知らない女
微かなベッドの振動を感じて、わたしは目を覚ました。
ちょっと具合が悪い。昨日の酒がまだ抜けていないのだ。
「あらおはよう。起こしちゃった?」
まだ起ききれていない頭に、聞き慣れない女の声が聞こえた。まだ眠い目を必死に開けて、しかめた顔を声がしたほうに向けると、女がベッドからバスルームに向かう姿が見えた。
ここはどうやらホテルらしい。バスルームからシャワーの音が聞こえてきた。
わたしは重たい頭で、夕べの記憶を手繰り寄せる。
そうだ、昨日はたしか会社の同僚達と飲みにいった。ところが、やっと盛り上がってきたところでなにやらワールドカップの試合が夜遅くにあるからと、数人がそそくさと帰ってしまったのだ。それで残ったメンバーもなんだか急にしらけてしまい、解散ということになった。
サッカーなど全く興味のないわたしは、飲み足りなさに独り、見知らぬスナックのドアを開けてみることにした。
店のママが、こちらへどうぞとカウンターの中央にお絞りとコースターを置き、わたしは店内を見回しながら席に着いた。店の中には数人の客がいて、ボックス席に、やはり会社帰りと思われる男達がカラオケに興じている。カウンターの隅では女が独り、静かに飲んでいるのが見えた。しばらくは、ママが気を使って話し相手を務めてくれた。すでに酔いがまわっていてご機嫌だったわたしは、饒舌だった。
何の話をしている時かは忘れたが、カウンターの隅で飲んでいた女が、近くの席に寄ってきて会話に参加した。
飛びきりの美人ではないが、わたし好みの顔立ちで、涼しげな目元にはブルーのアイシャドウ、薄い唇に淡いローズカラーのルージュが真珠のように光っていた。女は気さくな感じで話も面白く、会話が弾んだ。
そこまでは覚えている。
わたしがようやく起き上がり、ベッドから足を垂らすように座ったとき、ガチャリとバスルームの扉の開く音がした。夕べの女の顔を思い浮かべていたわたしは、バスルームから出てきた女を見て驚いた。
まったく知らない女だ。眠気が一気に吹っ飛んだ。
わたしは混乱した。いったい何と言えばいいのか、いまさらどこの誰ですかとは聞ける状態ではない。まったく見ず知らずの女に、このあとどう対応したらよいのだろうかと思案を巡らせたが、混乱は増すばかりだ。
「あなたもシャワー浴びたら?」
女が言う。
わたしは、取り敢えず平静を装って、
「ああ、そうだな」
と、答えてバスルームに入った。
どう見ても知らない女だ。腫れぼったい目に厚い唇、まったくわたしの好みではないから、わたしが誘ったとは到底思えない。いったい何がどうなってこうなったのだろう。もう一度、昨日のことを思い出すのだ。わたしは冷たいシャワーで頭を冷やしながら記憶を辿った。
スナックに入り、ママと話した。何の話をしただろう?
今度の政権は大丈夫かとか、また政権交代が必要だとか、そんな話もした。松阪牛の半分は宮崎牛の仔牛を育てたものだそうだ。それでも松阪牛なのか?とか、そんな議論もした。他にもいろいろと喋り捲った。ご機嫌だったのだ。
そうだ、そもそも、わたしが昨日あんなにご機嫌だったのには理由がある。実は先週、宝くじに当たったのだ。とはいえ、そんなに大金が当たったわけではないが、生まれて初めて宝くじに当たったのだ。その話もしただろうか……?
そういえば、あのわたし好みの女が食いついてきたのは宝くじの話の時だったかもしれない。当選したことを話しただろうか。
────思い出せない。
しかし、かなり酒が入って気が大きくなっていた。当たったことくらいは言った可能性が高いと思う。ひょっとしたら、いつもの悪い癖で一等が当たったくらいの嘘はついたかもしれない。これまでに、酒のせいで大ボラを吹いて大失敗したのは、一度や二度ではないのだ。
もしそうだとしたら、今のこの状況はどういうことだろう?
宝くじの話を知っているのは、店のママとあの女だけだ。……本当にそうだろうか?もしかしたら、別の席でこっそり聞き耳を立てていた奴がいたかもしれないし、それがここにいる女かもしれない。だとすれば昏睡強盗か? いや、それなら今頃わたしはこの世にはいないかもしれない。もっともここでわたしを襲ったところで、大金を持ち歩いているわけではないから無意味だ。では、既成事実を作って結婚を迫ってくるつもりだろうか? そして、結婚した後でわたしを殺そうとでもいうのだろうか?
それも考えにくい。ならば美人局だろうか?
────可能性はあると思った。
あの店で、わたしの話を聞いていた奴が、自分の女を酔っているわたしに近づけたのだ。これからホテルを出たところで、突然、そのヤクザのような男が出てきてとんでもない慰謝料を突きつけられるのだ。いまごろ、相手と連絡を取っているかもしれない。
わたしは、音がしないように、そっとバスルームのドアを開けて、女の様子を確認した。
女は、ドレッサーに座り携帯をいじっている。
やっぱりだ。きっとメールで、もうすぐホテルから出ることを相手に伝えているに違いない。
わたしは体についた泡を洗い流すと、静かにバスルームを出て、素早くタオルで体を拭いた。女はわたしに背を向けたままドレッサーに座って身支度をしている。逃げるなら今しかないだろう。急いで服を着たいが、音も立てたくない。そんなジレンマがわたしを襲う。急げ、急げ。そう心の中で叫びながら下着とシャツを着て、ズボンを履こうとした。慌てて体を拭いたので、足先がまだ濡れたままだ。それがズボンに引っかかり、わたしは見事にカーペットの床にひっくり返った。
その音でわたしに気づいた女が、
「なにやってるの?」
と、ドレッサーの鏡越しに笑った。
しまったと思いつつ、それには答えず尻餅をついたままズボンを履くと、今度は靴下に取り掛かった。 必死で靴下を履こうとするのだが、気持ちの焦りと濡れた足先のせいで、靴下は思うように足を滑ってはくれない。
もたもたしているうちに、
「はい。これでよし。準備できたわよ」
女はそう言って、ドレッサーから立ち上がると、わたしのほうに振り返った。
この女は、いまどんな気持ちなのだろう。これから始まる修羅場を想像して、わたしを見下して笑っているのだろうか。そうはいくかと、睨むように女の顔を見上げたわたしは、驚きで靴下を履く手を止めた。
なぜならそこには、紛れもなく夕べの女が立っていたからだ。
「携帯で予約を入れといたわよ。今日は、生まれて初めて当たった宝くじの当選金でご馳走してくれるのよね? 四等ってどれくらいか知らないけど、あの店で大丈夫かしら」
しかしその声は、確かにさっき聞いた女の声だ。そして、わたしは全てを悟った。
化粧品は魔法の道具だと……。