悲劇は前触れもなく
災いは前触れもなく、唐突にやってきた。あれは秋の中頃、今と同じような雷鳴とどろく雨天のできごとであった。
13歳となったクレールヒェン(クララ)・カリガルチュアは、父の発明した第五元素“光輝く宝石”の神秘の力で元気になり、ブランデンブルクの学校へも元気に通えるようになっていた。体が弱く、ベッドで過ごしてきたクララ・カリガルチュアは、哀しく物憂げな表情ばかりで、部屋で本を読み、人形遊びをしていた。
そんな彼女は青春を取り戻すかのように明るく快活な少女に変貌する。長い病気で成長が遅れ、同い年の子よりも童顔で小柄であったが、元気は人一倍だった。それに、母譲りの幼い美貌があり、クラスでも「可愛い、可愛い」と男女ともに人気がある。
魔力値も日に日に高くなっている。だが、魔力者であった母ロスヴィータが持っていた独自魔力『催眠魔眼』は開眼していなかった。博士はクララに平凡でも幸せな一生を遂げて欲しい、と願っていたので、覚醒しないで欲しいとも思っていた。
ブランデンブルク市郊外の森の中にある小路を、下男のヤーコブが手綱をひく馬車がカポカポと進めていた。曇天で、小雨が降っているが、クララの気持ちは晴れやかに明るかった。
三階建ての館に到着し、ヤーコブが馬車を厩に運び、クララは子犬のように玄関へ走っていった。黄金の髪を伸ばし、エメラルドの碧眼、ビスクドールのような白い肌の天使が光臨したかと見紛う可愛さであった。
「お父様に期末試験でトップとなったことを報告しなきゃ……」
彼女は母と同じ心理学者を目指し、勉学に励んでいた。友人ができ、お喋りも楽しいが、まだまだ、肉親に甘えたい気持ちが大きい。
父のミヒャエル・カリガルチュア博士は館の二階にある書斎で、研究書類を執筆しているはずだ。廊下に家族写真がある。丸眼鏡に口髭の貴族的な顔立ちの男が、科学者にして錬金術師のミヒャエル・カリガルチュア博士だ。
途中で、厨房からポークシチューの良い香りがした。スローン人の料理人が作る料理はどれもおいしく、クララのおなかが鳴った。それよりも、父に甘えたくて廊下を走った。母と兄が亡くなった寂しさ、空虚感を、父の愛情を独占することで癒していたのだ。だが、廊下を走る姿を、家政婦のベルツ婦人が見たら、「レディにあるまじきお転婆娘!」と、血相を変えるだろう。それを思い出し、クララの歩みは遅くなった。
「ベルツ婦人はいませんよね……」
応接間の扉が開いていた。この時間だと、ベルツ婦人が紅茶を飲んでいるはず。そろりと、扉の影から覗くと、テーブルに湯気のたつ紅茶とスコーンが見えた。だが、ベルツ婦人が見えない。なにか異様な雰囲気がして、鼻孔に生臭い匂いがした。鉄分を含んだ嗅いだことがある匂い……血の匂いだ。クララは長椅子の影から、ブーツを履いた足が二本見えた。クララの心臓の動悸が激しくなる。まさかこれは……
「ベルツ婦人!」
真っ青になったクララが駆け寄ると、やはりベルツ婦人がうつ伏せに倒れていた。厳しい躾には、うんざりすることがあったが、熱を出した時は親身になって看病してくれたベルツ婦人。クララは無意識に彼女に母の面影を垣間見ていた……そのベルツ婦人が倒れている。卒中かなにかの病気であろうかと思ったが、床に赤黒いものが広がっている事に気がついた。
「ひっ……血……」
仔細はわからないが、ベルツ婦人は怪我をしてしまったのだろうか? クララは父の名を、執事や使用人たちの名を叫ぼうとしたが、咽喉が乾いて張りつき、声がでなかった。心臓がドキドキと早鐘のように鳴る。銅像になってしまったかのように動かない上体をようやく起こし、石となった足をどうにか動かし、応接間を出た。声がでないが、誰かを呼ばなくては……
クララはなんとか厨房までたどり着き、中をのぞくと、料理人と使用人たちも同じように倒れているのを目撃した。執務室を覗くと、椅子の影に執事のゼーベックが不自然な格好で倒れていた。全員、うつ伏せで、血だまりが広がっている。平和で穏やかな日常が突如破壊されたのだ……
――いったい……誰がこんな酷いことを……強盗の仕業なの? 怖いわ……怖いわ……お父様……お父様……
館は魔法による結界が張り廻らせられているはず。それを解除して侵入するとはただの強盗とは思えなかった……
バタンッ!
その時、どこかの扉がいきおいよく開く音がした。クララ・カリガルチュアは心臓がドクンと高鳴り、身がすくんだ。人殺しの強盗であろうか……足音がして、クララのいる方角へ近づいてくる。どこか物陰に隠れるべきだと考えた。が、それより早く、廊下の角から足音の主が姿を現した。黒い影がクララに駆け寄ってきて、彼女に抱きついた。
「クララ!」
彼女を抱きしめたのは、クララ・カリガルチュアの唯一の身内、父親のミヒャエル・カリガルチュアであった。
「おお……クララ。すっかり元気になって……すべてはこの日のために第五元素を研究したといってもいい……この元気なクララの姿を、妻ロスヴィータと息子レオンハルトにも見せてやりたかった……」
「お父様……お父様……ベルツ婦人が……ゼーベックさんが倒れて……あれは……血が……」
愛娘の強張った表情と声色に異様さを感じた博士は、執務室に倒れている執事を見つけた。駆け寄り、抱き起こすと、胸を鋭い刃物で刺された傷痕が見えた。蒼白となった博士は、
「一体……誰がこんな酷いことを……クララ……帰ったばかりだが、街へ出かけるよ……」
「街へ? ドロッセルマイヤー教授のところかしら?」
「ああ……そうだ……それがいい……」
「でも……みんなが……お医者さまを呼ばないと……」
「クララ……いいから馬車へ行くんだ……ヤーコブはまだ馬車を小屋にしまってないだろう……」
「でも……パパ……ベルツ婦人が……ゼーベックさんが……」
ミヒャエル博士は恐ろしい表情でクララを抱きかかえ、玄関に走る。樫の木の扉を開けようとしたが、向こう側から開いた。黒いローブを着た背の高い男がいた。魔法の杖を持ち、顔は金色に輝く仮面をつけていた。
「ミヒャエル・カリガルチュア博士ですな……」
仮面の男は錆びついた歯車が軋むような、耳障りな音を発した。




