魔女とドラゴン
キィ……と音を立てて、古びた木製のドアを開ける。
室内に入り込む夏の匂いと入れ違いに、小さな家を出た。
もうすっかり夏だな、なんて思いながら、風の吹く町を見下ろした。
ついこの間、白かった町に彩が見え始めたと思ったら、もう青くなっている。
そろそろ上着を脱ぐべきか、などと悩んでいるうちに、皆は半袖になっていた。
大きな帽子を抑えて、てくてくと小さな丘を下る。
初夏の風が、帽子を攫ってしまいそうだった。
丘を下りると、そこは小さな町。
大人達が店を開き、子供達が駆けまわっている、賑やかな場所だ。
ふわり。
風に乗って、夏色のスカーフが飛んできた。
かなり薄手のそれは、遥か遠くまでいけそうだった。
僕は大きな杖を持ち直して、スカーフの方へ向ける。
「よっ……と!」
さっと杖を振ると、先からスカーフまで――魔力の糸が繋がった。
杖を揺らすと、糸が巻き上がるように短くなり、スカーフが僕の手に収まる。
「あ、魔女さん! ごめんなさいー!」
大きな声で言って、夏色のワンピースの少女が駆けてくる。
家出を計画していたスカーフは、あの子のものらしい。
目の前に来た少女に、しっかりと握らせた。
「今日は風が強いから、気をつけるといいよ」
「ありがとう!」
ぎゅっと両手でスカーフを握って、少女はにこりと笑う。
三つ編みに結った柔らかい髪を、そっと撫でてやった。
「魔女さん、今日もお山に行くの?」
「ああ。それが仕事だから」
「……そっか、頑張ってね!」
僕に否定してほしかったのか、少女の顔が少し曇る。
ひらひらと手を振って、止まった足を動かした。
「魔女ちゃんー、今日も頼んだよ!」
八百屋の前を通ると、店主が声をかけてきた。
「はーい。今日は、帰りにお店寄るね」
歩を止めぬまま言って、そのまま進む。
「気をつけてね?」
「魔女さん、いってらっしゃい!」
誰かとすれ違う度、こんな風に激励を受ける。
毎日毎日、皆大袈裟だなあ。
「あ、魔女殿! 奴のところに行かれるのですか?」
「ああ」
街を出て、さあ山を登ろうかというタイミングで、数人の騎士が話しかけてきた。
こんな小さな町でも、騎士団はある。
山や森からやってくる魔獣などから、町を守っているのだ。
「いつも申し訳ない。我々の仕事だというのに……」
「いいよ。僕、この町好きなんだ。」
気にしないで、と答えると、騎士は感動したように目を丸くする。
「ありがとうございます、心優しき魔女殿!」
「やめてくれ。彼はそんなに強くないし、弱ってる。大層な事はしてないよ」
こんな風に感謝されるのは、何度目だろうか。
それくらい、この人達にとって奴は恐ろしい物なのだろう。
騎士に別れを告げ、山に足を踏み入れた。
草をかき分けながら、整備されていない道を進む。
僕は魔女。小さな町の見下ろせる、小さな丘に住んでいる。
町人からは、半伝統的に“心優しき魔女”なんて言われている――限りなく人に近い、人でない者。
かなり長寿だし、生まれた時に授かった杖さえあれば、魔法が使える。
それが僕。
今はその力を生かして、騎士の手に負えなかった『とある問題』を肩代わりしている。
それは町人にはどうにもできない、けれどどうにかしなければいけない問題。
だから、僕が助けてやっているのだ。
最も、それはただの建前になってしまったが。
山頂付近まで登ると、茂の間から――ざらざらとした固い夏色が見えた。
更に進むと、それはほんの先だけの姿で――夏色の物体は、家のように大きな生物だとわかる。
「……や。元気してたかい?」
『……変わらぬ』
声をかけると、深い緑色の大きな目が開いた。
緑色に浮かぶ瞳孔は縦に大きく開いていて、威圧的。
大きすぎる体を青い鱗で覆った、翼を畳んで寝ている生物。
彼は“とある問題”の正体であり、僕の友達。
僕と同じく、人でない者――ドラゴンだ。
失礼するよ、と声をかけて、彼の爪に腰かける。
変わらない、と答えるが、少しずつ弱っているように見えた。
「ねえ、そろそろ人と仲良くする気になったかい?」
僕が問いかけると、彼は無言で目を閉じた。
これは否定。
「君は優しいし人を食べない。大きくて、少し姿が違うだけじゃないか」
だから、大丈夫だろう。
ドラゴンだが、悪いドラゴンではない。
そう、僕が皆に説明してやるというのに。
『そう思っているのは、我らだけだ』
彼はいつも、諦めたように言うんだ。
「確かにそうかもしれないけどさ。僕が言ったら、皆わかってくれるよ」
彼は何も答えない。クールな奴だった。
彼は去年の冬、寒い雪の日にこの山に降りてきた。
どうしてかは僕も知らない。
けれどあまり強くないらしく、好戦的な性格でもなかった。
僕は心優しき魔女なら――彼も、心優しきドラゴンだと思う。
人に害が及ばぬよう、大人しくしているのだから。
だから、彼も僕と同じように――皆と分かり合えるはずだ。
「……夏はね、町中が青くなるんだ」
『……青?』
彼が反応した。
乏しいリアクションだが、興味がある証拠。
「7月に青い花の祭がある。綺麗だから、君にも見せたいな」
夏になると、町中が祭飾りで青くなる。
まるで、町ごと空に溶け込むように。
僕は、夏が好きだ。
1年で1番、皆の笑顔が増える時期だから。
「青くなった町に、青い花を飾るんだ。素敵だろう? 君と同じ色」
