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星夜  作者: 柚田縁
1/5

全五話、約2万文字の中編です。

 こんな時どうすればいいのか、私は知らない。だって、誰も教えてはくれなかったじゃないか。

 骨を削り蝕むような暖かな夕立の中で、私は傘も持たずに、歩道をゆらゆら彷徨っていた。

 行き交う人の群れは、皆して私を奇異な目で一瞥すると、すぐに興味を失って、避けるように足早に去っていく。わかっている。それが正常な人の反応であるというのは。私だって何かを期待している訳ではないのだ。

 しかし、あんまりだ。こんな気持ちを抱え、たった一人でどうしろと言うのだろう。

 多分、私は泣いているんだ。声も上げずに。涙なんて、とっくの昔に雨が洗い流しきっているけれど。

 ああ、今すれ違い様に私を見て笑った人がいる。全体、どうして笑えるんだ。

 足先に何かがコツンと当たったような気がして、私は目を向けた。段差があった。その段差は幾つも積み重ねられ、遥か高みにまで通じている。ぼやけた視界に映るそれは、歩道橋の階段だった。

 パズルのピースが、カタリと嵌まったように感じた私は、自然に口の端が持ち上がっていくのを抑えきれなかった。私はここを探していたのだ。

 長い旅の最後に安住の地を見つけたみたいな思いで、私はその階段を一歩一歩登っていく。

 足の下を何かが通過する度に頼りなく揺れる歩道橋。私はその度に足を竦ませた。おかしな事だった。これから私がやろうとしている事を考えれば。

 階段を登りきって水平部分を進む。揺れは益々酷くなっていく。そんな中を何食わぬ顔で通り過ぎていく通行人達。

 私は立ち止まった。恐怖故ではない。来るところまで来たからだ。そこは歩道橋の中央部より少し手前で、すぐ下では飛ぶようなスピードで黒い塊が、次々に通過していく。

 手すりを力強く掴んだ私は、ピタリと動きを止めた。こんな時に、一体何を期待しているというのか。

 そんな意識とは反対に、周囲を見回した私は、はたと気付いた。誰もいない。

 いつの間にか夕立もやんでいて、空もすっかり暗い。なのに、星一つ見えない。

 何故かわからないが、私は妙に納得してしまった。私は生まれて此の方ずっと独りだったのだ。

 何かが背中を押してくれたような気がして、私は手すりから身を乗り出した。



 途中からわかっていた。これが毎度の夢だと。それでありながら、私は気付かないふりをして、最後まで見続けた。それが私に課せられた罰なのだというように。

 私は弟を失った。

 弟と言っても、血の繋がりは無い。だけど、同じ施設で一緒に育った一人の尊い年下の男を、弟と呼んで何の差し支えがあるだろうか。

 いや、もうそういう事も関係無い。彼はもういないのだから。そう思うと、涙が込み上げてくるのを抑える事が出来なかった。涙は夢の中で枯れる程流した筈なのに。

 枕で口を覆い、漏れる嗚咽を封じ込めた。最早、習慣となりつつある、この号泣の儀式を通過して、私はいつも朝を迎える。

 どんなに悲しい事があっても、数十分もの間、連続的に泣き続ける事は、到底出来やしないのだと最近知った。

 私の場合、せいぜい十分くらい。最近では、徐々にその時間が削られていくように短くなって、五、六分程度になってしまっている。

 悲しみが薄れてきているのだろうか。そう考えると、私は何ともいたたまれない気持ちにさせられた。私は、そのくらいしか弟の事を思っていなかったのか、と。

 もしも愛情や絆を数値化して計れる検査があったなら、私はそれを全力で拒否するだろう。

 やはり、怖いのだ。例え血の繋がりが無くても、姉弟の関係を十七年続けてきたのだ。それが、もし、一般的な血縁関係のある姉弟の基準値と比べた時に、少しでも劣っていると判断された時には、情けなさの余り、どうしていいか途方に暮れるだろう。

 涙が枯れ果てて泣き疲れた私は、枕元のデジタル目覚まし時計に目を遣った。今朝は大体五分前後。やはり短くなっている。

 東向きの窓を覆うカーテンの下から、朝の光が溢れ出し、部屋を薄ら明るくしている。梅雨の中休みなのか、カーテンを開けるまでもなく、今日も良いお天気が私を待っているとわかると、また目頭に熱が籠り出した。

 顔の表情筋が、ひとりでに涙を絞り出そうと涙腺を圧迫するが、もう一滴も出ない。

 私は、ただ悲しみに歪んだ表情を浮かべている筈だ。顔を両手で覆い、揉み解すようにしてやる。不思議と胸の内側でも、何か大切な部分が一緒に解放されていく気がした。

 私はゆっくりと立ち上がり、ふらふらとした足取りで洗面台の前に立った。泣き腫らしたみっともない顔がそこにある。

 水道の蛇口を捻り、鏡を見ないようにして顔を三回、乱暴な手つきで洗った。終えて、目を閉じたまま前を向くと、冷たい滴が、首を伝って胸元に落ち、不快な感覚があった。だが、それは本当に些細な事でしかない。

