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星夜  作者: 柚田縁
4/5

 この日、私達の暮らす地域の梅雨明けが発表された。本格的な夏の訪れを、去年までの私なら歓迎していただろう。夏休みだと。

 だが、私は夏休みに入る前から、部屋に引きこもっていた。最後に学校へ行ったあの日以来、まともに外へ出ていなかった。

 そう言えば、まだ退学届は出していない。くしゃくしゃの用紙には何も書いていないし、注意書き等も見ていない。様々な思いが胸の奥に積み重なって、手が付けられる状態ではなく、意識の外へ放り出していたのだろう。

 さて、今日の私は強い決意のもと、外出をしていた。猛烈な暑さになるのはわかりきっていたので、移動は午前中にしようと朝の八時に出立したのにも関わらず、既に太陽はじりじりと街全体を焼いていた。

 風は止まり、熱は同じところに停滞している。路上を歩く人をほとんど見ないのも、無理はない。

 住宅街を歩いていると、エアコンの室外機が音を立てて回り、熱風を吐き出して、外気の温度を更に高めているようだった。

 私は、紙切れに書きなぐられた簡単な地図を頼りに、そのような住宅地を心細い気持ちで歩いていた。右手は痛い程固く握られていて、その手のひらには汗が滲んでいる。

 やがて、地図にある赤い星印の場所にやって来ると、左手を庇代わりにして、高い建造物を見上げた。それは、弟が施設を出てから住んでいた、アパートだ。私は地図をショルダー・バッグに仕舞い込んだ。

 彼の部屋は、403号室だった。私は一つも間違う事なく、彼の部屋の前にやって来た。固く握っていた右手を緩めると、ほんの僅かな空気の動きでさえ、汗に濡れた手のひらには、涼やかに感じられる。

 手のひらの上には、眼前の鉄扉を開ける鍵が載っている。

 初めて訪れるのが、部屋の主の遺品整理というのが悲し過ぎた。

 私は目を伏せて、大きく息を吸い込んで吐いた。ずっと重苦しく感じていた鳩尾の不快感は、僅かも改善される事はなかった。それどころか、これからの事を考えると、余計に心音までもが大きくなっていった。

 私はもう一度大きく息を吸い込むと、顔を上げた。そして、鍵穴に鍵を差し込んで時計回りに捻った。微かな微動と、小気味良い音。呼吸を再開させて、私は勢いよくドアを開けた。

 光が目に飛び込んできて、目を細めた。それから、懐かしさを感じさせる、彼の匂い。襲い来る記憶の洪水に翻弄され、私はよろめいて、玄関横の壁に寄り掛かった。

 やっぱり、無理だ。そう思った。

 背後では、牢の扉が閉ざされたみたいに重厚な音がした。

 数分の間、私はその場から全く動こうとはせず、ただ、壁に寄りかかって甘い記憶に浸っていた。だが、匂いというものは慣れると感じなくなるらしい。徐々に、思い出を辿れなくなっていく。

 私はよろよろと壁から離れ、自力で立った。後悔しない為にやって来た筈だ。そう自らを鼓舞しながら、靴を脱いで、部屋の奥へ進んだ。至る所に弟の痕跡が残された六畳フローリングのリビング・ルーム。入ってくる時に、狭いキッチンとユニットバスがあった。典型的な1Rの間取り。

 私はリビングの中央に立って、くるりと一回りした。ここへ引っ越してから買ったであろうベッドやテーブル等の家具や家電に混ざって、見覚えのある目覚まし時計や小型の本棚と彼の愛読書達が、私をやるせなくさせた。

 早鐘を打つ心臓を沈める為の深呼吸も、何故か溜め息に変わってしまう。

 私は早々、来た事を後悔し始めていた。

 最終的に、この部屋を空っぽにして、家主に返さなければいけない。その為に、母は業者に依頼しているらしい。となると、私の役割とは何だろう。遺品整理という名目ではあるが、私一人で何が出来るか。多分、思い入れのある物を、数点持ち帰るくらいしか出来ない。母は、それを見越して、私をこの場所へ向かわせたのだと思う。ここへ来なければ、後悔する。だが、つい先程、私は来た事を後悔したばかりだ。種類は違っているが、どちらにしても、同じような結果を招くに至った訳だ。


