泉の水
◇◇◇
不意に強い魔力を感じ、ウィリアムが振り返ると、湖畔は何事もなかったかのように、清らかになっていた。
「これは……」
「おお!血痕が消えたぞ」
見ると、草原だけでなく、ウィリアムの服や靴に付いた血も、跡形なく消えている。
◇◇◇
ルフは言葉を発することも出来ぬ程に不機嫌だ。
シルヴィアを恐怖に陥れた魔獣どもを滅しても、気が収まらぬ。このまま館へ戻ることは出来ぬ。
『魔獣は全て滅した。シルヴィアと共に戻る。其方らも引け』
ルフは姿を消したまま、ウィリアムの思考に直接そう告げると、シルヴィアを連れ、森の奥へと向かった。
「…御意」
先程まで確かにウィリアムの腕の中でシルヴィアは眠っていた。なのに、ルフの声が頭の中に響いた瞬間、腕の中からシルヴィアは忽然と消えていた。
神の前で、人は余りに非力な存在であることを、ウィリアムは改めて痛感した。
◇◇◇
ウィリアムはゲイル騎士小隊長に状況を確認した。
到着時には既に事後だった。負傷者の確認と、現場周辺を捜索したが、魔獣は確認できなかった。皆、気を失っているだけで、傷一つ無い事を確認し、後発への伝令を出した。その後、咆哮が聞こえたので、警戒しているが、魔獣出現の気配はない。そして、今し方、出現の痕跡も全て消えた。
結局、ルフ様やヴィーが何を行ったのか、全く分からなかった。
◇
兵士達が被害者全員を運び終わり、しばらくすると、一人が目を覚ました。
「騎士様!どうか、お助けを!魔獣が!!」
「討伐した。安心せよ」
「あぁ!ありがとうございます騎士様」
「詳しく話せるか」
「この辺りに住むものは、エデン湖の水を生活に使っております。いつものように、水を汲みに湖畔へ向かうと魔獣が現れ、先に水を汲んでいた者達を襲いました。あちらの者は脚を、こちらの者は腕を喰い千切られておりました。私は、余りの恐ろしさに腰が抜け逃げられずにおりました。そこへ、そちらの貴族様が助けに駈け付けて下さったのです。ですが、騎乗されていた馬が湖に引きずり込まれ、貴族様は腹を喰い破られ、私は脚を喰い千切られ、意識を失いました。私は死ぬのだと思いました。騎士様が、皆の傷を癒やし、命を救って下さったのですね。失った脚まで元通りにしていただき、本当に、本当にありがとうございます」と言い、神に祈るように胸の前で手を組み両膝を突いて頭を垂れた。
ヴィーが【祝福】を授かったことは疑いない事実のようだ。しかも、欠けた身体を元に戻すことができるほどに強力な治癒能力とは、最早【神力】ではないか。よもや、ヴィーは、自ら神力を使えるようになったのだろうか。
「安心せよ、魔獣は全て滅せられた」
今は犠牲者が出なかった事に、唯、感謝しよう。
「全隊、帰還せよ」
ウィリアムは胸に抱えたどうしようもない無力感と喪失感を一切見せず、兵に撤退を告げた。
◇◇◇
神々の住まう森の奥深くへ進むと、鬱蒼と生い茂る森が途切れ、木漏れ日の降り注ぐ場所に辿り着く。そこには、清らかな水が滾滾と湧き出る泉がある。
シルヴィアを抱え、ルフは森を移動することなく、泉の場所へ姿を現した。
一度訪れた場所に限られるが、ルフは空間を瞬間移動する事が出来る。住処を館へ移した当初から、泉の水を飲むために、シルヴィアを連れて何度も此処へ来ていた。シルヴィアにとっても、この泉の場所は庭のようなものだ。
魔力を糧として生きている精霊と聖獣にとって、この泉の水は、生命の源と言ってよい。
人が飲んだことのない泉の水を、精霊達はシルヴィアに飲ませようとしたが、まだ一滴も飲んではいなかった。
精霊も神々と同じく、退屈しのぎに、悪趣味な罠を人や動物に仕掛け、鑑賞するという遊びを好む者がいる。神々のように地震や噴火、嵐や洪水などの天変地異を起すことはないが、それなりにたちの悪い悪戯を仕掛ける精霊もいる。
そのたちの悪い悪戯によって、人生を狂わされた人々の強い怨念が寄り集まり、魔獣が生ずることもある。その魔獣が人だけでなく、精霊や聖獣をも歯牙にかけるのだから因果応報なのだろう。が、巻き込まれるのは迷惑千万。
今朝、複数の魔獣が現れ人々を襲った。その中に、シルヴィアを守護する者の兄がいた。その事をシルヴィアに悟られた。
館を抜け、エデン湖の森へ移動し、人はシルヴィアに任せ、魔獣を追った。根絶やしにしたが、怒りが収まらぬ。シルヴィアの安寧を奪うことは、我が断じて許さぬ。
しかも、幼い身体で、膨大な魔力を持つシルヴィアが、その魔力を枯渇するまで急激に使い切っている。このままでは、回復するまでの間、どれ程の月日を眠り続けることになるか分からない。
ルフは泉の水を飲み、神力を満たすと、その神力をシルヴィアに口移しで流し込んだ。
◇◇◇




