平穏のささやき
遠くの方から霧笛のような音が聞こえる。
栗橋友康はベッドの蒲団の中でもぞもぞと動いた。そして、睡眠不足で上手く覚醒しない頭を動かし、枕元の時計を手繰り寄せて時刻を見た。”まだ4時じゃねえかよ” とつぶやいた。
38時間連続でネットゲームをしていて、眠りについたのは2時間程前だ。それだけ熱中していても、ゲーム内の友康のアバターは強くなかった。敵を倒すよりゲーム内をウロついて、ゲーム情報を集める事に専念しているのだ。
友康はアバターを強くするより、誰も知らないような情報にアクセスするのを好んでいた。それをネット掲示板で自慢するのが生き甲斐なのだ。
しかし、気になるのは外で騒いでいる連中だ。
『……うっせえな』
友康は、頭をかきむしりながらベッドから起き上ると、部屋の窓辺の方に歩みよった。
夜中になると騒々しいバイクで走り回る連中が、まだ生息しているのには驚きだが、これはそれとは違う感じがする。
カーテンの隙間から外を見ると、日の出の時間まで、まだ間があるらしく外はまだまだ暗い。街路樹の間に見える街灯も、自身が立っている地面を照らし返しているだけだった。
カーテンを引き窓を開けてみると、聞こえていたのは霧笛ではなく、金管楽器をでたらめに吹いているような音だ。
「……なにそれ」
身体を乗り出して外を見廻してみたが、暗い空間が広がるばかりで、その不愉快な音の正体に繋がる手がかりは、見つからなかった。
『……しっかし下手くそなトランペットだな……をい』
自宅の周りには、起きている者も動く者もいない、住宅街はシンと静まり返っている。”誰もこの騒音に気が付かないのだろうか?”と、友康は不思議に思った。
夜の街を眺めているのは、どうやら友康だけのようだ。そしてその音は、闇夜全体が震えるような金属音を響かせ、暗い住宅街に浸透していくようだった。
しばらく夜空を眺めていたが諦めがついたのか、友康は外の寒さに身をぶるっと震わせた。
『もういいや、寝てしまえ』
あと数時間もしたら朝が来て、すでに日課になっている、”たまには部屋の外に出なさい”との母親の説教が待っている。毎日毎日飽きないものだ。息子の顔を見ると説教したがるのは母親の習性なのだろうか?
それまでは、例え数時間でも惰眠を貪る、心にそう決めた友康は布団の中に潜り込み頭からかぶった。
平日の朝の通勤ラッシュ、満員状態の乗客の中に大串はいた。大串は海外出張から先日帰国したばかりだった。
しかし出張先で、運悪くかかってしまった、風邪の症状がまるで治まらない。昨日まで微熱だったのに、時間の経過と供に上がってきている感じだし、なんといっても体中の関節が痛い。
『風邪じゃなくて、インフルエンザみたいだな、流行ってる言ってたし……』
インフルエンザが流行ってるせいか、周りもマスクをして咳き込んでいる乗客もチラホラと見かける。
出がけに風邪薬を飲んで来てはいるが、熱が収まる気配が無い。何より汗が止めどなく流れている。
『あぁぁ……不味いな……朝から会議があるのに……』
そんな事を考えていると、不意に電車内の風景が回転し始めた。
『えぇぇ! 事故!?』
目をつぶり、にぎり棒に縋り付き、必死に耐えようとする大串。うっすらと、目を開けると周りの乗客たちは、平気な顔をしている。電車の外に、目を向けると、車外の景色も普通に流れている。
『……ああ回転してるは俺かあ、熱ひどいもんなあ』
余りの高熱の為に三半規管がおかしくなったのであろう、大串は額に浮き出た汗を染みだらけのハンカチで拭った。
しかし、ホッとしたのも束の間、それまで止んでいた咳が酷くなり、やがて喉の奥が急に塞がれたかと思うと、大量の血液を吐き出し始めていた。マスクを取る暇が無かったので、マスクをしたまま吐血してしまい、スーツにもその飛沫が跳ねて来ている。
「……うぐっ ……げほげほ」
床に広がっていく鮮血と、自身の体にも血が飛び散り、凄惨な事件現場のようになってしまった。血塗れで尚且つ血だまりに佇む、冴えない中年男はフラフラと前後に揺れている。そんな、大串の様子に周りの乗客たちは、叫び声を上げながら遠退いていく。
