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星夜  作者: 柚田縁
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 こんな時どうすればいいのか、私は知らない。だって、誰も教えてはくれなかったじゃないか。

 骨を削り蝕むような暖かな夕立の中で、私は傘も持たずに、歩道をゆらゆら彷徨っていた。

 そう。ちょうどあの夢の中にいるみたいに。しかし、気持ちが全く違っていた。

 私は、弟が指輪を買ったとされる店を聞いた後、十分に礼を言う事さえ失念する程もどかしく、足早に去ったその足で、教わった店に向かった。

 古くからある商店の立ち並ぶ旧道沿いに、眼鏡、時計、宝石を扱うという小さな店があった。透明な窓越しに見る店内には、客はおろか店主さえもいない。普段なら、入るのに躊躇いそうな雰囲気を漂わせていたが、その時の私を足止めするには力不足だった。

 重い扉を押し開けて中に入ると、早速、時を刻む時計達の律動が、複雑な旋律を為して、私の聴覚を一時的に麻痺させた。その為か、一人の老爺が店の奥から音も無く姿を見せた時、少なからずとも虚を突かれた。

 もう老齢と言ってもいいくらいの店主は、嗄れた声で、「いらっしゃい」と言った。その言葉が、店主にとって何の意味もない反射的な台詞だったとしても、私は少し罪悪感を覚える事になった。私は、客としてそこにいたのではないのだから。ここに来て、やっと躊躇した。

 店主が何かを促すように、自分を見詰めている。私はうろうろと視線を迷わせた後、勢い任せに指輪の入った箱を、ショルダー・バッグの中から取り出して、蓋を開きつつ強い声音で尋ねた。

「この指輪に見覚えないですか?」

私は宝石や腕時計の陳列されたガラスのカウンター越しに、指輪を差し出した。

 店主は指輪をつまみ上げて眼鏡をずらすと、不思議そうな瞳で指輪を凝視した。それから、こう言った。

「随分とまた小さいなぁ」

店主はおもむろに動きだし、指輪を手にしたまま、店の奥に消えた。

 一人残されて、不安が増大し始める。

 やがて、彼は指輪のサイズを測る器具を手に現れた。その器具は、細長い棒のような形をしていて、両端の太さが違っていた。細い方から指輪を通していくと、少しずつ棒が太くなって、いずれ引っ掛かって止まる。そこに書いてある数字が、その指輪のサイズという事なのだ。

 その指輪は、五号だった。それから、店主は、こちらがびっくりするような大声で、叫んだ。

「思い出した! やけに小さい指輪を注文するから、覚えているよ」

「本当ですか? 誰に渡すとか言ってませんでした?」

「確か、名前を刻んで欲しいとも言っていたから、わかるぞ」

店主はまたしても奥へ消えた。しかし、妙なのは、指輪自体に文字は刻まれていないのだ。

 壁にかけられている無数の時計達が、刻む一秒が長く感じられた。

 戻ってきた店主は、分厚い帳面を持っていた。店主は眼鏡を変えて、目を皿のように丸くして小さな文字と格闘し始めた。

 私は、そんな様子を見守りながら、疑問を口にした。

「あの、この指輪、何も刻まれてませんけど」

彼は顔をそのまま帳面に向けて、答えた。

「名前を刻む前に取りに来たんだ。……お、あった。これだ!」

人差し指で、名前を押さえている。

「名前は、Yukinoだ」



 行き交う人の群れは、皆して私を奇異な目で一瞥すると、すぐに興味を失って、避けるように足早に去っていく。

 店主が言った名、Yukinoというのは、私の名前だ。

 衝撃を受けた事に連れ立って、私は指輪にまつわる出来事を思い出していた。

 私が高校三年生の時だった。

 その頃、弟とは既に疎遠な関係になっていた。どちらが家に帰ってきても、あまり会話を交わす事がない。それどころか、彼は目も合わせようとはせず、明確に私の事を避けている様子を見せていた。そんな事が続いており、私も常に苛立っていた。

