ありがとう
目覚めたとき、最初に感じたのは温もりと瞼の痛みだった。
少年は数回瞬きをして、高い天井を見つめる。そして首を右に倒すと、質の良いカーテンの隙間から朝日が射し込んでいるのが見えた。
上質な毛布をめくり、上半身を起こす。どうやら昨日の夜に屋敷に侵入した後、そのまま眠りに落ちてしまったようだ。
──おそらくあの女性に清潔な服を着せられ、寝室へと運ばれたのだろう。
「ん゛んっ……」
喉がつっかえる。瞼の痛みといい、昨夜どれほど泣いてしまったのか若干記憶が曖昧だ。それに今一番の疑問は、どうして屋敷を追い出されずに寝室に運ばれたのか。だ。
少年はベッドからゆっくりと足を下ろす。そしてぐるりと部屋中を見回して、屋敷の一階に白い気配があるのに気がついた。きっと昨夜、少年が泣きすがりついてしまった女性だろう。
「………どうして」
こんな小汚い小僧を見捨てなかったのか。
そんなのは分かっていた。抱きしめてくれたときに感じた愛情、それが見せかけでも嘘でもないことを。
でも、尚更それが怖い。
少年は自分の震える手で、腕を掻き抱く。
「寒いの?」
「!?」
至近距離で聞こえた声にビックリした少年はそのまま仰け反る。
「だ、大丈夫? ごめんなさい、ノックしたのに返事が無かったから……」
仰け反った拍子にベッドに倒れ込んだ少年を起こそうと、手が差し伸べられる。だが、少年は咄嗟にその手を振り払ってしまった。
「……っあ……えと……その」
払ってから後悔した。別に彼女が少年に危害を加えようとしている訳でもないのに。
何故か相手の顔を見るのが怖くなり、おそるおそる表情を窺う。
「?」
しかし彼女は怒ったような素振りも見せず、振り払われた手をまた差し出した。
「………えっと」
「大丈夫。落ち着いたらでいいから」
少年は差し伸べられた手と、女性の顔を交互に見る。笑顔で少年の目を見つめる彼女の本心は分からないが、少なくとも敵意はない。ゆっくりと少年は自分の手を女性の手に重ねる。
「よかった」
「……?」
「お腹は空いてない?」
朝食を作っておいてあるの。と言う女性に連れられ、手を繋いだまま屋敷の階段を降りる。
──手を繋ぐなんて、何年ぶりだろう。
階段を降りながら、もしかしたらこのまま牢屋や拷問部屋なんかに連れていかれたりするのかと想像したが、どうしたって目の前の女性からそんな残酷なイメージが湧いてこない。
白く淡い気配を身近に感じているせいでもあるが、花の香りを纏わせた彼女が通うのはそんな血なまぐさい場所よりも花畑の方がお似合いだと感じたからだ。
「ほら、座って」
たどり着いたのは、やたらと広い部屋だった。長いテーブルと複数の椅子、豪華な照明に重厚感のある暖炉。テーブルの上には二人分の食事が湯気を立てて置いてあった。
──こんなのもらえない。
と咄嗟に思った。が女性は、椅子を引いたままこちらをじっと見つめていた。少年が座らない限りずっとそのままの体勢で待っていそうで、さすがにそれはよくないと思い、少年は渋々椅子に腰掛けた。
手元には暖かな料理があって、目の前の席には女性が座った。
少年が描いたような幸せがそこにあって、なおさら口に出さずには居られない。
「……どうして、俺にここまでするんだ?」
「……」
綺麗な服を着させ、質の良いベッドを貸し、料理を提供してくれた。でも、どうしたって彼女がそこまでしてくれる理由が分からない。
少年は観察するように女性の顔を見上げる。が、女性は口を閉じた後、吹き出すように笑いだした。
「え」
「ふふっ……ご、ごめんなさい。いえ、別にそんな、してあげたつもりはなくて」
女性の翡翠色の瞳に涙が滲む。笑いながら泣いてるなんて、器用だ。
「……つもりはなくても、俺は、こんなのもらえない」
「あ、変な物は入れてないのよ、安心して食べて頂戴」
「だから、俺はもらえないと……」
ひとしきり笑い終わった女性は、ため息をついて少年へと向き合う。
「私、ここに一人で住んでるの。だから料理もいつも寂しく食べてたけど、昨日泣いてる貴方を見てたら、一緒に食事がしたいなって」
「………それだけで?」
「ええ、それだけ。だからこれは私のわがままなの。一緒に食べてくれないと、寂しいのよ、私」
そう言って笑いかける。
──こんな広い屋敷に一人?
