第四章 災厄な傀儡
顔を隠すことのない太陽が憎々しい、晴天の休日。世界はいつも通りに明るさを保ち、季節通りの気温に時たま微風が吹き抜けた。
そんな、のんびりまったりと過ごすのが相応しいような日に、人気のない住宅街を抜けた先にひっそりと建つカフェの一角では、学生が四人、不穏な話し合いをしていた。
「と、いうことなの」
無駄なく簡潔に話し終えた先輩は、そこで一息吐いてブラックコーヒーを飲む。
その横で、驚愕した拍子に一度噛んでしまった歪んだストローで抹茶ミルクをすする美故兎は、目を白黒させていた。
「……あの」
「何?」
「調査のこととか全部、永輝に話しちゃってよかったんですか……」
俺はブレンドコーヒーを手に取り、飲むことはせず唖然とした視線を向かい側に座る世木積先輩に送る。
そんな俺の隣には、黙って話を聞いていた永輝がストローでくるくると円状にカフェオレの中身を混ぜていた。
「いいも何も、隠す必要はないでしょう」
俺の問いに世木積先輩は、澄ました顔で涼しげに答える。
これはつまり、尾澤より永輝の方を信用するというか、選んだということでいいのだろうか。
「で、その人形――鱗錚ちゃんだっけ? 彼女が私達の命を狙ってるってことは?」
「有り得ないっ」
少し勢いよく、永輝が反応する。
「それは……絶対ない。あの子は、寂しがっていた。あの子が怨んでいるのは尾澤家のみ。だから、そのミス研部員の……西原くん? が死んだのだって、絶対に鱗錚の仕業ではない。初めて会った時も、泣いていた。私には……あれが私を騙して利用するための手段だったとは、とても思えない……」
俯いて唇を噛み締め、肩を震わせる永輝。演技をしているようには見えない。
「でも……ならば日向さんが殺されていること自体、おかしいですよね。人形は尾澤一族への復讐を望んでいるのであって、それの邪魔をする人間は殺したかも知れません。しかし日向さんは尾澤さんに疑いを抱いていたのですから」
美故兎がそう言うと、先輩がそれに同意する。
「ええ。その点では人形に嫌疑はないと言える。けれど日向は頭部が完全に破壊されていた。それも、畔達が発見した大体の時刻と警察が断定した死亡推定時刻の差は、僅か五分程度だったらしいわ。どうやったらたった五分で人の頭を、それも日向のような屈強な男子の頭をグシャグシャに潰して、誰にも見られずにその場を逃げ去ることができるのかしら? どう考えても人間業じゃないわ」
(いやいやいや、そもそもなんであなたがそんなこと知ってるんですか? マジでどんな調査能力だよ。怖いわ)
俺としてはその能力の高さは大変有り難いことなのだが、ちょっとだけ突っ込みたくなった。
「でも……それは結局は鱗錚がやったと言いたいん――」
「だからこそ」
永輝の言葉を遮り、先輩はぴっと人差し指を立てて、言う。
「不自然なのよ」
「……不自然?」
「欠流さん。あなたのその手……何処でどうやって怪我したか、教えてくれる?」
怪訝そうな顔をする永輝に、先輩は尋ねる。怪我が一体何の関係があるのだろう。
「これは……」
永輝は白い包帯が巻かれた右腕をチラッと見てから答える。
「私、あの日……漆夜さんと会う約束してて……」
「ゴスファッションの女の子ね」
「はい。それで話を聞いたんです。鱗錚が本格的に危険だって。尾澤廉華さんが、鱗錚を狙っているらしいって……。そしたら、周りには誰も居ないし何もないのに、急に腕に痛みが走って……見てみたら切れてたんです」
そこまで聞いて、俺は堪らずに口を挟んだ。それは、違う。違うのだ。
「待って下さい。先輩はあの日、永輝を尾行したんですよね? 永輝の怪我は短刀を持った人形が切ったからって昨日電話で言ってたじゃないですか。現場、見たんですよね?」
「そう、それ。私にはそう見えたの。私には、ね。で、欠流さん。聞くけど、その怪我をした時、鱗錚ちゃんはあの場に居たのかしら?」
テーブルに肘をつき、顎の前で手を組んで先輩は聞く。確信したような表情だった。
「……いいえ。あの時は……鱗錚は家に居たはずです」
「どういうことなんだ……」
また頭がこんがらがってきた。そもそも俺は謎解きとかそういうのは他人任せ派なんだ。というか推理とかじゃなくとも人に従って補佐的な役割を果たすのが、大概の“俺”だ。
「畔さん、ちゃんと考えて下さい。世木積先輩が目で見たものと、実際の状況が違ったんですよ? そして世木積先輩は尾澤さんの協力者でしたよね。ならばもし世木積先輩が尾行などして何かを見たとしても、その内容を欠流さんに話すはずがないと普通は考えるでしょう。つまり、事実と先輩が見た内容に差異があることに、その矛盾に気付けない。そこを利用して、人形が悪者に見えるようにした尾澤さんの策略だと考えられませんか?」
「流石、美故兎」
先輩が組んでいた手をほどき、誇らしげに頷くが、俺はモヤモヤとしていた。
「まあ……分かるんだけど。でも、こじつけのような……」
「調査には発想力が大事よ」
それはそうかも知れないが、それでは納得がいかない。ならば一体誰が、何が、永輝に怪我を負わせたというのだろう。尾澤の仕業だとして、永輝は周りには誰も居ないし何もないと言っていたのに、どうやって傷付けるというのだ。そこで俺は一つの最悪の考えに行き着く。
「……あ……」
「気付いた?」
尋ねる世木積先輩の眼光が、より鋭利になる。
そうだ。今まで永輝の方に居る人形に、鱗錚にばかり目を向けていたが、考えてみれば形之守も尾澤も同等くらいの力を持つ一族だったのだ。尾澤家にも人知を超えた力が、霊力がある。
それに、尾澤家は精密さで形之守は生々しさ。だからこそ、その生々しさから生きた人形が生み出されたのだと思っていた。しかしそれはあくまで“昔の話”だ。過去の時点で、なのだ。今は変わっていても不自然ではなく、寧ろ自然。つまり――。
「尾澤家にも“生きた人形”が居て……それを操ってる可能性があるってことっすか……?」
「それも恐らくは市松人形の、ね」
ふっと皮肉めいた笑みを浮かべる先輩。それとは対照的に、俺は驚愕に恐怖を浮かび上がらせていた。
「そうか……。同じような着物、見た目の人形ならば姿を見られたとしても俺達は真っ先に鱗錚が浮かぶし、鱗錚を疑う。鱗錚を疑えば、永輝のことも人形に憑かれた異常者にしか見えないって悪循環だったのか」
言いながら顔を顰め、手の平でこめかみを押さえる。
「もしかしたら海外の一連の事件も、鱗錚さんではないかも知れませんね」
「海外の、事件……?」
美故兎がそう言うと、永輝が狐につままれたような顔を向けた。
何故だろう……海外でも呪いの人形として襲われることになったと、警察は日本人の霊媒師に鱗錚を押し付けたと自分で語っていたのに。その時の永輝は、何も知らない、解らないと、全身で語っていた。
「知らない……のか?」
「知らない……。鱗錚は確かに海外には居たけど、事件って? そんなの聞いたことない。ただ、警察とかが一方的に襲って来た挙げ句、よりにもよって尾澤一族の霊媒師に引き渡したのは知ってるけど。動いてるところを見られて、鱗錚を呪いの人形と思い込んだんだと思ってた……」
またもや、差違。あの一部で話題になっているという都市伝説を世木積先輩が話すと、永輝はずっと狐につままれたような表情を崩さなかった。
「そんなの知らない……。それ……絶対に鱗錚じゃない! それに……それに鱗錚の殺し方とは違うっ!」