 そんな日々の中、どういう訳か突然弟の方から話し掛けてきた。私は驚きながらも、苛立ちを感じさせるような応対をした。きつい口調で、素っ気なくあしらうだけ。

 いつもなら、それで終わっていた筈だ。だが、この日の弟は、いつもと違っていた。

 会話を重ねていくうち、徐々に心を開いていく私に、自分でも驚いた。それくらい、あり得ない事だったのだ。

 その日だけは、楽しかった。どういう脈絡だったかは覚えていないが、その時、弟は指輪のサイズを訊いてきたのだ。無論、冗談だと思っていた。

 高校生だった私は、指輪のサイズの事などよくわからず、かといって知らないと言えば姉としての面目が保てない。そんなくだらないプライドが鎌首をもたげて、私は適当な数字を口にしたのだった。

「五、よ」と。


 足先に何かがコツンと当たったような気がして、私は目を向けた。段差があった。その段差は幾つも積み重ねられ、遥か高みにまで通じている。ぼやけた視界に映るそれは、歩道橋の階段だった。

 私は、歩道橋からすぐに関心を失くし、通り過ぎた。向かっていたのは、菩提寺にある墓地だった。

 先日、四十九日を終えて、納骨も行われたと聞いたが、こうして訪れるのは初めてだ。本来なら、私も参列すべきところだが、どうしても足が向かなかった。お通夜、告別式、初七日といった諸々の式にも顔を出さなかった私が、こうして彼の眠る墓に参拝するというのは、皮肉な事だと思う。だがしかし、どんな顔をして会いにいけば良かったというのか。

 彼の死を引き寄せた、たった一言の罪。許される事はないとしながらも、私はどこかで贖う方法を探していた。どうすれば、私の罪は消えるのか。

 私は発作的に、首を思い切り何度も横に振った。今、考えた事柄を、遠心力で吹き飛ばすように。それと同時に、頭部に纏わり付いていた雨粒が飛び散っていくが、それ以上の勢いで空から降ってくる雫が、次々と髪を濡らしていく。

 彼が私を恨んでいない事は、はっきりしている。初めてお見舞いにいった時に見せたあの笑顔を見れば。今、こうして目を閉じれば浮かぶあの笑みを、思い出すだけで救われた気になってしまう。だけど、それはいけない事なのだ。私に課せられた罰は、この罪の意識を持ちながら生きていく事なのだから。もう誰にだって許させる気はないと決めた筈だ。

 随分長く歩いてきた。ようやく、遠くに仏閣が見えた。大きく垂れ下がるような屋根だけが、塀の向こうにある。

 塀に沿ってしばらく歩くと、巨大な門構えが私を迎え入れた。正面には本堂があり、その傍らによく整備された墓地があった。

 ここに来て、私の足は一層重さを増したように感じられた。狭く小さい歩幅ながら、私は墓地の方へ向かっていった。

 足下ばかりを見て歩いていた私に、聞き覚えのある声が掛けられた。全身に電流が流れたように震え、私は顔を上げた。そこには、母の姿があった。柄杓の入った木桶を右手に、左手には傘を差した姿で私を見ている。どこか困り顔に見えたのは、気の所為かもしれない。

「お母さん」

「やっと、向き合えたのね。あの子の……死に」

母はそう言ったが、私は力一杯否定したかった。けれども、言葉は出ず、態度も示せなかった。

 母は今し方お参りしてきたばかりだというのに、私の横を歩いていた。パラパラと傘が水滴を弾く音が耳を塞ぐ。

「手ぶらでお墓参りに来たの?」

「お線香くらい持って来なくちゃ」

「あ、でも、この雨じゃ役には立たないけど」

「私はお花を変えに来たのよ」

母が一人饒舌になって喋っている間に、私達は彼の墓前に着いた。彼女が変えたと言った花は、なるほど、確かに瑞々しい。花芝と数本の菊が、墓石の両脇に刺さっていた。

 私は墓石の左側に周り、そこに刻まれた名前を確かめた。いくつか並んだ中に、新しい金字の名前があった。

星夜(せいや)

