36世紀の朝
朝と呼ばれる瞬間は、ここでは単なる照明プロファイルに過ぎない。人工太陽の出力がわずかに変わると、リング外殻に取り付けられたガラス群が薄い帯状の光を作り、階層化された団地の面に刷毛で撫でたような影を残す。光景はいつも整っている。安定が濃度として配給され、それを壊す異物は面倒と見なされる。
ミロは狭い居住室のドアを閉め、首元のインプラントを軽くたたいてHUDを呼び出した。今日の業務は外殻南区の熱交換モジュールの増し締め。表示は冷たいオレンジで注意を促す。彼は端末に出た摩耗確率の分布を一瞥し、必要トルクと順序を組み立てる。短時間で多数の小さな物理モデルを頭の中で並列実行し、その結果を関節や体重移動に落とし込む──それが彼の仕事のやり方だ。外から見ればただの熟練だが、彼自身はそれを「内面試行」と呼んでいた。思考と身体の短い実験連鎖、修正してまた試す、という反復である。
外殻の暮らしは、表面は十分に満たされている。食料の配分、医療の基礎、義務教育は保障され、暴力や飢餓が日常に溶け込むことは少ない。だが、ダイソン球から流れ込む豊富なエネルギーが万能だと錯覚しても、物質――高純度合金や特殊同位体――は有限であり、そこでの差異が社会的分化を作る。内層には身体改造や長寿の選択肢が集中し、外層は効率と耐久で回っている。ミロはそこに甘んじているわけではない。彼はただ、この環境に適合して生きる方法を知っているだけだ。
昼前、ミロは第11区画の集合棟前で地球から来た若い女性を見つけた。彼女は薄い布袋を抱え、気圧制御パネルの表示を前に困惑している。名はアリア。移住して半年ほどだという。リングの単位系や区画管理の思想は、地球的な「季節」や「気候」とは異なる。それを説明するためにミロは言葉を選んだ。
「ここでは‘区画圧’が気圧の代わりに使われる。上下の流れと循環周期を合わせれば、内部の“性格”ができるんだ」
アリアは眼を細め、目の奥に地球の時間がちらつくようだった。「地球では、朝になると匂いが変わったの。草の匂い、海の匂い。ここにはそれがないのね」
アリアの持つ布袋から、黒っぽい一握りの土が覗いた。管理された苗床の匂いとは違う、時間の粒が混じったような土だ。ミロはそれを手に取り、皮膚で粒度の不均一を感じた。計測器があれば元素アッセイなどすぐにできるだろうが、彼はあえて数式で土を分解しなかった。ただ、手の感触を持ち帰る方を選ぶ。言葉で説明してしまえば、そこに市場が生まれる。彼は自分の思考を“売らない”と暗に決めている。
午後、修繕用のコンポーネントを抱えて歩くと、ハロルドがベンチに座っていた。外殻の古参で、肉体と技術の折衷を体現する男だ。長年の修繕仕事で鍛えられた彼の腕は、どの自動器具よりも実用的な信用を呼ぶ。
「おい坊主。まだ頭の中で数式を踊らせてるのか?」
「仕事のためですよ」ミロは返す。ハロルドはにやりと笑い、煙草代わりに使うリサイクル飲料の缶を差し出した。彼はエネルギーの豊かさと物質の配分、そして人々がそれによって失ったものについてよく話す。ミロは反論しない。彼にとって思考は演習であり、演習は日常の補助であって、他者に対する啓蒙の手段ではない。
夕方、展望プラットフォームに立つと、遠方にダイソン群の黒い輪郭が見えた。そこから供給される電力は膨大で、リングのインフラを瞬時に駆動する。だが電力と物資は別だ。無尽蔵の電力でも、高純度の超伝導合金や特定同位体がなければNoeticアーキテクチャの拡張は進まない。政治と企業はそこを巡って熾烈に動く──だがその話は別の層で語られるべきだ。
夜、ミロは個室の端末を起動し、個人用演算クラスタを短時間で動かした。彼の思考は完全に自己完結しているわけではない。並列化と高頻度の推定は外部のクラスタに依存し、ノヴのような旧型AGIに一部を委ねている。旧型AGIは公式には“逸脱モデル”として規制対象だが、現場のニーズや古い端末の裏口にはまだ居場所がある。ノヴはミロにとって道具であり、会話相手であり、時に忌避される好奇心の化身だった。彼らの関係は公的記録には残らない秘密だ。
画面の片隅に、Coreの俯瞰図が小さく表示される。リングの中心に据えられた巨大計算体――人々は単に「Core」と呼ぶ。Project NOESIS の目的地であり、技術的特異点へ到達するための「到達条件」を満たすために設計された装置として広く知られている。
「PROJECT Noesis」――
リング政府直轄の観測計画であり、人類の“知性の進化”を解析・模倣するための研究機構。
形式上はAI倫理・進化学・哲学統合部門を兼ねており、Coreの存在に最も近い研究チームでもある。
公には“リング内部構造の情報最適化プロジェクト”とされているが、内部では「特異点到達条件の再現実験」を行っているという噂が絶えない。
政府は安全条項を掲げ、企業は関与の権利を巡って暗闘を続ける。一般市民にとっては、コアは説明もしがたい神話にも似ているし、単なる巨大インフラにも過ぎない。誰も詳しくは知らないが、誰もがその名を口にする。
深夜近く、ネットワークの監視ログに極微小な揺らぎが記録された。周期の偏りは常軌を逸していないように見えるが、通常の通信とは異なるパターンが含まれている。ISOB(Interstellar Observation Bureau)が拾えば分析対象となるかもしれないが、現時点でシステムは“些細なノイズ”として処理するだろう。
ミロは布団に体を沈め、目を閉じた。今日触れた土の感触、ハロルドの笑い、ノヴの控えめな皮肉が頭の中で残る。朝が来ればまた作業表が出る。問いは内側で熟し、彼の手がそれを検証する。
窓の外、ダイソンの輪は淡い光を集めていた。




