第二章 哀愁憂慮
「はぁ〜……」
次の日、机に突っ伏した俺は、教室で大きな溜息を漏らす。
「おす」
「……おう」
「何だよ、元気ねぇな。どうした?」
「んー……ちょっとな。それより、あのさ! 今日、永輝は!?」
俺が少し語気を荒げて訊くと、順は軽く教室を見回す。
「あ? そういや、まだ来てねぇな」
「……そっか」
「どうしたよ?」
「いや……」
俺が煮え切らない返事をすると、順は俺の顔をじっと見つめた後、徐に口を開く。
「お前、まさか……」
「へ?」
「あの噂はマジだったっつーことか!?」
「はい?」
「だから、お前と永輝が……」
順はそう言って、両手でハートを作ってみせた。……なんだそのめちゃくちゃニヤケた上目遣いは。
「ば、バカやろっ! アホか! あんなん誰かの妄想だ、も、う、そ、う!!」
「ま、妄想ならそんなに慌てる必要はないよなっ。慌てる必要はな?」
(くっ……こ、こいつ……)
その時、教室の扉が開いた。そちらを見遣った順がニヤーっとして、
「おっはよ〜ん、永輝!」
と女子のような茶目っ気のある挨拶をする。
(え!)
そちらを見遣ると確かに永輝で、彼女はいつもと何ら変わりない様子で、茶目っ気のある順の挨拶を緩く返した。
「おはよぉ〜」
だが次にチラッと俺の方を見ると無言のまま席につき、そっぽを向きながら
「……畔、おはよ」
と早口に素っ気ない挨拶をする。
(え、あれ……?)
何か怒らせるようなことをしたかと思い、一応モテ男とイケメンの部類に入る順に訊くと、冷ややかな目を向けられた。
「お前さ……そういうの鈍感って言うんだぜ? そういうの、男が察して気付いて接してやんなきゃ駄目だろ。男子力、低っ」
「わ、悪かったな!」
そうは返したが本当は返す言葉がない。でも少し落ち込む……。
それからはいつものように授業を受け、いつものように過ごしていたが、実は俺はずっとソワソワしていた。
授業中、チラチラと永輝を気にしていたが、彼女の方は別段、変わったところはなく、いつものように怠そうに、だが真面目に、他の生徒と同じように授業を受けていた。
順は昨夜のことを知らないので、俺が永輝を気にしてるのに気付き、授業中、ニヤニヤしながら度々ちょっかいを出してきたのだが。
そんな風に過ごしていたら、あっという間に一日が終わった。なんだかいつもよりどっと疲れたな……。俺は疲れきって帰宅した。
ミス研は特に進展はなく、そのまま数日が過ぎた。
――その数日の間に、俺はあの数学教師が入院したという話を聞いた。なんでも、建設現場の近くを通った時、鉄骨の落下事故が発生し、咄嗟にハンドルを切った教師は他車両との接触事故を起こしてしまったらしい。
そして聞いた話によると、鉄骨はきちんと点検した上で支えられていたのに、落ちるはずがなかったと専門家も首をひねっているのだとか。俺は素直に怪奇現象だと思った。
いつもの昼休み。昼食を購買で手早く済ませた俺は、部室に向かうことにして教室を出る。気になることがあったのだ。どうせミス研部員は部室に集まってるだろうから。
「ねえねえ」
その時、クラスメイトの女子から声を掛けられた。普段話すことのない相手であり、一体何の用なのかと少し不審に思ったが、答えはすぐに出た。
「あのめーっちゃ可愛い子が呼んでるけどぉ?」
その女子が指さす方を見ると、そこにはあのストーキング少女がにこやかに笑みを浮かべ手招きしながら立っているではないか。
(は……!?)