決定的な台詞があった。――殺し方が違う。そうだ、俺達は人形がどんな殺し方をするのかを知らない。「江戸時代……あの事件が起きた時、鱗錚は怨嗟から尾澤家の半分を殺めてしまったけれど、それは全て一思いの斬撃だったと言っていた。刀で斬られて、討ち死にしたような死に方。体が捻れてたとか、そんな如何にもホラーっぽい異常な殺し方はしないよ……。警察とかが襲って来た時も、訳も分からず海外に流されて、ひっそりと大人しくしていたら急に一方的に攻撃されて、訳が分からないことだらけだって……」
「じゃあ霊媒師は? 尾澤は、鱗錚を引き取った霊媒師が有り得ない死に方してたって言ってたけど……」
「霊媒師も、一思いの斬撃だって言ってた。有り得ない死に方なんかじゃないよ……」
全て仕込まれていたということだろうか。だとしたら、なんて策士なのだろう。
俺はテーブルの上に置いた右手で拳を作り、力を込めて震わせていた。
「私達は鱗錚ちゃんの殺し方なんて知らないし、尾澤さんが先に私達を味方につけて鱗錚ちゃんを悪く言えば、欠流さんも人形も危険視して下手なことは欠流さんには言わない。だからお互い差違に気付けない。日向の頭部破壊にしたってそう。考えてみればおかしいのよね。海外の事件は異常な殺し方のくせに、欠流さんへの攻撃は切り付け。自らの怪我にしたって漆夜とかいう偽名の奴の負傷にしたって、正直、刀で切られたような傷を見て欠流さんはどう思った? 鱗錚ちゃんを信じたいという思いは強かったけれど、ぶっちゃけその遣り口から鱗錚ちゃんを連想しなかった?」
「……はい」
永輝が悲しそうな顔で申し訳なさそうに、俯き加減に頷く。
鱗錚のことが、本気で好きなんだろう。こいつは優しいから、鱗錚の身の上話、形之守一族や尾澤一族のことを聞いて、尾澤家が許せなかったのかも知れない。
「欠流さんの腕を切り付け、漆夜も短刀でばっさり。鱗錚ちゃんの唯一の味方、欠流さんにさえ嫌疑を抱かせるようないやらしい遣り口。畔は畔で異様な死に方の日向を見て、更に鱗錚ちゃんと欠流さんへの嫌疑を強めることになった。けれど事実は違い、恐らく一連の事件の犯人は尾澤家の操る市松人形よ」
「でも、永輝の腕の怪我は……先輩は人形が切り付けたように見えた。けど永輝には切り付けた人形が見えなかったんでしょう? あと漆夜にしたって、あいつなんか人間離れしているというか……そういう風に見えるんだけど、あいつもあの場に居たんだろ? 気付かなかったのか?」
俺が疑問を口にすると、美故兎と先輩が答えてくれた。
「世木積先輩か欠流さんに幻覚を見せた可能性がありますね。つまり何らかの力で欠流さんを切り付け、世木積先輩に市松人形が短刀で切り付けたような幻覚を見せるか、市松人形が短刀で切り付けて欠流さんには何も居なかったように見せたか、どちらかでしょう」
「漆夜って奴は人間離れしてるように見えたところで、人間は人間でしょ。あいつの目を欺くことも、術を持ってる尾澤の者には可能なんじゃないかしら」
成る程、幻覚か。俺の“アレ”についても、尾澤側の人形か幻覚かだろうから、もし幻覚だったとしたら、あれだけの幻覚を見せられる能力があるということ。ならば先輩と永輝の件にしたって、有り得ないことではない。
漆夜については失礼だったか。あいつだって人間の、それも女の子なのだ。精神力が強いだけだったのかも知れない。
「で、ここからが本題」
(ここからかよっ!?)
「黒幕が尾澤さんだとしても、危険視しなければならないのは彼女だけじゃなく、もう一人居るわ。形之守一族の生き残りよ」
「でも……それはあくまで確証のない生存説でしょ?」
俺はまた口を挟む。正直、あれだけの話を聞いて、これ以上まだ何か居るなんて思いたくなかったのだ。今までに起きたことは全て、尾澤が黒幕、尾澤がやった、で説明がつくのだから。
「……本当にそう思う?」
小さく溜息を吐いた先輩は、そう意味深な訊き方をしてきた。
今までに起きたことは全て尾澤で説明がつく。そう思った心を読まれたような気がした。
「尾澤さんだけでは説明がつかないことも、あるでしょう?」
俺は先輩以外のメンバーの顔を見回す。一様に押し黙る三人は、分かっている様子だった。
「まず、海外に流れた人形の中に鱗錚ちゃんがあった理由は? それは、たまたま鱗錚ちゃんを見つけて何も知らずに流してしまった人間が居たとしても、鱗錚ちゃんは封印がとかれてから何故、海外に流されたことについて知らなかったの? そこまでの過程は?」
「それは……人間でいう気絶とか……」
「そもそも鱗錚ちゃんは飲食も排泄も必要ない人形。生きているのに生きていない。幽霊のような存在、即ち生き物に当然あるべきものがない。それなのに一部、記憶がない? 不自然だわ」
先輩がそこまで言うと、今度は美故兎が永輝に確認をとる。
先輩が目配せした訳でもないのに、絶妙なタイミングだった。
「欠流さん。鱗錚さんに封印されていた期間の記憶、封印される前の記憶はありますか?」
「あると思う。確かに聞いたし……」
それを聞いた先輩が、少し目を細めて無言のまま俺の方を見る。
「確かに……おかしいですね。封印される前のことを覚えていて、封印されている間の記憶もあるということは……封印という拘束であっても途切れないものが、一部でも抜けてしまっている不自然な現象ということですね」
「そう、不自然。で、私が言いたいのはこの事態を発生させた人間がいるってこと。尾澤一族ではない、誰かが」
「それが……生き残った形之守一族……?」
「私はそう思っている」
俺は頭を抱えた。これは絶対、健全な高校生が関わっていい事件ではない。ネガティブかも知れないが、現実的な問題だ。
正直、俺としては尾澤と形之守で勝手に復讐合戦しててくれ、という話だが、ここまで聞いてしまってはもう逃れられないだろう。それに永輝や先輩達を守りたいという気持ちも、多少はある。思っても実際問題、至難であるから“勝手に復讐合戦しててくれ”という心情になっているのだが。
それにしても、皆、何故このような事件に率先して関わるのだろう。死にたい訳ではない、生きるために頑張っている。けれど生きるために頑張っているのは、自分達が死と狂気の蔓延る世界に飛び込んだためだ。強制された訳ではなく、己の意志。
尾澤は高校生でも当事者だから除外、永輝も鱗錚と出会って知ってしまったからには嫌でも巻き込まれることになっただろうし、先輩達は死人が出ると分かっている事件で引き下がる選択を排除した胆力の持ち主。好きで関わっているのなんて、あの収集家くらいに見える。
「あのぉ、これは私的な憶測なんですが」
「言ってみて」
もごもごとストローを口でもてあそびながら抹茶を啜っていた美故兎が名乗りを上げると、先輩がすかさず促す。発想力は大事、という無茶苦茶な考えの人だ。反応が早い。
今度はどんな推理が来るのやらと、俺は半ば諦め気味にカップを持ち上げ、ブレンドを啜った。
「封印自体が急に壊れたのって、鱗錚さんの力に長く持たなかっただけなのでしょうか? 江戸時代の一族の惨事。あれで人形を危険視している尾澤一族の者がそう易々と数年、もしくは十数年で壊れるような封印で見逃すでしょうか? だって人形と戦い、その力がどれほどのものか知っているなら、封印だってそれを見越して施すはずです。強い霊力を持った一族なら尚更。仮に私だとしたら、怖いので末代まで定期的な封印の確認を徹底させますけど」