だから、彼にも笑っていてほしい。
ドラゴンが笑うのかはわからないが、それくらい、温かい気持ちになってほしいのだ。
みんなと仲良くなってほしい。一緒に楽しんでほしい。
『……綺麗だろうな』
「だろう? 一緒に行こう」
好感触が得られて、嬉しくなってしまった。
「花冠を作って、好きな人に贈るんだぞ。君の分は、私が作ってやろう」
君も、僕にくれる? なんて、冗談めかして言ってみる。
最も、こんな大きな手では、花冠など作れないだろうが。
『……構わぬ』
「えっ――いいのか!?」
断られると思っていたのに。
驚いて、つい声が裏返ってしまった。
『汝のような年寄り、誰にも貰えぬだろうからな。我が用意してやらんこともない』
「ツンデレってやつか。僕、こう見えて人気者なんだよ?」
僕は笑って否定するけれど、彼はあまり信じていないようだった。
でも――彼が前向きになってくれたのは、素直に嬉しかった。
それから、ほんの少しの月日が流れて。
祭り当日まで、あと1週間になった。
「もう花冠の準備? 早いわね」
「うん。今年は、どうしてもあげたい相手がいるんだ!」
摘みたての花を籠いっぱいに持って歩いていると、色んな人にそう言われた。
摘んだ花は萎れるが、魔法が使える僕には、その制約は関係ない。
だから、皆より早く用意ができる。
今日はこの花で、彼と一緒に花冠を作ろう。
そう思って、彼の大きな頭に乗せても余るくらい、沢山の花を用意した。
色んな花畑から少しずつ採って来たお陰で、日が空の頂上より少し先に行ってしまっている。
町の青化も進んでいて、いよいよ本番間近、という雰囲気。
自然と鼓動が高鳴って、足が軽くなる。
自分の歩く速度が、普段より速い気がした。
「――あ、魔女殿!」
山を登ろうとすると、騎士に呼び止められた。
今日は大変な仕事だったのか、銀の鎧は少し汚れている。
「今日も、奴のところへ行くつもりなのですか?」
「ああ、そうだが」
いつも申し訳なさそうな顔をしている騎士の顔が、少し晴れている気がする。
祭が近いから、浮かれているのか。
などと考えていると、大層嬉しそうに、引っかかることを言った。
「その必要には及びません!」
「――どういうことだ」
嫌な予感がして、声のトーンが下がってしまった。
僕の機嫌を察していないのか、騎士は弾んだ声で続ける。
「もうすぐ祭ですから、不安は払拭しておくべきでしょう? 弱っている、と伺ったので、本日――」
いても経ってもいられなくて、言葉の終わりを聞かずに走り出した。
走るのも遅い。急がないと、急がないと――!
――急がないと、この嫌な予感が、見えないところで現実になってしまう気がした。
杖を振って、風を起こす。
その力で、ふわりと飛び上がった。
折角集めた花が、零れて空を舞う。
そんなこと、気にしていられなかった。
少し、荒れている所がある。そこに、綺麗な青が見えた。
即座に降り立つと、衝撃で残っていた花も出て行ってしまう。
「おい! 元気か!?」
――元気そうに見えるか。
彼は、口を開かなかった。
声の代わりに、魔力粒子を震わせて意思を伝えてくる。
彼の綺麗な青い体は――全身、傷だらけだった。
浅い傷、深い傷、小さな傷、大きな傷。
その全てから、似合わない赤い血が流れ、青い体を紫色に染めている。
「回復魔法!」
――不要だ。意味がない。
杖を鼻先に突きつけると、彼はなんてことのないように、残酷なことを言った。
騎士達が、彼をこんな目に遭わせた。
優しい彼は、抵抗しなかった。そうだろう?
手に取るようにわかる。
君が、安全よりも安穏を選んだ事くらい。
――髪に、花が付いているぞ。
彼は緑色の瞳に私を映して、言った。
籠からでた花が、髪に絡まっていたようだ。
――それが青い花か。確かに、綺麗だな。
彼が、笑った気がした。涙でぼやけた視界には、笑ったように見えた。
――花冠なら、もっと似合ったろうな。
そう告げてくる魔力の流れが、かなり不安定になっている。
本当に、彼は死んでしまうらしい。
あの騎士達が、彼を殺すらしい。
悪い奴じゃないのに、分かり合えるはずなのに、どうして――!?
僕とは、仲良くなれたじゃないか。
僕も彼も、何ら変わりないじゃないか。
なのに、どうして……?
僕は弾かれたように、彼に背を向けた。
許せない。彼をこんな目に遭わせて、僕が許すと思っているのか。
――何処へ行く?
すかさず、彼が聞いてくる。
僕の考える事なんて、わかっているだろうに。
「――殺すっ! 君をこんな目に遭わせた奴らに、同じことをする!」
僕は、心優しくなんてない。
納得がいかなければ、怒れば、――復讐をしたければ、魔法という大きな力で、人を殺せる。
祭なんて知らない。台無しになってもいい。
僕がそうしたいから、殺す。
僕が再び風魔法で飛び立とうとすると――バキッと、鈍い音がした。
僕の杖が、折れたのだ。
彼が口を開けて、その大きな牙で杖を喰った。
「何で……そんなことするの……?」
この杖がないと、僕は二度と魔法が使えない。
魔力を扱うことは、できない。
人を助けることができなければ、勿論――奴らを殺すことだって、できない。
「ねえ、何で……? 答えてよ……」
振り返って、彼に不満を訴えた。
あの口の動きは、振り絞った最後の力だったのだろうか。
――彼は、何も答えてはくれなかった。