○彼方への扉 前
短編って難しい。
また少し長くなったので、前後編としました。
恋愛ものにしたかったけど、そこまで行こうとすると長々と……。
なので、恋愛でもコメディでもシリアスでもなし。
なんなんだ、この話…(笑)
ではでは、気長に読める方はどーぞ。
『彼方への扉』前編です。
これから私が話すのは、とあるデパ地下の青果売場で働く21歳の女の子、加藤夏希の夏の日の、とある出来事の話である。
加藤夏希はこの日、ある重要な用事があった。そのため前々からシフト(この会社は休みがシフト制である)で休み希望を出していた。
加藤夏希がこの会社に就職してまだ1年と3ヶ月。一番若く、勤続年数が低いためかあまり希望通りの休みを取れたことはない。加藤夏希自身それを知ってか、いつも休み希望は適当に書いて済ませていた。
だがこの日。
8月24日はどうしても休みが欲しかった加藤夏希は、シフトを作成する31歳未婚の先輩に24日は大事な用事があるので必ず休みにして下さいと頼んでおいた。
そうしてそれは叶った。
もし休みにならなかったら仮病でも使ってやる、と考えていたらしい。
何故そこまでしてこの日、8月24日に休みを取りたかったのか。大事な用事とはなんなのか。それを知っているのは、加藤夏希自身と私だけだった。
加藤夏希はこの日、朝7時に起床した。本来なら仕事が休みの日は9時頃までは布団の中でごろごろしている加藤夏希が休みの日に朝早く起床。それは大事な用事があるから。
母親はすでに起きていて溜まっていた茶碗を洗っていた。
「おはよ、夏希。休みなのに早いわねぇ」
「うん。まぁ…ちょっとね」
加藤夏希はリビングのテーブルに置いてある食パンを1枚トースターに入れ電源を入れる。朝はいつもご飯ではなくパンなのだ。
「あ、私のも入れといて」
母親のその言葉に加藤夏希はもう一枚食パンをトースターに入れた。焼けるまでの数分の間に、パジャマから着替えるため素早く自分の部屋へと戻る。
昨日の夜、布団脇に事前に用意しておいた着なれたジーンズと黒のTシャツ、お気に入りの薄手のパーカーを羽織りまたリビングへと戻る。
ちょうど食パンが焼けたらしく、トースターのチンッという軽い音が聞こえた。
加藤夏希は焼けたトースト2枚を取りだしテーブルに持って行き座る。1枚にマーガリン、もう1枚にマーガリンとイチゴジャムを塗り、マーガリンだけを塗った方を口に入れテレビをつけた。いつもは見られない時間帯の朝のニュース番組を見ながら、トーストを食べる。
「コーヒー飲む?」
母親のその声に是と答え、コーヒーを一口飲み一息つく。
「で、どこに行くの?」
「んー……東海ビル」
「東海ビル?何しに?」
「うん、まぁちょっと」
言葉を濁す加藤夏希に、母親はそれ以上突っ込む事はせず、自分の分のイチゴジャムが塗られたトーストを口に入れた。
東海駅ビル。
百貨店をはじめ、各種様々な店舗や企業のオフィス、ホテルなどが入っていて東海駅にあるかなり大きな建物である。
そのビルの4階の南広場。
加藤夏希はそこにいた。時間は午前8時15分。加藤夏希以外にも大勢の人がそこには集まり、広場はちょっとしたイベント会場状態になっていた。
それもその筈。
ここでは正にその『イベント』というものが開催されようとしていたのだから。
「10時から始まります『相田月々 コミックス【彼方への扉】10巻発売記念サイン会』にお集まりの皆様。こちらで整理券をお配りしますのでお集まり下さい」
広場真ん中辺りでスーツ姿の若い男性が拡声器で群衆に話しかける。その声を聞いた人々はぱらぱらとそちらの方へ移動を開始した。
加藤夏希もそれに続く。
相田月々(あいだつきづき)。
少女漫画家。デビューより3作品目である『彼方への扉』が大ヒットし、コミックス単行本10巻発売とともに今回のサイン会がここ東海ビルにて開かれる事となった。『彼方への扉』とは、主人公の男子高校生浜岡彼方の元へ未来から女の子がやってくるという一般的ラブコメディ。読者層は主に中学生から高校生の女子であったが、本誌である『月刊らいおん』で未来から来た女の子が実は主人公である浜岡彼方の娘だった事が判明してからは20代30代の若者層にも人気が出てきたようである。
加藤夏希もその一人で、単行本自体は前から買っていたものの本誌は読んでいなく、そこまでの思い入れは無かったのだが、主人公彼方の彼女候補No.1であった未来から来た女の子、実空が彼方の娘であった事が単行本8巻で発覚。
