第三章 嫌疑逆転
「……なんか妙に暗いな」
放たれた親友の言葉にはっとして顔を上げる。順が俺のことを怪訝そうな表情で見下ろしていた。
今、俺は教室にいる。昨日のことがあってから、どうも心が塞ぎ混んでいた。なんなんだこの気持ちは……。
「ちょっとな……」
だらしなく机に伏せていた俺は、ゆっくりと起き上がり、頭を掻きながら素っ気なく答える。ぼろが出たら嫌なのだ。それに話したくなかったというのもある。
「どうしたよ?」
順が席につきながら尋ねる。
そして返答を待たずに、自分の椅子に反対に跨がって俺の机に頬杖をつきながらふざけたことを言った。
「永輝に振られたか」
「いやいやいや何言ってんの? そもそも友達としてしか見てねえって」
そう言ってから少し考えてしまう。俺は本当は永輝をどう思ってるんだろう、と。嫌いじゃないのは確かで、好きかと聞かれれば好きだが、永輝を女として、異性として好きかと聞かれれば黙ってしまうであろう。
はっとした俺はさりげなく教室を見回すも、幸い永輝はまだ来ていないようであった。席についてないからいないだろうとは思ったが、あいつが俺や順より遅いのは珍しい。
「そうかお前が永輝を振るのか……。うーわ、サイテー」
「なんでそうなんだよ」
「なら、ついに美故兎にまで愛想尽かされたか……。そこまで駄目男だったとは……」
「だからなんで全部、恋愛絡みなんだよ。ちげぇよ」
相変わらず訳分からんと思いながらも、順とのいつも通りの会話で俺は心の重さが少しだけ軽減されるのを感じていた。
こいつもなんだかんだで、いつも通りに接することで俺の愁いを少しでも紛らわしてやろうと思って言ってくれてるのかも知れないな。
「じゃあ……」
順は首をひねって考えた後、満面の笑みで人差し指を突き付け、ここで出してはいけない名前を出す。
「世木積先輩!」
目を見開いて、固まる。今、一番聞きたくなかった名前だ。
言葉が出ない。
声が出せない。
動きが止まり、
時間が止まる。
「……えっと……なんか……悪かった」
そんな俺の様子を見てまずいと察したのだろう。順が困ったような顔で、項をさすりながらバツが悪そうに謝ってきた。
「……いや」
それだけを答える。順は悪くないのだ。
一度難しい顔をした順は、目も合わせようとしない俺を真剣に見つめ、一言だけこんな決定的な疑問をぶつけてきた。
「お前……永輝と世木積先輩、どっちが好きなんだ……?」
結局、俺は順の問いに答えられなかった。男だろうと女だろうと、男なら尚更だと思うが優柔不断なのは駄目だと分かってはいるのだが。
現国の授業で、俺は退屈な台詞を吐きながら黒板にチョークを走らせる教師の手を、頬杖をついてぼんやりと見つめていた。
ちらりと斜め前の席を確認する。永輝の席を。彼女は授業が始まっても学校には来なかった。
(永輝……)
授業内容なんて頭に入らず、考えるのはミス研のこと。
尾澤達は永輝が学校に来なかったら、直接家に行くのだろう。来ていたら昼休みなどに接触をはかるはずだ。だから先輩に、まるで関わるなと言われたような気になっていた俺は、午前中に永輝に会いたかったのだ。でも、今、永輝はいない。
もしかしたら、今日で何かが劇的に変わるかも知れないのに。あまりにも当たり前で平穏すぎる日々に現実味がなく、俺は些か呆けていた。
「畔」
「鶴羽……?」
一時間目の授業が終わり、相変わらずぼーっと頬杖をついていた俺の目の前に、何故か鶴羽が立っていた。
部活以外で話すことはほとんどなくクラスも違うため、少し珍しいなと思っていたが、昨日何か言いかけてたことを伝えに来たのかも知れないと悟る。
「世木積先輩のことだけど」
「……悪りぃ。俺、ちょっと小便」
催してもないのに、バレバレな嘘を吐いて席を立った。
「待って。あんたさ、だから鈍感なのよ」
鶴羽がすかさず手を掴む。女子特有の、柔らかい感触。俺は思わず皮肉めいた失笑を浮かべる。
「鈍感、か。女子ってみんな敏感なのかな……」
「なに感傷に浸ってるの? あんたまさか気付いてないの?」
「何がだよ。とにかく離してくれ」
「嫌」
鶴羽は間髪いれずにキッパリとそう言って、俺を見つめる。俺は俯いて視線を逸らしているのに、それでも強い眼差しで見つめてくる。その視線が、耐えられない。逃げ出してしまいたかった。
でも更に強く掴んでくる手がそれを許さない。俺も仮にも男だから本気で振り払えば離れるだろうが、周囲に人がいる手前、目立つようなことをする勇気もなかった。
「あんたさ、美故兎に誘われてミス研に入ったんでしょ。美故兎があんたを誘った理由、知ってるの? ついでに訊いておくけど、美故兎が言った部員が足りないって言葉、まさか未だに信じてる訳じゃないわよね?」
「……どういうことだよっ?」
「……やっぱり信じてたのね」
鶴羽が一度顔を横に逸らしながら視線を床に落とし、長く溜息を吐いた。
「部員はね、四人いれば廃部にはならないって先生に言われてたの。だから本当は世木積先輩と美故兎、日向に私でギリギリオーケーだったのよ」
「じゃあ……なんで俺は……」
「ここまで聞いてもまだ分からないの?」
心底、呆れた顔をされた。少しむっとしたが、自分が鈍感である自覚はあるので何も言えなかったが。