クラスメイト達の視線にさらされ、俺は少し困惑気味に早足で少女の方へ近寄る。
順などニヤニヤと笑いながら
「彼女かー?」
などと言っていた。暢気なものだ。
「おい……何やってんだよ!? そもそもお前、学校違うだろが! なんだ、その制服は!?」
俺は周囲の目を気にしながら、少女の耳元近くに少しだけ顔を近付けながら小声で囁くように問い質す。「ふふん、見給え可愛くないかね? このためだけにわざわざ用意したんだよ。この学校の制服は中々良いね可愛いデザインだ気に入った」
「用がないならとっとと帰ってくれ、視線が痛い」
「寂しいことを言うなよまあ寂しくはないが。私はきちんとした大事な用があってここに――」
話が長くなりそうなので、俺は言葉を遮って少女の手を掴むと、逃げるように教室を出て行った。
その際、聞こえてきた「ヒュ〜」という中学生レベルの連中の口笛を、なるべく気にしないようにして。
「どうしたのかね? 急に手なんか握ってこんなところに連れてきて私は彼氏は募集してないよ? そうか二人きりになりたかったのだね済まないね配慮が足りなかったよ。そうそう、この件が終わったらもうここには来ないだろうし詰まりこの制服はもう着ない訳で、だから写真を撮っておきたいなら今だよ。君が望むならこうしてポーズもとってあげよう感謝し給え」
取り敢えず人気が全くない廊下へ連れて来たが、何か盛大に勘違いした台詞を吐き――まあ本当に勘違いしてるのかは謎だが――少女は嗤う。
「大事な用があるんなら、とっととそれだけを話してくれないか。今から部室に行こうと思ってたんだ。貴重な休み時間を無駄にしたくない」
そう言うが、少女は話を聞かずにグラビアのポーズなんかをとり出したので、俺は頭を抱えて深く溜息を吐く。
まあ確かにグラビアのポーズをした少女の胸部は男として興味をそそられるものがあるが、今は一刻も早く立ち去って貰いたい。
「話、聞けよ」
「むう……つれないのだねまあいいが。本題に入ろうか」
頬を膨らませ、若干不満そうではあったが、用件を告げてくれるらしい。最初から本題だけを話してほしいものだ。
少女は真剣に、深刻な顔付きで、切り出す。
「君の彼女のことなんだが」
「俺、恋人いねえよ」
本題に入って一言で、俺は早速突っ込みを入れる。真剣な深刻な顔付きで何を言い出すかと思えば。何を勘違いしているのか分からないが、誰のことを言ってるのだろう。
「くふふ……ならば言い方を変えよう。欠流永輝くんについて、だが」
「は……!?」
汚いとでも言えばいいのか、邪悪に悪辣に三日月形の笑みを張り付け、怪しく妖艶に髪を耳にかけながら、少女は続ける。
「彼女のことは調べさせて貰った」
同じだ。この前の夜に会い、俺に言った時と、同じ。
「そうしたらね、いやはや、実に許し難い事態に陥っているみたいじゃないかい。ああ、悪かったね済まない最初に謝っておくよ。彼女の生活を探り、彼女の秘密を暴き、彼女の日々を見た。だから苦情やクレームや文句や不平や非難は甘んじること無く全面的に受け入れるよ? それだけの調査を私は行い、それはもう何から何まで赤裸々な彼女の総てを見たのだから。彼氏の君が怒るのも無理もない。まあ受け入れても改善を約束する訳では無いが」
何の悪びれもなく、後ろめたさなど皆無に、少女は公然とそう言った。
その長い台詞を聞き、俺は怒るよりも驚くよりも、寧ろ呆れた。救いがない、とはこういう人物のことを言うのかも知れない。
「……それでそれがどうしたんだ」
「おやおや随分と反応が薄いね。いいのかい? 君の大切な永輝くんは、“虐待”を受けていたのだよ?」
その言葉に、その台詞に、俺は少女への不審感や呆れなど即座に霧散し、かなり小柄な少女の両肩を掴んでいた。
「どういうことだ」
