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星夜  作者: 柚田縁
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 市立公園前で路線バスを降り、園内を横切って反対側の門を出ると、すぐそこに私の通う看護学校の裏口がある。一方通行の狭い路地裏を挟んだ向こう側だ。マイクロバス程の車幅でも、通過するのに難儀するような路なので、主に自転車や原付が使う他、稀にタクシーが通る程度だ。

 規模の大きな学校ではない為、学生も他校と比べると標準的か幾分少なくて、一学年四十人くらいだ。それが三学年あるので、全校生徒は百二十人くらいとなる筈だが、割と多いのが脱落者で、実際は百人強というのが実態だ。

 脱落理由は人それぞれだが、授業や実習に着いていけないというケースが最も多い。何分にも、看護師というのは命を扱う職業だ。それ故、高度な授業も多く、入学するよりも進級の方が難しい。病院での実習に入るようになると、現場で自己の無能さに絶望し、医師や先輩看護師、患者等と向き合う事が出来ず、辞めてしまう者も出てしまうと聞く。

 かく言う私も、今日は二週間ぶりに訪れ、退学届けを貰おうと事務課へ向かっていた。

 学内の路地に人影はない。それもその筈で、今は授業時間だ。二週間も登校していないと、知り合いに会うのは、中々気まずいものがあった。しかも、久々に登校した理由が退学する為ときている。

 事務課は、学内の隅に立つ別棟の一階部分だ。学校の規模と同様に事務課もこじんまりとしている。

 中に入って、私がカウンターの前に立つと、まず事務員の数人が、無機的な視線を送ってきた。私はたじろぎながらも、絞り出すように声を発した。

「すみません」

息を吸い込むのを忘れて声を出したので、語尾まで息がしっかり残らず、小さくなってしまった。聞こえただろうかと、不安になる。息を吸い込み直してもう一度同じ事を言ってみようか、そう思った時、一番近くのデスクでパソコンのモニターを見て、キーボードを打ち鳴らしていた若い女性が、立ち上がってやって来た。

「何でしょうか」

私は安堵しつつも、次の緊張感に襲われた。

「えっと、退学届を貰いたいんです」

「辞めちゃうんですか?」

余り抑揚の感じられない声で言いながら、彼女は後ろ向きに棚を物色して書類を探し始めた。

「は、はい」

「何年生?」

「二年です」

私が答えると、女性は書類を見つけたらしく、カウンター越しに私と向かい合った。

「そんな、もったいない」

女性は書類に目を遣って、退学届に間違いない事を確かめているようだ。

 私が黙って書類に目を向けていると、彼女は一つ頷いて手渡した。そして、明るく笑ってこう言った。

「もう少し考えてからの方がいいわ。色々悩んでいる事もあるのでしょうけれど」

 私は退学届けを受け取り、すぐに作ったとわかるような笑みを返した。

「もうずっと考えてました。悩みました。その上で、ここに来たんです」

目の前の女性は、笑顔をどこかへ引っ込めてしまうと、悄然と頷いた。

「そう、なの」

 私は一礼すると、逃げ出すような早足で事務室を出て行った。

 丁度、授業時間の終了を告げる鐘の音が鳴り出した。ぞろぞろと校舎内から学生が出てくる中、私は顔を伏せたまま走り抜けた。もしかしたら、友人の一人や二人に見つかって、声を掛けられたかもしれないが、今の私に聞こえるのは鐘の音と騒音のような人々の話し声ばかりで、とても聞き分ける事は出来なかった。

 裏口から学内を出ると、すぐに公園へ入った。いつもは突き抜けていくだけの園内で、私は急に立ち止まった。

 強く握り締めていた右手には、さっき貰ったばかりの退学届があって、くしゃくしゃの状態に変わり果てていた。

 とぼとぼと歩き、すぐ近くのベンチに私は腰掛けた。そして、白い雲に覆われた空を仰いで目を閉じた。



 弟が最後まで入院していた市立病院は、市の南部の臨海地区にある。考えてみると、彼はここに僅か二ヶ月もいなかった事になる。毎日同じような日常を送る私の二ヶ月間に比べると、本当にあっという間だった筈だ。