 私は、迷いながらも部屋の隅で壁に向かい、作業を始めた。当たり前の事だが、私が見た事のない、知らない物が多い。彼が一人暮らしを始めてからの物か、一時期疎遠になっていた頃の物だろうか。私には、弟の全てを知っているような、奢りがあったのかもしれない。人一人を形作る情報量というものを、甘く見ていた。

 それでも、中に見知ったものがあると、じっくりと時間を掛けて思い出を整理していく。作業は中々進まない。

 私はふと気が付いた。これこそが遺品整理だと。その人が残して行った実物だけでなく、遺された者の持つ思い出。その両方を整理する行為なのだ。

 気が付くと、大きな窓から西日が差し込んで、部屋の中が夕日の色に染まっていた。どうやら、今日中に終わらせる事は出来なかったみたいだ。

 私は今日の最後と決めて、彼のデスクと向かい合った。このデスクは、私もよく知っていた。彼が小学生の頃から使っている、年期の入った一品だ。私は唯一鍵の掛けられる、右上の引き出しを引いた。鍵はもうとっくに、彼が失くしていた筈だ。何の抵抗もなく、引き出しは滑らかな動きで開いた。

 何という事もない皺の寄った紙切れや、短くなった黄色い色鉛筆、やけに新しい消しゴム。他愛もないその中に、一つだけ重大な意味を持つと想像に難くない、青い箱が一つ。手に取ると微かに重くて、ベルベットのような柔らかな手触りをしている。

 私はそれを目にした瞬間から、胸の早鐘を抑える術を失っていた。

 恐る恐る箱を開けてみると、想像していた通りの物が、中央に鎮座していた。指輪だ。

 何の宝石も付いていない、銀色のシンプルな指輪だった。ほとんど無意識に、私はそれを目の高さまでつまみ上げて、しっかりと見た。宵闇を映した鈍色に、私はすっかり魅了されていたのかもしれない。

 無意識の状態は依然として続き、自分の左手薬指に嵌めようとした。だが、指輪は酷く窮屈で、第一関節を辛うじて通り抜けただけで、それ以上は進まなくなった。

 ハッとして現実に戻された私は、急いでその指輪を薬指から外し、青い箱の元あった場所に戻して、蓋を閉じた。

 いつの間にか、全身にじっとりと張り付くみたいな汗を掻いていた。呼吸も早く、左胸は仄かな痛みを伴って忙しない鼓動を繰り返している。

 私は、震えるような声で呟いた。

「良い人がいたんじゃないの」

 西日はもう届かなくなっていた。部屋の中は陰に覆われて暗然としている。心ここに在らずといった風で、私は帰る支度を始めたが、すぐに動きを止めてしまった。指輪の入った箱を掴んだまま。

 私は迷っていた。この指輪をどうするか。このまま残して去ってしまえば、おそらく処分されるだろう。けれど、それでいいのだろうか。既に募り始めているわだかまりに目を瞑り、帰ってしまってもいいのか。

 箱を掴んでいる右手から、力が抜けていった。

 私にはもう、どうする事も出来ない。本当は誰のものかもわからないのだから。

 震える手を引き寄せて、私は目を閉じた。そして、自分にこれでいいと言い聞かせる。このまま。このまま。

 次の瞬間、私は瞼を上げ、思いとは裏腹に指輪の入った箱を、ショルダー・バッグの中に投げ込んで、荷物と一緒にした。

「仕方ないなぁ」

大きく吸い込んだ息を吐きながら呟くと、胸の内がすっきりとした気がした。依然として、心臓の鼓動は早く、肺を誰かに押さえつけられているような息苦しさもある。だけど、決めた。あの子の為に、一肌脱いであげよう、と。



 一人暮らしを始めてからの弟について、私はほとんど知らない。どこのどういう職についているかさえ、母に聞くまで知りもしなかったのだ。

 彼が勤めていたのは、IT関係の小さな会社だった。あの子の家で遺品整理をした次の日の午後、私は彼の勤め先を訪ねた。

 中心街の外れで、民家が立ち並び始める界隈に、目的地である四階建ての貸しビルがあった。そのビルの二階フロアが、彼の勤務先だ。株式会社、浅間ソフトウェアという。

 私は緊張していたにもかかわらず、気ばかりが急いて、ぶしつけな程突然ドアを思い切り引いてしまった。だが、ドアには鍵が掛かっていた為、開けるには至らなかった。

 ドアの横にある壁には、私の目線とほぼ同じ高さに、『御用の方はインターホンを押してください』とある。

 私はインターホンを押して、しばらく待った。間もなく、インターホンの向こうから、女性の声が発せられた。

「ご用件は何でしょう」

私は名乗り、次いで弟の名を告げて、彼について聞きたい事があると、用件を述べた。

 すると、ドアのロックが解除されて、先程の声の女性が出迎えてくれた。彼女は、私よりも少しばかり背が高く、そして、美しかった。自然と、私の視線は、彼女の左手に向けられた。そこには、既にシルバーのリングが、控えめに着けられていた。

