提督のパイプ亭
白い月の光はインゴルシュミッツの旧市街地にも平等に降り注いでいた。ガス灯の近くに佇む青い影が、左腕に装着した腕時計型の魔法水晶式通信機で誰かと交信していた。水晶がパルデティア人形のように麗しい少女を立体スクリーンで映し出していた。
「そうか……大学に鳥の顔をしたお化けが出るという噂があるのか……」
「何か『結社』と関係あるのかも……ところで、そちらは何か手がかりはつかめたの?」
「まだだ……」
「何よ……役立たずの愚図人形ね」
「まだだが、これから手がかりになりそうな男がいる酒場に行くところだ……」
「……それを先に言いなさいよ、木偶人形! だいたいあなたはねえ、いつも勿体ぶって、カッコつけているけど、偽善者だし……」
「子どもは早く寝た方がいい……」
「なんですってぇ!」
相手がまだ何かまくし立てるのも構わず、青い影は通信を一方的に切った。青い影がガス灯から離れ、旧市街の歓楽街へと足を進めた。途中で、赤ら顔の酔客たちが千鳥足ですれ違うが、青い孤影の顔を見た途端、目を潤ませ上気した顔で、案山子となって立ち尽くす。
女子寮で鳥のお化けの目撃がされた夜中の10時過ぎごろ、旧市街歓楽街・通称『親不孝通り』を通りの外れの薄暗い路地に、酒場『提督のパイプ亭』があった。
ベルデンリンク帝国の一般向けサルーンは照明が明るく、テーブルにレストラン並みの料理とビールを並べる家族向けが多いのが特徴である。が、『提督のパイプ亭』は照明が暗く、低賃金の労働者階級層向けの紫煙が渦巻く安酒場であった。
工員や下級兵士、ギャンブラー、無法者などが屯して酒を呑んでいた。老人のオルガン弾きが陽気な音楽を演奏し、胸元の大胆にあいたドレスとエプロンを着た女給仕が料理や酒を、ポーカーをしている労働者たちのテーブルに運んでいた。
「なあ、夕刊を読んだか、ボルガンの野郎がとうとう絞首刑になったってよ」
「いい気味だ、連続殺人犯のネクタイ絞殺魔め……犠牲者の遺族たちも少しは溜飲を下げただろうて……」
「それにしても、絞殺魔が縛り首とは、天罰覿面だな……ぎゃははは……」
陽気に晩酌やカードゲームを楽しむ酔客たちをよそに、黄昏た男もいる。カウンターで小ジョッキをチビチビ飲んでいた男は最後の一滴を飲みほした。
「なあ……もう一杯くれよ……マスター……」
「もう、金が無いんだろ、イーヴォ……これで終いだ」
「頼むよ、ツケで……一番安い酒でいいんだ……」
「……もう、あんたみたいな無職の奴にきくツケはねえ……さっさと木賃宿に帰るんだな……」
中年のごついマスターが太い腕を見せて凄む。若い頃、西域沿岸で兵員輸送船のコックをしていた経歴を持つ偉丈夫だ。弱い犬のような表情で、無精髭を生やした痩せた男・イーヴォは継ぎ当てのある復員服をきて、落ちぶれた様相だ。
見回すと、周囲の客たちがカードに興じながら、ビールやウィスキーを楽しんでいる。男はゴクリと唾をならした。テーブル客のうち、ポーカーで負けてしまった男が罵声を上げて、近くにあった痰壺にペッと痰を吐いた。四角い顔に団子鼻をした男はイーヴォを見つけると、意地の悪い顔になった。
「よお、イーヴォ。景気はどうだい……」
「……景気もなにも……馬車屋を首になったよ……酒癖が悪いってなあ……」
「そいつは気の毒にな……俺がめぐんでやるよ」
「えっ!」
団子鼻はポケットから銀貨を一枚だした。しょぼくれた表情のイーヴォの目が期待で輝いた。男は銀貨を指で弾き、イーヴォが受取ろうと前に飛び出す。だが、銀貨の軌跡は彼の手にはいかず、痰壺のなかに落ちた。団子鼻と酔客たちがドッと嘲笑う。
「ひゃははは……汚ねえなあ……」
「おいおい……酷い奴だな……ぶはははは」
「一人前の男なら、決闘騒ぎだぜ……けけけ……」
嘲笑を浴びるイーヴォだったが、彼はそれより痰壺をじっと見ていた。ねっとりとした痰や唾にまみれた銀貨……だが、銀貨は銀貨だ。あれがあれば、0.5リットルのビールが二杯飲めてお釣がくる。イーヴォの酔った頭は、惨めさとアルコールを求める欲求でせめぎ合った。が、震える手で痰壺に手を伸ばした……それを見て、団子鼻たちがドッと嗤う。
その時、『提督のパイプ亭』のスイングドアを潜って青い影が入ってきた。薄闇の安酒場に、燦然と輝く美貌が御入来した。青い三角帽、青いレザーコート、青い髪と青尽くめの若い男・レザーチェだ。振り向いた酔客も女給も陶然とした表情で青い男を見つめた。
それに構わず、レザーチェはカウンターにいるマスターへ足を伸ばした。ごついマスターが年甲斐もなく、ドギマギして来訪者を迎えた。
「元馬車屋のイーヴォという男はいないか……」
「奴なら、あっちにいるよ……継ぎ当ての復員服を着ている……」
マスターが顎を向けた先にイーヴォがいた。腰をかがめて痰壺から粘液まみれの金貨を取り出したところだ。これで酒が飲めると喜色を浮かべたイーヴォ。手拭いで銀貨の痰を拭き取りはじめた。その腹に革靴の先がめり込んだ。仰向けにひっくり返る。
「うぐっ!」
「浅ましい野郎だ……がはははは……」
性悪な表情をした団子鼻がイーヴォを嘲り喜ぶ。
その顔が左にゴキリと曲がった。