 彼が入院したと聞いた時、私にしてみればそれは、当に寝耳に水だった。弟が入院するような心当たりは無かったし、事故なんかで怪我をしたとか、そういうものだと考えていた。

 だがしかし、そうではなかった。知らせを受けてすぐに市立病院へお見舞いにいったその時、彼はベッドで漫画雑誌を読んで笑っていた。私は拍子抜けして、その場にへたり込みそうになり、自分がどれ程心配していたのかを改めて知る事となった。

 弟は私に気が付くと、漫画雑誌を枕元に置いて、小さく笑みを向けた。そして、無神経にもこんな事を言った。

「あれ、どうしたの?」

その部屋が個室だったなら、戸を閉めて怒鳴りつけていたかもしれない。それくらい、私は怒っていた。

 私は間欠泉のような断続的に噴出する怒りを何とか噛み殺し、彼のもとへ足早に歩み寄った。

「どうしたの? じゃないわよ、まったくもう」

私はそう言うと、見舞客用にと用意されたパイプ椅子を、ベッドとテレビ台の隙間から取り出して座った。

「ごめんごめん」

これ程言葉の意思が伝わってこない謝罪も珍しい。

「いつからここにいるの?」

「うーんと、一昨日かな」

「どうしてすぐに連絡しなかったの?」

私の質問攻めに、弟は少し機嫌を損ねたようだった。

「俺、もう高校卒業した大人なんだよ?」

「十八歳はまだ子供よ」

彼は本格的に腹を立て始めている。私には、長年の付き合いから、僅かな仕草や表情の変化でわかるようになっていた。

 彼は口の中で何かを呟いた。

 その時、周辺の雰囲気をがらりと切り替えるような陽気な声が、唐突に響いた。

「はーい、お昼ご飯ですよー」

頭に三角巾を着けたおばさんが、他の患者への昼食を運んできたのだ。

 私はパイプ椅子から立ち上がり、弟の分を取りに行こうとした。けれど、ベッドから乗り出した弟が私の右手を掴んで、引っ張った。私は少しバランスを崩し、パイプ椅子に足をもつれさせた。幸い、私が転倒する事はなかったが、大きな音で椅子は倒れて自然に折り畳まれた。

 弟はパッと手を放し、目を細めて顔を背けながら、控えめな声で、「ごめん」と言った。

 私は生返事をして、パイプ椅子を拾い上げた。

 彼は相変わらず私を見ないで言った。

「この後検査だから、俺の分はないんだ」

「あ、そうなの」

「うん。あと一時間くらいしたら。だから、今日はもう……帰っていいよ」

先程とは裏腹に、はっきりと私の顔を見てそう言った彼の目は、いつになく強い光を放っていた。

 私はその光に気圧されて、「じゃあ、またね」とだけ言って、来たばかりだというのに、取り急ぎ帰る事にした。

 ナースセンターの前を通り過ぎた直後、一人の女性が声を掛けてきた。その人は、弟の担当になっている看護師だと言った。

「少しお時間頂いても構いませんか? 主治医から、お話ししたい事がございます」

 私は正体のわからない茫々とした不安を、その言葉に感じた。だが、首を横に振る訳はなかった。



 日が沈み、しめやかに夜が訪れて部屋に深い闇を落とすと、部屋の隅で膝を抱えて座っている私自身の影も、巨大な口を開けた暗闇の歯牙に掛かって、呆気無く飲み込まれてしまう。私の失われた影を取り戻すのは、簡単な事だ。この部屋のどこかにあるリモコンのボタン一つを押すだけ。そうすれば、この部屋を明るく照らしてくれる、強い味方が天井に張り付いている。

