悪夢
そこは灰色の世界であった。
天を覆う空も、足が踏みしめる大地も灰色であり、現実なのか夢の世界なのか定かではない、あやふやな影と幻の空間であった。
その世界に一筋の小径があり、一人の少女が歩いていた。灰色の世界でただ一人、色彩をもった唯一の例外。髪の色は秋の稲穂のように金色に輝き、白磁の肌に草原の妖精のような瞳。
少女はクレールヒェン・カリガルチュアであった。親しいものは彼女をクララと呼ぶ。
(クララ……こちらにおいで……)
(ミートパイがやけているわよ……)
楽しげな声とざわめきが聞こえてきた。小径の先を急ぎ足で進むと、そこにはみなれた灌木の庭が見えた。うねった小径を通り抜けると、芝生の生えた庭が見え、そこには懐かしい人々がいた。
丸眼鏡に口髭の貴族的な風貌の男性は、ミヒャエル・カリガルチュア博士。科学者であり、錬金術師でもある。
輝く金髪を肩で切り揃え、知的な美貌をした女性はロスヴィータ。心理学者であり、魔力を持つ。
背の高い痩せた美男子は、レオンハルト。五つ年上の優しいクララの兄だ。
そして、厳しい家政婦のベルツ婦人、物知りの執事ゼーベック、馭者で下男のヤーコブ、美味しい料理を作るスローン人料理人、メイド、使用人たち……クララが愛する優しい家族たちだ。皆は庭で談笑し、なにかのパーティーの準備をしている。
(おかえり、クララ……)
(ただいま……みんな……)
五体が温かいものに包まれ、幸福感が全身にしみわたっていく――が、何か咽喉につまった小骨のような違和感を覚えた。首筋がチリチリする気配を感じてふり向く。
クララがやってきた小径を見つめる。そこから、何か得体のしれない吐き気を催すような嫌なものがやってくる気配がした。黒い霞のようなものは柵を乗り越え、こちらにやってきた。ブヨブヨとしたアメーバのような原生生物が巨大化したような気味悪い黒い怪物であった。クララが悲鳴をあげるが、彼女の家族や使用人たちは、黒い怪物が見えないようだ。
(……クララ・カリガルチュア…………)
黒い原生生物のような怪物から声がした。それは錆びついた歯車がギャリギャリと軋むような、不快な声である。見上げると、黒い粘液のような怪物が人間の形になりつつあった。それは黒いフードにローブを着た魔術師か魔道士のような姿をしいていた。顔には金色に塗られた仮面が被されている。
怪物は触手のような煙を何本も掃き出し使用人たちを捕えて、黒い煙の中に呑みこんでいった。少女は悲鳴をあげて父に、母に、兄に取りすがる。だが、彼等に怪物は相変わらず見えていないようだ。取りすがっていた兄もまた、黒い煙のような触手に捕らえられ、怪物に呑みこまれた。恐怖で膝をついて震えるクララ。その間にも、父母や使用人たちはすべて怪物に呑みこまれてしまった。次は自分だ――逃げなければ。だが、体が熱くて、金縛りにあったように動かない。
(……宝石をよこせ……)
(宝石!?)
(そうだ……お前の胸にある石だ……)
クララはいつも胸元にあるロケット・ペンダントを両手で押さえた。“光り輝く宝石”――クララの生命の源――
(これだけは……駄目よ……)
(よこせ……光り輝く宝石を……よこすのだ……)
黄金仮面の怪物がクララ・カリガルチュアに鉤爪のような両腕を伸ばして、奪い去ろうとする。クララは抗い、その中で怪物の仮面が取れて地に落ちた――
(……あなたは…………)
クララは息を飲んで、驚愕の表情を浮かべた。仮面の怪人の素顔……それは青い水底に沈む海藻のような青黒い髪をまとわせた、水死人のような青白い肌、半眼で閉じられた、深淵を覗きこむような深い蒼い瞳をもつ美貌の青年であった。
(なんて美しい男……この男の名を私は知っている……確か……名前は……レザー……)
青い深淵の闇は漆黒の闇と化し、闇は複雑に犇めきあい、世界を虚空の闇へと変えた……クララは胸を押しつぶされ、呼吸が困難になった。空気を……酸素を……
(……クララ……クララ…………)
どこかで、懐かしい声が……温かい声が聞こえた。
(……クララ……クララ……起きて……)




