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金色の明け方に・本棚の隙間で・水銀体温計を・携え行こうと奮い立ちました。

 本のぬくもりが好きだった。木を切り出して抽出した紙は人工物というほか無いけれど、そこにインクを焼き付けて埃を吸い込んだ本からは甘い香りがする。その本を眺めていて、ふと、不自然な本を見つけた。歪んでいる。それは表紙が歪んでいるのではなく、そのすがたが、あるべきぴんと背筋を伸ばした紙のかたちが変わっている。間に何か挟まっているのかもしれない。本棚は私より少し低い段で区切られていて、本を斜め上からのぞき込む事が出来る。この本棚は私に合わせて誂えられた物じゃない。だが私は、その違和感のある本を手にとって無遠慮にぱらぱらと開いた。ころんとした棒状の物が、本の間に挟まっている。

 「なんでこんな物があるの。危ないじゃない」

 「知らないよ。ずっとあったもん」

 こどもの声が返ってきた。勝手に部屋に入られたことで声色は不機嫌だ。血色のいい瑞々しい唇をとがらせているだろう。

 「そんな訳ないじゃない。何か挟んだんでしょ」

 「しらなーい。だっておばあちゃんの部屋にあったんだもん」

 「この本、おばあちゃんの本なの?なんでここにあるの」

 「だって、表紙がきれいだったんだもん!」

 今度は子供は完全に怒っているように声を荒げた。不服をわかりやすく声に乗せている。


 この家には少し変わったルールがある。二世帯住宅で、それぞれの世帯の家はくっついているものの区切られている。だが各部屋にある、”本棚の前”は誰でも行き来が自由なのだ。”本棚”ならびに”本”は、共通財産なので浸食されるべからず、個人だけで所有されぬものだと祖父と父が定めた。それ以外に個々の部屋に文句は付けるべからず、無断進入も禁ずるものとしてこの家の鉄則となっている。今母親の私は、子供の本棚の前に立っている。だから本棚だけの方に向いて、散らかり放題の部屋に意識を向けぬよう努めていた。どんなに服が散らかって、教科書やクレヨンが散らばっていても見ない振り、見ない振り。流石に自分の部屋は突然の来訪に備えて綺麗にしているが、子供の娘は備える為に綺麗にするという美観は持ち合わせていない。むしろ早く出て行って欲しい、とだだをこねるだけだ。

 「まあ、いいわ。じゃあこの中身はもらってくわね」

 「だめよ! その本は今借りてるんだから、その中身もわたしのだもん!」

 「おばあちゃんの、でしょ?まだ貴方の物じゃないのよ」

 「いいから!もういいから、出てって!」

 本棚の本は自由に借りていっていい。もちろん断るのが大事だと父親に口酸っぱく言われていても、娘の年齢は思春期の手前に差しかかっているので、この家のすべては娘のものであると思い込んでいる。水銀の体温計が本には挟まれていた。内容はぱらぱらと見た限りは、雑誌の付録のようなレシピ本に見えた。だが手書きの文字にも見えたので、祖母の秘蔵レシピ集だろうか。だったら探しているんじゃないかと思ったが、もう娘の力に押し出されてしまったので、廊下でため息を吐く。

 娘は生来、誰に似たのか気が強い。のんびり者の私と頑固で寡黙な夫、祖父は夫の父らしくもっと頑固で寡黙。祖母はおしゃべり好きで活発的だ。そんな夫婦を繋いだのが本である。夫も祖父も、本の事であれば喋り出すことがある。祖父は若い頃、今よりももっと頑固で食卓どころか家の中は静かそのものだったと夫は言った。だけど本の事だけは語らう事が出来たので、いつの間にかそんな鉄則が出来たという。娘は本よりも、表紙のデザインやそのイラストに目が付いて、年齢相応よりも幼い子用の本を気に入って本棚に置いたりする。中身に興味はないらしい。


 そんな話を、祖父母とのお茶をしている時に話した。昔はいた娘も、いつの間にかそのお茶会に参加しなくなった。だから大人だけの会話である。いつもは祖母がお友達や習い事で面白かった事を話し、祖父がうんうん聞いているだけだが、祖母はレシピ集に首を傾げた。

 「そんな本、あったかしらね」

 「お母さん、覚えてないですか?ええっと、ピンク色でした」

 「レシピ・・・ね。新婚の時に使ってたものかしら」

祖母は祖父をちらっと見やるが、祖父は首を小さく横に振っただけだ。昔気質の祖父だが、祖母の話をちゃんと聞いている。私の生家では、父は母の話をすぐに小馬鹿にして母は貝のように口を閉ざして険悪な雰囲気だった。だからこの通じ合う夫婦の形がうらやましく、心地よい。