「……そもそも、あの先輩が不快だと思う人と一緒に居る訳ないでしょう。ミス研に入ってから先輩があんたを引っ張り回したのは、あんたにしっかりして貰いたかったからよ。実際、ミス研で鍛えられたでしょう? 先輩はいつも、誰よりもあんたのことを心配してた。だから今回だって、突き放すような言葉だったけれど実際はあんたの身を案じたのよ」
「それって……」
思わず顔を上げて茫然と呟く俺の言葉を無視して鶴羽は続ける。
「部員が足りないなんて嘘。先輩が美故兎に頼んだの。上手く畔を誘って来てって。あの子、心配だから私が鍛えるって。それ以外の理由は、自分で考えて」
それだけを言うと、鶴羽は手を離して教室を出て行った。
残された俺は、放心気味に立ち尽くす。不安にも似たなんとも言えない気分で、妙に心臓がどきどきしていた。
生徒達の喧騒の中に、次の授業の五分前を告げるチャイムが鳴り響いた。
勿論、その後の授業なんか全然身が入らなかった。そんな調子のまま二時間目、三時間目、四時間目とすぎてお昼も終えたが、永輝はずっと学校には来なかった。
だけど、五時間目の授業の時、唐突に教室の戸が引き開けられる。俺は教科書とまともにとれてないノートに視線を落としてシャーペンをもてあそんでいたし、他の教師でも来たのかと思っていた。
「……すみません、遅れました」
だがそんな声を、聞いたことがないが聞き慣れている声を聞いて顔を上げ、引き戸を見遣ると、そこには永輝が無表情で立っている。
いつもとは違った雰囲気を纏い、またもやいつもとは違う抑揚のない声音と相俟って、クールで知的な女の子に見えた。
単なるイメチェンなのか、何かの区切りとしたのか定かではないがセミロングだった黒髪は、こめかみの辺りから垂れる髪だけを伸ばして襟足はバッサリ切られており、しかも普段はかけない眼鏡をかけていた。
「欠流? お前、どうしたんだ?」
遅刻というには遅すぎる時間帯に現れた永輝に、教師が理由を尋ねる。どうやら学校に連絡をしていなかったらしい。
「すみません、登校中に怪我をしてしまって」
「怪我? 大丈夫なのか?」
よくよく見ると、永輝の右腕に白い包帯が巻かれているのが、袖からチラッと見えた。
包帯を巻いているということは病院に行ったということであろうか。しかし病院に行ったのなら、病院から学校に連絡がきているであろうに。何か不審に感じた。
教師もそれを疑問に思っているらしかったが、
「軽傷なので平気です。それよりどうぞ授業を続けて下さい。私も直ぐに準備します」
と永輝に促され、授業時間を無駄にする訳にもいかず、教師は納得がいかないような顔で授業を再開した。
授業中、
「それどうしたん?」
と順が訊くが、永輝は
「……ちょっとね」
と答えるだけで、詳しいことは何も語ろうとはしなかった。俺に目を向けることもない。
それから、五時間目が終わり六時間目の授業も始まるが、永輝は真面目に授業を受けていた。
俺はソワソワがおさまらず、六時間目が終わると同時に永輝に話し掛ける。
「永輝っ。今日、どうしたんだよ?」
「……聞いてたでしょ? 学校向かう途中にちょっと怪我しただけ」
視線を逸らし、左手で添えるように軽く右腕を押さえて呟くようにそう言う。
「なんで隠すんだ?」
俺は永輝の左腕を掴み、少し強い口調で尋ねた。
「怒らないでよ……」
永輝の無表情が困ったような不安げな顔に変わる。女子にそんな顔をされたら、男の俺はこれ以上強気に出れない。俺は永輝の細い腕を離した。
「……俺じゃ信用できないのか?」
「そうじゃない……」
永輝は呟くようにそう言って、辺りを軽く見回してから、俺の手をそっと掴んで微かに引っ張った。
「ここじゃちょっと……。だから……来て」
俺は永輝と連れ立って教室を後にし、人気の無い場所へ来る。……あの少女が学校に潜入した時に来た廊下だ。
位置的に、丁度陰る場所で、窓があるにも関わらずやや暗く陰気な印象がある場所である。あの珍奇な少女と来た時は、本人はそのつもりはないだろうが少女のギャグのようなトークのお蔭であまり陰気な印象はなかったが。
「あのね、畔。一緒に鱗錚を――あの子のことなんだけど守ってくれるって約束した、よね……?」
顔色を窺うように、上目遣いで不安げな様子を覗かせ、永輝は訊いてくる。
「……ああ」
永輝の口から飛び出した不穏な言葉に、俺は思わず僅かに眉をぴくっと反応させてしまう。矢張り永輝はあの人形に……。
「よかった。それでね? 今、鱗錚は本格的に危険な状況にあるの。……同じクラスに尾澤廉華さんって居るでしょ?」
「……!」
ここで、尾澤の名前が出てくるとは……。まさか、まさか。
「その尾澤さんね、鱗錚を狙っているらしいの」
「……そう、なのか」
矢張り、気付いていたのか。まずい。どうする。人形は何か先手を打ってくるかも知れない。
「鱗錚はね、何も悪いことはしてないよ?」
永輝はそう言って、胸の前に右手を持っていき、その右手に左手を重ねながら笑った。
「あの子はね、ただ自分に害をなす存在を排除しただけ。鱗錚に害をなすのは主に尾澤さんの一族。あとは尾澤さんの一族と繋がりがある人間と、尾澤さんの一族に騙された人間だけなの」
思わず息を呑む。眼前には、狂気の笑顔があった。
「ねえ、畔。畔は、信じてくれるよね? 畔は騙されたりしないよね?」
「勿論だよ」
そう答えるので精一杯だった。先ほどから空気が悪い。よくないものが渦巻いているのではないかと、察せられる空気。
永輝が、今度は安心したように笑う。