疑問は尽きないが、とりあえず女性の望みが共に食事をすることならば、すぐに食べてすぐに出ていけばいい。
少年はスプーンを手に取り、うすい黄色をした汁物を掬う。初めて見る色と匂いに、唾液が口の中で溢れる。昔飲んでいた汁物は、水と野菜と塩だけでできていたが、これは一体どんな味がするのだろう。
おそるおそるスプーンを自分の口へと運ぶ。スプーンの熱が舌を焼くが、気にせず飲み込む。
「!!………美味しい」
「……そう、ならよかった」
───なんだろう、この味は。甘みと塩味、香ばしさ。
初めて飲む汁物に、思わず頬が紅潮する。舌の上で感じる旨みに感動すら覚えていた。続けて汁物以外にも、パンや肉に手を出す。
そんな少年を見ていた女性も同様にスープを飲み始める。
◇◆◇◆◇◆◇
──朝食を食べ終わって、少年は椅子から立ち上がった。
食べ終わって空になった食器を綺麗に重ね、女性に対して頭を下げ、その場を立ち去ろうとした所で声をかけられた。
「もしよろしかったら、明日も来て貰えないかしら。もちろん朝食でも、昼食でも、夕飯でも構わないから」
「それは……」
「ええ、私のわがまま」
少年はその言葉を聞いて、自分の服を見る。
「この、服はどうすれば」
「ああ、あげるわ。間違えて男の子用のを持ってきちゃったから、私には必要ないし」
「でも……」
「これもわがままよ、着て欲しいの」
少年は渋々といった様子で頷き、裸足のまま正面玄関から出ていく。
そして、このことをきっかけに少年と女性の奇妙な関係が始まった。
朝早くに起きた女性が窓を開け庭に咲き誇った赤い薔薇へと視線を移すと、そこに薔薇の色とは少し異なる、赤い髪をした少年が立っているのだ。
それに気づいた女性が窓から声をかけ、共に朝食をとる。そんな日々が続いた。
ある時───
「……あなたの名前はなんていうんだ」
少年が女性の名前を聞いた。初めて出会った時から十日経った日だった。
女性は持っていたパンを皿に置くと、少年に微笑みかけた。
「私の名前は、キク・ウィクリフよ。キクって呼んで」
「………キク」
そう呼ぶと、キクは満面の笑みを浮かべた。
またある時、庭にて───
「……この薔薇はキクが育ててるのか?」
「ええ、そうよ。綺麗でしょう?」
キクはそう言ってトゲに刺さらないように薔薇の茎を切る。少年はその動きをキクの背後から見つめ、キクの切った薔薇を受け取る。
「……俺とは違う」
「え? そう?」
キクは振り返り、薔薇を手に持った少年と赤い薔薇を見比べる。
「私からしたら、あなたの瞳の方が薔薇よりも輝いて見えるわ」
「瞳……?」
少年は言われて自分の目元を手で触る。髪のことに関しては耳が腐るほど言われたが、瞳のことに関して言われたのは初めてだった。
キクは少年の瞳を覗き込み、笑顔で告げた。
「青緑色で、透きとおりそう。綺麗だわ」
「………なんて、言えばいい」
「え?」
自らの瞳を褒められて、胸の内が跳ねるように喜ぶ。そんなとき相手になにを言えばいいか分からず、少年はキクに尋ねた。
キクはしばらくして少年の言った意味に気づいて、少年の頬に手を添える。
「"ありがとう"って、言葉を貰えたら私は嬉しいの」
「…………それは、わがままか?」
「そうね……わがままかもしれない。でも、できれば言って欲しいわ」
キクは躊躇う様子を見せた少年に背を向け、ゆっくりでいい。と言おうとして腕を掴まれた。
「………あり、がとう」
◇◆◇◆◇◆◇◆
食事に付き合う程度だった関係が、朝から夜まで話し合い、共に庭仕事をするようになるような関係になるまでには、さほど時間はかからなかった。
初めて出会ったときから一ヶ月後、少年はとある花を見つけた。
