エデン
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高く連なる険しい山脈と裾野に広がる広大な森の奥は、神々が住まうと言い伝えられている聖域だ。エデン地区は〈神々の庭〉とも呼ばれている。
そして、魔獣出現率が際だって高い、危険な地区でもある。魔獣以外にも、馬や鹿、兎などの草食動物を求め、凶暴な大型肉食動物が多く生息している。
この地区には、大小の湖や沼が点在している。中でもエデン湖は最も大きく、対岸に険しい山、左右には森が迫り、手前の湖畔には草原が広がっている。
エデン湖から流れ出る小川は、森を抜け、豊かな大地に横たわる大河となり、北の大海へと繋がっている。
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ウィリアムはシルヴィアの無事を祈りながら、魔獣出現現場へと向かっている。
これまで、魔獣出現にルフ様が動かれることはなかった。ヴィーは覚醒以来、誰かが傷付くことを大層恐れるようになった。今回は、マリーの兄、エドワード殿のお命を救いたいヴィーが懇願し、ルフ様は動かれた。ヴィーを共にお連れになられたのは、神力ではなく、ヴィー自身の魔力が必要と言うことなのか。兎に角、この目で確かめたい。
近づくにつれ濃くなる血と、胃液の匂いに、益々不安が募り、吐き気がする。ウィリアムは、前だけを見据え、シルヴィアの姿を求めた。
ようやく現場に到着したウィリアムは、その惨状に驚愕した。湖畔は大量の血と胃液と吐瀉物で覆われていた。既に鼻は利かない。下馬し、腕で鼻と口を覆い隠して更に近づく。ウィリアムに従った騎士の中には、我慢できず嘔吐する者もいた。血の海に横たわる領民達を運ぶ騎士の姿が、ウィリアムの視線を捉え離さない。先程の報告の続きは…、死傷者なしとは…、民は含まれておらぬのか。
「お父様」
シルヴィアの声が聞こえた気がしたウィリアムは、呪縛から解き放たれた。森の辺りに目を凝らすと、シルヴィアが蹲っていた。
「ヴィー!」
ウィリアムはシルヴィアに駆け寄り、抱き上げた。シルヴィアはウィリアムの頬に口づけ、首にしがみつくと堰を切ったように泣きじゃくった。
「ヴィー、無事で良かった。無茶をするでない」
ウィリアムはシルヴィアを腕に抱えたまま、その小さな背中を優しく何度も撫でた。シルヴィアは、しゃくり上げながら、ウィリアムに謝罪し、エドワードも民も、皆無事であることを伝えた。
「…ヒック…み…ヒックヒック…皆、い…ヒック…生き…ヒックヒックヒック…生きております。ヒックヒックヒック…傷も…ヒック…いや…ヒック…癒し…ヒック…ましたわ。ヒックヒックヒック…」
シルヴィアは、怖かった。現実と記憶の中の惨状が重なり、呼吸困難に陥るほど身が竦んだ。今生でも皆を救えないのかと悔しくなり、無我夢中で動いた。今になって恐怖に震えが止まらない。
ウィリアムの温もりに緊張の糸が切れたシルヴィアは、魔力を使い果たした事もあり、気絶するように眠りに落ちた。
ヴィーは神の加護に加え、【祝福】をも授かったのか。幾度となく魔獣との戦いに挑んできた兵士も怖じ気づく血生臭い惨状の中へ、ヴィーは自ら飛び込み、負傷者の傷を癒やしたというのか。愛娘の目には清きもの美しきものだけを触れさせたいと願うのは、生きてゆくからには叶わぬ夢なのか。
ウィリアムは、幼い身体で重荷を背負おうとするシルヴィアを痛ましく思った。
◇◇◇
シルヴィアは無我夢中だった。深手を負ったエドワードと領民達を、助けたい。事切れてしまったら、もう何も出来ない。取り返しがつかない。
お願い。間に合って。
刻一刻と生命力を失っていく人々に向けて、シルヴィアは一気に魔力を放出した。
毎日、枯渇寸前まで魔力を使っているシルヴィアは、かなりの魔力許容量になっていた。精霊たちとの交流を楽しむうちに特殊能力を使えるようになっていたが、【癒やし】と【創造】の能力を同時に使うのは初めてだ。
シルヴィアの回復魔法は、心身を正常な状態に戻す治癒能力【癒やし】と、見るだけで全く同じものを創り出すことが出来る能力【創造】との合わせ技だ。欠損部位を再生するだけでなく、元々の疾患も完治する。
人々の失われた腕や脚が元に戻ったことに、シルヴィアはほっとして、その場に蹲った。
内臓の損傷も治癒できたはずですわ。確かめとうございますが、もう一歩も動けませんわ。
シルヴィアは、蹲ったまま動けずにいた。騎士隊が到着したことが分かったが、声も出ない。シルヴィアは朦朧とする意識の中で、父ウィリアムの魔力を感じた。
「お父様」
そのささやかな声に、気付いたウィリアムに抱き上げられ、安堵したシルヴィアの中の幼子が堰を切ったように泣きじゃくる。今になって、恐怖に身体が震えだした。
そして、シルヴィアは気絶するように眠りに落ちた。
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