それは絶対に正しい」と‘ 感情 ’が考えたなら、だからそれはもう、‘ 偏見 ’や‘ 思い込み ’です。


 ですので、‘ 自分を疑え ’というフレーズを聞いたなら、その言葉を言った人の言葉も先ず疑って下さい。


 それが‘ 悟性 ’です。


 ‘ 悟性 ’は、「信じよ、さらば救われる」というカルトな考え方の正反対にある‘ 理性 ’による自己修正です。


 そうやって、自分と他者を疑って、‘ 大切な何かを探す者 ’。


 自分を疑うことを止めた‘ 大切な何かを持つ者 ’。


 そして、“ ‘ 大切さ ’という‘ 価値観による認識のラベル貼り ’ ”をしない‘ 大切な何かを持たない者 ’。


 その違いは、様々な‘ 価値観 ’と‘ 性質 ’と‘ 信念 ’あるいは‘ 信仰 ’を持った者達がいて。


 そして、全ての‘ 認識へのラベル貼り ’に‘ 無価値というラベル貼り ’をする者達がいるという意味です。


 それら全てを含めて人間。


 そう、この世の中には色々な‘ 人間 ’がいます。



●本文

 


 そういった全ての‘ 人間 ’を、()()()()()()()()()で二極を分類するなら、人間が好きだから、許し合い譲り合い助け合い生きようとする‘ 共存原理 ’を大切にする者と、人間が嫌いだから、復讐し奪い服従させ生きようとする‘ 暴力原理 ’を信奉する者とに分けられます。


 それを実際の社会に反映させようとすると、‘ 共存原理 ’を大切にする者は、‘ 民主主義者 ’と呼ばれ、‘ 暴力原理 ’を信奉する者は、‘ 権威主義者 ’と呼ばれます。


 そして、実際の国際社会に対する働きかけとして、‘ 民主主義者 ’は、権威を否定しながら‘ 必要悪 ’として考え、「本当に必要なのか?」と考えて自律し、「ただの悪になってないか?」と考えて自制し、「公私混同して利己的悪意を広めていないか?」と自由を護ろうとします。


 対して、‘ 権威主義者 ’は、権威を肯定しながら‘ 正義 ’として考え、「絶対に必要だ」と考えて権力で威圧し、「他の方法など無意味」と考えて強行し、「公私混同してでも権威を強くすべきだ」と考えて‘ 有形無形の暴力 ’を行使し、多くの人間の肉体と精神を害して壊します。


 当然ですが、それらは二極であり、ほとんどの人は、その狭間にいます。


 そして、こういう人の認識による客観的な二極は、他にも多くの極が考えられています。


 理性⇔獣性(生存戦略⇔自滅本能)

 知性⇔愚性(知識欲⇔依存欲)

 悟性⇔痴性(利全心⇔利己心)

 感性⇔惰性(好奇心⇔怠惰心)


 それらの他にも無数の極が考えられていますが、それを心の内に多く持つ者ほど、物事を多面的な観方ができます。


 その極を、前述の心の内に在る‘ 三次元 ’の空間に並べた‘ 論理的な精神構造 ’の中で結んだ歪な立体が、‘ 人の個性 ’になります。


 そして、‘ 人の個性 ’の多くの極を自分なりに理解して、常に変わり続ける現状を客観的に判断する‘ 知性 ’を大切にする者と、その対極にある愚性に()した者とに分類する考え方で、後者は‘ 愚民 ’と呼ばれます。


 

 そして、権威や権力という‘ カースト意識 ’を創る事を望む‘ 権威主義者 ’達は、多くの者を‘ 愚民 ’としようと考えて実行しようとします。


 そういう多くの者を‘ 愚民 ’としようと‘ 愚民主義 ’や、それを具体的に実行しようとする‘ 愚民政策 ’が成功した政治が、‘ 衆愚政治 ’です。



 そういった‘ 愚民主義 ’を実現すると、‘ カルト団体 ’や、‘ 独裁国家 ’という社会形態が生まれます。


 『リクルート事件』で、実務を担当したといわれた秘書の一人だった某世襲の総理大臣が独裁を目論むと批判される論拠。


 それも、‘ 愚民主義 ’を前提の政治が、その政権下で何度も行われ、‘ 格差社会という民主主義社会の社会問題 ’を、‘ ただの社会形態 ’と偽ったからです。


 少し政治の基礎を学び、その権力が何を実現したかを考えて、社会がその権力が創った制度で、どういうふうに変わったかを多面的に観察すれば見えてくる‘ 現状認識 ’を持てなくする、‘ 愚民主義 ’ですが、民主主義社会でそれを行う弊害は大きく、一部の利権集団の権益のために多くの者の不利益を招きます。

 

 その最悪の例の一つとして挙げられるのが、日本にとっての太平洋戦争です。


 日米の一部の利権集団の権益のために無数の命が消え、無数の悲劇が生まれたという認識です。


 そういった認識を知らない者や、悲劇の実感のない者が増え、歴史から学ばない‘ 愚民主義の犠牲者 ’が造った社会は、軍事による戦争などなくても、資本主義による経済闘争の犠牲者を増やし、日本は多くの自殺者や心を病む者を増やしていきました。


 戦争や犯罪や‘ 無責任な権力が利権を優先したために起こす事故 ’のような実際に物理的な被害を生む‘ 有形の暴力 ’より、そういった精神を傷つける‘ 無形の暴力 ’のほうが、当然ながら解り難く、‘ 愚民主義の犠牲者 ’は、自分が屠殺される家畜と同然である‘ 社蓄 ’や‘ 国蓄 ’扱いされている事に恐怖を感じなくなってしまいます。


 そういった‘ 危機感を失くす仕事 ’をする者が、、‘ 愚民主義の犠牲者 ’なら、自分がそういった仕事をさせられているとすら気づかずに行う事になり、娯楽の中には‘ 権威主義に抵抗感を失わさせるフィクション ’も昨今では増えて、その事に警鐘を促すジャーナリズムも、権威主義者のスポンサーによって抑圧されるようになってしまいました。



 奴隷という存在に対する嫌悪感や抵抗感を持たない‘ 自由を大切と思わない者 ’が、子供達の中に増えてるのではないかと、このサイトの物語を読んで不安になる事もありました。


 景気の安定と不景気を混同している「自称経済通」の言葉を聞いて怖ろしくなる事もありました。


 「戦争が経済を活性化させ、争いが文明を進歩させる」という比較対照や因果が歪められた本末転倒の嘘の理屈を口にする「権威者」を知っているからです。


 ねぇ作者さん。騙されて、‘ 愚民主義の犠牲者 ’になっていませんか?

 ねぇ作者さん。騙されて、‘ 愚民主義の共犯者 ’にされていませんか?

 ねぇ作者さん。私や誰かの言葉を疑って本当かどうかを考えていますか?


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― 新着の感想 ―
[良い点] 好い点 「言葉の簡略化の風潮」を否定 [一言] 知らず識らずの暴力(言葉や態度) 自分も相手も大切にする気持ちの伝え方 考えさせられる
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