 しかし、私はそんな簡単な事さえ、やろうという気持ちが起きてこないでいた。

 大体が、どうやって自分の部屋に戻ってきたのか、それすら正直よく覚えていなかった。バスを乗り継ぐしか、市立病院から帰る事は出来ないのだから、おそらく実際にそうしたのだろう。

 私をこんな風にしてしまったのは、主治医からの話だ。無論、語られたのは弟の病について。そしてそれは、死の宣告に等しかった。

 若年性の大腸癌を発端とし、弟の全身は病牙によって隈無く蝕まれているという。その事がどんなに絶望的か、看護師の卵として学んでいる私でなくても、明確だった。若く活発な細胞は、それだけで分裂速度が速い。例え、癌細胞であったとしても、それは変わらない。その為、全身に転移する速度も、驚異的なのだ。

「例え、早期発見が出来ていたとしても、おそらく数日から数週間後にずれるだけだっただろう」

医師はそんな風に言った。

 私はそれらを耳にした時、信じる事が出来ず思わず口走った。

「そんな、さっきまで漫画読んで笑って……!」

主治医は何も言わず、ゆっくりと何かを確かめるように頷いた。

「彼は……弟は知ってるんですか?」

「いや、知らないだろう。あなた達の母親が、知らせないで欲しいと言ったから」

医師はそう答えたが、私はどうだろうと訝った。彼は勘のいい子だから、とっくに気が付いているのかもしれない。

 医師は最後に、弟の命の期限を口にした。もって、一ヶ月くらいだと。

 壁掛けの時計が、一秒一秒を刻んでいる。無情なその音は、部屋によく響いていた。


 携帯電話が、着信を知らせるアラームを鳴らしていた。否応なく現在時に引き戻された私は、右手の側で無造作に転がっているそれを手に取った。母からの電話だった。

 正直、出ようか出まいか、少しの間迷っていたが、余りにも長くなり続けているので、躊躇しながらも受けた。

 まず、母は礼を述べた。私は、何故礼を言われているのかわからずに、間抜けな声で聞き返してしまった。

 母は私の理解等お構いなしに、口を動かし続けた。私は異国の言葉を聞いているような気分で、話の内容をいまいち掴み取れなかった。ただ、お礼の件は、弟の見舞いに行った事に対するものだったらしい。

 しかし、それでも腑に落ちない。姉弟の間柄で、見舞いに訪れるのは当然ではないか。

 いつの間にか、母の声は涙声に変わっていた。母が電話越しに涙をこぼす度、私の中の悲哀は徐々に硬化して、泣けなくなってくる。心は冷たく沸騰し、言葉にならない思いが喉元まで突き上げて、叫び出しそうになった時、私は衝動的に電話を切った。

 私は息を荒げて、冷たい汗を全身に掻いていた。

 程なくして、携帯電話はまたしてもけたたましく着信を知らせてきた。しかし、この日に私が受け取る事はもう無かった。

 私はその後も何度か見舞いに訪れた。

 日に日に体の痛みは増していくようで、少しずつ彼は笑みを失っていった。

 癌も末期になってくると、出来る治療は何も無くなってしまう。もう、抗癌剤を投与する事も、放射線で細胞を焼き切る事も、意味を為さなくなる。

 患者に残されるのは、最後の選択。鎮痛剤を使用するかどうか。モルヒネだ。弟がどんな選択をしたのか、私にはわからないし、知る権利さえ無いのかもしれない。

 苦痛に顔を歪めて、唸りのたうつ弟を見て、私の足は自然と向かなくなった。多分、彼も見られたくはなかっただろう。そう考えるのは、ただ自分を正当化しようとしているだけなのだと、自分でもわかっていた。

 私は、最後の最後に、彼から目を背けたのだから、何を言っても言い訳にしかならない。

 弟が亡くなったのは、最後に訪れた時から、七日目の事だった。母からの電話で、既に息を引き取った事を知らされた。


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