「女の子相手に乱暴にしないでくれ給えモテないよ。いや、彼女がいるのか。まあそれはさておき永輝くんについてだが、どうやら母親から虐待を受けていたみたいだね。調べた限りでは、服に隠れて見えないところを殴る蹴る、首を絞めるといったものが大半で、酷い時は頭を何度も壁に打ち付けるとかされていたみたいだよ。後は刃物で切り付けるとか、浴槽に頭を突っ込んだり出したりを繰り返すといった行為を受けていたようだ」
俺は頭を金槌で殴られたような衝撃を受けた。友達なのに、俺は何も知らず、何も気付けなかったんだ。
「極めつけが、酷い言葉の暴力。生まれてこなければよかった、生まなければよかったとかは頻繁に、酷いのはどうせ穢れてるんだから体でも売ればいいとか、クソはクソらしく道端で這いつくばってればいいとか、そのようなとんでもない発言をね。そんな日常で彼女はどんどん神経を、精神を磨り減らしていった」
(そんな……永輝……)
「ただ唯一、父親だけは庇ってくれてたみたいだが、逆にそれがまずかったのだよ。なんと母親は、母親と言うより“女”として生きているようだし母親と呼ぶ価値はないが“私の男まで誑かして”と女の醜い嫉妬をよりにもよって自分の娘にぶつけ――どうしようもなく恥ずかしい女だなこいつ。子供生むなよ。少し話が逸れたが、それで永輝くんへの虐待は更に酷くなった。だから永輝くんも庇わなくていいと言っていたみたいなのだが、如何せん、莫迦な父親を持ったもので、父親はその主張を無視して永輝くんを執拗に庇い続けたのだよ。しかもこの父親が頻りに“可哀想に可哀想に”と口にしていたらしくてね。それが逆に永輝くんを、精神的にどうしようもなく追い詰めていった」
「……」
俺は無言だった。何も、言えなかった。自分本位なようで、時に飄々と、時に常識的に、だるだるゆるゆるそこいらの学生と同じように生きているのだと思っていた。それが、こんな……。
「それと私が接触した感じでは、明るくて面白いいい子だったよ。但し、違和感を覚えたよ。確かにここに存在しているのに、まるでここに居ないかのような、ね。きっと精神的な辛さを、道化を演じ軽薄に笑う事で隠していたのだろうね」
少女は依然として笑みを崩さない。目を細め、口許を伸ばし吊り上げる。最悪だと思った。でもその最悪な嗤いは、何故かどうしようもなく、この少女に似合っていた。
「観察した感じでは、よく食べよく飲みよく笑う子だ。本当にいつも何か食べながらヘラヘラと笑っているのだね。私にはそれも不自然に見えたのだが、周りは鈍感というか無関心というか致命的というか、永輝くんのことを悩みなんてなさそうな奴とか、明るくて面白い奴とかしか見ていない。大体、辛いことや悲しいことがない人間なんて例外を除いてはいないだろうに、いつもそうなんてそれが真実や全てである訳がないのにね。周囲はその不自然さに気付けず気付こうともせず、“あいつでも悲しい時とか辛い時はある”といった風に考えられず考えようともしていない。まあ、世界などまだまだ見れるはずもない、他者の心中を考えることも難しい学生という幼さ故に仕方ないのだろうが」
言葉の砲弾が突き刺さる。その重さが胸にのし掛かる。俺は何も知らず笑っていた自分の弱さを嘆いた。
次に少女は何か思い出したかのようにポンと手を叩き、
「あ、ちなみに永輝くんが大食いなのはどう見ても精神的なストレスだよ。まあ太らないのは体質だろうね、私もそうだ」
などと宣った。自慢気に自信満々に、軽く小首を傾げて頬の辺りに片手を添え、にっこりと笑いながら。
私もそうだ、の部分は要らない。その、全国の女を敵に回すような台詞、要らない。
「まあそれはいいがここからが大事だよ崎米くん、沈鬱になっている暇はないのでよく聞き給え。欠流永輝はそれを“受け入れた”のだよ。自分は道化を演じて生きなければならず、自分の気持ちなど誰も考えてくれないような世界で生きているんだと、生きていかなければならないのだと。それが彼女の“精神的歪み”に拍車を掛けたのだろう。彼女は父親から与えられる言葉に追い詰められ、“自分は可哀想なんかじゃない”と思い込むことで精神的延命を図り、耐えていた。そう、彼女は耐えていたのだよ。私はその現状が許せない」