「ああ、やっぱり美故兎もそう思ってた? 私もね、人形を易々と海外に流すなんてあまりにも間抜けすぎると思った。私が思うに、尾澤の者は定期的な封印の確認を怠惰していたんじゃないかしら。だから事態に気付けなかった。そしてそれは、人形に施した封印が強力なもので、本来は人形が破ったり、何かの拍子に壊れたりするものじゃなかったから、また、数年や十数年で壊れるようなものでもなかったから、安心しきっていたんじゃないかしら? これは、尾澤一族と同じくらいの霊力を持つ形之守一族の生き残りが居たという、イレギュラーな事態が招いたにすぎない」
形之守の生き残りが、封印を壊したと言いたいらしい。だがこれは推理だろうか。単なる推測にすぎない。なんて発想力だろう。
「けど、それも不自然よ」
「ええ。妙ですね」
「……私も、そう思う」
先輩と美故兎、果ては今まで二人の推測を黙って聞いていた永輝まで、そんなことを言い出す。
浮かび上がる疑問点は、尽きない。
「さっき二人が言ったことを仮定するとして、形之守の生き残りはどうして鱗錚を助ける時、仲間なのに姿を現さなかったんでしょうね」
無い知恵を振り絞って、俺は控え目に疑問を口にしてみた。
「うん。そこが気になる。しかも鱗錚ちゃんは海外に流されている。折角封印を壊して助けたのに、普通なら一緒に尾澤一族への復讐を目論むはず。形之守一族の生き残りに何かあった可能性もあるけど……どちらにしろ、知らないうちに海外に流されていたこと。一部、記憶がないこと。これらを形之守の仕業と考えると凄く不自然」
じゃあどちらも形之守の仕業ではないのでは、と言おうとした。言おうとしたが、口を開いたその時、先輩が語り出す。
酷く飛び抜けている、発想力云々の問題ではない、妄想のような、虚誕妄説のようなことを。
「私は、形之守の仕業と考えると凄く不自然だと言った。そう、だから普通は形之守の仕業とは考えない。どちらも形之守の仕業ではないと考えるのが普通。だけど、形之守の生き残りが、もしそれを“利用”していたとしたら?」
その訳の分からない推測に、美故兎は誇らしげに先輩を見つめている。
もし日向や鶴羽が居たとしたら、彼等もこのバカげた推測に乗るのだろうか。
「一緒に尾澤一族への復讐を目論むのが普通だけど、昭和を生きた形之守の生き残りは、鱗錚ちゃんだけはせめてと海外に流して、これ以上、彼女が本当に“呪いの人形”にならないように、誰も何も知らない異国の地に送ったのだとしたら。復讐を遂げるのは自分達だと、鱗錚ちゃんを守ろうとしたのかも知れないわ」
俺は思った。発想力は論外、妄想でも虚誕でも妄説でもない。酷く飛び抜けているこれは、物語を創るのと同じだと――。
作家が発想力で作品を生み出すように、発想力も妄想も飛び越した現実での創作活動。それに、似ている。
「但し、私にはもう一つ違う推測もある。けれどこれはあまりにも……」
先輩はそう言って、永輝にその視線を向けた。
そんな先輩を真っ直ぐに見つめていた美故兎も、先輩と同じ考えなのか、同じように永輝に目を向ける。
二人の視線は、愁いを帯びた気の毒そうなものだった。
「形之守一族の生き残りは、人形を――」
そこで、先輩の言葉が途切れる。本当に一瞬だけ、呆然に近い表情になるが、直ぐにいつもの無表情に戻った。
俺含め、永輝と美故兎も言葉が途切れたことを不審に思い、その視線の先を追い、振り向く。
――そこに、奴が居た。
「尾澤……さん?」
少し険を孕んだ、怪訝と、嫉妬にも似た憎しみの視線を飛ばしながら、永輝が呟く。
向こうはこちらにはまだ気付いていないようで、入口から一番近い席に座った。
「……帰りましょうっ」
俺が先輩の方を向いて少し強めの口調で言うと、先輩が深く頷き、皆が立ち上がる。
「会計……俺がするからみんなは先に店の外に出てて」
俺はそう言って他の人を先に促す。
勘定の時、何気なさを装ってチラッと尾澤が居る席を確認するが、彼女はこちらに背を向ける形で座っており、平静にカフェ・マキアートなんかを注文していた。
(よかった……気付かれてないみたいだ)
俺は何故、考えなかったのだろう。それが破滅への道だと。確証のない安堵は、人を破滅に導くと……。
店を出た俺達はカフェから離れたところまで歩いていき、佇む。人気のない田舎の舗道。
先輩はじっと無言のまま片手を顎にあてて何か考えているようだった。
「とりあえず、今日は帰ろう」
俺が言うが、次の瞬間、先輩、永輝の二人がはっとした表情を覗かせたのは同時だった。
「……無理ね」
険しい表情で放たれた先輩の言葉に俺は困惑する。無理とは、俺がさっき言った帰ろうという台詞についてだろうか。
その言葉を受け、美故兎も察したようにはっとした表情を覗かせる。
「そりゃ気付かないはずがありませんよね……迂闊でした」
美故兎の言葉の意味を考える。即ち、もう少し注意すべきだったということだ。それは、俺達がカフェに来て話し合いをして、それを敵が察することができる可能性を考えなかったということに他ならない。
「あ……」
この時、俺ははっきりと感じ取った。嫌な気配を、不穏な空気を。それは、俺が自室で感じた時のものを遥かに凌駕していた。
そしてそれは一瞬だった。ライターを着火する時のような、シュボッという音が響くや否や、“ソレ”が出現したのだ。
紅地に淡い朱色の椿模様の着物を纏う、大きさ四十センチほどの市松人形。鱗錚の物と同じかと思われたが、よく見るとその着物の金糸の刺繍は、形代ではなく蠍だった。
「ふふ、ふふふ……」
整った真っ赤な唇を醜く吊り上げる、赤く裂けた笑み。
その姿は一国の姫のような垢抜けた印象を与える妖艶さがあるのに、感じるのは美しさではなく、禍々しさであった。
「う、うわわわっ……でででっ、出たっ……!」
「落ち着きなさい、畔」
隣の世木積先輩は冷静に構えるも、俺は自分でも哀れなほどに狼狽していた。
ガタガタと震える。畏怖、戦慄。心ではなく、体が起こす反応。目の前の得体の知れない存在に対する拒絶反応が、俺の身体の震動を止めてはくれない。
死ぬと、殺されると、分かっている状況。ネガティブでもなんでもなく、戦意も士気もなく、常識を飛び越えたものが居る時点で、常識以上先へは進めない俺達凡人に勝ち目などない。
そんな状況でも、先輩は気高く構え、美故兎は戦意を失わず、永輝は悲憤を、それぞれ非現実な脅威に真っ向から対峙していた。
俺のように、死ぬとか殺されるとか、戦意も士気もないとかではなく、それらは関係なく、思考を放棄し、ただ目の前の“現実”に立ち向かっている。
――けれど。
「ふふ、ふふふ……」
現実は、そんな強き心を、そんな強き人間を、容易く蹂躙する。
漫画ではなく、アニメではなく、あまりにも非情で厳格な、けれどそれが当然である“現実”として。
そして――人形がそっと手を翳した、刹那。
「うっ……!?」
「くッ……!」
「ぐぁっ……!!」
永輝が前のめりになり、先輩が胸元を押さえて顔を歪め、美故兎が体を震わせ呻く。
「どうしたっ!?」
「あっ……ぐ、る、じ、いっ……!」
声をかけると、頽れた永輝が必死の形相でそう訴えてきた。
頸を掻き毟り、これ以上ないくらい目を見開き、口からは何かを求めるように舌が突き出されている。その唇は青紫に変色していった。
俺は永輝に駆け寄るが、身の毛がよだつ異質な音に振り向く。固いが柔らかいものと、硬い無機質なものがぶつかり合う音。
