プロローグ
近年、成長著しい某国。
激増する電力需要に答える為、石炭を主力とする前近代的な火力発電所が昼夜を問わず黒煙を吐き出している。そして僅かな利益を確保する為、環境を無視した化学処理を行う工場群。資源を使う割には生産性の上がらない工場は、その売り上げを増やすためにさらに生産に力を入れていた。それらの化学工場から排出される廃液は、適切な処理を望むべくもなくそのまま大地を流れる河川に排出されていた。
この国では、工場の汚染廃液で様々な色をする河が国中に現れているという。雑多な汚染物質を投げ込まれた河川の色は、毒々しい色となりこの国の大地を汚し続ける。
国家環境保護局も事態は判っているが、当局の役人たちは賄賂を集めるのに忙しい。せいぜいとかげのしっぽ代わりに、工場責任者らしき人物(検査前日に急に決まるしたっぱ社員)を逮捕するだけでお茶を濁している。なぜなら環境保護では儲けにならないからだ。
そんな河川の中ほどを、豚の死骸が流れていく。
豚の伝染病で死んだのであろう、おびただしい量の死骸が川を埋め尽くしている。普通の国なら、焼却するか土の中に埋めて処分するのだが、この国ではそんなコストを掛けることはしない。自分の目の前から無くなれば、処分は完了した気になるからだ。だから川に捨ててしまう、下流の人間が困ったところで、自分の儲けには関係ない事なのだ。
昔、病死した豚を触ったり食べたりしたことで数百以上の人が感染し、少なくない人数が死亡したと言われる、ブタ連鎖球菌による感染症事件を思い出し、豚の死骸を見た人々は眉を潜めるが、それでも病死豚の肉が市場に出回らないだけマシだなとため息を付いていた。
「色々とダメ過ぎだな……この国は……」
通りすがりの会社員風の男は、そうつぶやいて足早に通り過ぎた。そう自分の目に入らなければ、その問題から逃げられると思っている人が多いのだ。
食品工場もまた悲惨だった。衛生事情に無関心な作業員は取り扱いが雑だ。雑に取り扱われる食品には数多くの細菌やウィルスが想像通りにうようよ繁殖している。
そういった食品は、そのままでは出荷できるはずもなく、最強の殺虫剤・抗菌剤・消毒薬などを惜しみなく使用する。もちろん取り扱い説明書など読まないし関心もない。
他人の健康を気遣っても、お金持ちにはなれないからだ。大量に使えば薬が効いているように思えてしまうのでビックリする量を使う。
それ自体食べられたものではないが、食品衛生の問題点はその先にある。現在、存在する最強の薬をかけることによって、異常な速度で薬品耐性菌やスーパーウィルスが出現してしまう頻度が高くなるという点にある。人類はただでさえ、病原菌やウィルスの進化と治療方法の追いかけっこが劣性な立場であるのに、これは非常に恐ろしい事だ。
しかし、赤ん坊が飲むと判っているのに、粉ミルクに毒物を混入させるぐらい平気でやってしまう国民性を持つ国だ。その薬ですら怪しいのかも知れない。
例え病気になって医者にかかっても安心は出来ない。この国の医師免許は”購入”することが可能だからだ。だから本来なら医者の資格も資質も無い人物が医者になっている事が良くある。
だから、この国の金持ちは外国に治療に向かう、自国の医者も薬も信用出来ないからだ。
この国の人々が如何に他人を騙し、小銭を稼いで外国に移住する事しか関心がないかを物語る話だ。
そんな国の一角に周りを汚染物質を掃き続ける工場と、時代遅れの石炭火力発電所に囲まれた農村地帯がある。
だが工場などが、地下水を無分別に汲み上げてしまうので、農地に巻く井戸水は常に不足している。新たな井戸を掘るには役人に賄賂を渡さないと、なかなか申請が通らないし、たとえ通っても違う賄賂が必要になるのだ。明日、食べるものにも苦労している貧農の村では無理な話だ。
だから、川から採水をする。汚染処理をしていない工場排水が流されている水を採水して使わざるえない事になるのだ。
これではまともな作物が育つ訳が無い。それでもこの国の農民には、移動する自由も権利も知識も無いので、この土地にしがみ付いて生きてゆくしかないのだ。もちろん碌な収穫物が出来ない、この農村はこの国ではありふれた一般的な農村だ。
ある時、その貧相な畑を耕す一人の農夫が畑の中で倒れた。以前から具合が悪かったのであろうが、貧農故医者にかかれず薬も無い中で無理が祟ったのだろう。酷い高熱でひとりで歩く事も、ままならないようになっていた。農夫の妻に支えられて、自宅に戻ったが意識が朦朧としている。熱だけでなく関節も痛い様で顔が苦痛で歪んでいた。
最初は発熱の為に痙攣するだけだったが、やがて口・鼻・目・耳など全身から血液が流れはじめた。
驚愕する家族であったが、どうしてやることも出来ない。そして、心臓の動きに合わせて襲ってくる激痛に農夫は顔を歪め、その苦痛に叫び声をあげ続ける。
しかし、ここは都市から遠く離れた貧しい農村にすぎず、医者の往診などは望めないし、都会へ連れて行く手立てが無い。救急車はある程度の金を見せないと来てくれないし、万が一医者に連れて行っても、まずは治療費の交渉からはいらねばならず、貧しい農夫の家族には無理な相談だった。
農夫の家族らは、その人生のほとんどを苦悩と貧困で過ごした農夫の傍に居てやり、ただ汗を拭いて祈ることしか出来なかった。
夜明け前に農夫は静かになり、家族たちの懸命な祈りは必要が無くなった。残された家族は、異様に軽くなった農夫の遺体を、村人達の手を借りて村の共同墓地に埋葬した。この村では病気にかかると治る事が少ない。
これもその一つなのだと、村人たちは諦めていた。
村の役人には、病気で死んだ事のみを伝え、余計な事には口をつぐんだ。ヘタな事を言うと訳の判らない賄賂を要求されるからだ。それで病気の発見が遅れても仕方が無い。自分たちの利益にはならないからだった。
夫の死に憔悴している農夫の妻は、自分が微熱を出し始めているのを、まだ気づいていなかった。