少女が、ここであの邪悪な笑みを消した。少女にしては珍しい――と言えるほどの付き合いもないのだが、無表情を浮かべる。
「――君はどうしたい?」
「……え」
唐突に訊かれ、固まる。少女の目が、顔が、空気が、貫く。鋭く、厳しく、俺を射抜く。
そうか。この少女は今、怒っているんだ。
全身から放たれるその鬼気に、圧倒される。
「君は、君の身近な女の子のこの現状に、どうしたい? この現状が関わる今回の人形の件を、どう思う?」
「俺、は……」
俺は少女に少なからず気圧されながらも、この人間離れしているような存在にようやく親しみを抱くことが出来た。
何か、少女は人が死んでも変わらずにあの性悪そうな笑みを浮かべているような、そんな人間に思えていた。失礼な話だが。だから俺は少女が怒っていることに、あんまりな永輝の現状に怒りを抱いていることに安心した。それ即ち悪い奴ではないと、当たり前だが少女は自分と同じただの人間だと、そう思えたのだ。
「俺は……永輝を救いたい。けど俺じゃ……」
俺が少し情けない声を出すと、少女はもう一度、笑った。
「何を言っているんだい?」
「え……?」
「私は、私の全尊厳をかけて君を救おうと告げただろう? ならば、永輝くんも同じ。君が私を必要とするのなら、私は決して君を裏切ったりしない」
甘美な誘惑。
巧妙な誘引。
「だから――私に委ね給え任せ給え」
少女が手を差し出す。俺は、導かれるように、惹かれるように、その白くて美しい手を――。
「崎米くん」
その時、鈴の鳴るような声が背から聞こえ、振り向くと見知った顔があった。
「尾澤?」
そこには、人形の件と関わりのある感情の全く読み取れない少女、尾澤廉華が立っていた。
「何してるの? 部外者は、追い出さないと」
「いや、そうなんだが――ってあれ……?」
そこで、少し疑問に思う。少女はこの学校の人間ではない。だが俺は決まって夜頃につき纏われていたので知っているが、尾澤は今来たというのに何故直ぐにこの学校の制服姿の少女が部外者だと分かったのだろう。まさか全校生徒の顔を全て覚えている訳でもあるまい。
「やあやあやあ会いたくない人物に会ってしまったよ久しぶりだね廉価くん」
「久しぶり、道玄。それと発音がおかしいから言わせて貰うけど、もし私の名前を値段が安いって意味の“廉価”って言ってるなら間違いだからね」
「何故それを……!」
二人が挨拶を交わす。よくよく考えれば、単に他校の知り合い同士だったか。……ただ、その空気が決して友好的ではないことが気になったが。一見、コントのように見えるので察知し難い。
(ってゆうか、え? 道玄? それがこいつの名前? どんな名前だよ、キラキラネームよりひでぇよ)
こんな状況であれだが、どう考えても女の子の名前としてはあれなので、親はいわゆるDQNと呼ばれる部類なのかと思った。
「じゃあ再会の挨拶も済んだし、不審者が入り込んでますって先生に言いに行くね」
無表情の中に微笑を浮かべて言う尾澤に、悪意を感じる。
「ちょっと待ち給え落ち着け行くな待て貴様。待てと言ってるだろコラいいから待て」
「口調が大変なことになってるぞ……」
「君も何か言い給え、私は決して不審者ではない」
「いや、他校の人間がこの学校の制服用意して入り込んでるとか不審者以外の何者でもないだろ」
正直、フォローのしようがない。
というか俺はさっきこんな怪しい奴の手を掴もうとしていたのだ。危ない危ない。気が緩んでいたみたいだ。というよりは少女の持つ“魔力”にやられてしまっただけかも知れない。
「心外だ慮外だ何を言うかね失敬な」
「間違ってないし。じゃあ待ってあげてたけど、そろそろ言いに行くね」
「む、むむ……くそぅ状況が好ましくない都合が悪い圧倒的に不利だ」