少しずつ、目の前がぼやけてきた。ある一線越えると、後は早かった。

 私は彼の名前を唱えながら、涙を零し、謝り続けた。それが何に対しての涙であり、謝罪だったのかわからぬまま。

 母が私の肩をそっと抱いた。私は、安心して泣く事が出来た。



 それから泣き止んでしまうまで、随分時間を要した。彼が死んでから、最も長く泣き続けたのは間違いない。

 いつの間にか夕立は上がり、西空は茜に染まっていた。空の反対側から、ゆっくりと確実に、夜が侵攻してくる。

 私は、隣の誰のものかわからない墓石をぼんやりと眺めながら、指輪の件を母に話すべきかどうか、迷い考えた。このまま、誰にも知られないようにした方がいいのかもしれない。そんな思いが頭を過った。

「そろそろ行かないと、暗くなるわ」

母は後ろで言った後、木桶と閉じた傘を持って踵を返そうとした。その時、私は母の影を言葉で縫い付けた。

「待って!」

思いの外強い口調に、私自身驚いたが、そんな些細な事にかかずらっている時ではなかった。どうしてなのか、頭の中でさっき決めたのと、真逆の事をしようとしていた。

 ショルダー・バッグから指輪の箱を取り出した私は、無言のまま蓋を開けて母に見えるよう差し出した。

 それから、堰を切ったような勢いで、今日あった出来事を語った。

 容赦なく太陽は沈み、東の空には一番星が煌めいていた。

 母はずっと静かに話を聞き続け、時々頷いた。母のそんな冷静な反応に、初めは戸惑ったものだったが、それも次第に解けていった。

 出来事だけの語りを終えた後、母は言った。

「あなたは、何に怯えてるの?」

怯え?

 私は当惑して、何も言えないままただただそこに立ち尽くした。私が怯えているように見えたのは、切迫した話し方の所為だろうか。

「今日、あなたはここへ何をしに来たの?」

またの問い。まるで詰問されているみたいだ。

 何も答えられないでいると、彼女は更に続けた。

「その指輪があなたの為にあるのだとして、どう思ったの? 悲しかったの?」

母は怒っているのだ。彼女は叱る時、こうして問い掛ける事で、複雑に重なり合った事象を一つ一つをはぎ取っていく。

「あなた、まだあの子に、きちんと向き合えてないみたいね。結局、あなたがさっき流した涙は、全部自分の為だったのよ」

胸に鋭利な刃が突き立てられたような思いだった。

「じゃあ、私にどうしろって言うの! もう死んでしまった人に……弟だった子に! こんなのって……あんまりだよ」

激情の波に押し流され、心に浮かぶより早く口を突いて出る言葉達。私は、自分でも何を言っているのかわからない状態にあった。

 目頭が熱を帯びて、表情が歪んでいく。だけど、もう涙は枯れていて、頬を伝う程の滴は出なかった。

 もう空の半分は群青色に染まり、いよいよ夜の帳が下りようとしている。明るい星ならば幾つか見えるようになっていた。

「私はもう帰ります。あなたはそこでもう少し考えるといいわ」

母は私に背を向けて、二、三歩歩いて立ち止まった。

「一つ言っておくわ。その墓石の下のお骨にはね、同じような指輪が入っているの」

そう言い残して彼女は、今度こそ本当に行ってしまった。

「指輪……。そんな、考えろって言っても」

一人残された私は、もう一度墓石の左側で刻まれた彼の名前を見ようとしたが、もう暗くて確認するのも難しかった。

 代わりに、指でなぞる。小学生で習うような、そんなに難しくない文字。

「星夜、どうしてこんなものを残したりしたの?」

私は箱の中から指輪を取り出し、宵闇の中に浸した。

 この指輪がなければ、こんな思いをする事はなかった。星夜が、指輪を取りに行っていなかったら……。

 私ははたと考えた。星夜が指輪を取りにあのお店へ行ったのは、いつだったのか。少なくとも、入院する前だ。だとしたら、名前が刻まれる前だというのに、それでも受け取ったのは、何故だろう。

 急いでいたから?