「よかった。じゃあさ、今日“黒い収集家さん”と約束してるの。これから、一緒に来てくれる?」
「黒い収集家……? どういう奴なんだ?」
気味悪い単語が飛び出した。何故かあの怪しい少女を連想してしまう。
あいつは、吸い込まれるような闇色の、漆黒の瞳を持っていた。それに尾澤は言っていた。イレギュラーな収集家だと。他者の人生を“物語”と称しそれを個人的に収集している質の悪いコレクターだと。
そして少女自身、は学校に潜入した時に“接触”などと言っていた。
少女にしたって、本当に手引きしているのか確かめたいとも思ったのだ。
永輝が頷き、学校を出た俺達は二人並んで通学路を歩いた。
夕暮れの通学路。遠くを飛び交う鴉の鳴き声を聞きながら、俺は永輝に従って歩く。
そうして、通学路を十分ほど歩いた時だった。
「……尾澤さんの一族はね、鱗錚に恨みがあるみたいなの」
唐突に、暗い表情になった永輝が呟くように口にする。
「恨みって……なんの?」
「尾澤さんは代々人形師の家系で、人形作家として素晴らしい才能を持つ一族だったらしいの。それは子供の玩具用の市松人形から婚礼用の衣装人形まで、伝統工芸を受け継ぎ、江戸時代当時は全国の大名や、あの徳川将軍家にも愛されていたそうよ。けど、そんな尾澤一族にはライバルが存在したのよ」
予想外に大きい話が飛び出した。俺は目を白黒させ、視線を永輝に向けたり空に向けたり挙動不審になる。
(徳川ってあの教科書に載ってる徳川……? 尾澤ってそんなに凄い家柄だったのか……)
でも確か、前に何処かでチラッと和風のデカイ家系だとは聞いたことがあるような気がする。
「それが……平安時代より伝統工芸を受け継ぎし人形作家の巨匠、形之守一族」
「形之守……」
「形之守も尾澤と同じで手軽な物から高級品まで手掛けた一族。中でも衣装人形や節句人形は素晴らしかったみたい。尾澤一族が人形の“造り”……つまり精巧精密さを誇るなら、形之守一門が誇ったのは“生々しさ”。貴族である公家や、名だたる武将、最高国家機関である太政官らも称賛した、とにかく美を追求した人形だったみたい」
話を聞いていて俺は、永輝はどうしてこんなことを知っているのかと疑問に思う。
いや、予測はできる。確か鱗錚と言っていたか。あの人形に聞いたのかも知れない。重要なのは、永輝が何故ここでこんな話をしだしたのか、ということだ。
「平安時代からの伝統工芸を受け継ぐ形之守一門は、室町時代以降からの歴史が浅い尾澤一族からすれば脅威だった。しかも、周囲からは人形造りの素晴らしい才能などと謳われていたけれど、実際は、尾澤一族は地道な努力でのしあがったものだったの。尾澤一族が一心不乱の努力で必死に技術を磨き上げていたなら、形之守一族は努力とありあまる才能で磨き上げた技術だった。つまり、尾澤が努力型なら形之守は天才型。死ぬような努力もなくトップとして栄えた、天賦の才を持つ形之守一門のことが尾澤一族は気に入らなかったみたいなの」
ここで歩き続けながら淡々と語っていた永輝が、表情を歪ませる。憂虞と悲憤と辛苦をあらわにしたような、見ていて胸が痛くなるような顔。
「鱗錚は……形之守によって創られた、市松人形としての京人形だった。古来よりヒトガタのものには魂が宿り易いと言われているように、最も高級な最高峰の市松人形として作られた、本当に生きているかのような人形には、魂が宿った。形之守一族は、その市松人形を見ても少しも怯えたりせず、鱗錚と名付け却って可愛がったの。そんな形之守一族と暮らしていく内に、鱗錚には徐々に感情が宿った。……そして形之守が気に入らなかった尾澤一族は、鱗錚の存在を知り、あの子を“利用”することを考えたの」
「利用って……まさか人形の呪いって……」
震わせた両手で、ぎゅっと制服の裾を握り締めた永輝が辛そうに頷く。
「そう。尾澤一族は鱗錚を悪霊に仕立てあげた。鱗錚を呪いの人形として、形之守一族を贔屓にしてた御家人や旗本に讒言したの……」
「讒言……上の人に人形や形之守って一族のことを悪く言ったってことか」
「うん。もともと尾澤も形之守も霊力が強いことは有名だった。尾澤一族は“形之守一門は脅威的な動く呪い人形を従え、怪しげな妖術や呪術を使っている”と言ったの。そしてついに、御家人や旗本達から将軍の耳に届いた……」
なんて奴等だ。最低じゃないか。こう言ってはあれだが“動く人形”なんかを見たら、怖がるのが当然の心理。これでは形之守って一族が悪いようにしか思えない。そこを利用したのか。
「武士や将軍なんかは、職人、商人に値する形之守一門に、自分達を潰えさせられるのではないかと懸念し、御家人達の“動く人形を見た”という証言から、人形と形之守一族を危険視した。そうして……」
「……殺された、のか?」
永輝が徐に頷く。
「謀反人として、形之守一族は訳も分からず皆殺しにされたの。ただ……」
(酷すぎる……)
「ただ、鱗錚は……自分を生み出してくれた、そして愛してくれた一族を皆殺しにされて、覚醒してしまったの……」
そこから先は言わなくても分かった。最初に、尾澤の家系は人形に恨みがあると聞いていた以上、予想はつく。
「鱗錚は尾澤一族に深い怨憎を抱き、彼等への報復を行った」
「それは……」