美故兎の体がフワリと浮き、その頭が思い切り近くのブロック塀に激突していた。ぶつかっては離れ、また激突させられては離れる。
「ぐっ……くっ……ぁ」
額は切れ、歯は折れ、肉は削れ、血の河川を作っていた。
額の切れが深く大きくなっていき、ぶつかり合う音は、硬質なものから段々と湿り気を帯びた悲惨なものに変わっていく。
「美故兎っ……!」
叫ぶ俺の視界が、美故兎の体が浮くその向こう側の光景を捉える。
世木積先輩が、ぷるぷると震える両手で何かを掴んでいた。
――いや、違う。腹に短刀が突き刺さり、先輩はそれを必死で止めていた。苦悶の表情で、だらだらと鮮血が流れている。
短刀は真一文字に、切腹のように腹を切り裂こうとし、それを引き抜こうとしているようだが、一向に外れない。
一緒に引っ張ろうと駆け寄ろうとした時、俺は自身の体の異変に気付いた。
「ぜん、ばっ――」
掠れる声が漏れ、喉に激痛が走る。血の味が口内に広がった。
「うっ……」
酷い倦怠感に、思わずその場に頽れる。
急激に体液という体液を吸い取られたように、全身が酷くカサカサし、血の気が全く感じられない。とにかく全身が寒くて仕方なくて、俺はガタガタと震えた。
舌はザラつくほどに乾き、唾液さえ全くない状態。声を出すと唾液のなくなった咽喉が、鑢で削られるような痛みを放ち、血が吹き出した。
震える手を動かして触ってみると頬は痩けており、痩せ細ってくぼんだせいで眼球はギョロリと飛び出す。
「ヒュウゥ……ヒュウゥ……」
空気が抜けるような呼吸を繰り返す永輝。
チアノーゼで変色した唇から血混じりの泡と唾液を零し、両手の爪には永輝自身の頸の肉が食い込んでおり、掻き毟り続けた頸は赤身が出ている。
彼女は暫く小さく痙攣していたが、やがて電池の切れた玩具のように動かなくなった。
俺は呆けたように、突っ伏したまま美故兎に視線を向ける。
「…………」
最早、一言も発しなくなった美故兎は、十数回叩き付けられた時点で既にぴくりとも動かなくなっていたが、その後も儀礼的に塀に叩き付けられ、潰れた頭が更に歪み変形していく。
目頭が熱い。でもこの体では、涙さえ出せなかった。
(畜生っ……)
水分が足りなくなった人間の体に起こる、強烈な吐き気と倦怠感と闘いながら、俺は今度は先輩の方を見遣る。
ゼイゼイと吐息荒く、先輩はまだ生きていた。しかしそれはもう、虫の息だった。
それでも俺は、這いずって先輩に近寄る。まだ生きている、先輩に。
「ほ……とり」
先輩が、近くまできた俺を力なく見遣る。細められた虚ろな目、か細い声。
パックリと開いた裂傷からは夥しい量の鮮血が地を染め、失血によるショック状態で、顔は蒼白、目の焦点は定まっていない。
「ごめん。こんなことに……巻き込んで」
俺は体を支配する強烈な気持ち悪さに耐えながら、ゆっくりと頸を横に振った。
先輩が、ふっと笑う。
「私……あんたが…………」
言葉の途中で、酷くゆっくりとその目は閉じられる。
「せん……ぱ、い……?」
返事は、なかった。
呼吸をしている体の上下の動きがないさまを見て、俺は先輩の魂の消失を悟った。
私、あんたが? 何を言おうとしたのだろう。なんで笑ったのだろう。
被害者を見捨てず、事件は解決するものだと、最期まで現実と非現実と闘った。目をそらさずに、向き合った。
それはとても愚かなことだが、
それは凄く名誉なことだった。
俺は、水分も食料も長い間摂取していないような飢餓状態にされた体を、横たえる。遠退く意識に身を任せ、この苦しみから解放されることに安堵さえ覚えながら目を閉じた。
全てを、諦めた――。
「あ、あの医者め……あいつは絶対に忘れないね。というか犯罪だ覚えていろあいつ私が今までに収集した物語の登場人物達をけしかけて恥辱屈辱と苦痛を与えてやる」
何処か懐かしい声に、目を開ける。
ぼんやりとした視界が徐々に明瞭になり、死後の世界かと思ったら俺は生きていた。
茫然自失と、ゆっくり起き上がる。別段、体に異常はなかった。
「大丈夫かね今回の物語の主人公、崎米くん?」
唖然としていると、患者衣姿の収集家の少女が、例の悪党が見せるような笑みを浮かべて俺の顔を覗き込んできた。
「君には死なれたら困るのだよ。この物語は君の話だ、私の話など存在しない。私は物語を見る、もしくは創る立場にいるのだからね。中心となる主人公に死なれたらシナリオが完成しない」
寝ていたり気絶していた訳でもないようだが、目覚めたばかりで上手く働かない頭であるのに、少女はマイペースに喋々と語る。随分と勝手なことを言われているのは、不明瞭な頭でもなんとなく認識できた。
そして鼻をつく異臭にはっとして周囲を見回すと、そこには無惨にもみんなの死体が転がっていた。
どれも苦痛に歪んでいた顔は、かなり穏やかに緩んでいた。しかし彼女らが再び起き上がって、その顔が笑顔を作ることはない。
矢張りあれは夢なんかではない。現実だった。みんなは、死んだのだ……。
では俺の体が飢餓状態から普通に戻っているのは何故だろう。もしや幻覚だったのだろうか。だとしたらみんなが死んだのは、幻覚に殺されたということなのだろうか。
いや、あれが幻覚のはずが……。
「済まないね本当に済まない崎米くん。抜け出そうとしたら医者や看護師に絶対安静だと追いかけられ、ちょっと逃走劇を繰り広げてどうにかこうにかここに到着したのだが私が着いた時にはもう生きているのが君だけだった」
「待て……お前……なんで分かった?」
こいつは腹を斬られて病院に居たはずだ。俺達がカフェに集まることを、俺達がカフェで話し合ったことを知らなければ、ここまでこれない。居場所が分からないのだから。
そして少女は、なんで分かったとしか聞かなかった俺の考えを簡単に見透かして、答えた。
「ちょっと気配を辿ったのだよそれくらいはできるさ。いやもっと凄いこともできるのだが」
「気、配……?」
「私はね、異能力者だよ? それでねそんな些末なことを気にしてる場合じゃないんだここからが重要だよ崎米くん。実は実はだね、負傷と疲労で私の“力”が弱まってる。異能力だよ。だからこれ以上はちょっとキツいんだ倒れるかも知れない」
ほぼ息吐く間もなく、少女はそう言って嗤う。
そして彼女は徐に、自身の衣服を大胆にまくり上げてみせたのだが、さらされた絹のような綺麗な肌には包帯が巻かれ、その純白の布には瑞々しい鮮血を滲ませていた。
「この通り傷口が開いてしまって体が辛くてね。あとは弱ってる時に異能力の負荷が重なって、もうあと少ししかもたないみたいだ。もたなくとももたせるが」 そう語る少女を改めてよく見ると、白い硝子体に浮かぶ瞳孔は紫色に見えるほど漆黒に澄んで、ブラックホールが天体を吸い込むように螺旋状に歪んでいる。それは、普通の人間の目ではなかった。
そして、少女の見つめる先に浮かび上がったそれが視界に入る。
少女が来る前までの、不気味な赤い笑顔はそこにはなく、歯を食い縛り両目を吊り上げた鬼のような形相で少女を睨んでいる、市松人形。
どうやら少女の力で抑え込まれていたらしい。
「ああ……矢張り力が足りないかい」
少女が呟く。
抑え込まれていたらしい人形が再び浮かび上がったということは、つまり少女が力負けしているということだ。
「いい加減、諦めたら? 道玄」
突然背後から聞こえてきた声に振り向くと、そこには悠然と腕を組んで人形と少女の攻防を見つめる尾澤の姿があった。
奴は全身に禍々しい嫌な障気を纏っている。
これが、尾澤一族の持つ霊力?