もはや、捕まって立っている事も出来ず、床に膝を付き、周りの乗客たちに、哀願するように目を向けながら
『……す、すいません、どなたか会社に遅れそうだと連絡お願いします。』
声が出ないのに、口をパクパクさせながら、大串の思考はそこで途切れた。
『○×線内で発生いたしました急病人搬出の為。この電車は当駅にてしばらく停車させて頂きます。お忙しい中……』
電車の中で車掌のアナウンスを聞き流しながら、松畑隆二は手元の情報端末の操作に余念が無かった。
もうすぐ研究論文の発表会なのだ。何としても、論文を仕上げて発表会に間に合わせ、自分のウィルス疾患の研究を認めさせる。
そうすれば疾病センターの勤務医から、元の研究所に戻してもらえる。
自身の研究テーマである、ウィルス疾患の研究に使う検体を、自分で集めるため、博士号を取るついでに、医者の免許を取得したのだ。
だが、隆二は血が苦手だった、出血している人を見ていると、血の気が引いてしまう。しかし、人間関係の構築が苦手な隆二は、所属していた研究所の、下らない派閥闘争に巻き込まれてしまい。
関連機関である疾病センターの勤務医に、追いやられてしまっていた。
何ともやるせないが、研究者と言えども人間集団であるので、派閥が出来てしまうのは仕方がない。地味な研究成果より、声の大きい人が偉くなれるのだ。
隆二としては研究が続けられれば、世界の最果てでも構わないのだが、やはり専門機材が揃っている、研究所の方が遙かに効率は良い。疾病センターの片隅で、細々と研究を続けてはいるが、最先端の技術が無いのは行かんともしがたい。
何よりも苦手な血を見なくて済むし、何でも直ぐに訴えると喚く迷惑な患者もいない。
自分でも、医者に向いてないのは、判っているだけに勤務医は苦痛だった。それでも辞める訳には行かない、こんな自分でも必要とされていると、思っているからだ。
満員電車の中では、そこかしこで咳をする音が聞こてくる。今年のインフルエンザは、大流行する兆しが見えると、連日マスコミで話題になっていた。
『この研究を進めていれば、今のインフルエンザにも、少しはマシな対応が出来たのに……』
自分がしているマスクを少し直して、手元の情報端末をいじりながら、隆二は独り言をつぶやいた。
そして動かない電車にイライラしながら窓の外を見ると、救急車が赤いパトランプを光らせながら国道を疾走していた。
東京国立疾病対策センター(疾病センター)。
けたたましいサイレンを鳴らしながら、救急車がまたも重症の患者を運んでくる。ここに来る患者は、他所の病院では手の施しようがなく、ここが最後の綱として搬送されてくる。
「……またか、ここのところインフルエンザに、似た症状の重篤な患者が増えているけど?」
廊下で繰り広げられている喧噪を見ながら、救急処置室担当医の大場と、ウィルス対策室長の古田が話し合っていた。
「でも患者の治験サンプルからは、インフルエンザウィルスは見つからないんだよ」
古田が困った顔で答える。
「まだマスコミには、騒いで欲しくないので、伏せてはいるんだけど、この新種のインフルエンザもどきは、一度発症すると確実に死んでしまう。しかも伝染性が異常に高く、有効な治療方法が、まだ見つかってはいないんだ」
大場は疲れた表情で続けて言った。
「唯一、確実なのは患者を発見しだい、隔離・保護することだ。そうすれば、他に感染が広がるのを、抑えることが出来る。インフルエンザの症状に似ているけど、高熱を出した後に、全身が痙攣を起こして、やがて体中の穴という穴から大出血を起こして絶命してしまう」
大場は疲労が貯まっているのか、目頭を揉みながら説明している。
「……エボラ出血熱みたいですね。」
古田が至極当然のように、エボラ出血熱の事を口にした。ウィルス研究者ならば症状を聞けば、真っ先に思い至る病名だ。
「それも、真っ先に疑って調べてみたんだが、検体の中からは見つからない。もちろん他の出血熱も調べたんだが、既知のウィルスは見つかってはいないんだ」
大場は伝手を頼りに、あちこちの研究機関に連絡してみたが、これと言った有力な情報が得られなかった。
「WHO(世界保健機関)やCDC(アメリカ疾病管理予防センター)から情報はないんですか?」