 「そうよね、お父さんが知らないわよね。まあ、大事な物じゃないからいいわ」

 「でも、水銀の体温計が挟まってて」

 「あらら、それは確かに・・・危ないわね」

 「そうなんですよ。でも私のものなんだ!って言い張っちゃって。いつからあんな意地っ張りになっちゃったのか・・・」

 「今時の娘は、昔よりゃ気が強い」

祖父がぽつりと言った。普段寡黙なのに、力強く張りのある声だ。鶴の一声とはこんな声なのだろうと私は思う。鶴よりも虎とか、熊のような声だけれど。

 「ただそれが悪いとも思わん。昔は言いたくても言えなんだから。うちの母親は大変なもんだった」

 「そうよねえ。うちはまだお父さんが話を聞いてくれるから」

 「聞きたくてもお前は喋ったんだ」

 少し奔放で明るい祖母と、寡黙で優しい祖父の取り合わせに私はにっこりとする。

 「でも、隙を見て回収してきます。割れたら大変ですから」

 「そうね。私も見てみたいわ。この年だから、忘れちゃってるもの」

 祖母はいたずらっぽく笑ってみせる。子供のまま美しく年を取った彼女が義母で良かったと私は思うのだ。友人には義母のようなタイプは苦手だと言う人もいたが、私にはちょうどいい。幸いにも私は鈍感さを生家で鍛えたので、義父母の悪いところに目が行かない。目がいかないのなら、気にならないし良い人達だと思う。そう思えれば良好な関係が築けるのだ。それでいい。ただ娘がどうにも苛々している以外は。それを見抜くように、壁を叩く音が娘の部屋から聞こえてきた。私は義父母と目を合わせる。思春期の息子は壁に穴を開けるというけれど、娘もいつか開けるかもしれない。それだけが少しだけの気がかりだ。


 熱が出た。体温計の赤い液体がぐんぐんと上がっていく。だが夫は仕事を休むわけにはいかない。仕事は溢れるばかりにあり、給料は貧しさを脱するほどの基準になりそうだ。まだ経済は伸びしろがあり、夫は仕事を休めないのが現状だ。すまない、とだけ言って、夫は出掛けていった。私は布団の中で、水銀の体温計を持ったまま視界がぐるぐる回っている。めまいと吐き気と、頭痛。そして全身が火がついたように熱い。氷嚢、氷嚢を作らないと。でも回る視界の中で立ち上がる気力がないので、進んでるのか分からないが指の力で床を掴んで這っていった。当時では高価な方の冷蔵庫の、クリーム色のすがたが見えて、私は一気に這いずった。救いがあると信じて、最後の力を振り絞って向かったのだ。冷凍庫を開けて、扉にもたれかかると中が見える。すると唐突な目眩で目の前が渦を描いて、冷凍庫に胃の中身を吐き出しそうになった。だが理性が制止し、なんとか氷を掴んでいつの間にか持っていたゴム製の氷嚢の中に詰め込む。氷を入れ終わると、倒れるな、と思って倒れた。その勢いの中で、足で冷凍庫の扉を蹴ってそれから倒れきる。そこでどっと汗が出て、ぜえぜえと息切れした。なんとかまた這うようにして、布団へと向かう。日本兵が南国の島で敵襲におびえて這ったのは、こんな気持ちだったんだと何故か思った。布団に戻るが、蹴り飛ばしただろう遠くにある掛け布団を引き寄せる力もない。なんとか寝ころび、氷嚢を頭に乗せてようやく人心地がついた。

 しかし状況は改善していない。布団が無いので、汗が大量に噴き出て一気に冷める体をあたためられない。着替える気力もなく、汗を吸った寝間着はどんどんと私の体を良くない方に冷やしていく。ああ、このまま死ぬかもしれないと祖母の若い頃の私は思った。夫にも看取られず、きっとこのまま死んでしまう。そうなると、奔放な母はいつも学生時代に遊んだボーイフレンドの事を思い出した。その人のにおいや指の感触、どう抱きしめてくれたか、その人の汗の出し方まで思い出した。結婚して二年が経ち、もう夫以外の男の人に抱きしめられた経験は無いけれど、学生時代の思い出をたまに体調が悪いときに色濃く思い出した。その時、一番思い出に残っているボーイフレンドの指がとんとんと額の生え際を小突いた。そのボーイフレンドは、眠っている私を起こす時はいつもそうした。生え際を爪の先でちょんちょんと小突いて、くすぐったくなる前のような神経をとつとつとつつくのだ。ボーイフレンドがいる訳はないが、私が目を開けると彼はいた。日に焼けて白い歯で、夫とは違った男だ。彼はさわやかに笑うので、私はうつろな意識の中で笑顔になっていた。彼の太い腕が私を抱きしめてくれる。ああ私死んでも良いわ、そう彼に何度か告げたのを思い出しながら、叫ぶように感極まって私は言った。そのまま意識を失い、気付いた時には寝間着を着替え、布団は掛けられて、真新しい氷嚢が頭に乗っていた。とんとんとまな板に向かった包丁の音が聞こえる。

 時計が見当たらなくて体をもぞもぞやっていると、夫がお盆を持って顔を出した。どうやら、私を心配して帰ってきたようだ。その顔に安堵したと同時に、私は不安になる。彼の名を口走ってやいないか、まさか夫に若き劣情の痴態の片鱗を見せていやしないかと。だが夫は黙々と私の世話をして、私はすぐに回復した。あの日から、体温計はしまってしまったのだ。夫を愛している。子供を愛している。すばらしい伴侶と、孫娘に恵まれた。だからこそ、あの譫言は私の罪に等しい。だから水銀の体温計は、普段使わない本に挟んで本棚の隅にしまっていた。捨てられなかったのは、女の未練か。

 「だめよね。こんなもの」

年寄りの朝は早い。明け方に孫娘の部屋に忍び込むと、娘は育ち盛りで眠りから覚めなかった。手早く本から体温計を取り出して、本だけ戻した。それでも孫娘は起きない。うらやましい若さがそこにある。だが羨んでいると起きるかもしれないので、廊下に静かに出ると、件の体温計を見ながら呟いた。

 「だめよ。ごみの分類、なんだったかしら」

自戒するようにもう一度だめを呟いて、ラジオ体操をしている夫に見せないようにしながら私は自分のクローゼットを開き、目に付いたコートのポケットに入れた。果たして捨てたかは分からない。


原典:一行作家

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