そこからの恋愛模様のどんでん返しぐあいが加藤夏希のツボにはまり、作家である相田月々のサイン会に来るまでになったのだ。
只今時刻は午前8時45分。
サイン会が始まる10時までは、まだ1時間以上あるにも関わらず会場である広場に集まっている人数は裕に50人は越えていた。
加藤夏希は整理券を貰った後、残りの時間を広場にある色とりどりの綺麗な花壇を眺めたり、ビル内にある喫茶店で時間を潰したりした。
午前10時、約30分前。
加藤夏希が4階南広場に戻るとそこには長テーブルに置かれた沢山の漫画本。『彼方への扉』の最新刊であると思われる物と、椅子が置かれている所にサインペンが3本置かれていた。きっとこの椅子に相田月々が座ってサインするのだろう。
広場には既に40人ぐらいの人が集まっており、長テーブルから少し離れた所ではすでに隊列を組んでいる。
長テーブルと、この南広場のシンボルである一本木を挟んで反対側には『彼方への扉』の既存巻が積んであるテーブルがあり、そこにはこのイベントのために描きおろされたのであろう主人公彼方とその娘実空が描かれたポスターが飾られていた。
数名の女の子達がそのポスターを携帯で撮っているのを見て、加藤夏希は自身の携帯をポケットから取りだし、ポスターから近すぎず遠すぎずの所で1枚写真を撮った後、隊列に加わった。
午前10時。
時間に押すことなく始まったサイン会は滞りなく進み、加藤夏希は『彼方への扉』の作者である相田月々からサイン本を1冊、そして観賞用としてもう1冊を購入した。サイン本は勿論保存用である。
「ふふふ…今回の表紙、さすが月々さん。記念すべき10巻って事で気合いが入ってるわねぇ」
10巻の表紙には主人公である彼方と、その妹である花音。そして花音のクラスメイトの遼介が、青色を基調とした色彩で幻想的に描かれていてとても綺麗だ。
観賞用である方の1冊の表紙をじっくり眺めた後、加藤夏希はソレを鞄にしまった。保存用のサイン本は既に鞄の中だ。
只今午前10時40分。
広場にはまだサイン本待ちの人や、既存巻が置いてあるテーブルの周りに群がる者、彼方と実空のポスターをバックに写真を撮る人、何とはなしにその場に残り談笑する人など様々な人がまだこの場に留まっていた。
加藤夏希も少し広場内をぶらぶらし、遠めからもう一度相田月々を見て満足し帰ることにした。
広場の出入口に向かい、時間を確認する。午前11時05分。帰る頃にはお昼時になる。家に何か食べるものはあっただろうか。コンビニで何か買っていった方がいいだろうか。カップラーメンでもいいけど、ご飯ものが食べたい気分かも。
そんな事を考えていたからだろうか。加藤夏希は向こうから走ってきた少女に思いっきり正面衝突された。
「うわっ!!」
「きゃっ!!」
因みに「うわっ!!」の方が加藤夏希である。
「す、すみません!ちゃんと前見てなくて!!大丈夫ですか!?」
「いや…大丈夫、大丈夫。そっちは大丈夫ですか?」
「あ、はい。大丈夫です。すみませんでした、急いでて…」
「あー、いえ。大丈夫ですので。じゃあ、私はこれで」
少し人見知りの気がある加藤夏希は、ぶつかってきた少女が大丈夫そうなのを見てそうそうに立ち去ろうとした。だが、何故かその少女に腕を掴まれる。
少女は加藤夏希の顔をじっと見て、びっくりした様な顔で口を開いた。
「あ、あの!もしかして中原夏希さんですか?」
中原夏希?
名前は確かに夏希だが、苗字は中原ではない。母親の旧姓も中原ではなく山下だったはずだし。
そう思い、少女に違いますと言うと少女は腕から手を離した。加藤夏希は軽く会釈をし少女に背を向ける。何なんだ?と疑問に思いながら歩きだす。後ろから少女の「……そうか…旧姓……」という小さな声が聞こえた気がした。
「あのっ!!加藤夏希さんですか!」
またもや腕を掴まれそちらの方を振り返ると、そこには真剣な顔をした少女がこちらをじっと見ていた。
「……はぁ」
気のないため息の様な返事をした後、加藤夏希は後悔した。違う人のフリをした方が良かったかも、と。
「良かった…本当に会えるなんて…!私、貴方の娘です!」
みょうちきりんな事を口走った少女に加藤夏希はジト目で「は?」と返事を返す。
これが加藤夏希と、少女中原綾乃が初めて出逢った夏の日の出来事。
この時の事を母は私が高校生になる頃まで一度も話してはくれなかった。
私、中原綾乃はこの日、若い頃の自分の母親と対面するという不思議な体験をする事になったのだった。