今はインターネットの発達で、瞬時に情報の伝達・拡散が為されている、それでもこの病気の情報が見つからないらしい。
「もちろん早い段階で、問い合わせているんだが、あちこちの国で発生しているらしくて、なにも見つからないと言って来ている」
感染経路を調べようにも病気の発症が判ると、すでに危篤状態になっている事も多く、経路を辿れないでいる。そしてもたついている間に爆発的な流行を見せ始めているのだ。そう、日本は初動で取り返しのつかない失敗をしてしまったのだ。
「世界中……ですか……もうパンデミック(汎発流行)ですね」
古田は既に連絡が途絶した国もあるらしいとの噂を耳にしている。
「ああ、航空機の発達で、伝染病が伝播する速度は物凄く早い、しかもこの伝染病は致命的なんだが、我らが政府はまだ何もしてないんだがね」
大場が皮肉交じりに言った。彼としては、国内のすべての交通網を、止めて欲しいと願っているのだ。
「対策会議を、いっぱい作ってやってるみたいですよ。役人たちは会議でどうどう廻りの議論をやってると、仕事したつもりになれるんですよ」
古田が苦笑しながら、役人の事なかれ体質を揶揄していた。
「会議で病気が治る訳ないのに……底抜けの馬鹿どもめ」
大場はすでに止めて久しいタバコが吸いたくなった。健康の為に禁煙していたのだが、もはや意味が無いように思えてきたからだ。
「危機を察知すると地面に掘った穴に頭を突っ込んで、隠れた気になっているダチョウみたいですね……」
2人とも政府の対策の遅さを、溜め息交じりに談笑していた。
その2人の横の廊下を、小走りで駆け抜けて行く看護師たち。また急患が運び込まれたらしい。その内の一人が咳をしているのを、2人は気が付かなかった。
富士山の裾野に広がる陸上自衛隊の演習場。
その片隅で塹壕を掘り下げながら、前原達也はぼやいていた。
「色々な免許を取得できると聞いてたんだがな…… やってることは穴掘りばかりだな」
入隊する前までは屈強な男集団の、厳しい訓練に明け暮れる毎日を想像していたのだが、実際にやっていることは草刈り・駆け足・アイロン掛け・靴磨きみたいな地味な事ばかり。たまに今日みたいな戦闘訓練と称しての穴掘りだ。
「たまには鉄砲でも撃たしてくんないかな……」
しかし『たまに撃つ、たまが無いのが、たまにキズ』と揶揄されるように、予算の関係で末端の隊員に実弾を撃つ機会は、あまり与えられないのが現在の自衛隊の実情だ。大規模な災害が起きると、真っ先に投入され、力仕事全般が任される。その為の基礎体力作りが、自衛隊の主な仕事とされているような訓練だった。
「まあ飯は美味いし、腹一杯食わしてくれるから良いけどな」
手先が不器用で、取り立てて成績も良くなく、折からの就職難で達也は自衛隊に入隊していた。ここでさまざまな資格を取得して、次の仕事探しを有利にするためだ。
母子家庭育ちで、まだ学生の妹たちもいる。自分の道は自分で、切り開いていくしかない達也には、他に選択する余地はなかったのだ。自衛隊なら衣食住が保障されている分、月々の懐具合に余裕が出来るので、母親へ仕送りをして助けてやれる。
首筋を伝う汗を拭いながら、もうすぐ妹の誕生日の事を考えていた。今年は何をプレゼントしてやろうかと、無邪気に喜ぶ妹の顔を、思い出しニヤケてしまった。
「なにニヤケているんですか?」
隣の塹壕を掘っていた東雲隊員がニヤニヤしながら達也に聞いてきた。
「もうすぐ妹の誕生日なんだよ」
達也はスコップで土をかきだしながら言った。
「あっ、プレゼントを何にするか考えてたんですね?」
東雲隊員がスコップに手をかけたまま言ってきた。
「そうなんだ、そういえば春物のポーチが、欲しいって言ってたっけ……でも、俺が選ぶとセンスが悪いって怒るんだよなあ……」
達也は手を止めて考え込むように空を見上げた。
「じゃあWAC(女性陸上自衛官)にアドバイスくれって言えばいいじゃないですか、話だすきっかけにもなりますからねぇ」
東雲隊員が羨ましそうに言ってくる、これは後で付いて来るに違いない、達也は確信したがWACに話しかけるきっかけが出来て嬉しそうだった。
見上げていた空に一筋の飛行機雲が西へ延びいくのが見えた。