少女は難しい顔をすると、尾澤の方を一睨みした後、
「いいかい崎米くん、私だ私を頼り給え。永輝くんにも君にも、私が相応しい。選択肢を、分岐点を間違えるな致命的だよ」
とだけ俺に告げると、逃げるように去って行った。逃げるようにというか、逃げたのだけど。
小柄で華奢なので一見非力そうな女の子に見えるのだが、脚力はあるらしく疾風のように駆けて行った少女の背中を見送った後、俺は呆れて呟く。
「なんだったんだ……」
「崎米くん」
呼ばれて振り向くと、厳しい表情をした尾澤が、何か思案するように顎をさすりながらそこに居た。
「ん?」
「道玄と、知り合いなの?」
「知り合いっていうか……まあ知り合いではあるんだろうが、俺はあいつの名前すら知らなかったしな。向こうは俺の名前、知ってたみたいだが……」
「……彼女はね、危険だよ?」
温度が、ぐんと下がった気がした。空気が張り詰める。和風の美人と言える顔立ちの彼女は、俺にその人形のような黒い瞳を向け、告げた。
「あの少女はね、人の死をなんとも思わない人間よ」
決定的な、一言を。
「……本当なのか?」
「私が知る限りでは、ね」 尾澤はそう言って肩をすくめた。
安易で浅薄な考えかも知れないが、俺としては他校の名も知らなかった怪しげな少女より、同じ学校のこの尾澤という女の子の方が断然信用できる。
「あの少女の周りでは、よく人が死ぬ。けど彼女はそういった件に関わりながらにして、関わってない。当事者にして当事者でなく、被害者にも加害者にもならないポジション――傍観者として存在し続ける、イレギュラーな収集家」
「収集家?」
「たとえば……今、あなたの身に起きていることを小説にしたとしたら? ホラーにならない?」
「……あ」
「そう、道玄は他者の人生を“物語”と称し、それを個人的に蒐集している質の悪いコレクターなの」
肩にかかる髪を項の方にかき上げて、尾澤は続ける。
「そこで人が何を見て何を思い何が起こり、それによって何が変わり、変わったことによって何が生じ、変化がなければどうなり、どう生きてどう死ぬか、どう行動しどう締め括るか――登場人物が辿る過程、行き着く結末。それを見ている。誰かが死に、誰かが生き、安穏を抱くか快楽を抱くか悔恨を抱くか懺悔を抱くか恐怖を抱くか怨憎を抱くか。道玄にとって、それらは全て物語。生死も何も関係ないのよ。だってそれが、“ストーリー展開”なんだから」
なんて奴だ。俺は先ほど少女を悪い奴ではないと、自分と同じただの人間だと思ったことを後悔した。こんな最低最悪な奴の手を安易に取ろうとしてしまった自分を恥じた。きっと俺を騙そうとしていたに違いない。
ただ、怒っていた少女は、あんまりな永輝の現状に怒りを抱いていた少女は、本物だったような気がする。
惑わされているのか、何が真実なのか分からない。
「ただ、さっきの道玄の調べは本当よ」
「調べ……永輝のことか?」
「ええ。ミス研の方の調査と大差ないから」
「え……」
何気なく放たれた事実に、俺は一瞬フリーズした。ミス研部員は永輝を調べていたのか。何故だろう。意味が分からない。
「この際だから言うけど、私が部室を訪ねた日、世木積先輩はあなたに不信感を抱いたのね。具体的に言うと、挙動や声色から何か隠してるなって思ったらしいの」
「……」
俺は黙る。あの日、俺は登校中にそれらしき人形を見掛けたことを黙っていた。矢張り先輩は見抜いていたのか。
「それで、あなたを尾行した彼女は見たの。欠流永輝さんとのやり取りを。その前に道玄とあなたのやり取りも見ていたから、私はそれも聞いた。だから道玄がいつ崎米くんのもとへ勧誘に来るか窺っていたけれど、さっき見つけられてよかったわ」
俺は世木積先輩に救われたらしい。先輩が尾澤に伝えてくれていなければ、もしかしたら尾澤は今ここに居なかったかも知れない。尾澤が来てくれなければ、俺はあの少女の手をとってしまっていただろう。