「キク、この花はなんだ?」
三枚の花弁に、中央には斑模様。そして真っ赤に染まったインパクトのある花だった。
土の入れ替えをしていたキクは、土の入った袋を地面に置いて少年へと歩み寄る。
「ああ、これは"タイガーリリー"ね。ようやく咲いてくれたわ」
「タイガーリリー……妙に不気味な花だな」
「確か花言葉は……ああ、そうだわ」
キクは手のひらを叩いて、土を払う。そして近くにあった布で手のひらを拭うと、少年の手を掴んだ。
「あなた、名前がないのよね?」
「……ああ、一度も聞いたことがない。母にも……」
「っ、なら、私があなたの名付け親になってもいいかしら……?」
「名付け……? 名は付けられるものなのか?」
キクにそう言うと、何故か、キクは眉間に皺を寄せて悲しそうに俯いた。なにか変なことを言ってしまったか。
少年は心配になって、キクの後頭部を見つめる。だが、すぐにキクは顔を上げると、少年の顔を凝視する。
「……別に、付けても、構わない」
その視線にいたたまれなくなったのか、少年は目をキクから逸らしながら答える。
それを聞いたキクはホッと息を吐き、少年の瞳を覗き込む。
「なら、あなたの名前は、タイガ」
「………タイガ」
タイガ、と名付けられた少年は何度も何度も小さな声で、呟く。
そして自分の横で咲いているタイガーリリーを横目で見る。
───赤くて、少し奇妙な花。
「どうして、この花と同じ?」
「………あなたにそっくりだったから」
「………この、赤髪が…?」
タイガはそう言って悩ましげに自分の髪を掴む。そういえば、毟ろうとしてキクに止められた時からあまり触っていなかった。
キクの方を見れば、首を横に振り、笑顔でこちらを見ていた。
「この花の持つ気持ちが、なんだかあなたと似ているなと」
「花の持つ気持ち……?」
キクはタイガリリーの咲いている鉢を両手で抱え、タイガへと掲げる。
「この花はね、私のお父様が贈ってくれたの。群生もしないし知名度もない。しかも短い間しか花が咲かない。なんだか……一人ぼっちで寂しそうで、私にそっくりだと思った」
それを聞いて、タイガはタイガーリリーごしにキクを見る。
「でもね、本当はあなたこそが孤独を感じてたんじゃないかって。あなたを抱きしめた時、あなたを愛さないと、あなたが消えてなくなりそうだって」
キクは一呼吸おいた。
「だから、この花が……『私を愛して』と叫ぶタイガーリリーが、本当にあなたのようで……」
キクは言いきれず、手にタイガーリリーを持ったまま、崩れ落ちた。
「ごめんなさい……っ、ここに一人で住んでるなんて真っ赤な嘘……っ、ほんとは……息子と住んでいたのに……、あなたと出会う少し前に亡くしてしまって…っ…! あなたを……私の息子と重ねてしまった………っ」
キクは目に涙を貯め、タイガを見上げる。
「寂しくて、愛を欲しがった、わがままな私に、付き合わせてしまってごめんなさい……っ、ごめんなさい………っ!!」
そしてその翡翠色の瞳から大粒の涙が落ちた瞬間、タイガはキクを抱きしめた。
「ありがとう」
「……っ!! でも、私は……」
「それでも」
タイガはキクの涙で肩が濡れるのを感じていた。できれば、涙なんか流さないでほしいと思った。いつものように笑って欲しい。
「赤髪を呪った俺を、助けてくれたのはキクだ」
キクのしゃくり上げる声が聞こえる。
「暖かい場所をくれたのは、キクだ」
キクの体温が伝わってくる。
「"ありがとう"をくれたのは、キクだ」
キクの、感情や想いが流れ込んでくる。タイガは、愛を噛み締めるように、誰にも取られないように、力強く抱きしめる。
「────名前をくれて、ありがとう。キク」