 中へ案内されたフロアは、十畳くらいの広さしかなく、ワークデスクが八脚、隙間なく敷き詰められている。その場にいたのは五人で、全員がパソコンに向かって、何やら作業をしていた。

 紹介されたのは、社長だった。黒ぶちの眼鏡を掛けた、四十代くらいの男性だ。

 女性が、私の名と弟との関係を話すと、社長は一瞬にこやかな笑みを顔に浮かべたが、すぐに消沈し、遺族である私に対して相応しいと思しき表情に変わった。

「この度は御愁傷様でした」

「いえ……」

私は言葉を失くし、それっきりしか言えなかった。

 女性は、社長のすぐ隣の席に着いて、ノートパソコンを開いた。

 空調の音と、キーボードの打鍵音だけが、十畳一間の空間で鳴り続けた。

 社長は、レンズの向こうにある目を僅かに細めて、眼鏡の蔓を右手で持ち上げつつ言った。

「それで、今回はどういったご用件でしょうか」

私の脳裏に、ここへやって来た理由が、パッと浮かんだ。夜空に打ち出された、花火のイメージだ。

「お忙しいところすみません。今日は、弟について聞きたい事があって来ました!」

ただの気の所為かもしれないが、いくつかの視線が私に向けられたのを感じた。

 私は事の次第を社長に話した。無論、指輪の事も。

「彼がこの指輪を送ろうとしていた人に会って、あの子の代わりに……」

そこまでしか声は続かなかった。涙こそ流さなかったが、胸の中には様々な感情が蓄積し、もうこれ以上の言葉を紡ぐ事は出来なかった。

 社長は、困ったように目をあちらこちらへと泳がせながら、答えた。

「彼はあまりプライベートな事を話さなかったなぁ。こっちとしても、少し聞き難いところがあるし……ね」

 聞き難い理由とは、おそらく彼が施設出身だったからだろう。

「今、彼の指導役だった営業の田中君が、外回りでいないんですよ。彼なら、何か知っているかも……」

「待たせてもらっていいですか?」

「もちろん。あ、そうだ! 彼のデスク、まだそのままなんです。ついでだから、必要なものは持っていってくれてもいいですよ」

 私は、社長の指差す無人のデスクへ向かった。机上には薄らと埃が積んでいる。もう一ヶ月以上もそのままだというだけはある。彼の自宅にあったデスクと比べると、よく整理されていた。引き出しの中にも、私物はほとんど置かれていないようだ。それは、思い出に浸れるものが、ここには残されていないという事を意味している。

 時間が随分とゆっくり流れていた。ここはそういう場所なのだと、錯覚してしまうくらい、変化に乏しい場所だった。

 目覚めは解錠の音だった。いつしか私は、うとうととしていたらしい。田中という、弟の指導役が戻ってきたのだ。

 私が立ち上がるより早く、社長が彼のもとへ向かっていった。二人の目がこちらを向いた時、私はお辞儀をした。

 田中氏は、周囲に気を使ってなのか、それとも私や弟に対してなのかわからないが、外へ誘った。

 背後でオートロックの施錠音を聞き、私は待ちきれず田中氏に、弟の交友関係を尋ねた。だが、私が期待したような答えは、返ってこなかった。

「彼とは、仕事中ほとんど仕事の話しかしなくて……。ごめんなさい」

「あぁ。そう、ですか」

呼気はほんの少ししか喉を通って来なかった為、消え入るような声しか出せなかった。

「でも、指輪の事には少し心当たりがあります」

「え? 誰に送るとか言ってませんでしたか?」

俄然、声に力が込められた。

 彼は、私の勢いに押されるようにして、仰け反りながら一歩後退した。

「いえ、そこまでは。ただ、誰に渡すのか、冷やかしたのを覚えています。とうとう名前は白状しなかったんですけど。わかるのは、指輪を買った店くらいかなぁ」


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