「……尾澤一族は半分以上が死に至り、また負傷することになった。けれど一族郎党をあげた、霊力の強い尾澤家の全勢力をもってして攻められ、鱗錚一人では流石に勝ち目がなかった。鱗錚はその後、尾澤の者によって人里離れた山奥に封印されたんだって。尾澤家はこの事件後に周囲から“呪いの人形に呪われた家系”として忌み嫌われることになり、尾澤一族の名声は地に落ちた。それからは人形の売上も伸び悩み、人形作家を副業として別の仕事を始め、細々と暮らしてたらしい。……だから、彼等は鱗錚に恨みがあるんだって。折角、宿敵・形之守家を陥れることに成功したのに、あの呪いの人形のせいで我等一族は惨めなことになったって……」
「ただの逆恨みじゃねえか……」
話の酷さに、まだ学生の俺ですら呆れる。俺は溜息を吐きながら頭を軽く横に振った。
「えっと、その鱗錚はその後、どうなったんだ? 今は動けるんだよな?」
言いながら辺りを見回すと、話に聞き入りながら永輝について来てたせいで気付かなかったが、人気や民家が全くない道に自分達が居ることに気付く。両脇が低い林に囲まれた、やや陰気な印象の漂う場所。
田舎だからこういう場所は結構たくさんあるのだが、今は話題が話題だけに少し寒気がしてきた。
「うん。それは……昭和以降、日本人形が海外に渡ってからは、海外に流れた人形の中に鱗錚があったらしくて……。封印自体は鱗錚の力に長く持たなかったのかなって思ったんだけど、なんで海外に渡っちゃったのかは鱗錚にも分からないらしい。ただ、動いてるところを見られたのか海外でも呪いの人形として襲われることになって……。鱗錚を呪いの人形と思い込んだ警察は、日本人の強力な霊媒師に鱗錚を押し付けた。その霊媒師は尾澤一族の一人だったの。けれどその人、鱗錚に殺されちゃったけどね……」
永輝の瞳に、暗く、妖しい光が宿る。その手の震えは止まっていた。
「鱗錚にも分からないけど、なんか急に封印やら結界やらが壊れたらしいんだ。で、晴れてまた自由の身になった鱗錚は日本に戻って来たって訳。それで、丁度あのゴミが積み重なってる場所で、疲れたからまた見付からないために“普通の人形”のふりをして休息していた。そこで私に出会ったの。――そうだよね、鱗錚?」
「……え」
その時、急激に空気が変わった。
むわりと、熱気が、
ひやりと、冷気が、
全身を包む。
その次の光景に、俺は自分の目を疑った。永輝の疑問系の言葉を聞いて理解したはずなのに、脳が、体が、追い付いていなかったから。
紅地に淡い朱色の椿模様と、金糸で形代のような刺繍の入った着物を纏うあの市松人形が、浮かんでいた。
重力を無視し、引力を殺し、当然のように、必然のように、宙にその四十センチくらいの体を浮かばせている。常識を覆し、定説を翻し、イレギュラーに、反則的に、艶やかな黒髪を靡かせ、潤った両眼と口唇を三日月形に湾曲させ、人肌の模様させ浮かぶ真っ白な手や顔を綺麗な着物から覗かせる。
そいつは笑っていて、それは生きているということ。嫌でも理解し、理解するが脳が追い付かず、脳が追い付いても体がついていかない。未だかつてこんな悍ましいものを見たことがあっただろうか。
人は未知のものに恐怖を抱く。情報がないことに恐れを抱く。目の前の人形は、俺が今まで生きてきた常識を覆す、今まで生きてきた情報に無い、何処までも未知の存在だった。
百足や蜘蛛が気持ち悪いのは足が多いからで、蛇や蛞蝓が気持ち悪いのは足が無いからだ。あるものが多すぎる違和感。本来あるべきものが無い違和感。それは嫌悪感として人を襲う。
今、目の前にあるもの、“居る”もの。人形は生きてはいないし動かないという常識を覆す、足が多い百足や蜘蛛のように人間らしさが多い、足が無い蛇や蛞蝓のように人形らしさが無い、違和感と嫌悪感。そして人形という存在が動くという変則に、それがどんなものであるかという情報が無く、対処する情報が無い恐怖感。
違和感、嫌悪感、恐怖感、人に排斥される要素を全て持ち得ている。
拒絶反応を誘起させるに相応しい、
拒否反応を誘発させるに相当した、
正しく人という存在の天敵と言える、そんな存在。
体が、震える。
(情け……ねえな……)
そうは思ったが、これは恐らく意志ではどうにもならない体が起こす反応だ。畏怖、戦慄。じわじわと、体を侵食していく。
そんな中、永輝は――。
「よしよし」
人形の頭を撫でる。それは動物愛好家が愛犬にでもするようにも見え、親が幼い愛娘にするようにも見えた。
非常識を常識とし、非現実を現実に、イレギュラーをレギュラーに、反則的を規則的に。穏やかな笑顔を向け、和やかによしよしと言った。
それが、周囲から見れば却って不気味に感じ、恐怖を覚えるのだが。
「大丈夫だよ、鱗錚。私と畔は絶対に見捨てたりしないから。……ね、畔?」
向けられた顔。その無邪気な顔の向こうに浮かぶ、白く小さなもう一つの顔。
目線が、そむけられない。逸らせない。
「あ……ああ」
硬直したまま返事をする。向けられた言葉への返答ではなく、言葉を向けられたことに対する返事。了承した訳ではなく、断った訳でもない。
永輝が嬉しそうに笑った、その時だった。
「待て待て待て何をやってるというか何をしているというかいやいやいやバカなの!? あんたバカなの!? それは反則に犯則だろ貴様覚えてろよ全く最悪だよ君は本当に! 正々堂々戦い給え意気地なしだね!」
少し独特の調子の、見知った声。区切りがなく、言葉が繋がっているところがある、見知った喋り方。
その声は前方十メートルほど先にある曲がり角の先から聞こえてくる。
(道……玄?)