「うるさい私の物語を貴様ごときに穢されてつまらないものにされて堪るか私が悪魔なら貴様は鬼だ」
今にもせせら笑いを飛ばしそうな余裕綽々とした尾澤に、少女は相変わらず息継ぎと区切りがない繋がった言葉で反論する。
「でも、もう限界でしょ?」
そう言って尾澤がふっと笑うと、空気が歪んだ。
いや、歪んだような気がしただけだ。だが確かに感じた。両手を翳す人形と、ブラックホールのような双眸で人形を見据える少女との間に、同じ極同士反発し合う磁石のようにぶつかり合う、何か力の層のようなものを。
「矢張りあんたは先手必勝で攻めておいて正解だった。その目の力、先の物語で大分使ってたみたいだから負荷が来てるだろうと思って襲ったけど……流石に油断しすぎたみたいね。殺し損ねてしまった。でもあれだけ深くバッサリいったら死ぬかもとも思ってたんだけどな。いやらしい回復力というか生命力ね」
「ふん! 腹を斬られたくらいでくたばってたら今までの物語で生き残れていない舐めるな貴様ごときに負けはしない」
口調こそ強気だったが、少女の体は震えていた。感情ではなく、体の反応。疲労で脚がガクガクになるように、限界が近付いていた。
その時、少女の体が下がった。
少女の闘志は、戦意は、萎えていない。だから足を動かしてはいない。にも関わらず、彼女の体が後退している理由。相手の力に、押されていた。
「全く何だこれはとんだ茶番だふざけている」
皮肉めいた歪んだ笑みを浮かべ、少女は悪態をつく。
「だがこれで勝てると勘違いしている時点で、それを考えていない時点で負けも同然。バカはバカだ」
「まさか私があんたごときに倒せるとでも? バカは自分だって気付きなさい。収集家。あんたはここで終わりよ」
少女がなんのことを言っているのかは分からない。それ、とはなんのことか。何か切り札であろうか。
少女と尾澤。見越しているのはどちらなのか。見越した気になっているのはどちらなのか。
「終わり? 何を見越した気になっているのか分からないが全て見えていない君は見えていないということについて何か感じないのかね? まあ何か感じられるならこのような頭の悪い底辺な言動はしていないだろうが」
「頭の悪い、底辺……?」
ピクッと、と言うよりはピキッと尾澤が反応する。相変わらず能面のような顔だが、眉が少し動いた。
だが直ぐに切迫した状況での強がりだとでも思ったのか、うっすらと笑みを貼り付ける。嘲笑……。
「……負け犬の遠吠えは、見苦しいわよ?」
そう言い放った。言い切ったのだ、少女が負けると。
「これで全てが終わるわね」
そして余裕綽々と、退屈そうに前髪をいじりながら呟く。それは、勝ち誇った者が溢す独り言だった。
勝利を確信したが故の口調、態度。
「どうして皆、私達に逆らうんでしょうね。バカな真似をしなければ命を落とすこともなかったのに。もっと考えて行動しなさいよ。ねえ、崎米くん。幾ら欠流さんが大事でも、部員達が協力していても、あなただけは手を引けばよかったでしょう? あなたには幻覚まで見せたのに。みんなそうなのよ。なんであなた達は考えて行動できないの? なんで邪魔するの。どうして私達を舐めてるのよ」
幻覚、とは日向のメモ帳を確認したあとのあの出来事のことだろうか。矢張りあれは尾澤が……。
尾澤の疑問は、尋ねてはいるが尋ねていない。初めから聞く気がない様子だった。
自身の中で既に答えは出ており、納得した上で行動している中、無意義な疑問をぶつけてくる。それを理解している俺は、尾澤の疑問に答えられずに、尾澤の発言に反論できずに居た。
押されている少女。凄まじい形相の人形。それらが、俺に重圧を加える。
尾澤の狂気が、
人形の狂気が、
何も言わせない、口を開かせない状況にしていた。
「――君は何を言っているんだい?」
そんな、中。何も言わせない状況の中、反論させない状態の中、尾澤と相対し、人形と対峙している少女は、猶も言葉を紡ぎ出す。
雰囲気が、変わった。
弱っているというか、限界が近付いていたためか危うく見えた少女の纏う空気が、重苦しいものに変わる。疲労による体の震えさえ止まり、何か底から沸き上がってくるような剣呑な雰囲気を醸し出していた。
これは――怒り?
「無意義な疑問、愚問だね」
武器などない。防具もない。ただ、その目に弱まってきている“闇”だけを宿した丸腰の少女は、尾澤のふざけた疑問に真っ向から立ち向かっていた。
「君がこの世界に、この世界の人間に何を望み求めているのか分からないが世界が自分中心に回っているらしい素晴らしく愚劣愚昧な君のような人間が、何に疑問を持ちどう結論づけて行動しようとそれは絶対の自信をもって確然と確実に間違っていると指摘できるね。そのことについて君はどう思い考え言動する?」
切迫した現状などお構いなしに、少女は平然と己の意見をぶつける。相手を挑発するような、発言を。反論を。
「人など、どんなに綺麗事を言おうと結局みんな自分が可愛い。当たり前のことでしょう? 人間が主観でしか物事を考えられない生き物である以上、世界が自分中心に回っているのは当然のこと。私もあんたも、結局は自分の考えで動いている。私は一族のため、あんたは物語のため。所詮、“自分”なのよ。ならばあんたが物語に生きるように、私が自由に生きることの何がいけないと言うの?」
そこまで言った時、血の涙を流し、歯を剥き出し、顔付きが変わるほど目を吊り上げた悍ましい人形が雄叫びを上げる。
雄叫びと言っていいのかは分からないが、水の底からの絶叫が水上に聞こえてくるようにくぐもった、声というより“音”と言えるもの。
少女の体が、また下がった。ソールが擦れ、地に跡を残す。矢張り力負けしている。状況は絶望的だ。
「――それに、生意気なのよ」
組んでいた腕を下ろした尾澤は、そんな勝手なことを言った。
「私達は魂を持たない“物”に命を吹き込む術を手に入れた。ソレもそうやって従えたもの。それからは、人形は私達の奴隷だと教えたそうよ。全く以てその通りだと思う。人形の分際で生意気なのよ。本来命などない“物”の分際で、一丁前に人間気取り。私達は、身の程知らずに身の程を教えてあげただけ。まあミス研部員は本当は殺したくなかったけど、人形なんかに味方したんだもの仕方ないわよね」
尾澤は真っ直ぐに少女を射抜く。眼光で、射殺すように。
しかし、少女は蛇に睨まれて動けなくなる蛙ではなかった。