それにしてもやり取りを見ていたということは、人形も目撃してこんなチャンスを逃すはずはない。あの人なら恐らく話も聞いていただろう。ということは声が聞こえる位置に居たということだ。盗み聞きにしたって尾行にしたって何れにせよ、あんなシンとした夜の住宅街で足音も気配も完璧に殺していたのか。どんな猛者だよ。
(いや、あの人なら普通に有り得るか……)
俺は改めて、自分があの鋭利で鋭敏な刀のような人物の傍らに身を置いていることを実感し、身震いした。
「……それで崎米くん。欠流さんのことだけど、彼女、非常に危険な状態よ」
「危険?」
ぴんと張り積めた空気を纏い、放たれた言葉に、俺は反応する。
「欠流さんは人形の呪いにかかってる。あなた見たんでしょう? まるで我が子のように人形を抱える異様な様子の彼女を……。このままじゃ彼女、何れ人でなくなるわ」
「なっ……!? で、でもそんなの……まだ分からないだろ?」
「……いいえ。私は強い霊力を持っているから霊視してみたんだけど、欠流さんは人形への同調率が極めて高いことが分かったの。現在、私含め尾澤の家系の者は総出動してるし、いくら強い力を持つ人形と言えど明らかに状況は好ましくない。味方がいて損はないでしょうしね」
「どうすればいいんだよ!?」
俺は思わず強い口調で尾澤に詰め寄ってしまう。
それでも尾澤は顔色一つ変えず、表情もなく自然体で冷静に言葉を返した。
「欠流さんの今の状態を見る限り完全に人形に取り込まれているように見える。……こんなこと言いたくないけど、あれだけ高い同調率じゃ最早、人形と同化したようなもの。その内、欠流さんから自我は失われ、人形の呪いによって他者を傷付ける傀儡と化すわ」
「そんな……」
じゃあどうすればいいんだ、と項垂れたところで最悪な想像が脳裏をよぎる。
「……まさか……永輝を……」
その先は言わずとも分かったのだろう。尾澤が徐に、少し大きめに頷いてみせた。強い、眼差しだった。
「嘘だろ……? 他に手段はないのかよ……!?」
まさか永輝が――今まで散々苦しんできた永輝が、死ななければいけないなんて、残酷すぎる。
「ふざけるな、俺は絶対反対だ! 他に方法を探す!」
「他に方法がないから涙を飲んで告げているの。辛いかも知れないけど……これが現実よ」
「まだ試してもいないだろうが! だったら駄目もとで試したって……助かる道を探したっていいだろっ!」
「冷静になって。現実を見て。そんなことをしていたら、逆にこちらが殲滅されるし、そうなればもうあの人形を止められる者はなくなる。あなたの勝手な意向で犠牲を増やすつもり?」
「それ、はっ……」
いつの間にか俺と尾澤は真っ向から対峙し、睨み合っていた。
しかし、相手が悪くないと分かっていても、思わず敵意にも似た感情で相手を鋭く睨みつける俺とは対照的に、尾澤はただ無表情に俺を見つめているだけだった。
しかも男の俺が女の尾澤に完全に気圧されていたし、精神的な面において彼女は俺を圧倒的に凌駕していた。
(くそ、なんなんだこいつ……)
「畔」
その時、背後から俺を呼ぶ声が聞こえ、振り向くと日向が仏頂面とも言えそうな無表情で立っていた。
「日向……」
「もう昼休み終わるぞ」
「ああ……」
不覚にも、助かったと思ってしまった。俺は仮にも男でありながら、尾澤から逃げたいと思ってしまったのだ。
日向は組んでいた腕を下ろし、尾澤を一瞥すると、彼女には何も言わずに俺を見た。
「教室、戻るぞ」
「おお」
日向と連れ立ってその場を離れる。その際、横目でチラリと尾澤を確認すると、彼女はじっと日向を見据えていた。
「お前……何を話していた?」
尾澤が見えなくなると、日向は俺の方を見ずに渋く低い声でそう尋ねてきた。確かにあの場には不穏な空気が流れていたし、俺も表情に出ていたのかも知れない。不審に思われても仕方ないか。
「いや……」
「……俺は」