なんだかまた酷く慌てた調子だな、と思っていた。厄介なことになっているらしいし、矢張り拘わりたくない。
だがそんな思考は端から霧散することになる。
「まさかっ……! 漆夜さん!?」
永輝は酷く驚き、慌てて声の方へと走って行く。
「おい、永――っ!?」
永輝に呼び掛けながら咄嗟に踏み出した時、見えた。アスファルトの上の、赤い液体が。曲がり角の先からどんどん拡がっていく、瑞々しい液体。
――血だ。
それに怯んで一瞬踏みとどまったが、先に走って行った永輝の背中が曲がり角の先に消えたのを見て、思わず俺も駆け出した。
「永輝っ!!」
そうして辿り着いた曲がり角の先には、俄には信じられない世界が拡がっていた。
立ち止まり、目を見開き、“それ”を確認する。
うつ伏せに倒れ、手足を投げ出したままぴくりとも動かない男が。
「日向……?」
その、頭が潰れたトマトのようにグシャグシャになっている大柄な男は、正しく日向だった。
「あぁっ……」
立ち尽くしたまま、ただ変な声が漏れる。日向が、死んでいる。
そして恐怖と失望は、疑問になって俺の体を動かす。
死んでいるということは、殺した奴が居る。誰かが殺さなければ死なない。一体誰が、何故、という疑問が、死体ばかりを見詰めていた俺の顔を上げさせた。
視界に入ったのは、やや離れた位置に座り込んでいるあの妖しい少女と、その傍らにしゃがみこんで少女を心配する永輝。
少女は、いつもの澄まし顔や不適で邪悪な歪んだ笑みは鳴りを潜め、険しく深刻な表情で、自分の体を抱くように腹を押さえている。どうやら負傷したらしい。
日向が死んでおり、少女は負傷している。ならばそれをやった奴は何処だ。
(あいつは……!?)
咄嗟に人形を探すも、見当たらない。
しかし冷静に現状を見れば、怪しいのは永輝達ではないように思える。
まず殺されている日向は、尾澤が信用できないから調査すると言って昨日部活を休んで先に帰った人間だ。それが今日こうなっている。そして少女と永輝は、恐らく協力者か何かだろう。その少女が負傷。だとしたら、安直な考えかも知れないが、現時点においては一番怪しいのは尾澤だ。
「畔っ……!」
そこまで考えた時、永輝の震えた声が俺を現実に引き戻した。
「き、救急車っ……」
「え?」
よくよく見ると、少女の腹部から瑞々しい鮮血が滲んでいた。呼吸が荒く、蒼白な顔色で、震えているのに汗をかいている。
「私としたことが……やられてしまったよ……。くそ……油断、した……」
「だ、駄目っ! 喋らないで! あぁあっ……血がっ……」
皮肉めいた笑みを浮かべ、呟く少女を、永輝が必死で止血する。
傷が深いらしい。だが救急車を呼ぶにしても、ここが何処だか分からない。幸い、近くの電柱を見て直ぐに住所を特定する。
日向の件もあるし、俺は百十番にかけた。状況によっては救急車や消防車などに通達してくれるからだ。救急車を呼んでから警察にかけるよりも、最初から百十番をした方が早い。
俺が電話をかけている間に、少女は項垂れ、意識を失った――。
「短刀でばっさり、か」
俺は放心気味に呟く。
その日は休日で、俺は一人、自室に居た。
あの後、救急車が来て少女は病院に運ばれ、命に別条はないらしいが傷口の縫合手術と輸血を受けたらしい。
少女はスパッと真一文字に腹を斬られており、咄嗟に避けなければ死んでいたという。
刀の切れ味は銃弾を切れるほどのもので、使う者にもよるが、掠っただけでも結構な傷になったりすると聞いたことがある。危機一髪だったということか。
警察の話によると、傷口が綺麗に真っ直ぐだったことから、剣術か何かをやっている刀の扱い慣れた者の仕業ではないか、ということだった。
刃物を使ったからといって人間の仕業とは限らないが、人外のものならばそもそも少女も俺も永輝も殺されていておかしくない。人外のものならば、何故逃げたのだろう。
少し無理がある気もするが、逃げたからあの場に居なかった訳であり、止めを刺せばよかったものを、俺達に見られるのを恐れたのであろうか。それを考えるならば、犯人は人間の可能性が高い気がするが。
永輝は犯人を見ていないと言い、ならば少女に話を聞きたいが、重症の彼女は今病院に拘束状態にある。そしてまさかの、身内以外面会謝絶。
聞いた話によると、あの少女は結構な家柄の娘であり、親がかなりの権力者であったらしく、そういう処置がとらされていたのだ。
(話だけでも聞ければいいんだが……)
というかあんなストーキングでも少女の携帯番号くらい聞いておけばよかった。
あとから聞いたが、漆夜というのは少女が永輝に名乗った仮の名前――と言えば聞こえはいいが、言ってしまえば偽名だった。そして少女はいつも神出鬼没に会いにきていたらしく、永輝も番号やアドレス、IDなど少女の個人情報は一切知らないんだとか。唯一知っているのは、少女は俺達と同じ高二だということくらいだ。
「……」
俺は右手を握り締める。俺の右手には、一冊のメモ帳が握られていた。日向の物だ。
あの時、百十番した後、目をそむけたいほど無惨な日向の死体に視線を落としていたら、彼の手が確り何かを握り締めているのを見付けた。それがこのメモ帳だった。
最初、日向の死体を見付けた時は、身近な人間が残酷な死に方をしているというショックで気付かなかったらしい。
しかもこのメモ帳、日向がガッチリと掴んでいて中々取れなかった。奮闘してやっとの思いで抉じ開けたのだ。俺も日向ほどの筋力はないが、多少は鍛えてはいるのでなんとか外れた感じだった。女の力ではよほど鍛えてないと無理かも知れない。
何故そこまでしたかというと、勿論、日向が尾澤について探りを入れるために学校を出ていったからだ。二日も経たないうちに殺されていては大した情報は期待できないであろうが、彼がガッチリと離さなかったことが気になった。観ていないがアニメの観すぎだと言われるかも知れないが、まるで死ぬ直前、犯人にとられぬよう死んでも離すかと握り締めたような……。