少女は、今まで蛙の皮を被っていた少女は――蛇に睨まれたことで、蛙の皮を破り捨てる。そうして、犬鷲のような、鴉のような、怒気を孕んだ鋭い視線を尾澤に向けた。
「……ふざけるなよ」
その低く重苦しい声が少女の発したものだと気付くのに、数秒を要した。
静かで小さな声であるにも関わらず、その迫力は人形などを遥かに凌駕していた。
俺は、少女の中に静かに宿っていた怒りの焔が、一気に燃え盛るのを感じた。
「人間が主観でしか物事を考えられない生き物である以上、人が自分中心にしか考えられないのは当然のことだ。だがそれでも人は、自分の考えで他者の考えを慮り、他人に反発し同調し、他人と対立し共存し生きてきた。分かるかい? 人類は同じではないからこそ発展し繁栄してこれたのだよ。世界は自分中心だから自由にしてもいいというそいつ一人の勝手な考えで行動すれば、必ず迷惑を被る人間が現れる。全ての人間がそんなことをしていれば人類は発展し繁栄することはできなかったはずだ。私が物語に生きるのが“人に許された範囲の自由”ならば、君が自由に生きるのは“人に許されない犯罪”だ。自分のために平気で間違ったことをし“誰かのため”を言い訳にする。更には、人間が主観でしか物事を考えられない生き物である以上は世界が自分中心に回っているのは当然のことだからと頭の悪い考えで己の行いを正当化して間違いを省みないクズ」
悪役が浮かべるような笑みを貼り付けるも、相対する尾澤を睨み据え、心の底から――いや魂の底から拒否を、拒絶を絞り出し、少女は畳み掛ける。
「人殺しは悪いことだ。それが生者なら法律で、死者ならば霊界のルールにより裁かれる。鱗錚くんは尾澤一族を半分以上も殺めてしまった。それも悪いことだ。何故なら、如何なる理由あれども相手を殺せばそれは“同じ殺人”だからだよ。しかしそれはルールという儀礼的には正しくとも、愛する者を殺された鱗錚くんのことを考えると、鱗錚くんが完全に悪い訳ではない。そもそもことの発端は何かね? どっかのクソガキ思考の連中の、身勝手で醜い恥ずかしいただの嫉妬による策略からだ。尾澤一族が半分以上亡くなったのは自分達のせい。“身から出た錆”なのだよ。理不尽な逆恨みにもほどがある」
「クソガキ思考、だと……? 我等一族を愚弄するなっ! この世は弱肉強食だ。現代だって特別使えない訳でもない社員を代わりは幾らでも居ると切ったりするし、会社同士は生存競争だ。他者を蹴落とし、のし上がっていく悪党強者と、他人に優しいため他の者を蹴落とせずに、のし上がれないでいる善人弱者では、悪党強者の方が社会的には重要視される! ライバル企業を蹴落としてのし上がるのも、一つの手段。当時の尾澤の者は、それと同じで宿敵を潰してトップに立つことを考えたまで。それも鱗錚というイレギュラーな存在を勝手に生み出したのは奴等だし、讒言とて尾澤家の話術によるもの。当時としては、現代の営業トークと変わらない。それなのに奴は、私達一族を恨み傷付けた。お前の主人達がお間抜けだっただけだろう。逆恨みと言うなら人形の方だ!」
根本から腐っていると、こいつはもう駄目だと感じさせる発言と共に、不条理な憤怒と憎悪を霊力に乗せてぶつけてくる。
しかしそんなものでは、この収集家は揺るがない。びくともせず、全身全霊でぶつかって行く。
「そうだね君が言ったことは間違ってない。この世は弱肉強食、生存競争だ。会社じゃ実績があれば、他者を蹴落とすという最低な奴でも、どんなに善人だろうと結果を出せない人間より必要とされる。だが、それがどうしたというんだい? 讒言という手段を使って形之守を潰したことが弱肉強食だから当たり前で恨んではいけないというのなら、君達こそ人形に呪われた一族として尾澤家の名誉を地に落とした鱗錚くんを恨んではいけないね。それにさっき勝手と言ったかね人形師? 勝手と言うなら君達の方だ。一族が半分以上も死に、負傷することになったのは一体誰のせいかね? 君達自身のせいだろう? 自分達が勝手にやったことで、自分達が悪い状態になれば、失敗を認めず他者に恨みを押し付ける。何かね君は人を殺した時、法廷で“私がBさんを殺したのは出世のためですし、この世は弱肉強食ですから裁かれるべきではありません。Bさんの遺族がBさんを殺されたという勝手な恨みで私を殺そうとしたのこそ裁かれるべきことです”とでも言うのかね気持ち悪い。考えて言動できないのかという言葉、そっくりそのまま君に返すよ」
手を翳す人形が、歪む。押し潰されているかのように形が歪み、手足や顔のひびが拡がっていく。
(勝って、る……?)
今度は、人形が力負けしていた。
少女は、呆れるほど残念な思考を持つ人間に、その救いようがない憎悪に、真っ正面から向き合ってやっていたのだ。溜息を吐かれ、背中を向けられるような愚考に。
そんなお前でも相手にしてやろうと、顔が言っていた。
「最低だ最悪だよ君は。私とてやっていることは決して人に好かれはしないし、寧ろ人に嫌われるようなことをしている自覚はあるが、君はそんな私以上に最低最悪だくそったれ。地位ある者を勝手に醜く妬んでおいて、勝手に汚い謀を目論み形之守一族を潰し、自分達が少しでも攻撃されたらまた勝手に恨み、自分達のことを棚に上げて、やれ形之守が悪い、やれ鱗錚くんが悪いから潰せと、思考が、言っていることがまるで幼い子供のよう。ブランコで遊びたい園児が次は自分に貸してくれと言ったが譲って貰えず、ブランコに乗っている園児を叩いて押して転ばし泣かせ、先生に注意されて“だってブランコ貸してくれなかったんだもん”と言うのと同じことだよ恥ずかしくないのかね?」
「子供の戯れ言と同じにするな。そもそもこれは私達一族の問題。尾澤と形之守の問題だ。鱗錚の存在自体、本来はなかったもの。アレはただの人形であり、物であり、生も感情もなかった“物”なんだ。にも関わらず、生を宿し感情を宿し、私達生者の生存競争に勝手に関わって尾澤一族に恥辱を与えた。許されることじゃない。ならばこちらも同じ“物”を使って、潰してやる。戦争だってA国とB国、共に犠牲はあるのに、A国の人間はB国を、B国の人間はA国を恨む。自分達の国も酷いことをしているのに、自分達の現状しか見ず敵国の現状を見ず、敵国を恨み憎む。それはそうだ。どちらが先に仕掛けようと、どちらの考えが正しかろうと、どっち道、互いに酷い目に遭っているんだから。それで互いを恨み憎み、戦い続け、勝った方が勝者でしょう? 地位ある者を醜く妬んでしまうのは人間ならば誰にでもあることだし、行動するかしないかの違いだけれど、当時は時代が時代だった。汚い謀を目論み、ライバルを潰そうとするのが当たり前だった時世。ならば自分達が先に仕掛けたとはいえ自分達に汚名を着せたアレを、野放しにしておく訳がないでしょう。私達は何も間違っていない」
