エル・ベケット
「参ったよ、何を聞いても『主人に相談』で。あの主人がろくな返事をしないのは分かりきってる。聞かないほうがマシだし、別に聞かなくていいのに」
愚痴る従弟に、エル・ベケットは苦笑した。
「そうねぇ。でもそういうわけにはいかないのが、『妻』ってやつなのよ。結婚した途端、夫の持ち物みたいになっちゃうんだから。誰々の奥様、誰々ちゃんのお母様、何々家の嫁、ってね。自分の名前を失っちゃうの。名前ってのはアイデンティティそのものよ」
「それを言うなら、彼女にはいま作家としての名前がある。誰のものでもない、彼女の名前だ」
「それだって旦那に指示された名前じゃない。男性名を名乗れって」
エルもレネーの夫には良い印象がない。
旧友の愛娘が亡くなったと聞いて、葬式に参列すると、目撃したのはやつれ果てた旧友の姿と、それに寄り添わない夫の態度だった。
レネーが娘の棺に納めようとしたものを、冷たく突き返していた。
後でレネーに話を聞き、思い出の冊子は本に仕立てれば良いと進言したのはエルだ。
そのときもレネーは自分の気持ち以上に、夫の意見を気にしていた。
長らく娘の看病に付きっきりだったレネーは、そのことで夫に引け目を感じているようだ。
「私が仕事も家事もせず、ただブリジットを見ていられたのは、ランダルのおかげなの。誰の稼ぎでそうできているんだって、言われたわ。お義父さん、お義母さんからは、早く二人目を、今度は健康な男の子をって急かされたけど、それも全然だし……。それでもランダルはずっと夫婦でいてくれるんだから、感謝しなくちゃね」
そうレネーが語っていたことをエルから聞いたロッドは、眉間にしわを寄せた。
「は? どこに感謝する要素があるんだ。偉そうに。働くくらい当然だろ。育児に休みはないんだぞ。一人で病児を見て、疲れ果てて、二人目なんて考えられるかよなあ」
さすがにレネーの前で素は出さないが、ここぞとばかりにロッドの毒舌が炸裂する。
「もう別れちまえばいいのに。何年か食べていけるくらい、本は売れてると思うけど……一生は無理だな。やっぱ、続編もどんどん書いてもらわなきゃな」
「私も読みたいわ。でもレネーが乗り気じゃないんでしょ。あたしも、あの旦那と別れればいいのにとは思うけど。あっ、別にあたしがバツイチ独身だから、お仲間がほしいってわけじゃないのよ。あの旦那が気に入らないの。彼、浮気してるし」
「えっ、そうなの?」
「うん。実は街で何度か見かけたの、若い女と親しげに腕を組んで歩いてるところ」
「腕を組んで、ねえ。でも歩いてるだけじゃ不貞行為に問えないな」
「ええ、でも人目をはばからずイチャイチャしてたのよ。あれは黒だと思うわ」
「そのことレネーさんには?」
「言えないわよ。でもそれとなく、別の話の流れで聞いてみたの。もし旦那さんが浮気してたらどうする?って」
「直球だな。本当にそれとなく聞けたのか怪しいな。で、レネーさんはなんて?」
「旦那さんから切り出されるまで、知らないふりをするって」
「彼女らしい答えだ」
「そうね。それに、すでに気づいてる風だったわ。旦那の浮気に」
「なのに、向こうに言われるまで待つ? 俺には理解できないな。俺なら浮気現場を押えて、なじりになじって、離縁状を叩きつけるよ。もちろん慰謝料もふんだくる」
「ねえ、あたしたちでレネーの旦那の浮気現場を押さえましょうよ」
「それはお節介すぎないか。レネーさんに頼まれたわけでもないのに、勝手に現場を押えてどうする気だよ」
「あたしたちにバレたと分かれば、さすがにあの旦那も自粛するんじゃない。弱味を握れば、レネーの作家活動に口出ししなくなるかもだし」
「なるほど。レネーさんには言わず、圧をかけて浮気相手と別れるように促す? 大人しく従うタイプとも思えないけどな。証拠を押えておけば、いざというときレネーさんに有利か」