 急ぐ理由は一つしかない。彼は、自分の命が長くない事を、その時点で知っていたのだ。

 それなら、どうして彼の自宅にこの指輪は置かれていたのか。

 想像するしかないが、多分、彼なりに悩んでいたのかもしれない。気持ちを打ち明けるかどうかで。それで、彼は打ち明けない方を選んだのだ。

 もし、私があの時、指輪の送り主を調べようなんてしなければ、彼の想いに私が気付く事もなかったし、こうして思い悩む事もなかった。

「……馬鹿な子ね」

 私を傷付けまいとした彼の優しさを感じて、枯れたと思っていた涙が、また流れ出していた。それは、先程とは違う涙だ。人差し指の先で涙を拭きながら、私は気が付いた事があった。それは、戸惑いの霧に覆い隠された素直な感情。嬉しいという、ただそれだけの感情だ。

 母が言ったように、私は怯えていたのかもしれない。隠された自分の想いに。だけど、もうそこに恐れはなくなっていた。

「星夜。ごめん、気付いてあげられなくて」

 私が背負い、他の誰にも肩代わりさせる事の出来ないと思っていた重荷。それが、少し軽くなったような気がした。一緒に背負ってくれる存在と、荷自体を減らしてくれる存在を、近くに感じる事が出来たからだ。

 指輪の箱がカタンと音を立てて、地面に落下した。

 私は、指輪を左手の小指に嵌めた。それは、ぴったりと隙間なく収まった。

 これで少しは彼の死に、いや、それだけじゃない。彼の想いにも、少しは向き合う事が出来ただろうか。

 私は、遥か上空を見上げた。計り知れない程の星が、一つ一つ生きているように瞬いていた。

「星夜」

微かな夜風にも消えてしまいそうなくらい小さな声で、彼の名を呼んだ。それから。

「大切にするね、ありがとう」

そう言って、私は笑った。

 彼を失ってから初めて、心の底から湧き出てきた笑みだった。


あとがき


 ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました。

 折角あとがき欄があるので、あとがきのようなものを書いてみようかと思います。


 まず、私は短編を書こうとしていました。文字数にして大体一万弱の短編です。

 プロットこそ立てませんでしたが、イメージとしては、現代を舞台にした少し不思議な事が起こるファンタジー。

 具体的に頭に浮かんだのが、江國香織さんの「デューク」みたいなお話です。

 しかし、書いているうちに不思議な事は、私の身に起こりました。

 文字数が一万を超えてなお、お話が終わらないのです。

 おかしい……、これでは短編ではなくなってしまう。そう思いました。

 不思議な事はもう一つ。初稿が出来上がった段階で、ファンタジー要素が一つも盛り込まれていなかったのです。

 さすが、ノー・プロットですね。

 どうなるかわからないスリルが味わえます。


 さて、このお話の中で一番悩んだのは、指輪のサイズです。普通は何号くらいなのだろう? 小指に嵌まるくらいの指輪はどれくらいか?

 そんな疑問の答えをネットで検索して、何とか五号くらいが妥当だという結論に至った訳ですが、気が付くと、色々なホームページの至る所で指輪の広告を見かけるようになりましたね……。

 調べたのはもう二週間程前の事なのに、端っこの方でまだ指輪をおすすめされています。


 タイトルにもなっている弟の名前ですが、初稿の時点で『星夜せいや』ではありませんでした。

 名前を変えたのは、単純に名前と設定がかぶっている可能性のある小説を見つけたからです。

 色々考えた末、現在のものに落ち着きました……が、同じタイトルの小説があるようですねー。確認忘れてました。


 そろそろこの辺で。

 では、これからも柚田縁とその作品をよろしくお願いします。失礼します。


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