日向が唐突に、それまでと空気を変えた。俺は思わず隣の彼を、身長差があるので見上げる形で見遣る。
「俺は、正直奴を信用しておらん」
「……尾澤を?」
日向が頷く。
「少しだが、さっきの話は聞いていた。どうにも不信感が拭えん。取り敢えず俺はミス研部員にも悟られぬよう、奴について探る。お前は、尾澤の言葉に惑わされずお前の好きなようにしろ」
彼は険しい顔をして、呟くように重低音の渋い声で口にする。
「……分かった」
俺が頷くと、日向はそのゴツくて大きな手で俺の肩をボスッと叩いてくれた。……少しだけ、勇気が湧いた。
「畔」
放課後。六限目の授業も終わり、弛緩した空気の中、他の多くの生徒達と同様に帰り支度をしていたら、声を掛けられた。
声で誰だか判ってしまったため振り向きたくないが、仕方なく振り向いて目線を逸らしながら返事をする。
「なんですか……世木積先輩」
「人形のこと、ずっと黙ってたわね」
腕を組み、鋭く厳しい視線を向けて言われる。
「……すんません」
「まあいいわ。今、あなた……」
そう言った先輩は珍しく口をつぐみ、鋭い目付きを少しだけ緩和させ、なんともいえない険しい顔をして俯いた。
「永輝のことなら……気にしなくていいですよ」
「……」
先輩は暫し黙ったままで、重い空気が流れた。
「これから部活あるから来なさい」
無言だった先輩は、逃れるように沈黙を破る。女子に対してこういう言い方はあれだが、らしくなかった。いつもはどんな状況状態だろうと関係なしに、厳しい言葉をぶつけてくる厳粛な先輩であるのに。
「……待って下さい。俺……」
「欠流のところへ行きたいんでしょう? 彼女を守るために。でも却って危険よ。いいから私と一緒に来なさい」
先輩は一方的にそう言って俺の手を取ると、強引に教室から連れ出す。
何も知らずそれを見ていた教室や廊下に居る連中から、冷やかしの声がかかったが、今はそれどころではなかったからどうでもよかった。
ただ、冷やかしていた連中は氷柱のような視線を先輩に向けられ、言語を崩壊させた後、震え上がっていたのだが。
(先輩の手、柔らかいな……)
俺は握ってくる手の温かさだけを感じていた――。
何か大きな変化もなく、鴉の鳴き声が廊下側から響いてくるだけの、夕暮れ。特別教室――二階の突き当たりに存在する、ミス研の部室。俺達はそこで屯していた。
「日向は?」
「家の事情があるらしく帰ったわ」
鶴羽の問いに、世木積先輩が答える。
日向……男で世木積先輩を欺くとは、何気凄いんだな。
「それで……」
「欠流永輝さんをどうするか、ですよね」
先輩がちらりと俺を気にして言い淀み、美故兎が先輩に問う。
「ええ。欠流は危険と判断できるわ。結論としては、畔には酷だけど、欠流をどうにかするしかないわね……」
「先輩」
俺は尋ねる。
「それは……つまり、どういうことですか?」
先輩が、黙る。険しい顔で、目を合わせようとしない。
「どういう結論になるんだ? 美故兎」
「……」
美故兎も俯いたまま何も答えない。
「なあ、鶴羽」
鶴羽こそ目を逸らしたりしなかったが、無表情にこちらを見つめているだけで、彼女も結局は無言だった。
「お昼休み、お話した通りよ」
鈴の鳴るように凛と澄んだ声が鼓膜を震わせる。当然ながら、彼女、尾澤廉華もこの場に居たのだ。
「それと、伝え忘れたけど恐らく彼女、崎米くんのこと好きよ?」
「は……?」
「だから、彼女、あなたを引き込みたがっているのよ。あなたも引き込まれて欠流さんと同様、傀儡になるか、殺されるかのどちらかでしょうね」
困惑、混乱。好きとは、あの“好き”だろうか。つまり人としてというか、友達などへの好きではなく、恋愛感情という意味なのだろうか。
(確かに順が、鈍感って言うんだぜとか、そういうの男が察して気付いて接してやんなきゃ駄目とか言ってたけど……本当なのか?)
でもこの前、順が色恋沙汰云々とか言ってた時、あいつ正気ですかとか言って怒ってなかったか?
