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いつの間にか、空は濃い灰色の雲に覆われていた。風がどことなく冷たく感じられる。雨が降り出す兆しかと、私はベンチを立った。
その時、緑色のボールが転がってきて、私の足にちょこんと当たった。目線を上げて視野を広げると、どこから転がってきたのか、一目瞭然だった。たどたどしい足取りで走り寄ってきた男の子が、私から三メートル程離れた所で立ち止まり、上目遣いでこちらを見ている。私を警戒しているのだろう、それ以上近寄ろうとはしない。
私が足下のボールを拾い上げて、投げ返そうとした時、彼は脱兎のように逃げ出した。その先には、まだ若い母親が待っていて、男の子を抱き上げるとこちらにやって来て、頭を下げた。
「すみませーん」
彼女は私が差し出したボールを、空いた方の手で受け取った。
子供とは言っても、さすがに片手で抱きかかえ続けるのは辛いらしく、男の子を地面に降ろした。そして、その手に緑色のボールを渡す。
「はい、ありがとうは?」
母親が、男の子の後頭部に手を添えて促すと、彼は大袈裟なくらい頭を下げて、「ありがとっ」と言った。
私は少しだけ晴れやかな気持ちになった。
自分が守られていると知った時、人は誰だって少しばかりの強さを得る事が出来る。それを、私の前で笑っているこの子が思い出させてくれた。
男の子はもう広いグラウンドの方へ、走っていった。
「ありがとうございました」
一礼して、母親は我が子を追い掛けていく。
私は、一仕事を終えたみたいに深く溜め息を吐くと、家路を急いだ。
公園を出ようとする時、電話が鳴った。母からの電話だった。私は受け取るかどうか一瞬躊躇したが、結局は出る事にした。
「……はい」
私は少し間を空けて、声を出した。
「あ、やっと出た。最近電話にも出ないから、心配したわ」
「ごめん……なさい」
「うん、あんな事あった後じゃ、仕方ないわね」
両者とも、言葉を失った。多分、母も同じで、弟の事を思い出していたのだろう。
沈黙を破ったのは、私の方だった。
「それで?」
ちょっと素っ気なさ過ぎたかもしれない。そう後悔した。
「うん。あの子の遺品整理をお願い出来ない?」
私は唖然とした。
冷たく湿った風が、突然強く吹いてきた。もう、空に立ち込めた雲も、堪えるのが限界のようで、雫をぽつりぽつりと落としてきた。その水滴で私は自分を取り戻した。
足早に歩きながら、私は強い口調で電話口に応えた。
「私に出来ると思うの?」
「あなたにしか出来ない、そう思ったのよ」
雨はいよいよ本降りの様相だ。雨粒が大きくて、肩や頭に当たる時、痛みを伴っている。
「どうして、私?」
「一番……仲が良かったじゃない」
それがわかっていて、私なの?
その思いは、口に出せなかった。
「それに、あなたが後悔する」
「後悔?」
引き受けた方がむしろ、後悔しそうな予感がする。
私はもう家まで辿り着く事を一旦諦めて、近くのドラッグ・ストアの軒先を借りた。
「あなた今、あの子の事を必死に忘れようとしているでしょう?」
「そんな、事は」
「もうね、正直になりなさいよ。このままじゃ本当に、取り返しのつかない程、後悔するわ」
何も言えなくなってしまった。決して、その理由は図星であるからではない。そう思いたかった。
電話の向こうで、母が嘆息した。
「とにかく、あなたの家のポストに、鍵を入れといたからね」
母はそうして電話を切った。
雨が全ての音を掻き消すように、轟音を立てて降り出している。私は、その中へ一歩踏み出した。
私には、大きな罪がある。
その罪が、弟の命を奪う事となった。そう考えるのは止めるよう言ってくれた人もいたが、納得出来る筈がなかった。
彼が入院する一ヶ月以上前の事になる。山々が明るい萌葱色に染まる、五月の頃だ。
弟は社会人として、働いていた。彼の高校の成績からすれば、奨学金をもらいながら、比較的授業料の安い地方の国公立大学への進学だって可能だった筈だ。しかしながら、彼は結局、育ったこの街で働く事を決意した。そこにどんな意図があったのか、彼は私に語ってくれなかった。