しかし妙だ。思わずメモ帳を持ち帰ってしまったが、考えれば殺されたであろう死体が持っていた物だ。俺は医学的な知識なんかゼロだし、刑事ドラマや推理小説さえまともに見たことがないが、警察が調べれば日向の死後、誰かが彼の死体をいじったと、つまり俺が日向の手を抉じ開けてメモ帳を抜き取ったと分かるのではないだろうか。だが俺は何も言われてはいない。
まあ今は考えるより、目の前のことに目を向けよう。
メモ帳を開き中を読むと、丁寧な達筆で《形之守一族生存説》と最初に大きく書かれていた。
「え……!?」
その文字を見て、俺は驚愕した。
生存説って生き残った可能性のことだよな……。
その下には小さく文字が続いていた。
《江戸時代、人形作りで著名な家系に尾澤家の他に形之守家という一族があったという。形之守一族は、ある事件がきっかけで全滅することになったように思われたが(事件は江戸時代後期から末期に発生したとされるが詳細は不明)、僅かに生き残った女子供が一族の男達によってうまく逃がされ、名を変えて隠居し、生き延びたのではないかという逸話が存在することが明らかになった。尚、この事件とは、呪いの人形を従える形之守一族と、それと戦ったという尾澤一族との紛争であるという怪談も存在する。それによると生き延びた形之守一族の血を引く者は、尾澤一族に恨みを持ち報復を望んでいるという。》
俺はそこまで読んでメモ帳を閉じた。
ここに書かれている事件については、詳細は不明と記されているが、永輝の言っていた“あの事件”で間違いないだろう。恐らく、昔起きたことで、しかも人形が絡んでいた事件だから史実としては信憑性が薄く、怪談として僅かに残っているくらいなのだろう。
(それにしても酷いな……)
日向が調べた内容は、現代に残っている“怪談”だ。怪談など、与太話として扱われて当然なものだし、しかも“呪いの人形を従える形之守一族”と、“それと戦ったという尾澤一族”と記されている。
これではまるで尾澤一族が英雄、形之守一族が悪党に見える。酷い捏造だ。日向は何処かでこの情報を手に入れたのだろうが、こんな情報を流した奴は一体どういうつもりなのだろう。
……しかしそれは、永輝の話を鵜呑みにするなら、の話だが。
それと、メモ帳の最後の方、下に書かれていた、生き延びた形之守一族の血を引く者は尾澤一族に恨みを持ち報復を望んでいる、という内容。
何かが引っ掛かる。だが、何が引っ掛かるのか分からない。
その時、急激な寒気が俺を包んだ。寒気と言うより、悪寒。ぞくぞくっと身震いした。
かと思えば、むわりと湿度の高い嫌な空気が肌にまとわりつく。
(なんだ……?)
背後に強烈な気配を感じる。空気が悪く、呼吸が少し苦しくなる。不穏な色が室内を満たしていく。……勘弁してくれ。
俺は何もないことを祈りながら、決心し、振り向いた。
「……ふぅ」
何も居なかった。居る訳がない。今、この部屋には俺一人だ。
安堵して顔を戻すと、眼前に蒼白な顔が、俺を見つめていた。
俺は痙攣した咽喉から声も絞り出せず、ひっくり返る。
色白ではなく、純白のような色の蒼味がかった顔は細く黒い三日月二つと大きく紅い三日月を作り出し、笑っていた。その湾曲した眼窩に収まる眼球に浮かぶ眸は、ぎょろぎょろと早送りのように四方八方動き、砂嵐を凝視するくらい目がチカチカと痛くなってくる。
黒い三日月からは止め処なく紅い涙が頬を伝い、妖しく光る妖艶な唇はべにではなく血で彩られ、口は重低音と超高音が混ざり合った不可解な声で歌唱を紡ぐ。
子供の頃に観た、今となっては限りなく下らないと思う怖いビデオで、襲ってくる怨霊がこれと似たような声を出していたのを思い出す。
「憎ヤ怨メシ尾澤家。嬲リイタブリ殺メテモ、私ノ憎悪ハ晴ラサレヌ。憎ヤ怨メシ尾澤家。ソノ血肉ヲ喰ライテ私ノ怨念ハ晴ラサレヌ。己ノ栄華ノタメナラバ、人ヲ貶メ殺メテ、喜悦ニ浸ル外道ノ血。怨ミ晴ラサデオクモノカ……」
どろりとした、感情のタール。深い深い怨憎と、悲憤。心の臓を握り潰すような歌声だった。
しかもよく見るとそいつは頸から下がなかった。そして次の瞬間、頸の断面からは赤黒い血が机上に淋漓と、鼻をつく生臭さと共に絨毯を、床を、瞬く間に染め上げる。
長い黒髪は頸の断面を撫でながらうねうねと蠢き、舞い上がった。生き物のように、蛇のように。
(やばい……これは、やばい……)
情けなく震える体を叱咤し、逃げなくてはと思う。だが思うだけで、俺は逃げられなかった。
――立ち上がらないのだ。
腰が、抜けていた。だらしなく投げ出される脚は、笑えるほどに動かない。動いてくれない。
「怨ミ晴ラサデオクモノカ。怨ミ晴ラサデオクモノカ」
人形は鮮血に濡れた唇でそう繰り返し、ケラケラと笑う。
そうして、唇が触れそうな距離まで顔を近付けてきた。
刹那、彼女の口がパカッと空いた。真っ白な歯は血に濡れて赤透明になり、上歯と下歯がぬちゃりと血の糸を引く。
「え……?」
口の中に、大分小さいが人の頭のようなものが入っていた。人形はまたケラケラケラと笑って、言った。
「コノ怨ミ、晴ラサデ、オクモノカ――」
その瞬間、口の中の頭がぐりんとこちらを向き、土気色の顔と、生気の消えた濁った眸でこちらを見つめた。
――俺だった。
「うわぁああああああ!!」
俺は、引き攣る喉の奥から高らかに悲鳴を上げ、気絶した。
だが意識が飛んだと思った瞬間、はっとして起き上がる。
「あ、え……?」
どうやら机上に突っ伏して寝ていたようで、体の節々が痛い。
ベッドの上にある携帯をタッチしに行くのが面倒なので壁掛け時計を見ると、日向のメモ帳を読んでいた時間から二十分ほど経っていた。
うたた寝中に変な夢を見ていたのか、もしくは……。
(考えないようにしよう……)
上腕を押さえて軽く身震いし、うたた寝する前に考えていたことについて再び熟考する。
形之守一族には生存説があって、その生き残りは尾澤一族への復讐を望んでいるということについて何かが引っ掛かった、というところまで思い出した。
一通り思い出すと、安心して回転椅子に背を預ける。
しかしさっきのが夢や幻覚にしろ現実にしろ、あの恐ろしさ悍ましさは、確実に人形への不信感を生んだ。永輝の話は人形の話なのだろうが、あれが本当に真実だろうか。だが尾澤も尾澤で信用できる奴なのだろうか。不信感と猜疑心は増幅するばかりだ。
(あれ……?)