「ちなみに横浜順くんから聞いたけど、この前教室で怒ってたのはきっと照れ隠しよ。聞いた話だと、欠流さんは怒ったけれど、あなたが“どうせならもっと現実味のある噂にしろ”って言った時に無言になってたそうじゃない。どう考えても気があるからでしょう」
考えを見透かしたようにそう言われた。矢張り俺は、世木積先輩の言ったように“見ただけで分かるような顔”をしているのだろうか。そして順の言った、男子力低いというのは真実であると改めて思い知らされた。
「崎米くんの答えがどうかは分からないけれど、取り敢えず私は欠流永輝さんに接触するわ」
「……本気ですか?」
あっけらかんと言い放つ尾澤に、世木積先輩が確認をとるように言う。尾澤はそんな先輩の目を真っ直ぐに見て、力強く頷いただけだった。
「ならばお供します」
「先輩!?」
俺は声を上げるが、精悍な顔付きをした先輩の眼は揺るぎなかった。この人はまるで探偵のように推理力と行動力があり、新聞記者のように頑固でしつこい。それに他者の意見に耳を傾けることはあっても、それを参考にどうするか決めるのは自分自身。最終的には自分自身なのだ。いつも「決断は自分自身で。選んだなら後悔もしないし決めたなら突き進むのみ」と言っているように。
(こうなったら……何を言っても聞かないだろうな)
そう察する。先輩はもう“決断”してしまったのだから。
「宜しいのですか? 下手をすればあなたは……」
「それでもいいです。ただ私は、自分で決めた道へ突き進むだけ」
「……分かりました」
二人の会話を聞いて、俺は以前、先輩が言っていたことを思い出した。
「自分に無理だと思ったら、大人しく退くことも大事。自分の力を過信しないこと。死んじゃ何もならないわ」
と……。
判断する力が大事だと、ちゃんと判断して時には退くという選択肢も必要だと。それを教えてくれた先輩が、ここまで突っ込んでいく理由はなんだ。何が先輩をここまで駆り立てるのだろう。
「部長」
その時、俺の背から声が響く。確かに美故兎の声であり、いつもの声色ではあるが僅かに力強さが漂っていた。
そうか。やっぱり……。
「私も、行きます!」
そう言った美故兎は、これまで見たことがないくらい真摯な面構えをして、いつものあのヘラヘラした変人の姿とはかけ離れていた。
先輩と同じ揺るぎない眼差し。そして恐れをなさない胆力。二人は俺と違って、オカルトやミステリーに関わっていく上で必要なものを全部持っていたんだ。
先輩は、美故兎をよく知っている。先輩に従って様々なミステリーを追究してきたこいつは、先輩を誰よりも慕うこいつは、こういう時は先輩と同じで誰よりも頑固になるってことを。
「……有難う」
だから世木積先輩は、そう言って微かに笑っただけであった。親が子供にしょうがないなと言うように、とても優しくて、何処か嬉しそうな眼差しだった。
「……」
鶴羽は、黙っていた。無言のまま無表情に口の前で手を組んで、ただじっと他の者を見つめている。
俺はその様子を見て、沈黙の拒絶と感じ取った。私はいかないと、雰囲気が訴えている。
だが見た感じ彼女からは怖じ気や生への執着は絶無に等しく、怯えている訳ではないことが窺えた。言ってしまえば、罠にはかからないとでも言うように、何か心配事を思案しているかのような空気だ。
世木積先輩はその様子を見てとり、
「じゃあ、明日にでも行きましょう」
と美故兎と尾澤の方を向いて言った。
「ええ」
「はい」
尾澤と美故兎が返事をし、今日の部活はこれで終わりという空気が流れるが、納得がいかない俺はその空気を無視して声を出す。
「待って下さい。先輩、俺は……?」
永輝との接触。なら俺が居た方がいいだろうに、先輩は俺にどうするか聞かなかった。鶴羽のように拒絶の意を全身から放っている訳でもなければ、美故兎のように同行の意を全霊で示している訳でもない、答えが分からない俺に。
「あんたは大人しくしてなさい。あんたが来たところで足手まといなだけよ。今日はそれをはっきり伝えるために呼んだの」
そして先輩から放たれた言葉は、俺の予想とは大きく離れた、突き放したようなものだった。
今まで曲がりなりにも友好関係を保っていたが、ここでそれが崩れたような気がした。初めての決裂を示す一言だと、俺はそう思ったのだ。
俺は要らないということなのか。確かに頼りないかも知れないが、そんな言い方はないんじゃないかと、怒りとも悲しみともつかない熱く込み上がる感情があった。
制服の裾をぎゅっと握り締める。
「……なら勝手にすればいいです」
先輩の言葉にまるで裏切られたような気持ちになり、感情的になってしまった俺は、圧し殺すような声でそう言った。心ならずも正反対の態度を取ってしまったのだ。
矢張り先輩のような人間には、俺など邪魔くさい厄介者でしかないのだろう。
もともと俺は帰宅部のつもりだったし、美故兎にあと一人入らないと廃部になると泣きつかれて渋々ミス研に入っただけだ。入ってからだって先輩に引っ張り回されて活動していただけ。だから最初から俺は向いてないんだ。他の部員とは違う。
鞄を背負いながら踵を返す俺の背に、
「畔」
という鶴羽の言葉がかかったが、先輩は平静に腕を組んだまま、それすらも
「放っておきなさい」
と言って止めた。
その態度に俺はなんだか、自分ですらよく分からない心の内を先輩に見透かされてるような気がして落ち着かなかった。