当然の事かもしれない。いつの頃からか、弟は私に心を開いてくれなくなった。思い当たる節ならいくらでもあったが、その中から正解を選び出そうとすると、どれもしっくり来ない。悲しい事だが、私と彼との過ごした時間全てが、疎遠になる理由だと考える外なかった。
そんな弟が、ある日曜日、私に電話を寄越してきた。相談したい事があると言って。
「直接会って、話したいんだ。だから……」
そう言って、彼は私を呼び出した。
場所は私の下宿先に近い喫茶店、時間は今すぐ、との事。
「来れる?」
正直なところ、私は嬉しかったのだ。もう、私を必要としなくなった弟が、こうして頼ってくれている、と。
楽な部屋着で過ごしていた私は、いつもより少し長く身支度に時間を掛けて、部屋を出た。
約束の店で久しぶりに会った弟は、やはり変わって見えた。最後に会ったのは、私が一人暮らしをする事になった、一年前の三月下旬となる。引っ越しの手伝いという形で、母が派遣したのだった。
それからすると、随分と大人びているように見えた。身長も更に伸びていたかもしれない。
だけど、変わらない事もある。店に入ってきた私を見つけた時の表情。笑顔だ。それだけは、彼が物心ついた頃から、ずっと変わらない。
私はフッと息を吐いて、彼が手を振りながら座っている所へ、歩いていった。
弟は、向かい合って座った私を見るなり、息を吹き出して、声を押し殺してククッと笑った。
「何笑ってんの!」
「だって。気合い、入れ過ぎ」
彼は、私を指差してそう言うと、尚更に笑い出した。
顔が熱くなってくる。多分、化粧越しにも頬の赤みくらいは見えただろう。
「ちょっとぉ、相談があるって呼び出しておいて、それは失礼じゃない?」
「ごめんごめん」
これ程言葉の意思が伝わってこない謝罪も珍しい。
私は彼から目を背けた。丁度そこへ、お冷やがやって来た。
「ご注文がお決まりになりましたら……」
ウェイトレスの言葉を遮って、私はアメリカンを注文した。
コーヒーが運ばれてくると、私は取り敢えず一口啜った。ちなみに、普段は無糖ブラック派ではない。ただの背伸びだ。尤も、それくらいは見抜かれてしまっていたかもしれないが。
「それで、相談って何?」
「うん。ちょっと悩みがあったんだ」
「どんな?」
彼は神妙にしたかと思うと、突然破顔してこう言った。
「何か、どうでもよくなったよ」
「はぁ?」
私が二の句を継げずにいると、弟は、「そんな事より」と、切り出した。
「これから、ちょっと出掛けない?」
「どうしてそうなるの!」
「もったいないだろ。折角、メイクも服も決めてきたんじゃない?」
私は思わず、立ち上がって、抗議の言葉を口にしようとした。だが、そう出来なかった。
彼は顔を歪めた。痛みを堪えるように。
「どうしたの?」
「う、うん。何でもないよ。最近お腹の調子が悪いんだ」
「へぇ。それ、生活環境が変わったからよ。多分、ストレスね」
「さすが、看護師の卵。うん、仕事のストレスはあると思うな」
彼はそう言うと、ゆっくりと立ち上がって、化粧室へ向かった。
戻ってきた弟の顔は晴れやかで、ほんの少しだけ感じていた不安を忘れさせた。
それからその日は、弟とまるでデートのようにして過ごした。
私はこの時、気が付いておくべきだったのだ。彼は、どこへ行っても、まずトイレへ向かった。犬が散歩中にマーキングするかのようだと、会話の中で茶化したりもした。
だけど、今なら、大腸癌の初期症状だったと、容易に考えられる。取り返しのつかない事だが、今感じているこの後悔の念を消し去るのは不可能だ。
確かに、死期が僅か遅れるだけの事だったかもしれない。だが、仮にも医療の現場に立とうとしている私にとって、それは大きな傷となった。
これが、私の犯した罪の全容だ。どんなに徳の高い人でも、例え神様だったとしても、この罪を消し去ることは出来ないし、そうさせるつもりもない。これを背負って生きていく事が、私に課せられた罰なのだから。