そこで俺は、昨日色々あったせいで忘れていた一つの事実を思い出す。
(そういえば、世木積先輩や美故兎は……)
先輩達は永輝に接触すると言って部室で別れたっきりだ。だが三人は昨日、来なかった。
まさか三人に何かあったのでは、と不安が体中を侵食していく。
ここで永輝の腕の“怪我”について聞いていなかったことも思い出したが、今は取り敢えず先輩達の安否確認が先だと、俺は世木積先輩の携帯にコールする。
(出てくれよ……)
祈りながら、願いながら、発信する。待ちうたの設定されていない無機質な呼び出し音が耳に響き渡った。
数コール後、
「……何?」
という、いつものように機嫌がいいとは決して言えない、素っ気なく鋭い声が聞こえ、俺はほっと安堵の息を吐く。
「……先輩……。無事でしたか」
「……日向のことね」
察したように先輩は言った。流石、情報が早い。昨日の今日で、しかも殺され方が殺され方だった上、まだニュースにもなっていなかったのに、どうやって知ったのだろう。
「で、用件はそれだけ?」
「いえ、あの、先輩。昨日、来ませんでしたよね?」
「ああ、欠流永輝のことね。昨日、尾澤さんが急用ができたと仰られて、なんでも重大なことらしいからまた別の機会にって見送ったの」
「そうなんですか……」
まただ。尾澤を敬うような物腰に、不自然さ、違和感を覚える。
「あの」
「何?」
「先輩は、なんで先輩なのに後輩の尾澤のことを敬うような口調なんですか?」
「……尾澤さんの家系について、少しだけ知っていたから」
それは、形之守一族と共に名高い人形師の一族として君臨していた頃のことだろうか。それとも、単純に“昔、高貴な家柄だった”というだけだろうか。
「家系?」
「用が済んだなら切るわよ。私、暇じゃないの」
しかし不自然でないように勇んで尋ねるも、有無を言わさない口調で流される。だが先輩は切る前に、俺が食らいつかずにはいられない情報を与えた。
「ああそれと欠流が遅刻した日、怪我してたみたいだけど、それゴスファッションの不審な女の子について行ったせいよ」
「え、え!? なんでそんなこと知ってるんですか?」
俺は思わず椅子に預けていた背を離して飛び上がり、机上に拳を握り締めた手を置いて前のめりになった。
「知ってるわよ。だってあの日、欠流のこと尾行してて私も遅刻したもの」
なんて人だ。常に永輝の挙動に気を配っていたということか。でなければいくら人形の件で永輝が気になっていたとはいえ、あの日、いつものように学校に向かうことはあっても永輝を尾行しようとなどはしないだろう。何せ同じ学校の学生で、永輝も同じように学校に来るものだと普通は思うだろうから。先輩は本当にレベルが高い。
「その不審な女の子ってどんな感じですかね?」
「身長百五十センチくらい、色白、華奢で鳩胸、長めのストレートの黒髪に、顔立ちはかなり整ってる。口調はかなり特徴的で、美声だけどやや独特な声音。あと言語発生機器」
「げ、言語発生機器って……」
「ペラペラ喋りすぎる。うざいくらい。それに言葉が繋がってて個人的にイラッとくる人種だったわ」
まあゴスファッションの不審な女の子と聞いた時点であいつだとは思ったが、一応聞いてみたら、これ間違いなく収集家の少女じゃないか……。
「そうなんですか……。で、永輝はなんで怪我したんです?」
「短刀を持った人形が切ったからよ」
ドキン、と何故か緊張感を覚える。やましいことなど何もないのに、何かとても後ろめたいような気分になった。
(短刀って……。あいつも短刀で斬られてた、よな……)
「掠る程度の峰打ちレベルだったっぽいわ。かなり剣の扱いに慣れてるみたいね、あの人形……傷の深さも自在なように見えた。ゴスファッションの奴が欠流と並んで歩きながら話してて、そいつがタチ悪そうな笑顔を作って欠流から離れた瞬間のことだったから、見た感じゴスファッションが黒幕っぽかったわ。まあ偶然の可能性もあるし、それだけで決め付けるのはよくないけど。ただ……」
俺は若干、混乱していた。尾澤に、永輝と少女。誰を信じて、誰を疑えばいいのだろう。もう分からなくなってきていた。
「……ただ?」
「あんたの名前、出してたのが気になった」
またドキンと心臓が跳ねた。あの後ろめたいような、嫌な感覚。
「なんて……?」
「畔くんは大丈夫なのかね? 本当にこちらについてくれるのか怪しいみたいだが。みたいな内容だった」
変わる。雰囲気が鋭く、厳しく。それは警官が不審者にするよりも鋭く、刑事が被疑者にするように厳しく、不審な、不信な空気。
「あんたは、何か知らない? ゴスファッションの不審者のこと。追っかけられてたんでしょ?」
尋問。これは、刑事が被疑者にする尋問だ。
「前々から……つきまとわれて一方的に話しかけられてはいましたけど、それだけです。こっちが知りたいくらいですよ」
「何を話されてたの?」
「うーん……なんというか……色々なんですけど。他愛もないことですよ。というかあいつ、呼吸するのと同レベで話が脱線するので何を言いたいか分からなかったり、分かってもペラペラ色々なことが混じるせいで正直、言ったことの印象が薄いというか……」