 かっと目を開き、私は敢えて鏡の中の自分を凝視した。ぼやけた視界の中に、涙で赤く目を腫らしながら睨みつける自分がいる。鏡の向こうにいる彼女は、今日も不毛な一日が始まるのだと教えて、私を軽く落胆させた。

 ああ、行きたくないな、と私は思った。それでも、今日は行かなければならない理由がある。

 ここ数日、廃人のように引きこもっていたが、そろそろ動き出さなければならない。

「今日こそ、退学届出さないと」

いつもより低いトーンでそう呟くと、何やら自分でもしっくりきているように思い、変に快かった。



「姉ちゃん、それはないよ」

「何言ってるの、ここにこうしてあるじゃない」

こんな風にして、私はどんな屁理屈を使ってでも、口で弟に負ける訳にはいかなかった。それは姉としての沽券に関わってくるから。

 当時、私は中学三年生で、二つ違いの弟は中学一年生だった筈だ。

 この時、話していたのは、一本の傘についてだった。外は雨降り。天気予報も予測出来なかった、夕立だった。私はすぐにでも家に帰って、みんなの夕食を作らなければならなかった。当初は、雨に濡れてでも、走って家に帰ろうと思っていた。そんなところに、弟がいつか置き忘れていたという傘が出てきたのだった。

 これらの会話は、食事当番の件を彼に話した上での遣り取りだった。

「だけど、これは僕の傘で……」

拒否の意を口にしながら、彼は傘の柄を強く握り締めて、胸の前に引き寄せた。

「夕立が止んでから帰ればいいじゃない。ほら、西の空、明るくなってるでしょ?」

黙った彼は、少し目を伏せて、残念そうにしている。交渉はあと一歩で成立しそうだった。

 私は手を顔の前に合わせて強く目を閉じ、声を上げた。

「お願い!」

 優しくてお人好しの弟は、渋々我を曲げた。

「もう、わかったよ。傘、貸してあげるから、顔上げてよ」

 私は単に、雨に濡れたくなかったという理由から、そんな事をした訳ではない。それに、自分に課せられた責任を、放棄したくなかったという、訳でもなかった筈だ。もっと複雑な思いが、頭の中で渦を巻いていたのを、微かに覚えている。

 その頃の彼は、様々な面で優秀で、私が勝っているところがほとんどと言ってもいい程無かった。もっと小さい頃は、私が彼にしてやれる事はしてやっていたし、教えられる事も教えていた。だけど、いつの間にか、私のかわいい弟は、どこかへ形を潜めてしまっていた。

 憎らしい。そんな言葉は使いたくないが、他に私の気持ちを上手く形容出来るものが見つからない。

 正当な理由で以て、彼に意地悪をしたかっただけなのかもしれない。だとするなら、その時は成功したと言えた。

 私が傘を使って悠々と家に帰った数分後、弟はずぶ濡れで帰ってきた。彼は彼で、急いで家に帰りたい理由があったらしい。大方、見たいテレビがあったとか、その程度の事だろうと、その時は軽く考えていたと思う。

 だが、その後に彼は風邪を引いて、学校を二日休む事となる。この時はさすがに罪悪感で、心が痛んだ。

 その一方で、私には一つ心配事があった。この一連の件を、育ての母に報告されるのではないかという事だ。弟から、奪うように無理矢理傘を借り、彼を雨の中帰らなければならなくして、あまつさえ風邪を引かせてしまったのだ。

 中学生だったとはいえ、そんな保身を胸に秘めた私は、本当に醜かった。

 ところが、結果として、私は全く咎められなかった。

 普通に考えて、母は寝床に横たわる弟に、どうして雨の強く降る中で、濡れながら帰ってきたのかと、理由を問い質しただろう。すると、一般的な中学一年生なら、腹いせに私を告発し、母に叱られている姿を見るなりして、怒気を鎮めたと思う。

 弟はそれをしなかったのだ。

 ここでも私は、弟に負けてしまっていた。

 その時の私は、さぞ惨めな思いをしただろう。一人で勝手に競争意識を抱いて、口で言い負かしておきながら、最後にはまるでカウンターパンチをくらってノックアウトさせられたのだ。

 この期に及んで勝敗に拘っている自分が、嫌になりそうだった。

 無論、これら全てが弟の策である筈がない。当時のひねた私なら、そう考えていたかもしれないが、その後の彼を見てきた今の自分なら、はっきりと否定する事が出来る。

 彼は心からお人好しで、優しいのだから。


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