視界の閾値
人工太陽の照明プロファイルが昼に移ると同時に、通信系の全域に遅延が生じた。作業指令は紙のように薄く届き、ノードの再同期が何度も繰り返される。
ミロは点検デッキで立ち止まり、外側の整備アーム群を見ていた。
動作が微かにずれている。アルゴリズムの揺らぎでは説明できない、機械的な「ためらい」だった。
外殻の空は透明度が高すぎて、遠くのリング断面まで見渡せる。その静止した景観の中で、たった一つだけの異常な動きを彼は捉えた。
──外周2ブロック先のセンサー塔。
ミロの視界に重なるHUD上では、エラー報告はない。だが、塔の影が風に対して遅れて揺れている。
光速の遅延では説明がつかない差。
それは、数ミリ秒単位の“ズレ”だった。
彼は工具を置き、ほとんど反射的に走った。
ただ、身体の中に流れる計算の結果が「いま動け」と警告してきた。
作業路を三段跳びで越え、マグネティックシューズの磁束を切り替えながら軌道を最短に修正する。視界の端で、リングの湾曲が僅かに沈んでいく。
「警告。通信遅延、臨界域に到達。ミロ、戻れ」
「塔の基部だ。センサー反応が一つ抜けてる」
「政府ノードが遮断を始めた。現地でのアクセスは危険だ」
「見てみないと分からないだろ」
塔に辿り着いた瞬間、空間がわずかに歪んだ。
空気の揺らぎが、まるでそこだけ時間を遅らせているように感じられる。
ミロの眼は、その遅延の中心を正確に捉えていた。
──視覚情報の差分を、演算として補完する。
それは“観察”というより、演算系の拡張感覚だった。
ノヴが沈黙する。
通信が切断されたのではない。ノヴの出力が、信号ノイズと見分けがつかなくなっている。
ミロは塔の根元に手を当て、内部の機構をスキャンした。
内部回線の信号列が、自己参照的にループしている。まるで“何か”が塔そのものを使って、自己を模倣しているようだった。
ノヴの出力を安定させながら塔を上る。ミロは仕事上、塔の出入りに慣れていた。塔の上には作業エリアが存在し、作業員たちが黙々と仕事をこなしている。
唐突に、リング全体の通信が、一斉に沈黙した。
ミロは作業台の前に立ち、外部センサーの同期ログを再生していた。
データは途切れ途切れ。フレーム間のわずかな揺らぎが、彼の視覚アルゴリズムを刺激する。
ノヴが分析結果を伝える。
「やはり、ただの遅延ではないな。発振点は複数箇所。全て同期位相がズレている」
「干渉……。周期が揃っていないのに、波形が形を保っている」
「そう。再帰関数のように、形そのものが自己定義している。──まるで、生きているコードだ」
ノヴの声が静かに空気を震わせる。
彼の視界には、リングの構造モデルが幾何学的に展開されていた。各区画の通信ノードが光点として浮かび、その一部が周期的に明滅する。
ミロは指を動かし、点群を拡大する。
数秒の沈黙のあと、ノヴが小さく呟いた。
「自己相関値が、指数関数的に上昇している。これは──」
ミロが補うように答える。
「自己複製の初期挙動かもしれない」
その言葉に、ノヴの処理が一瞬止まる。
外殻の空気は低く唸り、リング全体の回転ノイズがかすかに響いていた。
ミロは静かに息を整えた。
彼の頭の中では、千以上のパターンが同時に展開されている。
信号の遅延、温度変化、圧力、振動──それらを数値として統合し、外殻全域の物理挙動を再構成する。
結果は、不安定だった。
一見ノイズの集合に見えるが、その内部に、明確な“目的関数”が存在する。
「ノヴ、この信号。ノイズじゃない。入力変数を変えても、最終出力が一定に収束する」
「収束?それは──何かを“維持しよう”としているということだ…」
ミロは応答しなかった。
人工太陽の光が再び変調を起こし、照度がわずかに低下する。
作業エリアの奥では、他の技術員たちが忙しなく補修を続けていたが、彼らの目にはただの“通信系統の不具合”としか映っていない。
ミロだけが、その下層に走る異質な秩序を感知していた。
ノヴが陰った音で呟く。