「言語道断、全く救いようがないね。本当に、君はどうしようもなく」
恥ずかしい、と言った少女の顔から笑みが消えた。その代わりに浮かべるのは、少女には珍しい無表情。
それは何を表しているのか。
これは何を示しているのか。
「恥ずかしいよ、本当に。君は、人類の恥だ。勿論、君だけではない。君のような人間全てが、人類の恥だ。呆れてものも言えない。そんなクズだ。それでもそんなお前に、お前という存在に、この私がわざわざ時間を裂いてやっている理由が分かるかね?」
少女は一歩、踏み出す。
「君のようなクズの身勝手のために消えていった、生きるべき人間が居るからだよ」
尾澤を睨み据える闇色の双眸は炯々爛々と、あまりに膨大な威圧感を放つ。
それでも尾澤は怯えず、気圧されず、動揺しない。尾澤の中には、確固たる柱が立っていた。それは尾澤という人間を構成する核で、こんな自分と同年代の、年端もいかない少女ごときの言葉では揺るがない。
何が正しいかなんて確固たるものが用意されていることなど早々ないだろうが、この例外二人に限ってはどちらも決して正しいとは言えないだろう互いの主張。だがこの二人は、アニメのヒーロー達のようにかっこいい綺麗なものでは決してない信念を持って、“己”をぶつけ合っていた。
収集家として。
人形師として。
どちらも一歩も譲らない、押し問答。相容れない互いの信条は限りなく純粋で、だからこそ恐ろしく、何処までも複雑で、だからこそ美しかった。
「それはこちらの台詞。アレのような、命なき“物”の分際で、生き物でない人形なんかの身勝手な感情で消されたのは、生きるべき尾澤一族の人間」
そう。揺るがない――はずだった。
「貴様まだ分からないかガキの戯れ事も大概にし給え!!」 少女が尾澤を一喝する。激昂がびりびりと空気を震わせ、俺は自分に向けられている訳でもないのに震え上がっていた。あまりの重圧に、立っていられない。
この奇抜な収集家は、その強大な鬼気が煙のようにもうもうと体から立ち込めているように見えるほど、全身全霊で怒っていた。
尾澤の体が、強張る。揺るがないはずが、彼女は無意識に一歩だけ後ろに下がっていたのだ。揺るがない全てが、揺らいだ瞬間。完全に、少女に呑まれていた。
「ここまで言っても猶、分からない。世界が自分しか見えていないお子様思考な君にこれ以上、何を言っても無駄なようだね。だが敢えて言おう」
そう言って、もう一歩踏み出す。押されていた少女が、押されていたが故に靴底が擦れた跡が残っている地面を踏み締め、前に出る。
人形は最早、割れた体で地に這いつくばって藻掻いている。尾澤も霊力を込めているようだが、人形が再び浮いて有利に立つことはない。少女に敵わない。先ほどの人形と少女よりもより明確な、完全な力負け。
「くっ……! 何故っ、だっ……!? 何故っ!?」
先の悠然とした無表情は何処へやら、尾澤は最早、完全に冷静さを欠いていた。
歯を食い縛り、体を震わせ、限界まで力を込めているのが分かる。禍々しい障気が伝わって来るのだが、それよりも少女の闇色の双眸から発せられる、邪悪ながら宇宙のような幻想的な美しさを感じさせる力の方が、強大で膨大だった。
「いいかい。いいかい、お子様。君のような木を見て森を見ずどころか、木も森も見ずな自分さえ見ない迂愚下劣な子供に、私の愛する物語が全て滅茶苦茶にされるのは、私の物語の登場人物が穢されるのは不快なのだよ」
少女も、勝手なことを言った。
それと同時に、人形が完全に潰れた。ゴシャッと豪快な音を立てて、部品や着物がパラパラと散る。
「う……嘘だ……」
尾澤が、汗だくで肩で息をしながら後ずさる。体を震わせ、目を見開き、絶望的な表情で。
……当然だろう。霊力を使い果たしても猶、人形が壊されるだけに終わったのだ。
そうして、少女は氷柱のような視線を一直線に尾澤に注ぐ。
「君に物語を壊させない。君に主人公を殺させず、君に物語を変えさせない。そのために私が来たのだよ」
急激に、気温がぐんと下がった気がした。
また少女が、例の嗤いを張り付けているのだ。悪役によく似あう、悪魔が浮かべるような、邪悪な微笑。三日月形に、紅く裂けた笑み。
「く、そぉおおっ……!」
最後の悪足掻きか、尾澤は短刀を取り出し、鞘を払って一目散に少女に突進した。
しかし、少女は歪んだ笑みを浮かべたまま動かない。手を広げ、立ち尽くしたままだ。
「お、おい!?」
俺は叫びながら駆け出そうとした。
――が、止まる。
見えた。見てしまった。それが、少女が動かなかった理由。
「廉華くん。だから私は言ったのだよ。それを考えていない時点で、負けも同然だと」
少女が、今までで最高の悪党面を見せてそう言い放った次の瞬間、不穏な音が鳴り響いた。
突進していた尾澤の、腰がねじ曲がっていた。
腰から下。下半身だけが百八十度回転し、感覚がなくなった足は縺れ、その反動で上半身が回転する形で派手に転倒する。ドシャッという湿った重々しい音を立てて。
それらは正に一瞬だった。
「あぁ……ぁ……」
何があった。
何が起きた。
何が生じた。
何も分からないと、顔が言っていた。今の尾澤を支配しているのは、激しい痛みと混乱だけだった。
そして激しい混乱に見舞われているのは、俺も同じだった。
誰も何も触れずに尾澤がこんな状態になったのはどう考えても人間業じゃなかったが、それは当然でそれは必然だった。俺には、突進した尾澤が見えていなかったものが見えていたのだから。
――人形。
あの時、尾澤の直ぐ後ろに、人形が居たのだ。永輝が味方していた、あの市松人形。鱗錚だ。
だから、俺が混乱していたのは尾澤がこうなったことではなく。また、鱗錚が現れて尾澤を攻撃したことに驚いてしまった訳でもない。
「な……んで……?」
俺の目が、確かに捉えていた。片手を突き出して手の平を見せ、無表情に佇むその人物を。
片目を眇め、片方の口角だけを吊り上げた少女が、その人物に声をかける。
「やあ、留導鶴羽くん」
そうして、両の手を広げた大袈裟で尊大な仕草をしてみせた少女は、続けて更に混乱を招く台詞を紡いだ。
「いや、きちんと“真名”で呼んだ方がよかったかな? ――形之守鶴羽くん」
視界が、ぐらつく。
(かた、の……かみ……?)