「……それは容易に察することができる」
先輩が深い溜息を吐いた。尾行して話し方を見たのだし、分かってくれたのだろう。
「まあそれは信じるけど、それだけ? 何か変な発言はしてなかった? まああの人は全てが変なんだろうけど。あと、これは欠流にも言えることよ」
「えっと……」
戸惑い、躊躇う。先輩に話しておくべきだろうか。学校で会った時の少女の勧誘のような台詞や、永輝が語った人形の境遇や形之守一族と尾澤一族についてなど。
現状では先輩は尾澤側の人間であり、でも先輩は先輩だ。俺が真剣に訴えれば、蔑ろにしたりはしないだろう。
しかし尾澤は、永輝の協力者か扇動者かのような存在の少女と学校で鉢合わせしたにも関わらず、それを自らの協力者である先輩達に話さなかったのであろうか。少し不自然に感じた。
「何かあるのね」
確信したように、確かめるように、先輩が口にする。
先輩に訊かれ、俺は沈黙した。何も言わないということは、つまり何かあるから喋らないのだ。
「畔」
通話中であるのに猶も黙りこくる俺に、先輩がゆっくりとした口調で話しかけてくる。心なしか、いつもより声が優しい気がした。
「一人で悩んでいることが、二人だとあっさり解決したり、一人で悩んでいることを誰かに話したら、一緒に考えて解決の糸口が見つかる場合もある。だから」
そうして、今度はいつものように、有無を言わさない先輩らしい口調で、きっぱりと言った。
「私を頼りなさい。私を信用しなさい」
「先輩……」
「それとも、私じゃ頼りないかしら?」
そんなこと、ある訳ない。現状じゃ先輩が一番頼りがいがある。情けないけれど、不信感と猜疑心の中、誰かにすがりたい気持ちでいっぱいだった。そんな時に真っ先に浮かぶのが、世木積先輩の顔。
「なんでそんなに……俺を情けなくさせるんですか……」
「それでこそ畔よ」
震える俺の声に、先輩はあっけらかんと答えた。
先輩には、さっきの一言で俺が先輩を頼ることが伝わったらしい。
「どうしたの? 話してみなさい」
「実は……」
俺は先輩に全てを話した。不器用なりに一生懸命に、尾澤や少女のことや、永輝の話、そして日向のメモ帳のことなど、俺の考えも交えて必死で説明した。
先輩は途中質問などもせずに、ただ相槌だけを打って聞いてくれた。普段なら「もっと簡潔に話せないの?」とか「えっと、は要らない」とか細かい注意が飛ぶのだが、その時は先輩は何も言わずに聞いてくれていたのだ。
情けないが、俺は厳粛な先輩の優しさに触れ、胸が熱くなって目頭も熱くしていた。
「分かった」
全てを聞いた先輩は、まず一言だけそう言った。
「え?」
「現状では、まだ誰が悪いとも言えないわ。けど、尾澤さんとゴスファッションが対立していることだけは、はっきりしている。ならば、そのどちらも疑ってかかればいいだけのことよ」
日は浅いが、尾澤の協力者として名乗り出たのは先輩自身であるのに、その尾澤を今度は簡単に調査対象にしたことに、俺は素直に驚く。尾澤から見れば、裏切りとも言えるのだから。
「マジっすか……?」
「無意味な問いかけはしない」
「す、すんません。でもどちらもって……」
「調査なんて自分以外の者は全て疑ってかかるのが基本よ。間違ってたらすみませんでいい。その代わり疑ったからには徹底的に追究して、白黒はっきりさせること」
流石、無茶苦茶だ。俺は先輩の澱みのない言葉を聞きながら、この人は将来刑事か何かになるなと現状に無関係なことを考えてしまった。
「話を聞く限り、欠流とゴスファッションはさほど危険視する必要はないと思うわ。それよりも、私達に牙を剥く可能性のある尾澤さんと人形ね。どちらかが、もしくはどちらもが、牙を剥いている。ゴスファッションを斬り付けた奴と日向を殺した奴、同一とは限らないし。人外の力だとしても、何か理由があって姿を消した可能性もある」
尾澤は尾澤で人形に恨みがあり、人形は人形で尾澤に怨みがあるらしい。だが、現状では分からないことが多いのだ。前に進むしか、ない。
「先輩。その……判断材料になるか分かんないんですけど……」
「何?」
俺は一応、夢か幻覚か現実かつかないさきほどの心霊現象についても話した。
「……」
少し沈黙の時が続いた後、
「そうね……取り敢えず、欠流を呼び出してくれない?」
と唐突に言い出した。
「永輝を……?」
「ええ。それとさっきの話、美故兎にもしていい? あなたと欠流と美故兎と私……四人で話しましょう」
先輩が何を思ってこのような提案をしたのかは分からない。だが、先輩のことだ。何か思うところがあったのだろう。
「構いませんよ。じゃあ……いつものカフェでいいですか? 十三時くらいに。永輝を誘ってオーケー貰えたらまた連絡します」
「分かった」
俺達には、ミス研のことやその他諸々で話し合う時などにいつも利用している、行き付けのカフェがあった。常客相手に細々とやっている個人店だ。県道や国道から離れた住宅街の奥にあるため、ほとんど付近住民以外は知らず、今回のような利用には打って付けの場所だった。
「それじゃ」
通話が切れ、平穏が感じられる自室の静寂が訪れる。俺はそんな空間に、現状を白昼夢のように感じていた。