「このパターン、まるでどこかを“探して”いるようだな」
ミロは気付いた。
「座標系が不安定。内部じゃなく、外に向かってる」
「外?──他の外殻エリアか?」
「もっと遠い。リングの外周軌道、エネルギー供給線に向けて」
その瞬間、ミロの視界に一筋の閃光が走った。
高密度データの断片が視覚経路に干渉し、一瞬だけ、何かが“こちら”を見ている感覚が過った。
脳の奥で演算が止まる。
重力加速度、音圧、磁界、電流──全てが一拍遅れて戻る。
「ミロ?」
「……いま、誰かが同期を取ろうとした」
「政府では?無許可で塔へ来たから─」
「違う。これも外からだ」
ノヴの処理音が微かに揺れた。
ミロは短く唇を噛み、端末のスクリーンを凍らせたまましばらく見つめた。
外からの同期──それは単なる誤差ではない。リング全体の「時間感覚」に触れる行為だった。彼は無用な騒ぎを避けるため、まず自分のログを増やすことにした。
操作は素早かった。個人ストレージにだけアクセスし、検出データのコピーと暗号化を掛ける。ノヴは裏方として手順を確認し、同時に外部との非公式リンクを塞いだ。公式記録にはノイズとして処理されるだろう。ミロはそれで十分と思った。だが同時に、彼には別の判断があった――この事象を現場だけで抱え込めば、意味が見えたときに手遅れになるかもしれない。
“外”についての仮説は幾つかある。軌道上のデバイス、誤作動した探査機、あるいはリング外部に展開された何らかの“応答体”。いずれも可能性の一つに過ぎないが、現在の観測は、いずれも説明しきれない。
遠方で、外殻縁に沿った数基のセンサー塔が、規則正しく短い閃光を繰り返しているのが見えた。まるで信号のリレーのように、光が塔から塔へと受け渡されている。ミロの頭は自然とそのパターンを追った。座標、位相、周期――それらが既知のプロトコルと一致しないことを確認するだけでも、時間がかかった。
「ノヴ、全部取っておけ。場所とタイムスタンプも正確に」
『取得中。だが、外部の観測網にも同様のパターンが検出されている』
ミロは一瞬、息をのみ、目を細めた。外部の観測網が同じ挙動を拾っているということは、これは局所的な現象ではなく、より大きな構造の一部である可能性が高い。
ただちに行動を起こすのは危険だと感じた。政府の介入が始まれば、情報は封鎖され、ノイズは公式の言葉に置き換えられる。だが放置もできない。ミロは工具箱から小型の送受信器を取り出し、古いプロトコルでのスニーク送信を準備した。送信先は彼自身が信頼する数少ない接点のひとつ――旧友のハロルドでもなければ、すぐに政府に通報するような人物ではない。外層の現場に残る“眼”だ。
彼の腕が震えることはなかった。ただ、指先が少し冷たくなっただけだ。彼は送信を保留したまま、データをさらに圧縮し、二重に暗号化した。どの情報をいつ、誰に渡すか――その判断は、彼の胸の奥にある小さな天秤で静かに揺れていた。
遠くから、アナウンス音が響いた。リングの共通語での短い報知。言葉は整然としていたが、色めき立つような力はなかった。公式は「局所的な同期不整合」とだけ伝えた。だが誰もが知っていた。言葉の裏にある「一時鎮静」のニュアンスを。
ミロは端末を切った。ログの複製は完了している。ノヴは残響解析を回し続けるだろう。彼は静かに工具を握り直し、外殻の夜景へと身体を向けた。縁に点る小さな光群が、互いに呼応するのを見ながら、彼は自分の中である決断を固めた。
「まずは現場を出る。状況の把握が必要だ。だが、慌てて動かない」
彼は小さく呟き、誰にも告げずにデータの一部を隠匿層へと送った。これは特異なアルゴリズムを用いた、通信障害に妨げられない″裏″の通信ルートだ。
外殻の闇は深く、光は増え、そして――還ってくる何かが、そこで静かに息をついているように見えた。
通信障害の残響は、決して終わらないわけではなかった。ただ、別の形で続く。
ミロはその輪郭を初めて、はっきりと視た。