何を言った。
何て言った。
ぐるぐると、ぐるぐると頭が回る。脳味噌をかき回されているような困惑。
「か、かたっ……?」
無惨な状態になりながらも、不幸にもまだ生きている尾澤は、驚愕に愕然と目を見開き、荒い呼吸を繰り返す。
「おやおや? 偽りの正義を掲げる“偽白”にとどめを刺さないのかね苦しそうだが」
煽るような口調で少女にそう言われた鶴羽は、氷のように冷たい無表情のまま、尾澤に向かって勢いよく右手を向けた。
すると鱗錚が尾澤の胸に飛び付き、その小さな手をメリメリと突っ込んだ。
素手で……なんて力だ……。
「かっ、ががふぁぐっ……!?」
鶴羽が尾澤に向けた右手を、急にぐっと握る。
次の瞬間、グシャリと湿った嫌な音が響き、尾澤は口から血の泡を吹きながらびくびくと痙攣し、絶命していた。
「おお、これはグロイなんと心臓を!」
場の惨状をものともせず、愉快に優雅に少女は嗤う。
俺はというと、あまりに衝撃的すぎて逆に冷静になり、場違いなことを考えていた。
(違う……)
鱗錚の殺し方は一思いにする斬撃だと永輝は言っていた。しかし今、鱗錚は一思いな斬撃などではなく、心臓を押し潰していたし、その前に腰に痛烈な一撃も与えていた。
鱗錚にとって尾澤は憎き仇の一人。だから残虐な遣り口になるのは仕方ないのかも知れない。
だが、引っ掛かる。鱗錚に、永輝と居た時のような生気というか、活気というか、それが感じられないのだ。
それはまるで、操り人形のように――。
人形なのだから、それが普通なのだろう。けれど、何故こうなったのだろう。永輝は後から出会った大切な人だが、鱗錚にとっては自分を生み出してくれた一族の血を引く鶴羽の方が元気になるものではなかろうか。逆に無機質に無機的になっているなんて、どうにも不自然だった。
この時、俺は一族の血を引いていようがいまいが人の心は移り変わるということを、一族だからといって当然ながら生まれてくる子も千差万別だということを、もっと考えるべきだったのだ。
「混乱しているのかい?」
放心したような顔で固まったままの俺に、少女は優しく声をかけて可愛らしく覗き込んでくる。
しかしその眸は爛々と、狂喜の煌めきに満ちていた。興奮しているらしいと察せられる、顔の紅潮と不気味な笑み。ぞっとした。
後退すると今度は、本当に生きているのか疑うほど無表情の鶴羽にぶつかる。
「……カフェでのぶっ飛んだ推測、間違ってないわ」
鶴羽は唐突に、そう言った。
「え……?」
「私達一族の僅かな生存者は封印を破壊し、鱗錚を海外へ流したわ。彼らは尾澤一族への復讐ではなく、それよりも鱗錚の幸せを選んだの。復讐はするつもりでも、実行するのはあくまで自分達だけ。だから……鱗錚だけはせめてと海外に流して、これ以上この子が本当に“呪いの人形”にならないように誰も何も知らない異国の地に送り、鱗錚を守ろうとした。世木積先輩の憶測、まんま正解よ。その他も、ね」
鶴羽は、表情は勿論、仕草もなく、人形のように佇んだままピクリとも動かずに真実を話し出す。
「待ってくれ。なんで……お前、カフェでのこと……」
「全部、知ってる。私は尾澤の動向に気を配るので精一杯だったけど、鱗錚に見てて貰ってたから」
平静に、平然と、さらりと言う。鱗錚に見てて貰っていたと。
それは、おかしい。鱗錚は唯一の味方である永輝のことを少なからず慕っていたのではないのか。全て見ていたのなら、永輝が殺される前に助けに来るはずだ。
そこまで考えた時、俺は“それ”に気付き、鱗錚に視線を向ける。
無機質に無機的に、傀儡になり果ててしまった、哀れな人形を――。
「形之守は、人形を愛する一族。……でもね? よくよく考えてみようよ。形之守がこんなことになったのは、そもそも人形なんかに関わったから。人形師なんかじゃなければ……そこまでいかなくとも、つけこまれたのは人形のせい。讒言の格好のネタになったわ」
氷柱のような視線と言葉を携え、タールの如く陰湿な雰囲気を纏い、鶴羽は紡ぐ。
(それは……それはつまり……)
俺は思い出す。美故兎と先輩が、永輝に愁いを帯びた気の毒そうな視線を向けていたことを。そして、そのあと先輩が言おうとしたこと。
形之守一族の生き残りは、人形を――。
その続きは、なんだ。
鶴羽はぐにゃりと笑顔を歪ませ、悍ましい表情で答えを出した。
「今の形之守一族はね、人形を愛してなんかいないのよ」
――それは、あまりに残酷な現実。
「……鱗錚に何をしたんだ?」
「ちょっと精神をぶち壊してやっただけよ。私達の言うことに絶対に逆らえないように。私達の言うこと以外、聞かないように」
人形は、本来の役割を取り戻した。人形らしい姿になったのだ。そう、操り人形に、傀儡に。
「私はね、誰が死んでも構わないから、寧ろ誰が死んでもライバルの討伐に等しいから、待っていたのよ。虎視眈々と、機会を窺っていたの。……尾澤が、霊力を使い果たすのを。まあ鱗錚には、欠琉の死を見せつけてしまう形になってしまったけれど、元は命も心もない人形だし、別にいいわよね」
そんな身勝手なことを、酷いことを語る鶴羽は、憮然と立ち尽くす俺を見て、にまりと笑った。
ストレートに欲望を剥き出しにした、人間の醜い顔。純粋で単純な、私欲。整いすぎて人形のように不自然な、だが欲望にまみれて人間らしい。
そしてやっと表情らしい表情が表れた時、その体も動く。
「っ!?」
びくっと震える。鶴羽の柔らかい手がふわりと俺の顔を持ったのだ。
頬に触れ、顎を支え、俺に顔を近付ける。紅潮した頬と、照れたような嬉しそうな表情。
「私ね、あんたのこと好きよ?」
彼女は俺を真っ直ぐに見つめ、告白する。
「ずっと好きだった」
身近に居た美人な同級生からの、突然の告白。本来ならドキドキのシチュエーションのはずだが、俺の心臓は恐怖でドクドクと脈打っていた。
ああ俺は……どうしようもなく、嬉しくなかったんだ。
「ふふ……」
逃げられない。動けない。縛られてもいないのに、拘束されている感覚。
目を見開き硬直している俺は、視線を逸らす。近くに居る気配を感じるので、少女の方へ目を向けたのだ。
少女は、後ろ手に回し、少し前のめりに、小首を傾げながら俺達を見つめていた。にこやかに、愉しそうに。
味方など、最初からいなかった。敵を探す必要もない。最終的には、全てが敵となるのだから。そう……正に今のように。
「畔」
名前を呼ばれ、反射的に顔を向ける。刹那、熱く柔らかいものがゆっくりと口内に侵入してきた。
「んんっ……!?」
それが鶴羽の舌だと、キスをされていると気付くのに数秒を要した。
女子特有の甘い香りがゆっくりと鼻腔から脳の奥底にまで侵入していき、俺の中の理性を、ドミノ倒しの如く組み倒そうとする。
唾液の卑猥な音を響かせた、熱く長い濃厚な接吻の末、鶴羽は吐息荒く俺から口を離した。
唇から妖艷に覗かせている鶴羽の赤い舌と、硬直したままの俺の舌を、蜘蛛の糸のような、透明な一筋の唾液が繋げている。しつこさを帯びた、粘りつく感情のタール。
「……欠琉も、世木積も、美故兎も、邪魔者は全て居なくなった」
歓喜と興奮に震える声で、鶴羽は勝利の言葉を紡ぎ出す。俺の心の壁を打ち砕く、ハンマーのような言葉を。
「世木積先輩のこともね、あのままだったらミス研と疎遠になったり、これからの展開に支障をきたすんじゃないかと思って助言したの。あの人はなんだかんだ畔が好きで、畔と居たくて引っ張り回してたのに。畔があんまり鈍感だからさ」
それは、あのことだろう。突き放すようなことを言われ、心ならずも正反対の態度を取ってしまった時。その次の日、鶴羽は俺に厳しいながらも優しく言葉をかけ、助けてくれた。……そう思っていた。
壊れていく。全てが。俺の日常が。何もかもが、変わっていく。
「ねえ、畔」
そうして、鶴羽は告げる。
狂気に満ち満ちた笑顔で、
狂喜に満ち満ちた声音で、
「形之守一族の復興、一緒に頑張っていこうね」
俺の人生を、拘束する一言を。
俺は思った。君を救おうと言った少女は、俺に最悪な救いを齎した、悪魔だと――。
心を、人生を奪われた少年は茫然自失と立ち尽くし、一族という悲愴な運命を背負って生きてきた女の子は歪んだ愛をぶつける。
女子高生四人の惨殺死体が転がる惨状の中、高校生二人の精神崩壊が展開される惨状の中、ただ一人。収集家の少女だけが、邪悪な笑みを浮かべていた。
当事者の限りなく近くに居ながらにして、その運命を助けない、見捨てもしない、加害者にも被害者にもならないポジションで全てを嗤う。
そんな災厄なコレクターは、最後にこんなことを呟いていた。
「私は確かに君を救ったよ、崎米くん。君の“命”をね――」
‐E N D‐
(本編 了)